2011年02月13日

最近読んだ本の感想から

J.D.ロブ『この悪夢が消えるまで』(ヴィレッジブックス)

仕事関係の人の熱烈な推薦で読んだ。この作者の作品はもちろん、この作者の正体(?)であるノーラ・ロバーツさんの作品についても何の予備知識もなし。
21世紀半ばのニューヨークの女性警部補イヴ・ダラス、幼児虐待され遺棄された過去を持つ、凄腕の彼女が立ち向かうのは冷酷な連続殺人犯。公認された売春婦をセックスの後で頭、胸、性器を今は過去の遺物になった拳銃で撃ちぬき、そのビデオ記録を彼女に送りつけて挑発する犯人は誰かというストーリーに、孤高の富豪ロークとイヴとのロマンスがからんで物語は……。
ノート代わりのレコーダーや声で操作できるコンピュータ、捜査時に取調官の指紋が付着しないようにするスプレーなど、SF的な仕掛けは面白い。が、ベストセラー作家の手になるイヴ像はやはり古いのではと思える。孤独でハードボイルドだが、心の底では男の熱い抱擁を求めている。そんな彼女の描かれ方は男にとって都合のいい女なのでは? 作者は女性だが、エンターテインメント小説の成功者として、男性よりの考え方、「うける」描き方から抜け出せないのか、女性読者はどう思うのかな(ハーレクイン的な視点でなら正解?)。少なくとも私(男)にはちょっと古いパターンのように思えた。それに、合州国のエンタメ小説としては普通なのかもしれないが、ちょっと長い。


大江健三郎『美しいアナベル・リイ』(新潮文庫)

若い頃、作品で言えば『同時代ゲーム』(1979)くらいまで、それこそ浴びるように耽読した大江さんの小説を読むのは10年ぶりか。
映画の仕事とともに数奇な人生を送ったサクラさんを軸に、作家である「私」、大学時代の同級生の木守、「私」の家族の物語が交差していく。
大学卒業後、再会した木守と「私」、サクラさんで企画し頓挫した映画を、さらに30年後、サクラさんと、癌になって余命の少ない木守が、再び「私」と組んで、「私」の郷里を舞台に「私」の妹や土地の女たちの力を借りて撮ろうという。この小説は、完成しないかもしれない映画の小説的シナリオという性格も持たされている。
実在する人々、フィクションである人々の人生と、作家である「私」を経過した時間を重ね合わせる手法は『人生の親戚』(1989)を思い出させる。ポーの詩の映像化作品に登場した経歴を持つサクラさんが、障害を持った「光」を支えて長年謹厳な生活をしてきた「私」に与えるのは、老いを迎えた作家の心の地面でうごめくエロティシズムか。
大江さんの作品であるという条件付きの感慨を与えられた。外国の人が読むと、文学史を織り込んだ、教養人の作者による織物のような作品に思われるかもしれない(いつも、そう?)。


長岡義幸『マンガはなぜ規制されるのか--「有害」をめぐる半世紀の攻防』(平凡社新書)

有害であるとされたマンガが絶版にされたりする一方で、セックス描写満載の「東京大学物語」が図書館の小学生でも読めるコーナーに置かれているのを、取り沙汰する気のない私でも、コンビニの成年向けコーナーに小口をテープ止めしてある熟女とか人妻なんとかの本が堂々と危ない表紙をさらしているのはいかがなものかと思う。レンタルDVD店でも成人向けコーナーは日陰ものと化して入るのも恥ずかしいくらいな時代に、「大人物」としてコーナーを分ければどんな危ないものも店頭に飾られるという、この倒錯感。
結局、悪書、有害、不健全という締め付けは、戦後のある期間はそれに代わる理想を持っていたかもしれないが、それにしても恣意的なもの、権力的な決めつけであるということ。その締め付けの歴史的な揺れは、日本人にとっての「自由」のあいまいさをさらけ出すようだ。日常的な倫理観を、青少年のために法制化しようという最近の一連の動きは、世間的なけじめが同意の構造として自主的に熟すのを逆に妨げる、治安維持法的な攻撃に結びついている、その怖さ。
誠実な記述ゆえに、教科書的になってしまうのは仕方ない。力作ですね。


小林正弥『サンデルの政治哲学--<正義>とは何か』(平凡社新書)

近年、柄谷行人さんやジジェクさんらの提言を折につけ読んできたけれど、それぞれに興味深いところはありながら、同時に観念的すぎるものを素人ながら感じてきた。それに比べると、著者によって詳説されたサンデルさんの思考は、新書でありながら重厚で、真に迫るものを感じさせられる。
それはひとつには合州国という、「国を作る」「作っていく」「動かしていく」ための、思想戦とでもいった背景があるのだろう。それに対し、歴史の長い日本では、経験的に積み重ねられた世間知、常識とでもいったものが、ひとつの抑制として働いてきたと思われるが、それもうまく機能しなくなっている現在、サンデルさんの思考を参照することはプラスになる。
官僚、公務員、そして特に司法関係者、裁判員の人々に読んでもらいたい。たとえば人を(国家の力を背景に)罰するということはどんなことなのか。とかくジャーナリズムのあおりもあって感情的になりやすい犯罪論議を、正義と公共という視点から見つめ直すには好著と言えるのではないか。


平田俊子『スロープ』(講談社)

富岡多恵子さんが昔、自分の小説を「うらみノベル」と呼んでいたと思うけれど、この作品は「うらみ」すれすれまで行って、「うらみ」を語りそうになると、坂の名前などを使った言葉遊びや、落語調の死んだ人の語りなどを導入してそれを回避する。結論を出さずに多用される疑問文。そのことで浮かび上がる孤独感。
語り手は離婚し、恋人とも別れ、中野に一人暮らす中年女性、引っ越しを重ねてきたという彼女の街々の観察や日常、故郷である壱岐のエピソード、戦争で死んだ「真知男さん」の慰霊に訪れた南洋への旅が交錯するが、ストーリーらしいストーリーはなく、語り手が語らないところに潜む気配が全体を流れているようだ。
おそらくこの作者は、語ることに対して、すごく潔癖なのか、それとも怖がりなのか、その両方なのか。小説としては一般的な作品ではないかもしれないが、それは作者の自由であり、作者と読者の同意が成立すればよいので、どんな規制も必要ない。この先に来る作者の作品が気になる。
PS: 多和田葉子さんの作品との近似性も感じたけれど、多和田さんの作品の、現実世界に対する文学表現からの攻撃性といったものは感じられない。平田さんは平和主義者なのかな。
  

Posted by f4511 at 09:17Comments(0)TrackBack(0)