2015年02月20日

ヴィヴァ、イタリア2

◯イタロ・カルヴィーノさん『パロマー』(和田忠彦さん訳。岩波文庫)読了。
ーーパロマー氏は、普遍的規範や的確さをもとめられると考えてきた、そうした企業社会の規準というものがいかに好い加減で間違いだらけか気づいたとき、ひたすら自分の眼に映るかたちを観察することで世界との関係をあらためてゆっくり見つめてみることにした。
ーーこんな風に鳥たちは考える、でなくとも、鳥になったつもりのパロマー氏はこんな風に考える。/ 「事物の表面を知った後ではじめて」と結論を下す。「わたしたちはその下にあるものを求めるところまでは行きつくことができる。だが、事物の表面は無尽蔵なのだ」
 パロマー氏は全体をつなぎとめる記号のようなもので、視覚による、人類学的もしくは文化的、瞑想的と作者自身によって分類された記述形式にそって、波や月から動物、食べ物から社会、自分自身にいたるまでが書き抜かれるのですが、その記述は物語を与えることを、言い換えれば一般的な小説と受け止められることを解体・拒否しているかのようです。事物の表面が無尽蔵である世界で、いい気にならずに文学の可能性を洗い直そうとした作品かな。

◯エリオ・ヴィットリーニさん『シチリアでの会話』(鷲平京子さん訳。岩波文庫)、反ファシズムで、パヴェーゼさんの『故郷』と並ぶ、イタリア・ネオレアリズモ文学の代表作というので一読。反ファシズムについて書いておくと、パヴェーゼさんの場合は教職につくために偽装入党、のち離脱、ヴィットリーニさんの場合はファシズムの打倒ブルジョアに共鳴し、最初は積極的に参加、のちに離脱ということになる。作品の内容としては、二つの作品とも、ファシズムと対決するものではなく、ファシストの検閲を受けつつ、レベルを保った作品を発表しえたこと、みずみずしい感性を読者に届けられたことに大きな意味があるのでしょう。
 実際の『シチリアでの会話』の内容はネオレアリズモという言葉の先入観が飛んでしまうもの。新しい妻との生活をはじめるという父からの手紙を受け取った「私」は、シチリアに住む母親に会いに行く。母親との話ではまず父親の卑小さと祖父の神話的なスケールの大きさが語られる。そこから先はリアリズムどころか、さすが『神曲』の国の作品と思わせられる展開。私は、マラリアや結核ぎみの患者たちを訪ね注射をうつ母親についていくが、それぞれの家は暗闇に閉ざされ神話的な雰囲気をたたえる一方、金持ちの女性宅では、家は明るく、母親は女性を裸にして私に見せたりする。その後、私は研ぎ屋と知り合いになり、彼の刃物をキーにする仲間たちに巻き込まれていく。彼らが問題にするのは、人類への、世界への、恐るべき損傷である。傷のない世界への称賛を繰り返して葡萄酒に酔いしれる。40年代のファシズム下の読者にとって、その神話的な文体はすごく新鮮だったのではないかと思った。ちょっとびっくりした。

◯ジョバンニ・ヴェルガさん『カヴァレリーア・ルスティカーナ』(川島英昭さん訳。岩波文庫)。故郷シチリアを舞台に、社会の底辺であえぐ人々を初めて文学作品に取り上げ、「事実を示し、事実に真実を語らせる」ヴェリズモ(真実主義)というスタイルを確立し、20世紀のネオレアリズモにも大きな影響を与えたという、1840年生まれのヴェルガさんの短篇選集。
 これでもかと不幸が続く「赤毛のマルペーロ」や「聖ヨセフの驢馬の物語」のような物語があるかと思えば、「羊飼イエーリ」のような、つらいながらも甘美な青春小説もある。
 すでに19世紀の段階で、マンゾーニさんのような、都会の大作家をいただきながら、一方でヴェルガさんのような作家が独自の活動をする。ここまで、イタリア文学の中で、ネオレアリズモと周辺の小説を読んできたけれど、イタリア文学の豊かさは恐ろしいほどで、詩や戯曲といったジャンルの幅に限らず、戦後、さまざまに出てきた作家たちの作品、またユダヤ系の表現者の幅の厚さもある。いやはや。
 このブログ(これで今年12回)の今後の形も含めて、ちょっと時間をかけて、楽しいアプローチを考えてみたい。
  
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2015年02月15日

まだまだ系

◯河合  その代わりに陰険な殺人は増えてるわけですよ。考えたら、バブルを引き起こして、それが潰れたら責任も取らずに、責任を全部、中年の男に取らせて自殺させてるというのは、見ようによったら殺人ですよ。そういう殺人は増えて、そのときそいつらはワーッてやってるわけ。
吉本  心のなかで。
河合  そう、心の中で「あの弱いやつが死んだ」と思ってる。本当は自分が殺してるわけですよ。(略)心の動きとしては、人を殺して拍手しているやつはたくさんいる、とぼくは思っているんですよ。みんな似たようなことやっとると。(河合隼雄さん・吉本ばななさん『なるほどの対話』新潮文庫)
◯河合  いま「姥捨山」はないけれど、ほとんど似たようなことしてるでしょ。「お父さん、あそこの病院はいいから」なんて言って、捨てに行くわけでしょ(笑)。ものすごく親孝行みたいに見えるけど、実は……。姥捨山よりもっとひどいのは、昔だったら、捨てられる方は泣いたり怒ったりできたけど、いま、できないでしょう。「ありがとう」って言わないかんから。「すまんなあ」とか言うて。本当は腹のなかで「ばかやろう」って言いたいんやろうけど。(同前)

 ◯10年以上前の対談からですが、この本で語られる心の世界の深刻な変化に加え、最近ではもっと社会的な価値観を鼻で笑うような変化が起きているようです。在日の人々への公然としたヘイト攻撃、最近では作家によるアパルトヘイトの勧めなど、民主主義、言論の自由といった価値観は世界基準だから掲げて置いて、国内的には差別が日本の常識とでもいうかのような。
 パリの事件の時にあらためて、自分たちはこの広場を埋め尽くしている人々とは違う、仏教的価値観に立ち戻って世界や自分たちの生き方を一から見直したいと思いました。

◯ーーぼくはこの世界に未出現のものにつながりをもっている。その未出現のものをこの世界に出現させるために、そしてただそれだけのために、自分の人生はある。ほかのことは、たいして意味はない。実現されてしまった現在には、たいして関心がない。実現されなかった過去と、まだ可能性だけの未来にしか、ぼくは興味をいだくことがない。(中沢新一さん「もういいかい? まあだだよ」。『ミクロコスモス II』中公文庫所収)
  
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2015年02月13日

ヴィヴァ、イタリア

◯チェーザレ・パヴェーゼさん『故郷』(河島英昭さん訳。岩波文庫)読了。1941年に執筆順とは別に、ファシズムの弾圧下でかろうじて、初めての長編出版となった。
 「ぼく」は友人たちが起こしたいざこざに巻き込まれ(罪名は明示されていない?)刑務所に入れられるが釈放される。同房だったタリーノについて、彼の家に行く。「ぼく」は機械工の資格があるのでどこに行っても何とかなるだろうと、高を括ったところがあるのだ。
  行ってみると近隣でタリーノの評判は悪い。暴力沙汰や放火など、自分を抑えきれずに行動してしまうところがある。しかも近親相姦的な暴力を犯してきた疑いを「ぼく」は持つ。「ぼく」はタリーノの姉妹たちに惹かれ、その一人のジゼッラと結ばれることを考えるが、タリーノの家が所有する機械で、近隣の農家たちの麦の脱穀を始めようというまさにその時、早く飲ませろというだけの理由でタリーノは、ジゼッラを刺し殺してしまう。「ぼく」は1日分だけ働いて、ギャラをもらい、ここを去っていく。
 パヴェーゼさん自身は、就職のため、ファシスト党に入党し、地下活動との関連から流刑にあうが、本人は知識人の家庭できちんとした教育も受けている。それにもかかわらずと言っていいのか、登場する若者たちの、社会的な、心理的な不安定さの描写の見事さは、彼らの神話の登場人物でもあるかのような輪郭の明晰さはどこから来るのか。この痛覚に惹かれて、人はパヴェーゼ作品を読むのかもしれない。

◯イタロ・カルヴィーノさん『魔法の庭』(和田忠彦さん訳。ちくま文庫)読了。作家の初期の短編から、訳者オリジナルの選択。
 パルチザンを主人公にした「不実の村」「小道の恐怖」は、同時期に書かれた長編『くもの巣の小道』がパルチザンを若干、露悪的にデフォルメして書いていたのに対して、パルチザンが率直な視点で書かれているのがうれしい。人間のエゴや暴力を取り上げた「誰も知らなかった」や「うまくやれよ」があるかと思えば、「猫と警官」「菓子泥棒」のようにユーモラスな作品もある。
 印象に残るのは「魔法の庭」の説明しきれない透明感、同じ少年少女を主人公にした「楽しみはつづかない」でも繰り返される、遊び、ごっこをあきらめないという姿勢、それを支えている陽だまり。

◯カルヴィーノさん『むずかしい愛』(和田忠彦さん訳。岩波文庫)読了。作家の初期のコレクションに、訳者が追補した12の短編。
 「愛」という括りであっても、この癖の強い作家のこと、ありきたりのラブ・ストーリー群であるはずもなく、むしろ人間の滑稽さを描いたのではと思われるものが多い。ビキニのボトムが脱げてしまって、海から上がれない夫人の焦燥を描いた「ある海水浴客の冒険」、恋人に会いに夜行列車に乗った男の一夜のドタバタを描いた「ある旅行者の冒険」など。
 また後期の『冬の夜ひとりの旅人が』(ちくま文庫)に一部、再利用されている「ある読者の冒険」、愛についてよりも描写の実験といった趣の「ある詩人の冒険」があるかと思えば、オーソドックスな「ある妻の冒険」といった作品もあり、全体的にはスタイルの実験集、ブッキッシュでユニークな1冊です。
  
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2015年02月09日

言葉の屋根系

◯ーー現代の日本では、じぶんで何らかの現実を所有していると考え、そう振舞う個人、集団、政治組織にも、また逆にそれらに所有されている個人、集団、大衆組織にも語りかけるのは無駄であると宣告しないわけにはいかない。あえて語りかけるばあい、まるで砂漠の砂に語りかけるように、耐えながら語りかけるのである。
 わたしは世界を凍らせることを禁忌して詩をかこうとする。そして、世界はわたしの語ることを禁圧するような現実をこしらえあげる。ここには、ある必然的な関係があるのだろうか。(吉本隆明さん「詩とは何か」。『詩とは何か 世界を凍らせる言葉』詩の森文庫、思潮社所収)

◯「世界はわたしの語ることを禁圧するような現実をこしらえあげる」、その「世界」にはすでに日本の多くの現代詩人が含まれていると思う。世界と対峙するという気持ちはあるかもしれないが、それは、詩の形に構築した自らの内面世界が美として評価されるか、というような引きこもり芸術なので(ま、それで最終的に成果をあげるものもあるかとは思いますが)。基本的に日本の現代詩には世界を変えようという気持ちがない。評価されたいという気持ちがあるだけか?
[メモ]宮尾節子さんの「明日戦争がはじまる」が話題になり、新しいアンソロジー詩集も出たようですが、僕としては茨木のり子さんの詩につながる、上から目線が気になる。自分たちは分かっているのにだらしない人間が多いから困るみたいな。そういう詩が書けるのも才能だし、読む人の好みもあるので、これ以上は言いませんが。

◯ーー日本の現代詩人で、思想的に難解であるような詩人、孤独な他人につうじそうもない精神世界をそだてているような詩人は、まったくいないとかんがえていいとおもう。マス・コミの高度に発達した日本では、詩人のこころの世界も平準化され、風とおしがよくなっているのである。(吉本隆明さん「現代詩のむつかしさ」。同前)
◯ーー現代詩は難解だというが、せいぜい、この程度が(注: 谷川雁さんの「商人」)、もっとも難解だといわれている部類にぞくしているだけである。しかもその思想は、きわめて単純で、レトリックをはがしたら、なあんだといったようなものである。しかし、この詩などは、典型的だが、現代詩の世界は、レトリックの面白さと思想とが相おぎなって詩の世界をつくっていて、一方の足をとりはずしたら、詩の表現世界はぜんぶ崩れてしまうという場合が多い。
 これは、おそらく、現代詩の世界が、つよい秩序意識を、いいかえれば定型をもっているためではないかとおもう。理想としては、この反対の世界をかんがえたほうがいいのだが、現在秩序破壊的に詩をかく詩人は、しだいに欠乏の傾向にあるということができる。(同前)
  
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2015年02月08日

ヨシモト系

◯ーー矛盾は親鸞が到達した浄土教義が自体ではらんでいた。この疑念はたんなる排除で喪失する態のものではなかった。すすんで悪をつくるのはなぜいけないのか、この単純な異解をめぐって親鸞の思想は試みを受けた。(吉本隆明さん「親鸞論註」。『論註と喩』言叢社所収)
ーー親鸞がいいたかったことは宗教的・理念的・倫理的……等々の形で提起される対立的な概念は、かならず自己概念のなかに対立概念を包括しているということであった。いなむしろ自己概念に絶対性がありうるとすればそれが対立概念によって侵食されつくしたときだということを云いたかった。造られるのでもなく、またひとふしだけしか〈善〉とちがわないような相対的な〈悪〉によってでもなく、〈悪〉がそのまま〈善〉であるような〈悪〉こそが正機だということであった。(同前)
ーー〈善〉と〈悪〉の相対性を揚棄したいとき、いつも、親鸞は〈無作為〉と〈脱化〉をかれの「自然」に結びつけた。現実の場面で教義的な疑念や組織的な混乱に応えるときは善と悪との逆倒の契機を明示して〈信〉と〈不信〉の両方に応えた。(同前)

◯この1月のパリの事件の時、広場を埋め尽くす人々の、言論の自由、反テロといった盛り上がりにまずなじめず、東京にはいざという時に示し合わさずとも集まれる広場がないな、とぼんやり思ったのだが、その後、EUの首脳たちやらの記念撮影を見せられて、自分とは全然違う、自分だったら殺された人々を何かの価値の代理にせず、団扇太鼓を叩いて祈るのが一番合っていると思った。ここに集まった人々とは基本的な文化が全く違う。そして団扇太鼓の集団が一定数以上集まったら、さぞ不気味な集団として受け取られる、場合によっては嫌悪の対象として排除されるかもしれないと思った。

◯ーー宗教が対象を撰りわける仕方は、いつも戒律によってである。( 略)だがマルコ伝にあらわれた教義は、むしろ戒律を無視することによって対象を犯罪者、取税人、廃疾者、貧困者に限定している。これはマルコ伝の世界が非宗教の側面をもっていた徴候とみることができる。(吉本隆明さん「喩としてのマルコ伝」。同前)
ーー不治、先天的な疾患、老衰とみなされてどうにもならない病者たちが〈信〉の存在する徴候を代償に即座に癒されるという概念が、すべての人間の〈罪〉を一身に背負ったために身を滅ぼすキリストという概念と交換されるところに治癒行為があった。これはたぶんマルコ的な教義にとって逸することができないメシアの喩的な意味をなしていた。/マルコ的世界にただひとつの標語を掲げよということになれば内在する〈罪〉とその〈治癒〉という言葉に帰着する。〈罪〉こそはマルコ伝の世界によって発明された概念であり、それ以前にもそれ以外にもこれを発見した人類はいなかった。(同前)

◯中世まで正統と見なされてきたマタイ伝に対して、マルコ伝が最初に書かれた福音書と見なされるようになり、その孕んでいる野卑ともいえる可能性の部分を読み込んでいく。現在の信者のどれほどがそこまで突き詰めて読むだろう。
 これからの時代、混乱を脱ぎきれなくなったら、新しい宗教が始まるかもしれない。「まさか」と言うなかれ。井筒俊彦さんの『マホメット』(講談社学術文庫)を読んでも、価値の総転倒を含む信仰の受け入れは歴史を通して起こってきた。
  
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2015年02月06日

不条理系

◯ーー生きているときと同じ顔だった。約束されていたはずの浄化の表情など、どこにもなかった。機械にかけられた囚人のすべてが見出したものが将校には拒まれていた。死体は唇をかたく横にむすび、目をひらいていた。生きているようにみえた。視線はもの静かで信念をたたえていた。その額に太い鉄の針が深々と突き立っていた。(フランツ・カフカさん「流刑地にて」。池内紀さん訳、同タイトルの白水uブックス所収)

◯考えてみれば、少なくとも米国が他国について何をなしてきたか、洗いざらい整理して、自分たちが引き起こした紛争の解決に貢献する同国や国連のNGOの活動に力をこめれば、世界はぐっとよくなるはず。
 しかし、米国は世界の善玉、主役ですという仮面を脱げないし、軍隊の予算も減らせないし、軍事請負業や軍事産業を弱らせると景気に響くというわけで、とにかくあそこら辺に「恐ろしい人たち」がいるからというイメージ作りをさかんにして、正義づらして殺しに行くというやり方を離れられない。これは「不条理」ではなく、自らが裁判官であるために裁かれない「犯罪」だ。

◯ーーレヴィ=ストロースの思想は、フーコーやバルトなどの場合と同じように、現代芸術の流れに深くかかわっていると解説する者も多い。そこで、アヴァンギャルド的な抽象芸術と一体になって発達したロシア・フォルマリズムと、レヴィ=ストロースの構造主義を混同する者もいたのだった。しかしつぎのような文章を読めば、彼がそうしたものとは対極の場所で思想してきた人だということが、よくわかる。//
 ピカソの作品は私をいらだたせますが、しかしまさにその意味で、私はピカソに関心があると言えるのです。彼の仕事は、現代芸術のきわめて修辞的(ルビ: レトリカル)な特質を(それは文学や音楽にも見られるものですが)、まざまざと証しているからこそ、私はいらだち、また関心をそそられてきたのです。ピカソはおそらく、芸術作品というものの性質や構造を成り立たせている法則があるのだから、その法則を応用したり真似したり、あるいはレシピを借りてきたりすることによって、芸術作品をつくることができると考えているのでしょう。(『構造人類学 II』) (中沢新一さん「孤独な構造主義者の夢想」。『ミクロコスモス I』中公文庫所収)
 ちょっとした隙間から与えられる思考のヒント、かな。
  
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2015年02月02日

おさらい系

◯ーー「反ユダヤ主義者の中には善意の人間が多数含まれていた」という前提を平明な事実として受け容れて、そこから「善意の人間が大量虐殺に同意することになるのはどういう理路をたどってか」を問うことの方が、「大量虐殺に同意するような人間は人間以下の存在である」と切り捨てて忘れてしまうよりも思想史研究の課題としては生産的だろう(注: 初出の「善意の人間」に強調傍点)。(内田樹さん『私家版・ユダヤ文化論』文春新書)
ーー自らを「神に選ばれた民」であると信じ、自ら「聖なるもの」であると思いなしている信仰者集団は世界のどこにも存在する。けれども、「救い」における優先権を保証せず、むしろ他者に代わって「万人の死を死ぬ」ことを求める神を信じる集団は稀有である。/「ユダヤ的知性」は彼らの神のこの苛烈で理不尽な要求と関係がある(注: この一文、強調傍点)。この不条理を引き受け、それを「呑み込む」ために彼らはある種の知的成熟を余儀なくされたからである。(同前)
ーーユダヤ人とはある種の遅れの効果だということである。(注: この一文、強調傍点)/ユダヤ人はつねに自己定位に先立って、先手を取られている。サルトルによれば、ユダヤ人は自分が何者であるかを、主体的な「名乗り」によってではなく、反ユダヤ主義者からの「名指し」によってしか知ることができない。レヴィナスによれば、聖史上のユダヤ人が口にする最初の言葉は「私はここにおります」(Me voici)という応答の言葉である。(同前)
 うまく言えませんし、問題もずれてしまいますが、「自分が自分であることという平明な事実のうちに安らぐことはユダヤ人には決して許されない」といった文に、在日朝鮮人の苦しみを重ねてしまいます。歴史的にはユダヤ人はにくらべ短い背景によって生まれた差別にもかかわらず、その「〜であることによって罰せられ、〜でなくなろうとすることによって罰せられる」ダブルバインド状況は共通と思われるのです。
 ヘイトは自分がそのままでいいと自足している、自分が日本人であることを説明する必要を感じていない、ヘイト行為をすればするほど、自分が保証されるという錯覚に支えられている?
 ユダヤ文化について学びつつ、イスラエルってのはやっぱりまだわからない、この先の問題だなあと。

◯ーー二〇〇一年の秋から、「ニューヨーク・タイムズ」は世界貿易センタービルの被害者一人一人の人生を詳しく辿る連載記事を載せた。テロでも戦争でも実際に死ぬのは家族も友人もある個人だ。だからテロというものを徹底して被害者の立場から、殺された一人ずつの視点から見るという視点は大事だ。しかし同じ新聞がアフガニスタンの戦争のことは抽象的な数字でしか伝えない。(略)行けば見られるはずの弾着の現場を見ないまま、身内の不幸ばかりを強調するメディアは信用できない。(池澤夏樹さん。本橋成一さんとの共著『イラクの小さな橋を渡って』光文社文庫)
 イラク戦争直前に現地を旅した記録。その後、大量破壊兵器があるとして米軍が侵攻、殺戮、捕虜虐待などやり放題の末、シーア派とスンニ派の対立など深刻な問題を残し、イスラム国の現在につながっている(だからオバマがピーヒャラ言うことは悪い冗談でしかないのだが)。ほんの10年前のことを振り返ることもしないで、わっ、テロだと騒ぐ政治家たちの幼稚さ・ずるさにうんざり。振り返る知識すらない日本の首相には???

◯看護師さんたちに本のお薦めはと聞かれたりする。読んでいるのは、宮部みゆきさんや角田光代さんの小説ですって。難しいなあ。
  
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2015年01月28日

サンプル系

◯ーー塾のような場所で皆が集まっていると、どっちが議論として主流になるかは分からないんです。(略)体育会系のほうがいいということになる可能性だって十分にある。僕はそこで、自分がずっと育ってきたその集団や社会の中では、それでもやっぱり近代的な自由とか平等とかいうものは、まあ表向きは良しとされるところがあったわけです。しかしもう少しその底のところに行ったときには、それが本当に良しとされるかどうかは、はっきりしない。そこには何か「ねじれ」のようなものがある。(長谷川宏さん「共にあって、学び始めること」『思想の科学 会報 178号』収録のシンポジウム基調講演。思想の科学研究会、2014・9)
ーー例えば塾の子で、自衛隊に行った子がいる。その子は知的に優秀な子ですが、どう考えて自衛隊に入ったのか、僕にはよくわからない。彼は我々の集まりも好きで、今はどこかの訓練所に行っているんですが、しょっちゅう帰ってきては塾にやってくるし、うちの嫁さんの葬儀の時も迷彩服で来たりする。「あの子どうなってんのオッチャン」とまわりの人に言われて、僕もどこかではその子とじっくりその話はしなければと思いつつ、どう切り込んでいったらいいかわからない。(同前)

◯ーー当時私が心配したのは、十九歳から二十歳にかけて野呂氏が体験した生きざまが(注: 自衛隊への入隊)、果して若者たちに受け入れられるだろうかということだった。あてになるのは自分ひとりの力のみで、がむしゃらに生きようとする熱い血のたぎりとそれ故の苦悩とが、たとえば大学へ進学することが当たり前になり、二十歳を過ぎても親の庇護を受けていられる若者たちに、この《草のつるぎ》がどこまで理解されるだろうか。更には、ぬくぬくとした形で文学の世界に入ったーー文学のみにしかすがって生きられず、そのために三度の食事もまともにとれなかったという類の者たちまで含めてーー人々に、この《草のつるぎ》が終始一貫して放っている哀しみにどこまで共鳴できるのだろうかと心配になった。(丸山健二さん。野呂邦暢さんの『草のつるぎ』解説。同題の文春文庫所収)
ーー野呂氏は依然として諫早の土地を動こうとしない。(略)地方において周囲を見渡した場合、さまざまな形はあるにせよ、社会に直接参加して生きている人ばかりで、信じられないようなことをして食べている者はなく、家に閉じこもって文学をいじくりまわしているような者は自分ひとりなのだ。だから、堂々と胸を張って名乗れない負い目をのべつ感じていなければならない。(略)小説を書く上で、その負い目こそが大切なのではないか、と私は考えている。大半の小説家たちが文化的な環境のなかに身を置き過ぎているのではないだろうか。(同前)

◯丸山さんの指摘は、長谷川さんの問題意識とはずれるけれど、反映している社会意識は共通。その逆転の仕方も含めて。民主社会の向こうに闇があるような、逆に土地に生きる人にとっては、個人性に依拠する現代の表現が異物であるような。
 ただいまの民主主義を守ろうというとんがった意識のブームは、それはそれで意味がある。でも、それとはちょっとそれたところから目が離せない。
 民主主義的な民間学者・市井の教育者と体育会系、自衛隊、ブンガクと自衛隊、地方の社会・世間と地域に供さないブンガク。後半について言えば、地方の社会・世間は開発や過疎などによって少し崩れてきている可能性もある(野呂さんの自衛隊入隊は1950年代、『草のつるぎ』の発表は70年代で、80年に40代で亡くなっている)。
 それでは日本社会が経済成長などによって、社会としても成熟したのかと言うと、そうでもなさそうだ。マンションの理事会で仕事をしたことがあるが、きょうびの理事たちゆえ、会計や建築、法務などに強い人びとが集まっていて仕事ができる。で、さて打ち合わせなどが一段落してひと息という段になると、ゴルフや経済などの話となり、民主党も朝日も金が分かっていない、やっぱ日経で、朝日はちょっと気分が悪いといった話になったり。そのなかでもY新聞勤務の温厚な紳士が最寄りの駅で、地下鉄遅延で駅員さんを執拗に怒鳴りつけていたり。
 とりとめがなくなってきたけれど、書いておけることを書いた。
  
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2015年01月24日

脱力系

◯ーー(注:沖縄国際大学に米軍ヘリが2004年に墜落した際に、米軍が日本の私有地にバリケードを作って日本人を立ち入らせなかった事件について)日本人にとって主権とは何かを考えさせるものだったけど、(注:パキスタン国内における米軍のビンラディン奇襲作戦が)パキスタンでナショナリズムを刺激したように、日本でも右翼の人たちを刺激しそうだよね。でも右翼が怒っている様子はあまり見えない。どうしてだろう。右翼の敵、左翼は、おしなべて沖縄米軍基地反対だからかな。(略)だったら日本人にとって主権とは、右・左のイデオロギーを超えて団結しなきゃならないシリアスな問題ではない、ってことだろうか。我々の主権意識というのはその程度かもしれない。でも、この不感症が“平和”の源かもね(笑)。(伊勢賢治さん『本当の戦争の話をしよう』朝日出版社)
ーー日本はどうしたかというと、アメリカのアフガン報復攻撃に対して即座に賛意を表明し、以来、民主党に政権が移るまで、海上自衛隊を、通称「海上阻止作戦」のため、インド洋に派遣しました。(略)日本人の意識では、この派遣が「参戦」という感覚はないようですが、「海上阻止作戦」は、実は、米・NATOの集団的自衛権のほうの下部作戦なのです。だから、国際法的に、日本は集団的自衛権を行使したのです。感覚的(日本の国内法的)にはそうじゃなくても、日本の外からはそう見える。なんか、日本らしいなー(笑)。(伊勢さん、同書)

◯10年ちょっと前、高橋秀実さんの『からくり民主主義』(新潮文庫。読んだのは親本、草思社、2002)を読んだ時(村上春樹さんの推薦あり)、米軍基地の問題や、諫早湾の干拓、若狭湾の原発などを取材して、「反対」の声と交付金でごね得という要素が同居しているさまを、これでもかというくらい読まされて、ムッときたけれど、今、思うと、全部ではないにしても、のんびりした時代の「先駆的」な内容だった?
 民族や貧富、あるいは性別などの差別感情などを抑制できないとか、金銭などのルールを守れない地方議員が増えているとか。統計の取り用もないけれど、一昔前の公務員就職にも似た、なったもん勝ち的なところがある? 想田和弘監督のドキュメンタリー「選挙」「選挙2」を見たり、出演している山内和彦さん自身の『自民党で選挙と議員をやりました』(角川SSC新書)を読むと、そんなに簡単ではない気がするけれど、これは神奈川の話なので、地域によってはもう少し楽だったり、逆に強固な地盤があったりするのかな。
 民主主義を、と騒いでも、地べたは今まで以上に緊張感を失くしている? いや、このずぶずぶ、いい加減でも成り立ってきたことに、「民主主義」という言葉でくくれない可能性がある? 投票率、笑えるくらい低いところに逆に。
 うまく言えないけれど、現在、ややその動きが目立つようになった、テーマ主義的なピンポイントの民主主義から、少しだけそらした目で世界を見つめてみたい。

◯伊勢賢治さんの『本当の戦争の話をしよう』了。国連やNGO、日本政府などの仕事として、世界各地で開発援助や武装解除などに深く関わり、現在では世界各地の大学で教鞭もとる伊勢さんが、福島の高校生を相手に行った集中講義を再構成したもの。
 第2次世界大戦後、アジアやアフリカの多くの植民地が、民族、そこにある社会とは違う旧植民地の枠組みに沿って独立した。その矛盾が冷戦期の大国の押さえ込みがゆるんだ今、分裂や戦争、内戦などとなって各地で起きている。
 旧宗主国(おもにEU)の責任じゃねとか、悪いのは現地をかき回した責任については知らないふりをする合州国ではとか、偽善じゃない? とか言っても止められない虐殺や流血を止めにいく、という仕事の紹介(きびしい失敗も)、日本人の自己イメージとはちょっとずれているかもしれない、いいイメージを活かしながら、軍事的に目立たない静かな貢献の道を探るといった提言がリアルでいいですね。
  
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2015年01月21日

参照系

◯ーーフィクションとルポルタージュの分類にわれらがこだわるのは、今日の社会がリアリズム万能だからだろう。なにがなんでも糞リアリズムの社会というのも、江戸っ子たちからみたら、一種異様かもしれない。(小沢信雄さん『悲願千人斬の女』収録、同名の評伝、筑摩書房)
ーー「葦原将軍」は、どうやらもう一個人ではなかった。枯渇した創造力の代わりを、それぞれの書き手が担いだした。時局認識や皮肉や空想をまんまと仮託できる器。何につけ天下御免の狂将軍で、じつは正気かもしれず、治安維持法このかたの言論封殺期に、なんという特権的キャラクターだろう。葦原金次郎の分身が、孫悟空のように世に散らばる。(「日本一の狂人」同書)

◯twitterやFacebookを見て思うのは、ずいぶん「酸欠」の平べったい日本になってきたなあということ。ま、そういう繋がり方しかできてないのかもしれないけど。でも、香港ほどの強さはなくても、民主主義ボーイズ・アンド・ガールズは体も張って頑張ってほしい。中高年のコックピット(ゲーマーズ、命令者)の一番病のRT中毒者、何もしていないことが自分で分からない? 街に出ないで、このネタ、歌にからめて、コラム一本書けるな、とか。前世紀の遺物はもういいよ。
 ユーモア、風刺を復権させて、言葉の裾野をひろげたいなあ。
 ザ・ニュースペーパーがテレビから干されてる現状が変わらないのに、言論の自由とか焦って言わないこと。 [メモ]http://youtu.be/oUDZc1vUvQ4

◯ーーこういうとき(注:学園紛争期)が足穂の出番である。戦後のブームと相似たことだ。軍国主義から民主主義への変り身や、体制と反体制の相互補完や、見渡すかぎり疑わしい世の大人どもから、飛びはなれて鬱然とそりかえっているアウトサイダー。A感覚を梃子にしてP中心の世俗の価値体系をほがらかにひっくりかえす、こんなジイサンがいたのかい。そうなら日本も捨てたものでもないかもしれない。(「超俗の怪物」同書)

◯中沢新一さんの『緑の思想論』(ちくま学芸文庫)とかブローデルさんの『歴史入門』(中公文庫)、柄谷行人さんの『世界共和国へ』(岩波新書)あたりを読むとすると、ベーシックなことを考えたくても、世界史の知識へ自分を接合しないといけないという、回り道をとらざるを得なくなる。その辺、面倒だなあと思えるくらいには自分(たち?)のアジアの地金が 見えてきた。どこに民主主義があるんですか? と言いたくなるくらい、言葉は威勢だけがよくて、中身はふわふわ。
  
Posted by f4511 at 11:01Comments(0)TrackBack(0)