2015年02月20日

ヴィヴァ、イタリア2

◯イタロ・カルヴィーノさん『パロマー』(和田忠彦さん訳。岩波文庫)読了。
ーーパロマー氏は、普遍的規範や的確さをもとめられると考えてきた、そうした企業社会の規準というものがいかに好い加減で間違いだらけか気づいたとき、ひたすら自分の眼に映るかたちを観察することで世界との関係をあらためてゆっくり見つめてみることにした。
ーーこんな風に鳥たちは考える、でなくとも、鳥になったつもりのパロマー氏はこんな風に考える。/ 「事物の表面を知った後ではじめて」と結論を下す。「わたしたちはその下にあるものを求めるところまでは行きつくことができる。だが、事物の表面は無尽蔵なのだ」
 パロマー氏は全体をつなぎとめる記号のようなもので、視覚による、人類学的もしくは文化的、瞑想的と作者自身によって分類された記述形式にそって、波や月から動物、食べ物から社会、自分自身にいたるまでが書き抜かれるのですが、その記述は物語を与えることを、言い換えれば一般的な小説と受け止められることを解体・拒否しているかのようです。事物の表面が無尽蔵である世界で、いい気にならずに文学の可能性を洗い直そうとした作品かな。

◯エリオ・ヴィットリーニさん『シチリアでの会話』(鷲平京子さん訳。岩波文庫)、反ファシズムで、パヴェーゼさんの『故郷』と並ぶ、イタリア・ネオレアリズモ文学の代表作というので一読。反ファシズムについて書いておくと、パヴェーゼさんの場合は教職につくために偽装入党、のち離脱、ヴィットリーニさんの場合はファシズムの打倒ブルジョアに共鳴し、最初は積極的に参加、のちに離脱ということになる。作品の内容としては、二つの作品とも、ファシズムと対決するものではなく、ファシストの検閲を受けつつ、レベルを保った作品を発表しえたこと、みずみずしい感性を読者に届けられたことに大きな意味があるのでしょう。
 実際の『シチリアでの会話』の内容はネオレアリズモという言葉の先入観が飛んでしまうもの。新しい妻との生活をはじめるという父からの手紙を受け取った「私」は、シチリアに住む母親に会いに行く。母親との話ではまず父親の卑小さと祖父の神話的なスケールの大きさが語られる。そこから先はリアリズムどころか、さすが『神曲』の国の作品と思わせられる展開。私は、マラリアや結核ぎみの患者たちを訪ね注射をうつ母親についていくが、それぞれの家は暗闇に閉ざされ神話的な雰囲気をたたえる一方、金持ちの女性宅では、家は明るく、母親は女性を裸にして私に見せたりする。その後、私は研ぎ屋と知り合いになり、彼の刃物をキーにする仲間たちに巻き込まれていく。彼らが問題にするのは、人類への、世界への、恐るべき損傷である。傷のない世界への称賛を繰り返して葡萄酒に酔いしれる。40年代のファシズム下の読者にとって、その神話的な文体はすごく新鮮だったのではないかと思った。ちょっとびっくりした。

◯ジョバンニ・ヴェルガさん『カヴァレリーア・ルスティカーナ』(川島英昭さん訳。岩波文庫)。故郷シチリアを舞台に、社会の底辺であえぐ人々を初めて文学作品に取り上げ、「事実を示し、事実に真実を語らせる」ヴェリズモ(真実主義)というスタイルを確立し、20世紀のネオレアリズモにも大きな影響を与えたという、1840年生まれのヴェルガさんの短篇選集。
 これでもかと不幸が続く「赤毛のマルペーロ」や「聖ヨセフの驢馬の物語」のような物語があるかと思えば、「羊飼イエーリ」のような、つらいながらも甘美な青春小説もある。
 すでに19世紀の段階で、マンゾーニさんのような、都会の大作家をいただきながら、一方でヴェルガさんのような作家が独自の活動をする。ここまで、イタリア文学の中で、ネオレアリズモと周辺の小説を読んできたけれど、イタリア文学の豊かさは恐ろしいほどで、詩や戯曲といったジャンルの幅に限らず、戦後、さまざまに出てきた作家たちの作品、またユダヤ系の表現者の幅の厚さもある。いやはや。
 このブログ(これで今年12回)の今後の形も含めて、ちょっと時間をかけて、楽しいアプローチを考えてみたい。


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