
「白バラの祈り-ゾフィー・ショル、最期の日々」を観ました。
1943年ミュンヘン、スターリングラードでの敗戦以降敗戦の色濃くなりつつある中、一層声高に全面戦争を押し進めるヒトラー政権。誰もが声を潜める中で、医学生ハンスらが中心となって活動する組織「白バラ」はついに大学構内で打倒ヒトラーを訴えたビラをまくことに。しかしハンスと共に妹・ゾフィーの2人でビラをまこうとしている所を見つかり、ゲシュタポに連行されてしまう。ゾフィーに対する尋問官・モーアの厳しい追及が始まった・・・
ビリー・ホリディの「sugar」を口ずさむゾフィーの笑顔が冒頭で弾ける。だけど21歳らしい恥じらいを含んだ微笑みはこの映画の中で後にも先にもこの一瞬だけだった、その最期を知っているだけにこのシーンは心に残る。その後は一瞬たりとも私を休ませてはくれなかった、息詰まる法廷劇でもあり一少女が神格化される様を観ているようでもあり、脳細胞へ回る酸素が少なくなっていたのかその息苦しさに段々意識が朦朧とするような気さえした。
ゾフィー・ショルが白バラのメンバーであるのは明白としても実際その中枢にどれほど深く関わっていたのだろうか。事実彼女は4号ビラあたりまでは関わっていなかったようだ、とも言われている。私はゾフィーがビラをまいたり、最終的に「自分でやった」と自白したのも、政治的信念に基づいてというよりも元はと言えばまず兄思いの妹としての信念に従っていたんじゃないかって気がして。上手く言えないんだけど・・・捕まってから彼女は一気に覚醒したように感じられた。捕まって以降の5日間がまさしく私達が知っているかの有名な「ゾフィー・ショル」。この映画の中ではそれまでの白バラの活動がどのように行われ、それ以外のメンバーの様子がどうだったか等にもそれほど多くの時間は割かれていない。これはゾフィー達が捕まって死刑が確定するまでのたった5日間の物語である。しかし逃げ道が残っていないとゾフィー自身が悟った瞬間から、まさしく目覚めたかの如く真のレジスタンス活動家となって死んでゆく5日間でもある。
この間繰り広げられる尋問や裁判のシーンは圧巻というほかない。特にモーアはその立場故にゾフィーシンパであってはならないはずなのに、尋問の中で己の良心が否応なくゾフィーに共鳴している様子が痛いほどに伝わる。それがいかに真理をついていようともこの世にあって反ナチを叫ぶことなど許されぬ、それこそ狂気の沙汰。なのに自分がその狂気に突き動かされ手を差し伸べようとしている、どうして?自分の中にある良心と必死で闘っている様子が痛々しい、この時代良心などあってはきっと生きにくかったはずなのだ。自分の中にまだそんな心が残っている事にモーア自身恐らく戸惑ったのではないか。色々な意味で一番「わかる」のはこのモーアという人間なのかもしれない。ゾフィーに畏敬の念を抱きつつも立場上それを公に出来ない、けれど正義の芽を奪ってしまったという自分の罪深さは知っている。この人物にスポットを当てた物語も、ちょっと興味あるなぁ。
ジャンヌダルクのようだと言われるゾフィーだけど、そうやって何となく偶像化されてゆくのは・・・きっと本人も嫌だろうねぇ。彼女が何度もセリフの中で言う「良心」という言葉、みながそれに従う世の中であって欲しいとただただ純粋に願っただけだったのだよね。死ぬ事を恐れていなかったわけじゃない、でも5日間という時間は余りにも短過ぎた。泣いたり叫んだりする時間なんてほんの一瞬しかなかったんだ。看守が与えてくれた一本のタバコを囲んで処刑される3人が抱き合うシーンからラストまではもう言葉もない、舞台が暗転するのと同時に心が凍り付いてしまう。
誰も彼もまさしく入魂といってもいい演技で目を奪われる、こういったテーマを真剣に演じられるだけの演技力はもちろん歴史へのしっかりした認識があっての事だと思う。日本にも国民として知るべき戦渦における事実が沢山あるはずなのに、なかなか映画としては日の目を見ないのはどうしてなんだろう。ユリア・イェンチ並の女優がいないから?派手じゃないから儲からない?タブーがいっぱい?じゃあ一体何処の誰が後世に伝えてくれるんだろうね、教科書にもほんのちょっとしか載ってないのにね。ナチの映画はよくこうして観るのに日本の歴史をよく知らない自分って、間違いなく恥ずかしい部類なんだよな。
ビリー・ホリディの「sugar」を口ずさむゾフィーの笑顔が冒頭で弾ける。だけど21歳らしい恥じらいを含んだ微笑みはこの映画の中で後にも先にもこの一瞬だけだった、その最期を知っているだけにこのシーンは心に残る。その後は一瞬たりとも私を休ませてはくれなかった、息詰まる法廷劇でもあり一少女が神格化される様を観ているようでもあり、脳細胞へ回る酸素が少なくなっていたのかその息苦しさに段々意識が朦朧とするような気さえした。
ゾフィー・ショルが白バラのメンバーであるのは明白としても実際その中枢にどれほど深く関わっていたのだろうか。事実彼女は4号ビラあたりまでは関わっていなかったようだ、とも言われている。私はゾフィーがビラをまいたり、最終的に「自分でやった」と自白したのも、政治的信念に基づいてというよりも元はと言えばまず兄思いの妹としての信念に従っていたんじゃないかって気がして。上手く言えないんだけど・・・捕まってから彼女は一気に覚醒したように感じられた。捕まって以降の5日間がまさしく私達が知っているかの有名な「ゾフィー・ショル」。この映画の中ではそれまでの白バラの活動がどのように行われ、それ以外のメンバーの様子がどうだったか等にもそれほど多くの時間は割かれていない。これはゾフィー達が捕まって死刑が確定するまでのたった5日間の物語である。しかし逃げ道が残っていないとゾフィー自身が悟った瞬間から、まさしく目覚めたかの如く真のレジスタンス活動家となって死んでゆく5日間でもある。
この間繰り広げられる尋問や裁判のシーンは圧巻というほかない。特にモーアはその立場故にゾフィーシンパであってはならないはずなのに、尋問の中で己の良心が否応なくゾフィーに共鳴している様子が痛いほどに伝わる。それがいかに真理をついていようともこの世にあって反ナチを叫ぶことなど許されぬ、それこそ狂気の沙汰。なのに自分がその狂気に突き動かされ手を差し伸べようとしている、どうして?自分の中にある良心と必死で闘っている様子が痛々しい、この時代良心などあってはきっと生きにくかったはずなのだ。自分の中にまだそんな心が残っている事にモーア自身恐らく戸惑ったのではないか。色々な意味で一番「わかる」のはこのモーアという人間なのかもしれない。ゾフィーに畏敬の念を抱きつつも立場上それを公に出来ない、けれど正義の芽を奪ってしまったという自分の罪深さは知っている。この人物にスポットを当てた物語も、ちょっと興味あるなぁ。
ジャンヌダルクのようだと言われるゾフィーだけど、そうやって何となく偶像化されてゆくのは・・・きっと本人も嫌だろうねぇ。彼女が何度もセリフの中で言う「良心」という言葉、みながそれに従う世の中であって欲しいとただただ純粋に願っただけだったのだよね。死ぬ事を恐れていなかったわけじゃない、でも5日間という時間は余りにも短過ぎた。泣いたり叫んだりする時間なんてほんの一瞬しかなかったんだ。看守が与えてくれた一本のタバコを囲んで処刑される3人が抱き合うシーンからラストまではもう言葉もない、舞台が暗転するのと同時に心が凍り付いてしまう。
誰も彼もまさしく入魂といってもいい演技で目を奪われる、こういったテーマを真剣に演じられるだけの演技力はもちろん歴史へのしっかりした認識があっての事だと思う。日本にも国民として知るべき戦渦における事実が沢山あるはずなのに、なかなか映画としては日の目を見ないのはどうしてなんだろう。ユリア・イェンチ並の女優がいないから?派手じゃないから儲からない?タブーがいっぱい?じゃあ一体何処の誰が後世に伝えてくれるんだろうね、教科書にもほんのちょっとしか載ってないのにね。ナチの映画はよくこうして観るのに日本の歴史をよく知らない自分って、間違いなく恥ずかしい部類なんだよな。
この映画でゾフィーを初めて知ったので観終わった後は「ホントあんたすごいよ〜!」意外思いつきませんでした(笑
だって21歳であんな信念を持って辛くても悲しくても良い世界のために死と向き合えるって・・・やっぱすごいですよね!
若いからこそなのかもですが私にはそんなことできない〜。
日本の近年の歴史は教科書にもほんの少しだけですよね。
戦争とかちゃんと習ったっていう記憶がないです。
やっぱり色々難しいのかな。