『どなたですか!』
 唸るかのような、蹴の声がする。
 怒っている、イライラしている、それはこの電話で仕事を邪魔されているからだろうか。
 吹田佳波は、名乗る勇気が出ず、しばらく口をパクパク動かしていた。
 すると、思わぬ声が耳に届いた。

『ああ、生野(いくの)専務でしたか。いつもお世話になっております』
 急に蹴が一人で勝手に話し始めたのだ。
『あ、今からそちらの会社に? ……はい、わかりました』
 彼はまるで客先の誰かと会話しているかのように、丁寧で硬質な声を出す。
『資料を持って今すぐ参りますので、はい、少々お時間頂けますか』

 これは、なんだろう。
 蹴の一人芝居の意味は?
 考えても出てこない佳波は、思わず「江坂くん」と口走っていた。
『え……』
 急に驚いたように声を詰まらせる蹴に、佳波は必死で訴えかける。
「あのですね、私、江坂くんがどこにいるのかわからなくて……えと、電話して都合悪かったでしょうか。あの、すぐ、切ります……」
『あ、待って……』
 蹴の声が一瞬上ずった後、息を止めたのがわかった。
『あの、お待ちください……。今、どちらにいらっしゃるのですか……?』
 佳波は、変に丁寧な口調の蹴に困りながらも、仕方なく正直に答えた。
「4階の階段です。……周りには誰もいません」
『どうして……』
「謝りたかったので……。私の為にあんなに人気のあるお店を予約してくださって、ありがとうございました。今回のことでようやく、今までの事を思い返して反省しました……。親に決められているからとはいえ、深く考えもせずせっかくのお誘いを当たり前のようにお断りしてきて、本当にごめんなさい……」
 佳波は気持ちが高揚していて、一方的に話し続けた。
 そのため、蹴にどれくらい伝わっているのか、不安になり、さらに焦っていた。
「申し訳なくて……その……」
 蹴はしばらく黙っていたが、『いいえ。お気になさらないでください』という答えが返って来た。

 もっとはっきり、わかりやすく言わなければ。
 佳波は焦りながら、一生懸命に言葉を探した。
「申し訳ないのと同時に、そのお誘いの意味に気付けて、とても、とても、嬉しくて……」
 息を吸って、なんとか自分の気持ちに近い想いを吐露する。
「仕事……じゃなくて、普段から、江坂くんがいつも私だけに付き合ってくださったら、どんなに素敵かと想像しました。独り占め……というか。……わがままですけど」
『いえ……』
 蹴は、さっきまでより、少しクリアな明るい声を出した。
『こちらも、そうなることがベストだと思って、今までやってきましたので……』

 佳波はその業務的な返答を聴いて、彼の傍に豊島がいることを、強く感じ取った。
「それからですね、今、て、豊島さんと二人きりだと伺ったので、それが、私……私……どうしても……気持ちがざわざわして、嫌というか……その……」
『あぁ……』
 蹴の嘆息が聞えた。

「江坂くん、私のお願いを笑わずにきいてもらえますか?」
『はい。どうぞ』
 佳波は自分が言おうとしていることの滑稽さに、羞恥心で声を震わせながら小さく告げた。
「二人でどこかへ出かけることは多分無理です。でも、江坂くんに、私の……彼氏になってほしいです」
『…………』
 数秒待ってみたが、蹴が何も言わないので、諦め半分、もう一度佳波は言った。
「好きっていう気持ちはいっぱいあります。それだけじゃ、だめでしょうか?」
『…………』

 佳波は思わず目を閉じ、俯いていた。
「だめですよね。そんなの彼氏とか彼女っていう関係じゃないですよね……」

『あの……』
 蹴の声が、静かに響いた。
『その件は、お会いしてからお答えしたいのですが』


 失礼します、そう言って蹴の声は消えた。
 通話が終わってしまった。
 佳波は気が抜けて、階段でへなへなと倒れ込んだ。
 すると、しばらくして奥の応接室でドアの開く音がした。
 乱暴にバタンと開閉された後、1秒もしないうちに、廊下を走って来る江坂蹴の姿が見えてきた。
 そして、彼は全速力で走って佳波の所までやってくると、そのまま腕を取って5階へと連れて行こうとしたのだが、突然のことで足取りがおぼつかない佳波を見て、4階と5階の間の踊り場で、立ち止まった。

「吹田さん」
 蹴は佳波を捕まえていた手を離してから、息を整えて微笑んで見せた。
「携帯いつから持ってたの?」
「昨日からです……」
「俺の番号ちゃんと入れといてくれたんだ。ありがとう。助かったよ」
「助かった……のですか?」
「ん? いや、なんでもない」

 そして、その笑顔のまま、蹴は鞄を放りだし、佳波をすっぽりと包むように、ハグをした。

 まるで風が吹いたかのようだった。
 蹴の前髪がふわっと頬にかかり、下顎のあたりに彼の肌を感じた。

 佳波は、外国ならば挨拶程度でしかない頬と頬の接触に、硬直していた。
 いろんなものが佳波の体を覆う。
 スーツの匂いや、シャツから伝わる体温。呼吸の音、心臓の音。
 そして蹴の声。

「どんな形でもいいよ、俺の彼女になってくれるなら……」

 走ってきたせいだろうか。
 蹴の声は途切れ途切れだった。

「江坂くん……あの……恥ずかしいです……」
「わかってる。でも、ゴメン、嬉しくて……」

 蹴の手は彼女の髪に触れ、より強く彼女の温かさを引き寄せる。
 彼は佳波を離そうとはしない。

 佳波の体はとても窮屈なのに、目の前が明るく拓けて行く気がした。

 何もかもが新しい世界。
 心がやっと通い合った瞬間だった。

 素敵な毎日が、これから始まるはず、だった。