2012年02月21日

鶴見俊輔『詩と自由』感想メモ

「恋と革命」という副題を持ち、2007年の1月に出たこの本(思潮社刊)は、出てすぐ買って読んだはずだけれど、当時は軽いうつ病にかかって1年弱、まだ薬にたよって日々をなんとか送っている状態だったので、字面を追うのがやっとで、ほとんど読み込めなかった。
 その後、再読したが、1950年代からゼロ年代にかけて折々にかかれた文章、それもいわゆる専門家の詩人の詩についてだけでなく(それも戦前から最近まで、時期が幅広い)、アマチュアをも含めた短歌、小学唱歌までを取り上げた一書に対する感想をうまくまとめられなかった。今回、三読して、少し見晴らしが開けてきたようだ。
 ひとつには歴史や人が生きていることとのかかわりとして、詩が読まれていることだ。たとえば、巻頭に収められた、自殺したある女性についての短い文章で、彼女のことを「たましいが自分からはなれて、考えられているものと一つになっている」と評する。そんな彼女は「黒田三郎の詩集をとくに好んで読んだ」と紹介し、「詩はこういう人に読まれるために存在するのだと思う」と結ぶ。(「詩について」)
 そして、その次に来るのが鮎川信夫さんの『戦中日記』の書評で、鮎川さんが戦地で病を得て帰国し、療養所で書いた日記で書きつけた確信を、「彼はそれまで物質的特権をうけて来たものが日本社会で受ける罰を進んでうけようとする。と同時に、自由主義の理念そのものは、状況を批判する眼としてよりするどくされる」と分析し、その思考の可能性を評価する。
 この本には、鶴見さんとかかわりのあった詩人たちについての評伝的な文章も収められているが(秋山清さん、谷川雁さん、金芝河さん、ゲーリー・スナイダーさんほか)、出色なのは『写真図説 昭和萬葉集』シリーズの月報に寄せた文章「『昭和萬葉集』を読んで」と明治以来の小学唱歌を語った「明治の歌謡」だろう。
 前者では、現代文学の批評に攻撃されやすい短歌の、『萬葉集』以来きれめなくつらなっている文化としてのユニークさ、停滞していると見えても、生きていることとのかかわりを失わない、後ろ向きでない強さを、 プロ・アマチュアを問わず、 具体的な作品に沿って紹介している。
 後者では、いなばのしろうさぎの歌や一寸法師、茶摘みの歌などが、いい意味での安定した(健全な)国家的理想像を持っている一方で、南北朝以降の天皇制の再建をテーマにした、楠木正成を取り上げた歌などの忠臣ものも多く作られ、大正・昭和期の右翼革新運動の支えになったと紹介する。そして、戦後は、日本を本気で変えたいと思う人々の無私の感情・エネルギーがどう生まれ、生かされるか、ひとつの原型・ヒントが小学唱歌にはあると結ぶ。

 怖いのは、こうしたまとめ方をくぐり抜けてくる、気配・気に対する鶴見さんの勘がどの文でも働き続けていること、言葉を外せば、そこには真空のような世界がひろがっていることを見落としそうになること。巻末に収められた詩群から。

−−Kaki no ki wa
  Kaki no ki de aru
  Koto ni yotte
  Basserarete iru no ni

  Naze sono kaki no ki ni
  Kizu o tsuke yo to
  Suru no daro
  (「KAKI NO KI」冒頭 yoのoとdaroのoに長音マーク)

−−私が猿になり 霧になる
  というよりも 霧が私になり
  石が私になって 今いるので
  この私が 変幻
  (「忍術はめずらしくなくなった」部分)  

Posted by f4511 at 16:23Comments(0)TrackBack(0)