2010年06月12日

最近読んだ本の感想から

amazonに書いたレビューを若干修正。文体は不統一です。

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川上未映子『ヘヴン』講談社

川上さんの作品をまとめて読むのは初めて。詩も書く人の小説としてはくせのない散文で読みやすい。斜視の中学生の「僕」が受ける激しいいじめ、「僕」に「仲間です」というメッセージを送ってくる、やはりいじめられっ子の同級生の女子「コジマ」との出会い、「コジマ」が語る「ヘヴン」。と、ある意味こんなに分かりやすくていいのかな、作者は本当にひりひりした心をもってこんな話を書いているのかなと、3分の2くらいまではちょっと眉に唾をつけつつ読んでいたのだけれど、偶然に「僕」が学校外で会ったいじめグループの「百瀬」が語る人間観(いじめには善悪のような意味はない)、いじめは選ばれた者がいつかヘヴンに辿りつくための試練だとする(いじめには意味がある)「コジマ」の辿る最期(?)には胸をえぐられる思いがした。
しかし、この展開は相当に作者の想像力による「作り物」という気もする。「いじめ」の陰湿さとはもっと違う、もっと静かで不気味なものではないかと。お話の上手さ、出来の良さはハイレベルだけれど、人間の怖さはもっと可視化できないところにあるのではという気持ちが残る。


『ポスト・ブックレビューの時代--倉本四郎書評集〈下〉1986‐1997』右文書院

2003年に亡くなった倉本四郎さんが20年余にわたって『週刊ポスト』に書きついだ書評のアンソロジー、今回は下巻。倉本さんのその週刊誌での書評は何度も読んだことがあるが、倉本さんのことをその多彩な著作から美術評論家かなにかと勘違いしていた私は、「できる書評家」くらいの印象で通り過ぎてしまっていた。
上巻に続いて、下巻も面白かった。なんと言っても、書評を単なる紹介と評価という枠に閉じ込めずに、関連する著作も毎回読み込み、著者や専門家にインタビューし、自分がこの本のどこにほれ込んだかも分かりやすく伝えてくれる。取り上げる本や著者と週刊ペースで走り抜けていく、そんな風通しのいい書評がよい(もちろん著者自身を権威づけるなんてセコい感じはいっさい受けない)。
小説、歴史などの専門書、風俗史、写真集など、ジャンルも横断的でその消化力のすごさを思う。これを読むと、いかに今の新聞・雑誌の書評が偏狭なギョーカイ乗りのほめあい、あるいは筆者の格好つけかということがよく分かる。
個人的には島尾伸三さんの『月の家族』、網野善彦さんの『異形の王権』、アラーキー写真集の評が印象に残った。


Patti Smith "Just Kids" Ecco

パティさんの書いたものについては、以前、英文とカップリングになった翻訳詩集(『バベル』)が出ていて、原文はおろか、訳文を読んでも意味がうまくつかめないものだったので、ちょっと怖かったのだが、自伝的文章ということもあって英語でも十分読めるレベルでほっとした(ただし癖のある単語や口語的な言い回しが多いので、分かりやすい日本語に訳すのはけっこう大変かもしれない)。
内容は10代の頃の追憶、はからずも妊娠し子供を里子に出したことから、学業を断念し、ほとんど蓄えもないのにニューヨークへ。そしてまだ自分の道を模索中のメイプルソープさんと奇跡的に出会う。バイトで何とか食いつなぎながら、それぞれの表現を模索する2人。チェルシー・ホテルなどで出会うアーティストたちとの交流。そして2人ともそれぞれの地歩を築いたかに見えたときに、メイプルソープがエイズになって、、、。
70年前後のアーティスト群像としても面白いし、2人の成長物語としても面白い。そしてニューヨークの人々が新しい表現に積極的にリアクションしていく、その息づきが感じられるのがいい。スノッブかもしれないけれど、ニューヨークには「シーン」があるんだな。


加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社

初読のときは、中高生との応答形式にうまくなじめなくて中断していたのだが、時を置いて最初から読み直したら、文体にもなじんで一気に読んでしまった。
明治以降の歴史を、それぞれの立場から書かれた多数の文献、物語、神話・伝説的な言説に惑わされず、政治家や庶民の書簡、日記、諸外国の資料を丹念に読み込み、ていねいに再現する。松岡洋右の評価などは、学校の教科書で書かれているイメージを拭い去った(教科書すらも、まだまだ物語にとらわれている? 教科書の記述だと、松岡がウルトラ右翼みたいな印象を受けるけれど、国家が国際世界でどうふるまわなければならないかの分析と併せると、歴史を背負ってしまった人であることが見えてくる)。戦争や侵略も、単なる反戦・平和主義の立場からは見えない姿で浮かび上がってくる。
読んでいて、気持ちがよくなるほどの知性・知力を感じるのは、鶴見俊輔、村上陽一郎、中村桂子氏ら以来か。こんな知性にめぐり合えて幸せだと思う。  

Posted by f4511 at 09:17Comments(0)TrackBack(0)

2010年06月05日

須永紀子『空の庭、時の径』感想

 長年その作品を読んできた須永さんの新しい詩集(書肆山田刊)だが、3回読んでうまく読み取ることができず、自分の無力感への苛立ちもあって、須永さんも「いかにも現代詩」の高踏な世界へ行ってしまったのかと腹を立てたりして中断していた。
 少し時間を置いて、ふっと「この詩集を読むには『地図』が必要なのかな」と思って、2回読み返したところ。
 「地図」というのは、「あとがき」に「現実を生きながら、わたしたちは内部世界を生きています」「二つの世界を行き来する」とあることからの連想。この「現実」と「内部世界」が「二つ」であるという分離、剥離が、経済で個を押し流そうとする「現実」とこすれ合うときに「内部」が強く実感される私にとってはまず分かりにくかったのだが、その分かりにくさの理由が見えてくると、詩の世界が開けて見えてきた。

−−〈鍛えることです〉/その声は身体の底に落ち/透明な筐にしまわれて/いつか苦しみの縁に立ったとき/取りだされることになるのだろう(中略)誰もいなくなった集会室で/わたしは自動モードに設定され/別の生き物になる/冷蔵庫の中身や肌の手入れについてではなく/鳥の飛び方やことばについて/考える筐になってゆく(「旧市街 I」より)

 先生の〈鍛えることです〉ということばを大切なものとして「内部」にしまい込んだ「わたし」の「現実」は「自動モード」で生きられる日常だという構図。つづく「旧市街 II」では、「わたしたち」の夜は「システムが死に絶えた工場の/地下へと降りたわたしたちは/新しい街を夢見て/穴を掘り、掘り進む/星のない夜だ」という、「あまりにも美しい物語」の「一冊の本」を携えた「内部」の旅として描かれ、対照的に朝は「瓦礫の丘に立ち/じきにやってくるだろう侵入者を待つ/仮想の日常に生きるわたしの上を/今日も透明な厄災が通過する」と描かれる。「内部」は失われながら「細かくちぎられ/再び貼りつけられ」「修復され」(ともに「旧市街 III」より)、「部分〈、〉が/たえまなく降る」「降り続ける灰に/深く匿される/無彩の庭」(「遠い庭」より)でもある。

 「内部」と「現実」の分離をもって語られる、「内部」のあまりの美しさは「夏の旅」で描かれる少女時代の家族の思い出や、何度か登場する「先生」によって特徴づけられるように過去に支えられている。
 「内部」と「現実」の分離は、美しかった過去と、実体として自分を実現できない、個が「半実体」に引き裂かれた現在の分離と重なっているようだ。そして、この「内部」と「現実」が分離しているという苦しい現実の「果てまでたどりついたとき/語ることばをわたしは得るだろう」、そのときまで「語るべき時が来るのを待つことが/歩くことと同時になされる」(「囲繞地にて」より)し、「紙上の湖水地方を旅し/狂ったピアノで/憂国のポロネーズを弾いています」(「伝言」より)という。

 分離に耐えて生きるというところまでは見えてきた。けれどもその分離は、語り手自身「ゲートが開かれ/閉じられたときにはもう/風景にまぎれてしまっている」(「囲繞地にて」より)と語っているように、本来的には地続きの境界の不分明なところに、語り手が自身にとって大切なものを守るために、自ら生み出し、確保しようとしている分離でもある。その果ての「語ることば」とは、やはり、その分離を乗り越えることでしか得られないように思えるけれど、その問いは私にとっても課題として残される。  
Posted by f4511 at 10:48Comments(2)TrackBack(0)