2009年07月20日

『われら』を読んだ

 ソ連のザミャーチンさんの、1920年代に書かれ、ペレストロイカまで本国では発禁だったという小説『われら』を読んだ(集英社「世界の文学」版)。

 生産および労務管理法のひとつであるテーラー・システムが運用されはじめてから1000年後というから、舞台設定はおよそ30世紀。最終革命を経て、世界は「われら」による「単一国」となり、年一回の「満場一致の日」に単一者である「慈愛の人」を選挙で「選出」する。すべてが科学的に管理され、野蛮なものはすべて「緑の壁」の向こうに放逐されたはずの社会だが、依然として会話は盗聴され、手紙は検閲されている。セックスは希望の相手と日時を申告して、クーポンをもらう許可制だ。
 物語は「私」の手記のかたちをとっていて、「私」は国家プロジェクトの「積分号」(巨大ロケットのようなもの)の建造技師だ。「単一国科学」の無謬を信じている「私」だが、ある女性との出会いを通して、精神がぐらついてくる。医師によれば「私」には「魂がかたちづくられ」てしまったのだ。
 その女性はしかも「幸福の敵」と言われることもある、「われら」ならぬ「彼ら」の一員で、革命は終わっていない、革命は無限だと「私」に言う。「彼ら」の狙いは「私」を利用して「積分号」を乗っ取ることらしい。国家は不穏な動きを察知し、想像力を除去する手術を奨励し始める。やがて「積分号」の発進の時が来た……。

 こう書いてしまうと、そりゃ発禁にもなるだろうと思える反ソヴィエト国家の物語にすぎないようだが、支配をめぐる快不快のゆれ、「私」と女性たちの恋愛感情のゆれなどがきめ細かく書かれているし、30世紀の人間(アルファベットと数字の組み合わせが名前代わり)や建築の造形の描写はロシア・アバンギャルドの美術を連想させる(ソ連で公式に発表されたなら、挿絵などでよりイメージを膨らませられたのではないか)。内容、手法ともに「分厚い」小説を読んだと感じる。

 『1984年』『すばらしい新世界』そして『われら』というディストピア(反ユートピア)小説を読んできて、支配に抗する想像力の歴史をひとかじりした気持ちになる一方、そうした想像力のあり方が「本が好きな人」とでもいったテリトリーに閉じ込められて、世間と隔絶した、卑小なものにされてしまっている気がしてならない。たとえば国内外で貧困問題と戦う活動家は増えていると思えるが、彼らの想像力は「本」や「文学」を必要としていない。言わば「文学的想像力」を介していない。これらの本を読むきっかけになった『1Q84』は傑作だけれども、こうした「切断」から発せられた美しい悲鳴のようにも思えるのですが、どうでしょうか。  

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2009年07月19日

すみれ通信 7/19

 連日の暑さに金曜の昼くらいから具合が悪くなり、連休ではありますが、薬を呑んでおとなしくしています。みなさんはいかがお過ごしでしょうか。

 こちらは相変わらず気分がよくなったり重くなったりの繰り返しですが、去年や一昨年よりはかなりましになったのではと思います。海外の老若男女とのメールのやり取りが気分転換になっているということは書きましたよね。雑談になりますが、最近「あれっ」と思ったことを書いておきます。
 ひとつは、なぜか3人のロシアの若い女性から写真つきのメールが立て続けにきて、返事を出すと、「これで2人は恋人ね」とか「友情が深まったわね」とかまた写真つきで返事が来る。こちらは「仕事は何をしているのですか」とか「本とか好きですか」とか、一応人となりを知るための質問を書いて返事するのですが、先方はこちらの英語が読めたのか読めてないのか、「超」ブロークンな英語(人称とか文型とかぐちゃぐちゃ)でエスカレートするばかり。ちょっと疲れて返事を出すのをやめてしまいましたが、どうやらロシアの中規模都市にネットカフェができ始めていて、それでこうした初期の盛り上がりがあるようです。
 で、それが一段落したら、今度は中国の若い女性から、セクシーな写真(文化の違いもあるのかもしれません)付きのメールが来て、これが中国語なんです。で、自己紹介はこのURLで見てとか書いてあるので見に行くと、中国発のお見合いサイトがあって、中国女性が多数登録している、そのプロフィールを見ていくと、登録の目的の項目が「ペンパル」「友達」「結婚相手」くらいまでは普通なのですが、「エロチックな文通」「バーチャルなセックス」「セックス」などという項目まであって、ペンパル・サイト、お見合いサイトと出会い系が一緒くたになって盛り上がっているような感じでした(と言うか、会員もよく分からないまま登録している?)。そのサイトは無料なのですが、メールをお相手の言語に自動翻訳して送るのは有料ということのようです。このほかに接触した中国女性もいざメールのやり取りが始まると、じつは英語できません、という人が何人かいました。中国人はネット上でも中国語で通せるという感じでしょうか(ま、ワールドワイドに中国人同士でコミュニケートするとしても、人口が多いのでいくらでも可能性があるわけですが)。
 ロシアと中国が個人レベルでネットに本気で参入してきたら、何か変化が起きてくるかも知れませんね(念のため書いておきますと、英語で普通にやり取りできるロシアや中国のペンフレンドももちろんいます)。

 今は、『1Q84』『1984年』『すばらしい新世界』に続いて、20世紀前半のソ連のザミャーチンさんの、ペレストロイカまで本国では発禁だった小説『われら』を読んでいます。岩波文庫版で読んでいたのですが、ロシア・アバンギャルドの美術を連想させる、抽象的な未来(およそ30世紀という舞台設定)の人間や建築の造形、描写が読み取りにくく、たまたま次に読もうと思ってネット古書で買った、集英社の「世界の文学」の一巻に、小笠原豊樹さんの訳がカップリングで入っていて、そちらの方が読みやすいので切り替えて読み続けています。プロの翻訳者ってやっぱりすごいなと思わされたのは、ブラッドベリさんの詩的で難解な『華氏451度』を訳された宇野利泰さん以来です。

 それではまた。  
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2009年07月13日

『すばらしい新世界』を読んだ

 『1Q84』を読んだ流れで、ジョージ・オーウェルさんの『1984年』を再読。その流れで今度は、オルダス・ハックスリーさんの『すばらしい新世界』を再読した(講談社文庫版)。

 時は26世紀。人間は人工授精と孵化によって母胎を経ずに、あらかじめ決められた階級別に「製造」される。人々は生まれたときから睡眠時教育や条件反射教育を受け、とくに支配階級は「ソーマ」という薬物によって、不安を感じたときなどにもそれをコントロールし、世界を楽園と感じることができる。セックスは出産と切り離されて、一種の娯楽としてフリーセックスが奨励される。そんな世界に外部である蛮人保存地区で生まれ育てられた青年ジョンがやって来る。

 1932年発表という古さを感じさせないのは、作者の学識のなせるわざか。ジャーナリスティックなオーウェルさんの作品に比べると、学者一族に生まれたハックスリーさんの教養が作品ににじみ出る。生物学、薬学、地理や各地の文化についての知識も動員されていると思えるし、青年ジョンはシェイクスピアの作品集で英語を学んだという設定で、彼の感情表現はシェイクスピアの戯曲からのセリフの引用でなされるといった具合。

 感情を完全にコントロールされ、文学も宗教も無用とされている世界に嫌悪を感じて、ジョンは一人、自然の中で暮らそうとするが……。

 この本で描かれている、いまだ実現されていない高度文明管理社会とは幸福なのかどうか。人間の幸福とは何なのか、幸福な世界をめざそうとするなら何が必要なのか。ひとつの指標のように生き続けている作品ですね。

 

  
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2009年07月03日

『1984年』を読んだ

村上春樹さんの『1Q84』を読んだ流れで、ジョージ・オーウェルさんの『1984年』を30年ぶりくらいに読み返した。1949年に発表された、完成した全体主義社会とその中で生きる個人の葛藤と敗北を描いた小説。人々はテレスクリーンによって洗脳され、扇動され、監視される。ニュースや歴史はつねに党によって書き換えられ、それに対して疑問を持つことさえ犯罪とみなされる。その世界で生きる人々に要求されるのは「ダブルシンク」と呼ばれる思考法だ。その部分について仮訳してみました(今回読んだのは70年代に出されたハヤカワ文庫版だが、近々新訳が早川書房から出るとのこと。原文はネット上で無料で読める。http://www.liferesearchuniversal.com/orwell.html#1984ほか)

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「ダブルシンク(二重思考)」とは、相反する信条を同時に心の中に抱え、そして両方をともに受け入れられる力のことである。党の知識層は自分の記憶がどの方向に書き換えられなければならないかを知っている。だから自分が現実をごまかしていることを彼は知っているわけだ。が、同時に、「ダブルシンク」を行使することで、彼は現実は侵されていないと自分を納得させる。その過程は意識的でなければならない。でなければ充分な正確さをもって実行することができないだろう。が、同時に、無意識的でなければならない。でなければその過程は虚偽、さらには罪の感覚をともなうだろう。「ダブルシンク」はイングソック(注・Ingsoc--English Socialismからの造語。物語の舞台である架空国家オセアニアを支配する思想)のまさに中心に存在する。つまり、党の本質的な営為は完全な誠実さを伴う目的の堅固さを保ちながら、意識的にごまかしを行うことだからである。意図的に嘘をつきながら、同時にその嘘を心から真実と思い込むこと、不都合になった事実は何であろうと忘れること、そしてまたその事実が必要となったら忘却からその事実を必要な間だけ呼び戻すこと、客観的事実の存在を否定し、同時に否定したその事実を考慮すること--こうしたことすべてが欠かすことのできないものなのである。「ダブルシンク」という用語を使うときでさえ、「ダブルシンク」を行使しなければならない。なぜならこの用語を使うことで、自分が現実をごまかしていることを認めることになるからである。「ダブルシンク」をさらに行使することで、この認識を人は除去する。そのようにしてどこまでも虚偽が真実のいつも一歩先を行くことになる。究極的に「ダブルシンク」という手段で、党は今までもこれからも、おそらく何千年にもわたって、歴史の流れを阻止しつづけることができることになる。

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これって、現代日本で働いて生きる人々にとっては、意識されていない現実? かもしれないとすると、「支配」しているものは何だろう? それぞれの「自己保身」?
  
Posted by f4511 at 21:21Comments(1)TrackBack(0)