2012年2月19日
聖書箇所 エフェソの信徒への手紙 4章11節~16節
説教題 「キリストの体を共に造り上げる」
先週と今回の主日(日曜)礼拝は聖書より奉仕について学んでいます。
3週の主日礼拝を通して各委員会の働き、活動内容の紹介とアピールを委員長よりしてもらいますが、今日は教育委員会、営繕委員会、総務委員会です。
今日の聖書箇所はエフェソの手紙 4章11節~16節 説教題は「キリストの体を共に造り上げる」です。
実は、この箇所も先週と同様、同じ箇所から前年の7月10日に「学ぶ教会」と題して説教をしています。そのときには、教会の目的の5つ「礼拝、交わり、伝道、成長、奉仕」の中の「成長」としてこの箇所から学びました。「成長」という面に焦点をあててこの箇所から学んだわけです。が、今回は「奉仕」という面に焦点をあてて学びます。
1.私たちがキリストの体
イエスの十字架と復活が自分のためであったことを知り受け入れた者たちは、受け入れたしるしとしてバプテスマ(洗礼)を受けます。それがキリスト者と呼ばれている者たちですが、バプテスマはキリストの体となることの「契約を交わす」式でもあります。
主の晩餐のときに読んでいる「教会の約束」はだれが誰と交わす約束(契約)でしょうか?
私たちは神の働いてくださるのをまっていますが、神は私たちを通して働こうと待っておられまるのです。
キリストの体としての奉仕はイエスがこの地上でなされていたことを引き継ぐということです。
マタイによる福音書9章35~38節
2.私たちがキリストの体を造り上げる
「わたしたちは、互いに体の一部」(4章25節)であり、「あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされる」(4章16節)ことが期待され「おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(4章16節)
「三つよりの糸は切れにくい。」(コヘルトの言葉4章12節)とあります。
あなたとあなたの奉仕が必要ですし、その組合せが何倍にも大きなものとなります(相乗効果)。
3.私たちのキリストの土台の要石はキリスト
「神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。その要石(かなめいし)はキリスト・イエス御自身であり」(2章21節)ます。
他のものが要石とならないために聖書とキリスト・イエスから離れず(ヨハネによる福音書15章5節)、キリストに根を下ろして(コロサイの信徒への手紙2章7節)いくことが大事になります。
2012年2月12日
聖書箇所 ペトロの手紙 一 4章10~11節
説教題 「賜物を生かして」
今週と来週の主日(日曜)礼拝は聖書より奉仕について学びます。
今週から3週の主日礼拝を通して各委員会の働き、活動内容の紹介とアピールを委員長よりしてもらいます。
今日は伝道委員会、祈祷委員会、音楽委員会です。
今日の聖書箇所はペトロの手紙一 4章10節11節 説教題は「賜物を生かして」です。
実は、同じ箇所から前年の7月3日に「賜物を生かして仕える」と題して説教をしています。
同じことは語りませんし、発展的に語りまので決して手を抜いているわけではありません。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(ヤコブ1章22節)と語られています。聞くだけで終わらないためには何度も私たちは聞き、自己吟味することが必要だからです。
1.あなたは、賜物を授かっています。
「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、」(10節)とあります。
「わたしには賜物は一つもない」というのは謙遜ではなく、神への冒涜です。ただ賜物があることに気づいていないということはあります。それで、自分の賜物を生かせるところを探すために
も今回は各委員会の紹介をしていただいています。
2.あなたは、善い管理者です。
「神のさまざまな恵みの善い管理者」(10節)とあります。
イエスのたとえに、「タラントンのたとえ」(マタイ福音書 25章14節~30節)というのがあります。1タラントン預かった者は地の中に隠したしもべに「怠け者の悪い僕」と主人から叱責を受けています。彼はリスクを負うのがいやだったのかも知れません。
リスクはもともとアラブの言葉で「明日の糧」という意味だそうです。
3.あなたは、賜物を生かすことを期待されています。
「賜物を生かして互いに仕えなさい」(10節)と教えられていますが、その思いを邪魔している1つの原因は「不平」(8節、9節)だと教えています。「不平」が言葉となって「愛がない」という言葉で発されることがあります。
「牧師殺すにゃ刃物はいらぬ。『愛がない』の一言あればよい。」この『愛がない』は相互のコミュニケーションを破壊する致命的な言葉であることを覚えておく必要があります。
「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を多くからです。」(8節)
4.あなたは、全力で奉仕することを期待されています。
「神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。」(11節)と教えられているように、力に応じて奉仕することを期待されています。
2012年 1月22日
2011年12月11日
聖書箇所 テサロニケの信徒への手紙一 5章16~18節
説教題「どんなことにも感謝しなさい」
3回に分けてこの聖書箇所から学んでいます。
今回は3回目で「どんなことにも感謝しなさい」の御言葉から学びます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。」
なぜ神が望んでおられるでしょうか?
感謝、喜び、祈りがない生活は罪だからです。三浦綾子さんは「明日のあなたへ」の本のなかで「不機嫌は罪」というエッセイを書いておられる。
「泥棒と不機嫌と、どちらが罪が深いか」と問い、法に問われる泥棒よりも不機嫌が周りの心を痛め、傷つけることがあると述べておられる。
どんなことにも感謝できていますか?
「九つまで満ち足りていて、十のうちひとつだけしか不満がない時でさえ、人間はまずその不満を真っ先に口から出し、文句を言い続けるものなのだ。自分を省みてつくづくそう思う。なぜわたしたちは不満を後回しにし、感謝すべきことを先に言わないのだろう。」
(三浦綾子著「明日のあなたへ」より)
ブティックで気に入った服を手に入れたが、そこに店員がもっと欲しくなる服を掛けてそれをあなたが目にしたということを想像してください。
感謝は比較では得られないもの
感謝とか喜びはあなたの価値観によって違ってきます。何を大切にしているか、仕えているか(支配されているか)に左右されることです。
イエスは、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6章24節)と語られていますが、神は絶対唯一ですが、富は複数で比較できるものです。
感謝の度合いは手に入れたものではなく、見ているものによって変わる
サタンはイエスに「繁栄ぶりを見せて」誘惑します。イエスは誘惑を受けられた時、「退け、サタン。『あなたは神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ福音書4章10、11節)とあります。
絶えず祈りなさい。
祈りによって私たちは私たちの為に十字架に架かられたイエスを見るのです。
感謝と喜びは神を見るとき、おのずと他のものへの感謝や喜びが生まれるのです。
2012年 1月15日
聖書箇所 テサロニケの信徒への手紙一 5章16~18節
説教題「絶えず祈りなさい」
3回に分けてこの聖書箇所から学んでいます。
今回は2回目で「絶えず祈りなさい。」の御言葉から学びます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。」
これらは、神が私たちに望んでおられること。それを与えるために来られたのがキリスト・イエスだと言われています。
「喜べば 喜びごとが 喜んで 喜び連れて 喜んで 来る(喜びに来る)」(出典不明)という
ことばがあるように、よい循環が起こるとは思えても、出だしの「喜べば」がたやすく出来ないから悩みます。
神がわたしたちに「いつも喜んでいる」人生を望んでおられても、自分(の力で)はだめですと言わざる得ないときがあります。その私たちを支え、守り、可能にしてくれるのが、「祈り」です。祈りは神との対話であり、会話です。
パウロはフィリピに宛てて書いた手紙の中で「主において常に喜びなさい。・・・主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4章4節~7節)
「主において」とは、神の力によってです。人知を超える神の平和(平安)が守るので、神に祈り、打ち明けなさいと勧めます。
イエスが十字架の死と復活を語った際、「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハネ福音書16章22節~)と語られています。
「希望をもって喜び 苦難を耐え忍び たゆまず 祈りなさい」(ローマ12章12節)
2012年 1月8日
聖書箇所 テサロニケの信徒への手紙一 5章16~18節
説教題 「いつも喜んでいなさい」
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。」
3回に分けてこのみ言葉から学びます。
わたしは19節の「霊の火を消してはいけません。」の、聖句を加えて聖霊のトライアングルと呼んでいます。
「喜んでいますか?」に「いつも」が付くと自信がなくなりますか。
現実は厳しい、喜んでばかりはいられない。
しかし、病気でも喜んでおられる方がいる反面健康体でありながら喜べないという方もおられます。
「喜び」とは物事の捉え方に左右される部分が多いようです。
パウロはキリストにであってからそれまでの価値観が変えられた一人です。
今までの大切だと思っていた自分を支えていたものがちりあくたに見えるほどになりました、
と語っています。
そのパウロが獄中で書いた手紙に「フィリピの信徒への手紙」があります。
彼をとりまく環境は喜べる状況ではありません。しかし、パウロは、手紙で「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」(2:18)「主において喜びなさい。重ねていいますが、喜びなさい。」(4章4節)
と肩肘張らずに書くことができました。
そこにあるのは、単なる精神論ではありません。根拠あること、理由あることなのです。
イエスの語られた言葉、山上の説教「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」(マタイ5章3節)と言われています、がイエスはこうも言われました。
「悲しみは喜びに変わる。」(ヨハネ16:20)「あなたがたは悲しみがその悲しみは喜びに変わる。」(ヨハネ16章20節)
「女は子どもを産む時、苦しむものだ。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が
世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」
喜びのための生みの苦しみだというのです。
「あなたがたわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」とイエスの言葉は続いて語られています。
「これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。」
喜びに変えてくださる神があなたに喜びを与えてくださるからこそ、あなたがたのために
それに預かるように望んでおられるのです。
2011年
12月25日
聖書箇所 マタイによる福音書 1章21~23節
説教題 「その子の名はイエス」
すでに12月11日に1章18~20節から説教した。その続きになる箇所である。
イエスの父となるヨセフは、イエス誕生にまつわる不思議な体験をしている。
夢で語られたことに「その名をイエスと名付けなさい」(21節)がある。ヘブル語読みでは「ヨシュア(イエシュア)」となり「神は救い」という意味である。
続けて主の天使は、預言者が語ったことが成就したのだと、旧約聖書イザヤ書の言葉(イザヤ7章14節)を引用して語る。
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」、と(イザヤ書8章10節の引用)。
「インマヌエル」は「インマヌ(わたしたちと共に)」と「エル(神)」からなる単語である。
マタイの福音書は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28章20節)で終わっている。初めと終わりにこのことを書くことによってマタイによる福音書は「神の救い(イエス)」とは、神が私たちと共におられることなのだと語っているのだ。イエスの誕生は神が私たちと共におられるためである。
神が人となられたイエスの誕生を、たとえ話をもって「共にある」ということがどのようなものであったかを理解の手助けになるように語る。
「ボクは七面鳥だ」と思い込んでいる王子の話しである。王子は服を脱ぎ、食卓の椅子に座ろうともしない。毎日テーブルの下でうずくまり、パンくずを食べている。国中の医者が招かれて治療をしたが治らなかった。ある日、一人の賢者が王宮を訪ねて来て、「わたしが王子さまを治しましょう」と言う。わらにもすがる思いで、王は賢者に王子を任せた。賢者のとった行動は、まず自らも裸になり、王子の横に座るという突拍子もないことだった。
王子が「そこで何をしているの?」との問いに、賢者は「わたしはね。七面鳥なんだよ」と答えた。そこから王子と賢者の対話が始まり、最後に二人はきちんと椅子に腰掛けた。
イエスの誕生をパウロはフィリピの手紙で、「キリストは、神の身分でありながら、・・・
人間と同じ者になられた。人間の姿で現れた(フィリピ2章6~11節)」と語っているがまさしく賢者のように裸になられて私たちの傍らで問いかけ続けてくださるためであった。
そこにあるのは、「わたしがいるから大丈夫。そのままでいいんだよ」というような優しいだけの言葉ではなく、むしろ「わたしが一緒にいるのだから、そこから新しい一歩を踏み出せ」という勇気をもたらす力である。
12月18日
聖書箇所 ルカによる福音書 2章8~12節
説教題 「大きな喜びを告げる」
イエスが生まれたときのことは、2章1~7節 に書いてある。
ヨセフとマリアの旅の途中でイエスは生まれる。
自分の生まれ故郷に帰って登録するように命令がでて、身重のマリアを伴っての旅である。そこでマリアは産気づく。
彼らを泊めてくれるところは見当たらず、仕方なくロバ、牛、鶏などが飼われている家畜小屋でイエスを産むことになった。
イエスは飼い葉桶に寝かせられた。飼い葉おけとは、餌の入った容器である。
イエスの誕生の知らせをだれよりもはやく知らせてもらったのが、今日の聖書の箇所に
登場する羊飼いたち。東方から占星術の学者たちがイエスを拝みに来たのは誕生から少し経ってからである。
イエスの誕生に出会えたのは、ヨセフとマリアとそしてこの羊飼いたちだけである。
神のこのイエスの誕生のよい知らせをまず羊飼いたちに知らせているのは意味深いこと。
当時の羊飼いたちは貧しい生活をつつましくしていた人たちであるが、職業としては低く見られ、卑しい職業と軽蔑されていた。
王宮でイエスが生まれていたら、彼らは行く事が出来なかった。
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」 そこには当然、羊飼いも含まれていた。
羊飼いは恵みに一番はじめに出会えた幸いな人たちである。
だから、パウロはコリントに宛てての手紙で
「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
それは、だれ一人、神の前で誇る事がないようにするためです。」『誇るものは主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」(コリント一 1:26~)と書いている。
「大きな喜び」のしるしは飼い葉桶の赤ちゃんで、見た目は小さなしるしである。
「大きな喜び」はそのとき、すべて理解できるものではない。
信仰のすべてが理解できたのではない。すべてが明らかになったのでもない。天使の言葉(神の言葉の代弁)を信じる信仰がたいせつなことだ。
イエスの「からし種のたとえ」を見よう(マタイ13:31~32)。
信じないと、事が始まらない。種は種のままである。種を蒔けば、厳密には木でないが、木と呼ばれほど大きくなる。100数十センチほどになり、大きいものだと4メートルの高さになるとも書かれてある。
聖書箇所 マタイによる福音書 1章18~20節
説教題 「迎える信仰」
イエスの誕生の出来事は4つの福音書の中のマタイとルカによる福音書に記述されている。
ルカ福音書がマリアに重点をおいてイエスの誕生を語るのに対し、マタイ福音書はヨセフに重点をおいて語る。
「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」(18節)
イエス誕生にまつわる不思議な体験を述べている。
このイエス・キリストという言い方であるが、キリストは称号である。「キリスト」はギリシア語で、ヘブル語では「メシア」、日本語では「救い主」のことである。
イエスが名である。この名は両親によってつけられた名ではなく、「その名をイエスと名付けなさい」(21節)とあるように神ご自身が名付けた名である。ヘブル語読みでは「ヨシュア(イエシュア)」となり「神は救い」という意味である。
母マリアはヨセフと婚約していた。当時のユダヤの法律では、婚約した夫婦は一緒に生活しない以外は結婚した夫婦と同じ責任を負った。
婚約期間中にマリアが妊娠をしたことがわかった。ヨセフは不倫による妊娠であると疑った。不倫は重罪で死刑である。
「夫ヨセフは正しい人であった」(19節)とは、神の教えに従う人という意味で、神の教えに従いマリアの罪を公にする義務があった。だがマリアが処刑されることは望まなかった。
矛盾する2つの間で彼は苦悶し、一つの答えに至る。その答えとは、婚約破棄後に発覚した不倫は裁かれないということがあったのでひそかに離縁するである。
しかし、この後どんでん返しが起こる。
主の天使が夢に現れて、マリアの宿している子は不倫の子ではなく、聖霊によって宿った子であると知らせる。「聖霊によって」とは、簡単に言えば、神の出来事として起こったということである。ヨセフはマリアに現れた天使ガブリエルが話してくれたこと、それは今回自分にも語られた内容と同じような内容だった(ルカによる福音書1章26~38節)のであるが、聞かされていたはずである。しかし、マリアの話したことは突拍子のないことで信じることはできなったが、自らが体験したことは否定できなかった。
ヨセフは天使を通して語られた神の言葉を信じ、マリアを「迎え入れた」(20節、24節)。
マリアを信仰で迎え入れるということは、マリアを迎えいれることでおこるであろう、重荷も迎え入れることである。
「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1章29節)
イエスご自身も「自分の十字架を担ってわたしに従いなさい」「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとへ来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と言われている。
2011年12月4日
聖書箇所 マタイによる福音書 2章1~7節
説教題 「占星術の学者」
イエスがベツレヘムでお生まれになったとき、星によってメシア(キリスト 救い主)ユダヤ人の王として生まれた方を知った占星術の学者たちが東の方からエルサレムへやって来た(2:1)。
この箇所から占星術の学者に焦点をあてて語る。
占星術の学者たちはギリシア語では「マゴイ(複数)」が使われている。
単数形だと「マゴス」である。ラテン語では、マギ(複数形)マジと呼ばれ、星占いでお金をかせぐ占者のこと、日本でいえば占い師、マジックという語は、このマジから出たもの(「聖書のことば」前島 誠著)と説明がある。
いつの時代も占いが盛んである。
神秘やデーター(学問)を覗かせている占いを完全否定できない。100パーセント占いを信じているわけではないが、占いのことばは気になる。
全否定も全肯定もしていないがなんとなく信じてしまう。気になってしまう。それが占いである。
呪い・罰の思想、占者の巧みな話術、人間の弱さ、欲、そんなものが働くせいで占いがなくならないのではないだろうか。
その占いを専門にしている彼らがメシア(救い主)を「拝みに来た」(2節)。
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。
彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた(10節~11節)。
占星術の学者たちは星や夢を用いて占いをしていた。その彼らが星や夢(12節)に導かれて
まことの救い主に出会うことになる。黄金、乳香、没薬は彼らの商売道具とも言われている。
それを献げるとは、彼らは廃業したのか?
彼らも認めるほんとうの救いがイエスの誕生である。
作家三浦綾子さんの夫 光世さんは、生涯病弱に終わる名前なので名前を変えるようにと知人に勧められた。光世さんは「確かに私は、幼少の時から今に至るまで病気ばかりしています。その点、ご判断は当たっているかも知れません。でも私は、病気をしたことでキリストの神を信じました。そして人生が変わりました。もし健康であったとしたら、恐ろしい生きざまをつづけていたと思います」と丁寧に断られたそうです。