2009年04月21日

最近読んだ本の感想から

メモ代わりにアマゾンに書いた本の感想から、若干手直しして−−

ノーマ・フィールド『小林多喜二―21世紀にどう読むか』岩波新書

 傑作ルポルタージュ『天皇の逝く国で』(みすず書房)以来の著者のファンとしては、期待の1冊でした。数年前に著者が小林多喜二を研究していると知った折に小林作品も何冊か読んでいました。
 この本は基本的に評伝と作品分析からなります。ここでも取り上げられる「党生活者」を読んだ際に感じた、当時の活動家の女性観の限界が、ここでは他の作品の分析と併せて解読されていますが、やはり多喜二個人の限界ではないとしても時代の違いからくる違和感はぬぐいされません。
 この本の中心は、文学は文学として社会から自立するものという現在の考えは歴史的なものにすぎず、多喜二は作家であること、活動家であること、を同時に生きようとしていた、そのことを見直すことで得られる、現在の表現や生き方の見直しということだと思います。
 そこまでは分かるとして、小林多喜二にこだわることから、現在を撃つ言葉や行為が生まれてくるのかどうかについては、疑問が残ります。弾圧と戦う労働者の時代と、それぞれの中流幻想を求めながら成績に追われて一人一人切り離されて追い詰められていく、果ては過労死したり、解雇されたりしていく時代の差を感じます。現在を撃つ言葉はどこから出てくるのか、その問いに対する答えは多喜二さんの線から出て来るのかこないのか、疑問が残りました。 よくまとまっていて勉強にはなる本なんですが。


草森紳一『「穴」を探る 老荘思想から世界を覗く』河出書房新社

 亡くなって一年。連載の多い草森さんのこと、これからも新刊が出続けると思うと、さびしさがやわらぎます。熱狂的な読者ではありませんが、今まで読んだ他の著書に比べても、草森節がうなっている感があります。「穴」とは時には性器であり、目や口であり、皮膚の穴であり、地形であり、フセインの掘った穴であり、、、と変幻自在。読み進むうちに、荘子のように、穴に「落ちる」ことからも「落ちる」心境に束の間ひたれます。
 文章も切れがよく、書き写したい段落にぶつかることもしばしば、たとえば――

童心と洞窟のコンビは、スティーヴンスンの『宝島』や、マーク・トゥエーンの『トム・ソーヤの冒険』以来のものだが、子供が洞窟を好きなのは、自分そのものだからである。童心は、「穴」そのものなのだ。鏡に映った自分をつかまえようと、ふらふらと近づいていくようなものだ。大人になっても、童心は残るが、たいていは鏡にぶつかって頭にコブができるのを避ける。(「穴三題」より)


エリザベス・ムーン『くらやみの速さはどれくらい』ハヤカワ文庫(読んだのは原書)

 主人公ルウは自閉症ながら、独特のパターン認識能力で、製薬会社の研究員を勤め、アフターファイヴに楽しむフェンシングの腕もなかなか。フェンシングの腕が冴えすぎて、健常者の青年の恨みを買ってさんざんな目にあうが、自閉症の彼は怒りや友情をうまく感じ取ることができない。恋もしているが、淡い感情のまま。会社はそんな彼や彼のやはり自閉症の同僚たちに、大人になってしまった自閉症者を治す新治療(脳手術)を提案するのだが、、、、、。
 ネタばれになるのでこれ以上は書けませんが、自閉症のルウがとても魅力的に描かれていて、あるがままの彼を好きになってしまいます。これを病気というのだったら、情緒不安定の健常者とは何かと、さりげなく問いかける物語は、読みやすくて楽しめます。幕切れはわりとあっけない感じでした。


コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』早川書房 (読んだのは原書)

 滅びかけた世界を旅する父と息子という設定から、たとえばポール・オースターさんの『最後の物たちの国で』のような寓意的な近未来小説かと思ったのですが、寓意とか現代世界に対する暗喩的な批評というものは感じられませんでした。
 原書で読みましたが、使用する単語がちょっと凝っていたり、視点がぱっと変わったりして、見た目ほど読みやすい作品ではありません。
 読後の印象を整理すると、この本で作者が描きたかったのは暴力だったということ。その暴力は実際の暴力でもあり、社会が個人にぶつける、個人がお互いの存在にぶつけあう暴力でもあります。そういう意味では「今」を生きるひりひりした感じを出そうとしたのかな、というのがひとつ。
 もうひとつは「父」の行動の描写が細かいことでも感じるのですが、ヘミングウェイさんのような男性性へのこだわりです。父親が自分自身、わずらっていても、男は愛する者を守るために行動する、生きるために行動ひとつひとつの細部にこだわるといったところ。
 近未来の世界うんぬんというのは、そうした人間の、男のひりひりした部分を出すための設定だったかとも思います。 全体には、まあまあと思いました。


広瀬隆『資本主義崩壊の首謀者たち』集英社新書

 「未曾有」の不況のなか、日本でまでオバマ本がベストセラーになるほど、期待を持たれたオバマ政権がスタートしたが、本書はその期待と幻想をあっさり突き崩す。オバマ自身は政府支援を受けながら巨額の報酬を取り続ける金融トップの腐敗を批判しているが、オバマのスタッフがその金融のボス陣とみんなグルなんだから、彼自身は理想を説いたとしても期待は持てない。オバマは差別問題も取り上げようとしているが、これまた彼のスタッフの反対でイスラエル批判さえできない。それもこれも元々オバマを当選させたのは、草の根の金というよりは、草の根の金を集める作戦を立てて遂行した、金融マフィアの一員だったのだから。クリントン、ゴアくらいまでは民主党なら国内福祉くらいはやるだろうと期待が持てたが、金融マフィアが米国民の米国民のための金にまで遠慮なく手をつける時代となっては、民主党にあるのは最早イメージのよさだけかもしれない。そんな怖さを日本人もイメージでしか語れないジャーナリズムに踊らされずに見つめようと警告する良書。  

Posted by f4511 at 21:26Comments(0)TrackBack(0)

2009年04月19日

すみれ通信 4/19

 お元気でしょうか。
 こちらは年明けから、何か体にいいことを、と言うか、気持ちを切り替えられることをしたくて、区のスポーツセンターのヨガ教室に通っていましたが、四月からのコースには抽選ではずれてしまい、思い立って「歩く」ということを始めています。会社のある九段下から、そのまま地下鉄に乗るのではなく、途中の大手町や三越前(日本橋)まで歩いて帰るとか、休日には家(清澄白河)の周辺を、隅田川(清洲橋や永代橋周辺)、錦糸町、東陽町、門前仲町、木場といったあたりをぐるりと回るとか。図書館で借りてきたウォーキングの本を見ると「一日9000歩を続けよう」などと書いてありますが、これはメタボ系の人向けのカロリー消費の目安で、やせ気味の私には当てはまらず、自分としてはただやみくもに歩いているというところです。
 会社の帰り道では、皇居の周辺を走っているランナーが多いことにびっくりしたり(走ることが好きなのか、ストレス解消なのか?)、家の周りでは川や公園はまあまあだけれど、ちょっと一休みできる喫茶店とか意外なほどないなあ(まあ、中央線沿線でも神保町でもないわけだし)などとあらためて思ったりしています。
 歩いているうちに、そして体を疲れさせても明け方に眼が覚めてしまうということを繰り返しているうちに、自分をめぐる問題も整理できてきました。医者によれば、「うつ病という病気とも、うつ気味というレベルとも、どちらとも断定しがたい」という心身の状況がもう3年も続いています。こういうことは3回目で、最初と2回目は一ヶ月くらいの投薬で乗り越えられましたが、今回は、もうクリアできたかなと思うたびに、突然焦燥感や無気力にとらわれるということがぶり返し、自分でも困っているのですが、乗り越えられない原因の大きなひとつが、ある大き目の仕事をめぐる人間関係、信頼関係にあるのだということがはっきりしてきました。その問題をもう何ヶ月もクリアできない、そこから先はこれからの問題なのですが。

 話は変わって、新刊の鶴見俊輔さんと上坂冬子さんの『対論・異色昭和史』(PHP新書)を読みました。上坂さんの、(インテリの人々はこういうことを言うと怒るに違いないけれど)「私はいまでも戦争時代を思い出すと、何かしら一種の爽やかな感情を拭い切れないんですよ」、補足すれば日本人が前を向いて一生懸命に生きていたという意味の発言から始まる対談でした。この本を読みながら長年気になっていたことを思い出しました。私の少年時代の1965年くらいまで、日本人は戦争をイメージとして忌避していなかった。子どもたちの世界で言えば、プラモデルはゼロ戦、軍艦、Uボートだったし、漫画も太平洋戦争の戦闘機のパイロットものなど、何の抵抗もなく受け入れていたし、子どもも大人も戦争映画を楽しんでいた(?)、特撮も怪獣ものだけでなく戦争ものがけっこうあった記憶があります。そうした消費イメージとしての戦争がいつからどうして忌避されるようになったのか、自分の記憶にないんですね。60年安保を経験したあとも生き続けた消費イメージとしての戦争、あれは何だったのか、そんなことをぼんやりと思うのです。

PS この本を読み終えた直後に、上坂さんが亡くなったという記事が出ました。よく存じ上げない方ではありますが、ご冥福を。  
Posted by f4511 at 10:17Comments(1)TrackBack(0)

2009年04月05日

すみれ通信 4/5

 4月になりました。薫は通学に1時間半かかる大学に入学、翌日からいきなりTOEFL(英語圏への留学基準になる英語テスト)を受けさせられるなど、早くも「特訓」(?)モードです(英語での授業もけっこうあるとか)。真木は中3になりますが、プロ野球や音楽のチャートなど、趣味で気分転換しつつ、高校受験の準備を始めています(ひいきのヤクルトは1勝1敗のまずまずのスタートですが、ピッチャーがいなさすぎ?)。
 私の方は、今年前半の仕事の2つのヤマのうち1つがほぼ片付き、陽気のせいもあってか、この週末は本を読む気もわかず、ちょっとぼうっとしたような気分です。誰かと会って話したいのですが、都合が合わなかったりで、暇つぶしにネットのワールドワイドのペンパル・サイトなどを覗いてみたら、若い人ばかりで、自分があぶないオヤジにしか思えず(苦笑)、結局、あてのない散歩に出たりするわけです。

 「あてのない」と書きましたが、最近は自分というものそのものが「あてのない」もののように感じられます。どっちを向いているのか分からないとでもいったような気分が続いています。つい2、3年前くらいまでは、たとえば本を読む、英語を学ぶ、英語を学ぶ人々のための本を作る、といったことで世界とどこかでつながっているという感触があったのですが、そうした手触りが感じられなくなってしまったとでもいうのでしょうか。すべてが経済に飲み込まれていってしまった、と言うと簡単にまとめすぎだと怒られそうですが、手触りの感じられないことを、今までの経験、勘によってこなしてはいるものの、何かが変わってしまったという感じは否定できません。本を作ることについては、まだ読者を想定しつつやっていますが(それでも以前のような成果はなかなか上がらず、自分はもう終わりかなという不安からなかなか逃れられません)、自分で書くということに関しては、もうほとんど書くことによって自分が語りかける人々、世界というものの実感がなく、この「へなちょこ」な散文でさえここまで書き進めるのに、半日以上かかっている始末です。

 うーん、難しいなあ。
 たとえば、今は昨年亡くなった草森紳一さんの『夢の展翅』(青土社)や、『続・清水哲男詩集』『続・鈴木志郎康詩集』(ともに思潮社)などを交互に読んでいるのですが、草森さんの自分の夢の記録と草森さんが長年こだわってきた唐の詩人李賀の作品の解読を交錯させた未完の連載を楽しみ、清水哲男さんや鈴木志郎康さんの70年代にリアルタイムで読んでいた詩を「えっ、こんな分かりやすそうで分かりにくい作品を、ひょっとしたら時代の気分だけで読んでいたのかな」と驚きながら再読しつつ、そうした自分の読書がどこにも誰にもつながっていないという感じにつきまとわれています。
 うちの彼女はと言えば、名建築のウンチク本などを読んで散歩を楽しんだり、コーラスやヨガや習字といった活動で自分のペースを立て直しています。
 メッセージ云々と言葉にかまけすぎた自分が崩れ去っていくのかなあ、そんな怖さを感じつつ日々を送っているこの頃です。  
Posted by f4511 at 15:47Comments(3)TrackBack(0)