2009年04月05日

すみれ通信 4/5

 4月になりました。薫は通学に1時間半かかる大学に入学、翌日からいきなりTOEFL(英語圏への留学基準になる英語テスト)を受けさせられるなど、早くも「特訓」(?)モードです(英語での授業もけっこうあるとか)。真木は中3になりますが、プロ野球や音楽のチャートなど、趣味で気分転換しつつ、高校受験の準備を始めています(ひいきのヤクルトは1勝1敗のまずまずのスタートですが、ピッチャーがいなさすぎ?)。
 私の方は、今年前半の仕事の2つのヤマのうち1つがほぼ片付き、陽気のせいもあってか、この週末は本を読む気もわかず、ちょっとぼうっとしたような気分です。誰かと会って話したいのですが、都合が合わなかったりで、暇つぶしにネットのワールドワイドのペンパル・サイトなどを覗いてみたら、若い人ばかりで、自分があぶないオヤジにしか思えず(苦笑)、結局、あてのない散歩に出たりするわけです。

 「あてのない」と書きましたが、最近は自分というものそのものが「あてのない」もののように感じられます。どっちを向いているのか分からないとでもいったような気分が続いています。つい2、3年前くらいまでは、たとえば本を読む、英語を学ぶ、英語を学ぶ人々のための本を作る、といったことで世界とどこかでつながっているという感触があったのですが、そうした手触りが感じられなくなってしまったとでもいうのでしょうか。すべてが経済に飲み込まれていってしまった、と言うと簡単にまとめすぎだと怒られそうですが、手触りの感じられないことを、今までの経験、勘によってこなしてはいるものの、何かが変わってしまったという感じは否定できません。本を作ることについては、まだ読者を想定しつつやっていますが(それでも以前のような成果はなかなか上がらず、自分はもう終わりかなという不安からなかなか逃れられません)、自分で書くということに関しては、もうほとんど書くことによって自分が語りかける人々、世界というものの実感がなく、この「へなちょこ」な散文でさえここまで書き進めるのに、半日以上かかっている始末です。

 うーん、難しいなあ。
 たとえば、今は昨年亡くなった草森紳一さんの『夢の展翅』(青土社)や、『続・清水哲男詩集』『続・鈴木志郎康詩集』(ともに思潮社)などを交互に読んでいるのですが、草森さんの自分の夢の記録と草森さんが長年こだわってきた唐の詩人李賀の作品の解読を交錯させた未完の連載を楽しみ、清水哲男さんや鈴木志郎康さんの70年代にリアルタイムで読んでいた詩を「えっ、こんな分かりやすそうで分かりにくい作品を、ひょっとしたら時代の気分だけで読んでいたのかな」と驚きながら再読しつつ、そうした自分の読書がどこにも誰にもつながっていないという感じにつきまとわれています。
 うちの彼女はと言えば、名建築のウンチク本などを読んで散歩を楽しんだり、コーラスやヨガや習字といった活動で自分のペースを立て直しています。
 メッセージ云々と言葉にかまけすぎた自分が崩れ去っていくのかなあ、そんな怖さを感じつつ日々を送っているこの頃です。

この記事へのトラックバックURL

http://trackback.blogsys.jp/livedoor/f4511/51790365
この記事へのコメント
ちょっと通じる気分ですね。そこで、いよいよ出すことになった1958年頃から「完全無欠新聞とうふ屋版」までの4冊の詩集の詩を纏めた詩集が誰にどう受け止められるか、どう見当をつければよいのか、掴めないでいます。

今井義行さのmixiの詩を読んでみて下さい。
http://mixi.jp/show_friend.pl?id=20697190
Posted by 志郎康 at 2009年04月05日 18:05
「あてのない」、わたしもそういう状態です。
取り残されたような気分のなかで、もがいています。
しかたなく自分のなかでブームとかバブルというものを
起こして、ひっそり盛り上がっているという感じです。
Posted by 猫草 at 2009年04月06日 10:03
志郎康さん、猫草さん、コメントありがとうございます。
今週前半はバテ気味で返事も遅れてしまいました。
今日は久しぶりに平常心(苦笑)というか、
静かに一日を終えることができそうです。
ネット上ではなく地上でまたお会いしましょう。
Posted by 渡辺洋 at 2009年04月09日 18:57