2015年02月08日

ヨシモト系

◯ーー矛盾は親鸞が到達した浄土教義が自体ではらんでいた。この疑念はたんなる排除で喪失する態のものではなかった。すすんで悪をつくるのはなぜいけないのか、この単純な異解をめぐって親鸞の思想は試みを受けた。(吉本隆明さん「親鸞論註」。『論註と喩』言叢社所収)
ーー親鸞がいいたかったことは宗教的・理念的・倫理的……等々の形で提起される対立的な概念は、かならず自己概念のなかに対立概念を包括しているということであった。いなむしろ自己概念に絶対性がありうるとすればそれが対立概念によって侵食されつくしたときだということを云いたかった。造られるのでもなく、またひとふしだけしか〈善〉とちがわないような相対的な〈悪〉によってでもなく、〈悪〉がそのまま〈善〉であるような〈悪〉こそが正機だということであった。(同前)
ーー〈善〉と〈悪〉の相対性を揚棄したいとき、いつも、親鸞は〈無作為〉と〈脱化〉をかれの「自然」に結びつけた。現実の場面で教義的な疑念や組織的な混乱に応えるときは善と悪との逆倒の契機を明示して〈信〉と〈不信〉の両方に応えた。(同前)

◯この1月のパリの事件の時、広場を埋め尽くす人々の、言論の自由、反テロといった盛り上がりにまずなじめず、東京にはいざという時に示し合わさずとも集まれる広場がないな、とぼんやり思ったのだが、その後、EUの首脳たちやらの記念撮影を見せられて、自分とは全然違う、自分だったら殺された人々を何かの価値の代理にせず、団扇太鼓を叩いて祈るのが一番合っていると思った。ここに集まった人々とは基本的な文化が全く違う。そして団扇太鼓の集団が一定数以上集まったら、さぞ不気味な集団として受け取られる、場合によっては嫌悪の対象として排除されるかもしれないと思った。

◯ーー宗教が対象を撰りわける仕方は、いつも戒律によってである。( 略)だがマルコ伝にあらわれた教義は、むしろ戒律を無視することによって対象を犯罪者、取税人、廃疾者、貧困者に限定している。これはマルコ伝の世界が非宗教の側面をもっていた徴候とみることができる。(吉本隆明さん「喩としてのマルコ伝」。同前)
ーー不治、先天的な疾患、老衰とみなされてどうにもならない病者たちが〈信〉の存在する徴候を代償に即座に癒されるという概念が、すべての人間の〈罪〉を一身に背負ったために身を滅ぼすキリストという概念と交換されるところに治癒行為があった。これはたぶんマルコ的な教義にとって逸することができないメシアの喩的な意味をなしていた。/マルコ的世界にただひとつの標語を掲げよということになれば内在する〈罪〉とその〈治癒〉という言葉に帰着する。〈罪〉こそはマルコ伝の世界によって発明された概念であり、それ以前にもそれ以外にもこれを発見した人類はいなかった。(同前)

◯中世まで正統と見なされてきたマタイ伝に対して、マルコ伝が最初に書かれた福音書と見なされるようになり、その孕んでいる野卑ともいえる可能性の部分を読み込んでいく。現在の信者のどれほどがそこまで突き詰めて読むだろう。
 これからの時代、混乱を脱ぎきれなくなったら、新しい宗教が始まるかもしれない。「まさか」と言うなかれ。井筒俊彦さんの『マホメット』(講談社学術文庫)を読んでも、価値の総転倒を含む信仰の受け入れは歴史を通して起こってきた。


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