メモ代わりにアマゾンに書いた本の感想から、若干手直しして−−
ドン・デリーロ『墜ちてゆく男』新潮社(読んだのは原書)
現代アートにせよ、マネーゲームにせよ、何をモチーフにしてもつねに自分流の表現に仕立ててしまうドン・デリーロさん固有の世界は、9.11を題材にしてもやはり揺るがなかった。9.11で被災したビルから、長く離れていた妻のもとに帰って来た男を振り出しに、「墜ちてゆく男」をパフォーマンスとして演じつづける男、老人のぼけ防止のお話サークル、廃棄された古いパスポート写真をオブジェのように飾るアート・ディーラーは実はテロリスト集団「赤い旅団」のメンバーだったのではないか、そしてテロリスト側からも見た9.11のあの衝突、といったモチーフが散りばめられるけれど、最終的に9.11をカタストロフとして扱う作者の手際は、9.11以前と比べて少しのブレもないように思える(9.11でなくてもよかった?)。
ドン・デリーロさんの、あまりにゲイジュツ的な世界は、それを受け止める確固とした文学サロンがあってのものでしょうが、もう少しモチーフの事件としての重さと葛藤してほしかった。
荒川洋治『実視連星』思潮社
「それは静かな夜/実視連星は/いつもの位置で軌道を止めていた/隣りの星に両手を伸ばして/叫ぶこともできた/ガザに生まれることも/できる/もしかしたら そのようになり/光りつづけるかもしれない」(表題作より)
最近の荒川さんの詩集は、いつも読みながら「困ったな、全然わからないよ」と思わせられる。それでも何回か繰り返して読んでいると、本当は言葉で何かが伝わるということが、常識でも何でもなくて不思議なことなんだと思わせられてくる。ふつうの詩が比喩を駆使しているとすれば、荒川さんの詩は、その比喩にさらに比喩をかけるといった具合で、作者がどこで個々の詩を「できた」と思うのか、その手がかりは見えてこない。しかし、繰り返して読んでいくと、なぜか言葉をめぐる常識にしばられた目が洗われるような気もしてくるのです。
「編み笠の二人は すれちがう/長い道のりに雨は吹く/誰もが会わないきみに会いたい/いつも苦しい目玉に屋根をかけた ゆるしてくれ!」(「編み笠」より)
池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』朝日出版社
高校生を聞き手にした講義ということで、自然科学にまったく通じていない私も楽しく読めました(たぶん、著者はおそろしく話がうまいんじゃないかな、とも思いました)。まず、データというものについて相関関係は因果関係ではないといった釘をさす話から始まり、脳と意志と行動の関係について、たとえば「手を上げる」と意図したときには、脳はすでに準備を始めていて、脳から「動かす」という指令が出た時には、人はすでに「動いた」と感じているなどという、考えようによっては恐ろしい話が次々に紹介されていく。だとすれば人間の意志は脳に支配された自由のないものなのだろうか。そのあたりぎりぎりまで話しておいて、まあ、脳も自分ですからって、慰められたような、いたわられたような。
また、脳の、未来を予測しようとする性格は、このまま実験、知見を積み重ねていけば、時間とは何かという哲学の難問をあっさり超えてしまう可能性も感じさせられます。恐るべし。読者としてどこまで理解できたか心もとないけれど、何度も読め、読むたびにこちらの世界を広げてくれそうな可能性を感じます。
村上春樹『1Q84』新潮社
それぞれの苦い生い立ちを抱えながら、小学生の時に強く手を握った青豆と天吾。青豆は天吾との20年たっても変わらない愛情を確信するまで、天吾は父との葛藤を乗り越えて青豆を探そうと決意するまで、というのが物語の主筋ですね。離れ離れの2人の愛情がクロスするあたりは胸を締め付けられる思いで読みました。
そして2人の弱い人間を取り囲む世界、新興宗教の「リーダー」、傷ついた女性たちを匿う「老婦人」、正体不明の誘惑者「牛河」、そしてもちろん少女「ふかえり」と彼女の描く「空気さなぎ」の世界、、、小説は遠く深いところまで触手を伸ばしながら、弱い人間にとっての愛情の大切さをより強く打ち出しているようです。
さまざまな謎を謎のまま投げ出しながら、この作品は終わったのか、それとも続くのか。「リトル・ピープル」との最終決戦のようなものはあるのか。最終決戦はないかもしれません。戦いはあるとしても、決着のつくものではないでしょう。リトル・ピープルと人間たちとの関係は、ある均衡を保ちながらけっして終焉することはないと思えます。そしてそれを知っている数少ない人々は「1984」ならぬ「1Q84」の、二つの月が見える世界(想像力の世界と言ってもいいかもしれない)に入り込んで、その均衡を守るために孤独な戦いを続ける。孤独なだけにより純粋な愛情に支えられながら。
酔わせられ、勇気をも与えてくれる作品。ぶっちゃけ、やっぱり謎を残しすぎでは、という気もしますが、拾い読みで読み直すと、こう書くしかなかったのかとも思えます。
伊坂幸太郎『重力ピエロ』新潮文庫
上手いものだなあ、と思いながら読ませられ、読み終わった後の「ん?」という感じが自分でなかなか説明できませんでしたが、「文学」とか「小説」だとかと考えて、作者のメッセージを受け取ろうとして受け取れないというのが、感想がうまく出てこない理由だったようです。
レイプによって生まれた子供とその兄、血のつながりのない父、という構成、謎解きにつながる遺伝子の話、ちりばめられた引用(作者は文学作品の引用を多くすることで、若い読者に文学の遺伝子を与えようとしたわけではないと思いますが)、しゃれた会話、構えすぎていないけどちょっとくせのある「私」(兄)の語り、など、パーツはしっかりできていて、並べ方もうまい。でも全体として感情のようなものが伝わってこない。それは作者が「作家」というより、作品をプロデュースするようなスタンス、つまり「企画」書を完成させるようなスタンスで書いているからではないでしょうか。だからこの作品はきっと、映像化などで、俳優たちの具体的な身体を通してこそ生きてくる、そんな気がしました。