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「きみに読む物語」を観ました。
痴呆を患ったアリーの元へとデュークと名乗る初老の男が足繁く通う。彼は彼女に毎日ある物語を読み聞かせているのだ、たった一つの事を思い出させんがために。それは身分違いを越えて愛し合った若きカップルの青春の物語・・・時は40年代、ノアは避暑のために街に来ているアリーに一目惚れ、強引に誘い出してデートをする。裕福な家庭で育ち親の敷いたレール通りに生きるアリーに自由の素晴らしさを教えるノア、そしてアリーもノアを愛するようになる。しかしそれを喜ばないアリーの親は二人の中を引き裂こうとする・・・
真っ向からメロメロ・メロドラマでした。痴呆という事に絡めて作品は描かれていますが、普遍的な部分での「愛」を扱っているという点ではハッキリ言って目新しさのかけらもありません。ただ老年期の彼らと時折シンクロしつつ物語は進むのですが、彼らは確実に死へ向かって突き進んでいる感じがしたんですよね、そこがとても痛々しいのです。
家族に恵まれ望みが全て叶ったのに、死に際で忘れられてしまうという事がこれほどまでに恐れることなのか、と。そして私はノアの気持ちが手に取るようにわかって、泣けると言うよりもむしろ色々と考えてしまったのでした。あのラストが「幸福である」ともし考えるのが相応しいのであれば、人はどうして生きているんだろうと。あのラストへ向けて生きている、まさしく私はあの中の一人のような気がしたのです。
これが普通だよなぁ、とずっと思いながら観ていました。深く愛していればこそ最後に一人になるのは怖い、それが極々普通の感情だと。ノアはきっと子供のことも孫のことも愛している、だけどやっぱり妻と一緒がいいのです。イヤ違うか、妻を一人には出来ない(実際には彼自身にも死期が近づいている)。
この作品に出てくるアリーは場合によってはあまり共感できない、という方もいると思うのですよ(笑)えぇ、観ようによっては尻軽なんですものね。でも愛には純も不純も高尚も下品も本当はなくて、ただただその瞬間真剣に愛している・・・の連続だったに過ぎないのでは?と私は感じます。
愛してくれる人を愛する、そういう人がいたって別にいい。そしてそんなアリーをノアは丸ごと愛しているのだから。
だからノアの行為は決して究極には見えなかったの、私にも間違いなく出来ることです。こんな風に愛されたい、のではなくて自らが愛せばいい。自分が愛する人にとっての「ノア」になればいい(もちろん望まれてそうなれたら一番いいけど)。そう感じてしまった私は号泣・・・ではなくて「基本」を見せられたような感じ。
自分が今いる状況によっては感じ方は様々かもしれないですね、やはり年輩の方はアリーの母親の気持ちに一番グッとくるかもしれません。