荒れ寺復興 尼僧二人の信頼の絆  ●京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32

傷ついた女性たちの心の拠り所として祇王寺を再興した尼僧・高岡智照さん(1896~1994年)が終生、感謝と敬意を抱いた女性がいます。同じ芸妓の出身で勧修寺の塔頭・仏光院を創建した大石順教さん(1888~1968年)。祇王寺が荒れ寺だった昭和初期、この二人に庵主を薦める話がそれぞれ別の人から持ち上がったそう。<年長の私が、智照さんのじゃまをしてはいけない>。高岡さんを推す人がいると知った大石さんは潔く身を引きました。

苔庭と草庵 曼殊沙華が彩りを添えています。
祇王寺彼岸花高岡さんは12歳で父に身売りされ、大石さんは17歳の時に錯乱した養父に斬られ両腕を失っています。

ともに少女時代の不遇を乗り越え、得度して尼僧となりました。自分の寺が持てるというのは願ってもない話だったでしょう。それを大石さんが断ったのは、名声を得ながらも辛い人生を歩んできた高岡さんへの心遣いからでした。

大石さんはこう語っています。

<智照さんが入られたことで、無住で荒れていた祇王寺は、立派に復興しました。そして辞退した私は、勧修寺門前の由緒ある仏光院をいただくことができました。まさに仏恩です>


高岡さんもまた、
祇王寺を再興した功績を決して誇ることはありませんでした。<私はもともと陽気な性格ですから、陰性の嵯峨野にうまく融け込めたのだと思います>。こう語るのみだったそう。

ともに尼僧として、高岡さんは女性たちの安らぎの場をつくり、
大石さんは身体障害者の救済に生涯をささげました。互いを認め、尊敬しあう関係が、祇王寺を縁に生まれたといえます。

(参照: 中外日報社説) ※高岡智照さんの軌跡は奈良・不空院をお読みください。

■真言宗大覚寺派 本尊 大日如来
  • 平安期に浄土宗の開祖・法然の弟子・良鎮が創建した往生院が始まり。平家物語に登場する白拍子・祇王がこの寺で出家したことから祇王寺と呼ばれるようになったそう。明治初期に廃寺となりました。
  • 現在の寺は祇王ゆかりの史跡を遺そうと1905年(明治38年)、廃寺後に仏像と墓を管理していた大覚寺などにより真言宗の寺として再出発したものです。大覚寺門跡・楠玉諦の再建計画を知った京都府知事・北垣国道が、復興の10年前の1895年に嵯峨の別荘を寄贈。これが現在の草庵となっています。
祇王寺扁額




















♦平家
物語巻第一「祇王」の舞台 (参照 岩波文庫第1巻)

本尊・大日如来が坐す草庵の仏間には木像5体が並んでいます。平清盛、その寵愛を失い館を追われて祇王寺に入り21歳で尼となった白拍子・祇王と母親の刀自(とぢ)、妹の祇女。さらに祇王に代わり寵愛を得ながらも世のはかなさを感じて祇王寺で出家した同じ白拍子の仏御前です。

人のうらやむ栄華も夢の夢-。その象徴が祇王です。清盛に愛され、毎月米百石と銭百貫(月収1千万円ほどでしょうか)を得る暮らしをしていました。そこに現れたのが加賀出身の白拍子・仏御前です。16歳の少女ながら、都の評判を一身に集めていました。清盛に招かれないのを口惜しく思い、遊芸人の習いとして紹介なしに館に押し掛けたのでした。
報告を受けた清盛は不躾さに怒りますが、幼さの残る仏御前を不憫に思った祇王は対面できるよう取りなしました。この温情が仇となり祇王は栄華を失うことになったのです。

目の前で舞を演じる仏御前に清盛は一目ぼれ。そばに仕えるよう迫りますが、祇王に恩を感じた仏御前は辞退します。清盛は祇王を邪魔に思い、その場で館を去るよう命じたのです。心変わりしたとはいえ、冷酷な仕打ち。後に仏御前が17歳で出家する伏線ともなっています。

「もえ出るも枯るゝもおなじ野辺の草いづれか秋にあはではつべき」。萌え出る若葉を仏御前に、枯れ草を失意の祇王自身に重ね、いずれか飽きられる時(秋)が来ると暗示した一首。(平家物語 岩波文庫)。清盛の館の障子に歌を書き残し、祇王は涙ながらに去ったのです。

茅葺き門
祇王寺山門













仏御前が祇王親子の住む柴づくりの粗末な庵を訪ねたのは、翌年の秋の黄昏時。髪を下ろした尼姿でした。暇乞いを許さない清盛の館を隠れ出てきたそう。いつかわが身のうへならん)と不安の日々を送った仏御前は、<栄花は夢のゆめ、楽み栄えて何かせむ>と17歳で世を捨てる決意をしたのです。これまでの罪の赦しを願う仏御前を祇王は受け入れ、四人ともども往生の本懐を願う日々を送ったとされます。

平湖物語の作者はこう結んでいます。<後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、「祇王・
祇女・仏・とぢらが尊霊」と、四人一所に入れられけり。あわれなりし事どもなり

境内には鎌倉期作の祇王親子の
宝篋印塔が残されています。


大日如来 拝観受付でいただけます。書置きのみです。
祇王寺
























草庵の吉野窓 
祇王寺亭【後記】草庵で祇王親子らの像を静かに見つめる女性たちの姿が印象的でした。「悲恋の尼寺」。清盛に翻弄された四人の生涯をどのように受け止めていたのでしょう。

平家物語「祇王」で描かれた清盛は横暴そのもの。追い出した祇王を館に呼びつけ、仏御前のはるか下座で今様をさせたのです。

仏御前の座はかつて、自分がいた場所。屈辱に目を押さえた袖のすき間からは涙が…。仏御前もこの仕打ちに驚き、やめるよう清盛に嘆願しますが<其儀あるまじ>。まかりならぬ、と受け入れられませんでした。

「仏もむかしは凡夫なり 我等も終には仏なり いずれも仏性具せる身を へだつるのみこそかなしけれ」。祇王は梁塵秘抄の末二句を歌いかえ、同じ白拍子でありながら差別されるわが身を嘆いたのです。

泣く泣く二度歌う祇王の姿に、この場に同席した平家の公達から侍までが涙を流しましたが、その悲しみは清盛には伝わりませんでした。「今後も仏(御前)を慰めろ」と言い放ち退出したのです。

<此世にあるならば、又憂きめを見むずらん。今はたゞ身をなげん>。祇王は自殺を考え、妹の祇女もともに死ぬと同調しましたが、母の刀自に諭され親子での出家を選んだのです。

<皆往生の素懐をとげけるとぞ聞えし>。平家物語の作者がエンディングを感動的なこととして結んでいるのが、救いに思えます。

■撮影日 2017・9・22(Fri)