2006年02月26日

最近読んだ本(2月)

『石牟礼道子歳時記』(日本エディタースクール出版部)
Rebecca Brown "The Last Time I Saw You" (City Lights Books)
『石原吉郎詩集(現代詩文庫)』(思潮社)
『ミヒャエル・ゾーヴァの世界』(講談社)
アクセル・ハッケ+ミヒャエル・ゾーヴァ『ちいさなちいさな王様』(講談社)
『松下育男詩集』(思潮社)
エヴァ・ヘラー+ミヒャエル・ゾーヴァ『思いがけない贈り物』(講談社)
Roddy Doyle "The Commitments" (Vintage)
I・ディーシェ+H・M・エンツェンスベルガー+M・ゾーヴァ『エスターハージー王子の冒険』(評論社)
阪田寛夫『まどさんのうた』(童話屋)

奥付を見ると、石牟礼さんの散文集は78年、松下さんの初期選詩集は79年、石原さんの選詩集は69年、全体に再読モードになっているけれど、今まで知らなかったものも探している。ゾーヴァさんは、映画「アメリ」のアートでも知られるようになった、ドイツの画家。「見つけたぞ」と思ってうれしがっていたら、娘に「ああ、この人ね」と言われてしまった。少女世界(?)ではビッグネームなんだ。アイルランドの作家ロディ・ドイルさんの作品も初めて(初版87年)。「やっぱり探し続けるしかないな」と思いつつ、去年の夏、3回くらい読んで、感想のまとまらなかった福間健二さんの詩集『侵入し、通過してゆく』(思潮社)もまた読み出している。  

Posted by f4511 at 18:03Comments(0)TrackBack(0)

2006年02月11日

詩のこと

最近、詩集を何度も読むということが続いた。須永紀子さんの『中空前夜』(書肆山田)、松下育男さんの『きみがわらっている』(ミッドナイト・プレス)、松下さんと佐々木安美さん、阿部恭久さんによる詩誌「生き事 創刊号」(生き事書店)、現代詩文庫版の『石原吉郎詩集』の正・続(思潮社)、清水哲男さんの『黄燐と投げ縄』(書肆山田)など。
 いずれも、今回久しぶりに読んでいる石原さんの詩集を含め、一読では「読んだ」という気になれず、自分の中で一応は読んだと思えるまで、再読、あるいは三回、四回と読んだ。それで感じたのは、詩を受け止める心身の部分があって、その部分が長いこと衰弱、あるいは曇ったままだったということ。自分の思考と身体がにごっているときは詩を書くことも読むこともできないということ。自分を世界や言語に対してある緊張した澄んだ状態におかないかぎり、詩とは付き合えない。日々をやりくりするための、自分を守るための言葉を費やすことに流されていたのかもしれないな。
 そう言えば、もう4年くらい詩を書いていない。  
Posted by f4511 at 22:21Comments(1)TrackBack(0)

2006年02月09日

清水哲男『黄燐と投げ縄』感想(ちょっと長い)

−−今回は清水哲男さんの新詩集『黄燐と投げ縄』ですね。
−−第一詩集『喝采』を出されてから40年以上、詩集も十数冊め、ずっと高い評価を受けながらも、権威になって居座ったり自己模倣に陥ったりすることなく書き続けているのはすごいなあと思って。
−−もう清水さん、70近いですよね。
−−その老いとか個人の歴史は、この詩集の一部の要素になってますね。

「沈んでゆくものはいっそう沈んでゆく/「俺たちの生き方は間違ってなかった」/かつて年賀状にそう書いてよこした友だちが/歩道橋の上から盛んに合図を送ってくる/はじめの道に戻れと言うのだ」

と亡くなった友人を登場させる詩「落日」や

「どうして今まで気がつかなかったのか/ボール紙が針金で巻き付けられていて/古びてすっかり灰色と化した小さな文字で/こう書いてあるのが確かにちらと見えたのだった//「決起せよ」。」

とかつて闘士だったことをうかがわせるエンディングの詩「街頭小景」など、今まで清水さんの詩を読んできた人間にはなじみのあるものですね。
 ただ、闘争や死を語ることで感情表現するという部分は若い頃の詩の方が強かったと思うんです。今は、そうしたことを語るにしても、一歩引いているというか。それはマスコミの仕事も多いと同時に、周りの人々に対し「兄」的なポジションに立つことの多い清水さんの配慮であるのかもしれないし、実際に年を取られて「老い」に対する気持ちのこもり方が逆に希薄になっているということかもしれません。
 この詩集ではむしろ、老いてなお、というか、コンピュータと深く付き合ったりすることを通して、現代の不可解さと向き合っている、その新たな展開がなされていることを注意して読むべきなんだろうと思います。サブタイトルに「かつてわれらに『われらの力19』(岡田隆彦)なる力ありき」とある詩「報告」(なぜか清水さんは、『東京』所収の「夏・2」、『緑の小函』所収の「はらから」のように、岡田さんの思い出がからむと傑作を書いてしまうようです)は

「明るくてとても寒くて/見えるのはおのれの視界をちらちらと遮る/散乱した囀りの翳のようなものだ」
「漂ってくる匂いには/何一つ懐かしいところがない/賞味期限の切れたコンビニ弁当の匂いよりも/それらは段違いに突っ慳貪であり/しかも執拗に粘る納豆の糸のように/俺の隣りの名も知らぬ人の手を借りてまで/まとわりつこうとするではないか/(中略)/などとふらふらとなかなか結論が/出ないままに出口を探している俺とは/俺らしくもない俺であるようで/ならば集中しているこの俺とは誰なのか」
「あんたもなあ どこにいるのかがわからない/それだからなにがしかの手応えを求めて/見ず知らずの俺の手まで借りようとしている/のさ」

と、リアルな手ごたえがあるのかないのかが不確かなネット情報社会をさまよった後、

「囀りはちらかり放題になり翳は濃くなり/匂いはもう全身に甘美なほどにまとわりつき/狂気の感触はぶるぶると震えだしかけている/俺の隣りのベッドにいた名も知らぬ人は/どうやら歴史上の人物だったらしい/馬鹿なやつだな」

と、この現代の不可解さに、批評や説明・解釈ではない、詩の言葉で辿りつきます。そして

「こうやって/だんだん死にかけているおのれの内側を/首吊りとは逆向きの力を振り絞って/電飾のなかにずり上がってでも覗こうとする/意欲が滲み出てきたことのほうに/嬉しかないけど涙ぐめるよ」

という、時代と付き合う意思表明を引き出します。難しい言葉や文体を使わずにこの時代に身を乗り出して向き合っていて、これは新しい展開だなあ、と思いました。そうした詩の力は

「ここでは/気温と体温とが/あらがうことなく融合する/こことはいったい何処なのか/糞っ べらまっちゃ/そんなことがわかるくらいなら……。」(「べらまっちゃ」)
「ひとりでに千切れている物はいいなあ、/可視的な女の内臓と不可視的な男の内臓、/少子化と高齢化、/沖を走るヨットと浜辺をうたった別々の人、/有季定型句の意識と無意識なんかもね。」(「携帯」)

のように、説明しろと言われると困るんだけれど、その言葉によって読む人間も何かにふれていると感じさせられる詩句に発揮されています。
−−なるほどー。あ、何か、今回は対談になりませんでしたね。
−−私もここまで読み取るのに4、5回読みましたから。あなたもお求めになって読んでみてください。この読み捨て本の時代に、2、3ヶ月は十分楽しめると思いますよ。  
Posted by f4511 at 18:35Comments(0)TrackBack(0)