2013年06月24日

ノート(23)

六月 日

 二〇年くらいぶりで再読したトニ・モリスンさんの『白さと想像力 アメリカ文学の黒人像』(大社淑子さん訳、朝日選書)はハーヴァード大学での連続講演をもとにしたもの。著名な黒人女性作家であると同時に大学教授でもあるモリスンさんだけれど、やはり合州国のインテリの評論文は難しい(読み取りがついていけなくなりがちなのは翻訳のせいではないと思う)。
 それはともかく、政治的には奴隷制廃止や人種差別をなくすための公民権運動などが盛んに行われてきた合州国で、白人の文学では人種差別が巧妙に(無意識に?)取り入れられており、それに対するきちんとした批評が今までになかったというのがモリスンさんの考えだ。ポー(以下敬称略)の小説に現れる白人が立ち向かいくぐり抜けなければならない恐怖としての「闇」、その黒。ハックルベリー・フィンが成長するために必要とした逃亡奴隷ジムとの旅。ハックルベリー・フィン自身は奴隷制度を悪いものだとは思っていないが、彼が合州国で成長して道徳的な人間になる方法はジムなしには存在しないと、モリスンさんは語る。ヘミングウェイが主人公の白人男性の男らしさを引き立てるために登場する、自分の言葉を語る機会をほとんど与えられない黒人たち。ヘミングウェイの小説には、破壊者、掠奪者としての衝動的な(時には性的な)力を秘めながら、通常は白人の寡黙な助け手として描かれる黒人が頻出する。そしてまた、ヘミングウェイの小説にとってはアフリカ大陸そのものも、白人である作者が自己を主張するために必要な「いまだ創造されていない、準備の整った、真空」、つまり、まるで「人」が住んでいないかのような場所だった。
 平等がかなり実現しているかに見える合州国で、短い歴史の間に文学に深く根付いた差別的なイメージ、語り方(ナラティヴ)のことを考えると、現実的な差別そのものが平然と存在し続ける日本での文学的想像力とはと思いを馳せる。



六月 日

 二〇〇九年に亡くなった加藤和彦さんの歌をYouTubeなどで何度も聴いているうち、「悲しくてやりきれない」の作詞者であるサトウハチローさんのことが知りたくなり、『サトウハチロー詩集』(ハルキ文庫)を買って読んだ。「悲しくてやりきれない」は、ザ・フォーク・クルセダーズのシングル「イムジン河」が発売中止になったときに(一九六八年)、加藤さんが「イムジン河」のメロディを逆回転させて聴いてみたりしながらひらめいたものをまとめた曲で、それにプロデューサーがハチローさんに頼んで詞を書いてもらったとのこと。フォークソングとか若者文化がこれからぎんぎんという時代に「悲しくてやりきれない」という古風な詞をもらって、加藤さんは最初は面食らったけれど歌ってみると日本語とメロディが見事にはまっていることに驚いたという。
 詩集そのものはハチローさんが作った歌の流行った時代が、ぼくの成長期よりちょっと前ということもあって、うまく感じ取れないところもあったけれど、ほぼ同時代にやはり童謡の詞をよく書いたまど・みちおさんとの資質の差など、今後のんびり考えてみたいなと思ったりした。
 あっ、と思ったのは、巻末のなかにし礼さんの文章。満州にいたなかにしさんは敗戦の翌年、一年以上の祖国から見棄てられた避難民生活を経て引き揚げ船に乗る。夜な夜な周りも気にせずセックスする大人たちのうめき声を聞いて、死にたいという潔癖な姉となかにしさん(八歳)は飛び込み自殺しようとするが、船員に止められ、彼の部屋のラジオで「リンゴの歌」を聴かされる。以下、長めの引用−−

−−なんという明るい歌だろう。日本の人たちはもうこんなに明るい歌を歌って再出発しているのだろうか。(中略)着の身着のまま、食うや食わず、命からがら逃げつづけた同胞がまだ母国の土を踏んでいないのに、どうしてこんなにも明るい歌が歌えるんだろう。なぜ、もう少し、私たちの帰りを待っていてくれないのだ。/おいてきぼりを食らったような、仲間はずれにされたような、存在を無視されたような悲しい思いが込み上げてきて、私は、『リンゴの歌』を歌いながら泣いた。/(中略)私たちよりはるかに遅れて、中国残留孤児たちが、日本の親族と会うために、または日本人としてふたたび生きるために祖国日本へ帰ってきたが、その時、私たちは『リンゴの歌』を歌っていなかったか? 彼らを残酷に、無神経に迎えていなかったか?/いかにも幸福そうな日本人の姿を見て、彼らはなんと思っていることだろう。彼らにとってはまだ戦争そのものが終わっていないのだ。(中略)私は、中国残留孤児のニュースを見るたび『リンゴの歌』と、それを初めて聞いた時の悲しみを思い出す。そしていても立ってもいられない気持になる。



六月 日

 去年、富士正晴さんの『贋・久坂葉子伝』(講談社文芸文庫)を読んでから、久坂さんの作品集を買ったのだが、読み通せないまま。自死へ向かっていく精神の波動のようなものを感じて胸がわさわさしてしまって。それなのに、この間の本読みを続けてきて、突然、やはり最後に自死を選んだ金鶴泳(きんかくえい/キムハギョン)さんの名前を思い出し、その作品を一度読んでおかないとと、ネットの古書で『金鶴泳集』(河出書房新社、あの杉浦康平さんの箱入りの装丁で七〇年代に出されていた「新鋭作家叢書」の一冊)を注文して、実質的デビュー作「凍える口」(一九六六年)を読む。
 吃音に苦しむ在日朝鮮人の崔は東大で化学の研究を続ける大学院生。時は六〇年代半ば、通称日韓基本条約の締結に対して、在日なら共産党系のグループに積極的に参加して北朝鮮はずしの単独国交回復などの問題に反対すべきだといった風潮の中、彼は研究発表を吃らずに行えるか、そのための毎朝の矯正練習も含めて、自己の中に閉じた心身の緊張と消耗の日々を送っている。恐れていた研究発表の時が来る、そして……。彼の孤独を分かち合えたかに見えた、彼より重度の吃音者の友人、磯貝の自殺とその長い遺書の紹介をはさんで、彼の長い一日が終わっていく。
 吃音という苦しみと悲しみのヴェールを通して、世界との関係が、政治的な視点に回収できない個の問題として描かれる(だいたい、日本に生まれた朝鮮人であるということが、なぜそのまま受け入れられるものとならないのか)。恋人とのセックスに慰められながらも、人は自分の意思の核心を表出して理解し合うことはできないのではないかという問いが続く。
 一読、学生の書いた小説のような、シンプルな構成の生硬で淡々とした記述のなかに、すでにいまに続く問題は書き込まれている。個の悩み以前に政治的な悩みを押し付けられてしまう在日と日本人の関係。巻末のエッセイ「一匹の羊」で、金さんは「キムハギョン」とすべき読み仮名を「きんかくえい」とするのが、日本で育ってしまった自分の内実にふさわしい、日本語で書くことによって深められる朝鮮人としての自己認識は、マイナスの地点からゼロの地点まで回復されるにすぎない、朝鮮人らしい感覚をプラスの地点まで獲得することができるとすれば、それには日本語で書くこと以外の作業が必要になるだろうと書いている。その「作業」とは何だったのか。

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この記事へのコメント
◼政治的な視点と個の視点、というふうに渡辺さんは分けておられるけれど、純粋な個の視点というのが存在するのかな、とぼくは思いました。個も社会に媒介されずには存在しないのでは、と。この吃音のエピソードも極めて社会的だと感じますね。
Posted by 尾内達也 at 2013年07月04日 17:28
「政治的な視点に回収できない個の問題」ということで、「政治的」な活動などで解決しえない問題を抱えてしまっているということじゃないですかね。恋愛なんかもそうかも。
作者はこの小説を書き抜いたことで、吃音から解放されたといった意味のことを書いていました。その「吃音」は社会性をはらんでいますが、「政治」とはちょっと違うかもです。
Posted by 渡辺洋 at 2013年07月05日 17:53
◼ちょっと、ずれるかもしれないんですが、このごろ、「 革命的」 ということを考えるんですよ。革命というと、大きな権力を打ち倒して、国家の枠組みが大きく変わって、革命の前後に多くの人の血が流れて、結局は、独裁体制になる、というイメージが、ぼくの革命観なんですが、革命の社会的側面、あるいは、日常的側面いうものがあるのではないかと思うんです。つまり現存の社会関係を組み替えることが革命の本質だとすれば、社会に媒介された個の問題、たとえば、在日、病気、さまざまなコンプレックスなども、もっと、生きやすくなるのではないか、と思うんです。これは革命の定義を階級関係の再編から社会関係の再編に変えることを意味し、五月革命も、こうした契機を持っていたと思うんです。その意味で、今行われている反原発の運動は、命の価値を中心にして、社会関係を組み替えようという志向を持っていると思うんです。ちょっと、まとまらないコメントになりましたが、政治と個という問題は、社会と個と読み替えることで、なにかが、開けるような気もします。
Posted by 尾内達也 at 2013年07月05日 18:36
ぼくはもうすぐ帰ります。家のPCは入力の調子がリカバーできていないので、どなたかの意見も聞けるといいですね。では。
Posted by 渡辺洋 at 2013年07月05日 18:47