2016年04月14日

職場復帰〜異動

 3か月の療養を終えて職場復帰をしたのは2012年12月のことでした。これも果たして療養が終わったといえるのかよく分かりませんが、休職ではなく有休消化+昔の打切年休(使い切れずに失効した有休)の復活で休めるMAXがそこまでだったので、病状とは関係なく決まりました。恐らく上司としては休職の人事発令が出ずに済む(自身の経歴に何らかの色がつかなくて済む)方法を取りたかったのでしょう。

 復帰した後は、異動はせずに同じ部門の隣の課の、ジメジメした事務仕事をすることになりました。ひたすら業務システムのスクリーンショットを撮ってエクセルに貼る、というような業務でしたがまあ楽でした。これを大体3か月ほどやった後、別の管理部門に異動になりました。

 実はこの部署、療養に入る原因の一つとなった炎上プロジェクトのユーザー側だったので、懲罰人事じゃないかと一瞬思いたくなりました(ちなみにこれを歓迎会で言ったらウケてました)。実際には大変な部分は先輩がやってくれたので、時期によって多少帰りが遅くなることはあっても、特に精神的にキツいことはありませんでした。

2016年03月20日

有給消化による療養

 2012年も8月に入り、僕の勤めていた会社は休みではありませんでしたが、いわゆるお盆の明けたころに、ついに思い切って上司に休職させてほしい旨申し出ました。やはり毎日毎日「死にたい」と考えながら半年も過ごすと、体もおかしくなってくるものです。あまりにも唐突だったためか、「自殺願望が...」のような話をした時、上司が驚いて半笑いしていたのはよく覚えています。

 とはいえ上司曰く、「何か持病があるのかなとは思っていた」とのこと。やはりやたら薬を飲んだり、その副作用で居眠りをしてしまうことも多く、目立っていたのでしょう。その話をしたのは月曜日の終業後でしたが、引継ぎなどはいいからすぐに帰って休め、と言われました。後から聞いた話ですが、翌日から僕の担っていた業務の大部分は上司自身が引き継いだようです。

 さて8月の22日あたりだったか、火曜日からは療養生活に入りましたが、第一に思ったのは「ああ、死ななくていいんだ」ということでした。今思えばただ単に会社に行くのが嫌だっただけなのかもしれません。初めの2,3週間はひたすら放心状態で、とにかく朝起きて三食食べて寝る、ただそれだけがとても苦しい、そんな生活でした。時間がはあるんだけど、何もやることがない、というか何もやる気力がないので本当に呆然と時間を過ごしていました。真面目な活字の本を読むほど集中力はなく、テレビはうるさくて癇に障るので、漫画やSPA!などの雑誌を眺めて時間をつぶしていました。
 本が読めるようになったのは結構涼しくなってからではないかと思います。本が読めれば喫茶店で読書をして時間がつぶせるので大分楽にはなったという記憶があります。

 この頃の生活を「昼間は大体町をウロウロして、本屋で立ち読みして、喫茶店で読書」みたいなことを職場復帰後に先輩に言ったら、「何か楽しそうやな」と斬り捨てられました。元気な時だったら楽しかったと思うんですけどね。

 実家には週に一回程度顔を出すだけで、一人暮らしを続けてはいました。料理もする気力がなかったので大体外食か、スーパーの弁当とか惣菜を買って中食のどちらかでした。

2016年03月05日

会社のPCで「死にたい」と検索してた頃

 twilogを見返すと、少なくとも2012年の5月-7月には自分がいわゆるMajor Depression、大鬱であると認識していたようです。家のそばの主治医だけでなく、会社のそばのクリニックにセカンドオピニオンを求めてみたり、カウンセリングを試してみたり(高いので何度も行けませんでしたが)。

 あとは、何か食べても味が非常に薄味に感じるとか、一人で歩いていると歩くスピードが他の人の半分でしか動いてないとか、そういう身体症状が出ていました。既に睡眠導入剤はもらっていたので寝付くことはできてましたが、早朝覚醒が常でした。
 
 会社のパソコンで「死にたい」とか検索しまくってたのもこの頃だったと思います。この行為は継続的にやっていたように記憶していますが、多分この時期一番頻繁に検索していたと思います。会社のPCでのインターネットは監視されてるのが一般的かとは思いますが、まあ誰もリアルタイムにチェックはしてなかったんでしょうね。また上司が隣に座っていましたが、特に気づかれませんでしたね。
 どの時間帯に死にたいと思ったかといえば、圧倒的に仕事中でした。一応オフィスを離れると、何か「今日も助かった」というような感覚があったように思います。そして死ぬのは多分会社の、トイレの扉についている荷物をかけるフックにループ式の自転車のカギを引っ掛けて、というくらいまで具体的に想像もしていました。実際に会社にカギを持ち込むことはありませんでしたが。

 7月の初めに友人の結婚式に出席したら、新郎が時々twitterを見ていたようで、「お前、大丈夫なのか?」と心配されてしまいました。

2016年02月28日

再び精神科に通院

 2011年も途中までは、震災などにも関わらず悪くない調子で過ごせていました。妻と出会ったのもこの頃で、プライベートも充実していた...はずだったのですが11月から年末にかけてまた不調モードに入ります。

 当時の上司は一見穏やかというか優しいように最初は思えたのですが、実は僕に対しての「様子見期間」を取っていただけのようで、配属されて一年経ちそれが終わると、僕の仕事のできなさに徐々に当たってくるようになりました。
 実はこの最初優しくて後から厳しくなるという変化は結構精神的にきつくて、以前に営業部門でもっと厳しいというか曲者的な上司に当たったこともあったのですが、その人は最初からガツンと来てたので、あとからショックを受けることはなかったんですね。

 結果的に再び精神科に通うようになりました。この時はまだ抗鬱剤の服用には戻らず、ドグマチールを処方されていました。
 年が明けて2012年、状況は悪化の一途でした。すぐにまた抗鬱剤の服用を再開しました。何故かこの頃から夏ごろまで非常に色々な薬を試して、結局どれも効きはイマイチでした。覚えてるだけで4〜5種類は試しましたが、結局サインバルタに戻りました。
 4月の異動で、同じ部署の割と親しくしていた先輩(子会社から出向してきていた)が子会社に戻ってしまい、ちょっと専門的な話を相談できる相手がいなくなってしまったこと、また逆に子会社に出向していた後輩が本社に来て、即戦力として活躍かつ上司にも気に入られてるっぽいのがまた毎日を苦しくしたような気がします。

 この年のGWには4泊8日でペルーに旅行に行ったんですが、飛石の稼働日に有休取るのに小言を言われたり、業務をやり残したまま連休に入ってしまったり、あまり楽しめるような心情ではなかったような記憶があります。で結局現地で高山病→風邪のコンボで、帰ってきてもブログに書いたりもできませんでした。

2016年02月27日

就職〜精神的つまずき

 2007年、とにかく運良く世間的には大企業といわれる会社での職を手にしたわけですが、営業部門で残業は多いわ周囲と話は合わないわ、なかなかストレスフルではありました。適性がなかったのでしょう、「君は言われて事しかやらないね」「お前は本当、商売に向いてない」などよく言われたものです。それでも、意外と「(いわゆる日本の)サラリーマンだからクビにはならんだろう」と人に愚痴ってどうにか乗り切っていました。

 ところが4年目の秋頃、次の部署(管理部門)に異動が決まった頃だったと思いますが、上司の当たりがきつくなり出して落ち込むことが多くなったのをきっかけに、精神科に行ってみようと思いました。本やネットでは大抵、皆「メンタルのことで病院には行きたくないと思っている」という前提になってますが、僕は逆に医師や薬に頼るほう(むしろ依存心が強いかも)なので、あまり抵抗はありませんでした。
 で、今から思えば当時の症状はそれほど重くなかったのですが、一応そこで薬を飲んでみましょうということになり、サインバルタを処方されました。しかし、一か月ほどして管理部門に移ってしまった後は業務も少なく、上司も一見穏やかそうで(後に僕のメンタルを深くえぐって来ることなりますが)ストレス原因がなくなったので、はっきり覚えてないのですが2,3か月でやめてしまいました。その後、東日本大震災が起きたりしても、しばらくは医師の世話になるような落ち込みはありませんでした。
 

2016年02月25日

十代〜二十歳の頃のメンタル

 元々、親から「あんたは生まれつき覇気がない」とか「いつもボーっとしてる」と言われるようところはありましたが、はっきり性格に影がさすようになったのは恐らく高校2年生からのように思います。

 当時所属していた吹奏楽部の同じパートの同級生と確執があり、部活に行くのが嫌になりました。毎日2-3時間、休日であれば6-7時間、狭い空間一緒にいる相手なので、かなりの苦痛でした。また当時の僕は彼がちょっと理不尽な要求というか主張をしても、反論することなくずっと我慢してしまいました。しかしながら両親から「部活は辞めるな」と言われていたことや、ただ単に「辞めたい」と言い出す勇気がなく、1年間ほど我慢し続けて引退まで乗り切りました。
 この頃の体験は、その後物事を悲観的に捉えるようになり、また自分に対する自信が大きくぐらつき、無気力感が強くなったの原因になったのではないかと、今では思います。たしか高校の卒業アルバムか何かに、同じ部活だった別の同級生に「人生にやる気出して行こう」というメッセージをもらいましたね。

 大学はまあ嫌いな人間との付き合いを強制されることはないので、平穏に過ごせました。幸いなことに今も付き合いの続いている友人達ができたのも大学でした。でも、入学当初はかなりオドオドしてたような記憶があります。

 さて就活になると、消極的な性格ゆえに大学時代を漫然と過ごしてきたわけですから、アピールポイントに不足するわけです。加えて自信の無さが災いして、2007年という売り手市場だった年にも関わらず内定は全然もらえませんでした。結果的には、大学1年の時に他界した父が勤めていた会社に頼み込んで職を得ることになりました。この選択肢がなければ、結構なブラック企業への就職か就留により、メンタル崩壊が早まっていたかもしれません。

2014年07月31日

Off The Ground

 前回の投稿からTanto Tiempoになってしまいましたが、会社辞めました。

 理由は一応留学のため、ということになってますが、そもそもここまで7年間で会社員生活に適応できなかったことは事実ですし、「逃げ」だとか「モラトリアムが欲しかっただけ」とか言われても全く否定できません。


 あと皆さん遠慮してあまり聞かないんですが、2年前にメンタルの不調を生じたこととの関連性は、全てではないですが多分にあります。

 休養中に色々考えたんですが、スティーブジョブズみたいな恰好いいことじゃありませんが、何か面白いと思えることをやらないと後ではできなくなるかもしれない。つまり、今のまま会社勤め続けても、会社は潰れないかもしれない、終身雇用もなくならないかもしれない、でも自分が適応できなくなるリスクは意外にあるなと思ったんですよね。
 もちろん休養から復帰して、新しい部署ではそれほど精神的なストレスもなく、割と過ごしやすかったんですけど、いつ異動になって、難しい環境に放り込まれるか分かりませんので。
 あとは休養中に会った、友人の友人(国際機関勤務)に「発展途上国への留学いいですよ」と言われて動いてみたら、あれよあれよという間に決まってしまったということです。

 ただ、無理して遠い外国まで来たものの、既に脳がおかしくなってしまって何にもワクワクできないのでは、という怖れも持っています。

 そんなことを思いながらPaulのビデオクリップを見ていたら何故か涙が出そうになりました。
 

2013年12月01日

Tanto Tiempo

 Tanto Tiempoというのは「久しぶり」という意味なんですが、初めてディアマンテスのライブに行ってきました。

 ディアマンテスは、ボーカルのアルベルト城間さんが昔NHKのスペイン語会話に時々出演していたので知りましたが、CDは昔の「ニュー・ベスト・オブ・ディアマンテス」を持っていただけで、最近の曲はあまりチェックしていませんでした。
 いざライブに来てみると、やはり今年リリースしたアルバムの曲が中心だったようで、初めて聴く曲が大半でした。「魂をコンドルに乗せて」「El Condor pasa〜El Humahuaqueno」「La Bamba」「フィエスタ」など昔の曲やスタンダードは辛うじて知ってたので、一緒に歌いましたが、もうちょっと予習すればよかった。
 でも初めて聴く曲でも、どことなく懐かしさというか、安心感があるのはさすがディアマンテスという感じです。

 5年も東京でライブをしていなかったというので、今後はもう少し東京でも演ってほしいですね。

2013年11月22日

Out There

 11/18のポールのライブ@東京ドームに行ってきました。

 当日の様子やセットリストはこちらのサイトに詳しいのですが、僕としては思っていたよりもListen to What The Man Said、Let Me Roll It、1985などウィングス時代の曲が聞けたのは良かったです。ウィングスでありませんが、Another Dayも演ってくれました。ただ、やはりビートルズの曲の方がオーディエンスの反応が良かったのは、仕方ないことかもしれません。
 あとリードギターの方がジョージをかなりリスペクトしているのか、ビートルズ曲のソロなどほぼ完コピでした。
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 とにかく、「あの」ポールが、本人が、目の前で(大きさは米粒くらいでしたが)歌っているなんて信じられないことでした。しかも2時間半休憩なし、水も飲まず歌い続ける姿は、71歳という年齢も全く感じさせませんでした。まさにPaul is Live。

 すでに4年前にJuan Luis Guerraは見ているので、僕の3大フェイバリット・アーティストのうち2人は見てしまったことになります。あとGilberto Gil見られたら、もう現世に未練はなくなってしまうかもしれませんね。

2013年10月18日

Heli

 ラテンビート映画祭2013、新宿で最後に見たのは「エリ」でした。他にも感想書いてないのを2本ぐらい見てますが、まあその辺はご容赦を。

 さて、メキシコの社会派映画となれば組織犯罪の問題は避けて通れませんね。この映画も予想以上にバイオレンス満載で、見終ったあとに客席から「救いのない話だね」といった感想が聞こえてきたのですが、僕自身はむしろ、日常の中で凶悪な組織犯罪に巻き込まれながらも、必死に生き続ける人々の姿が強調されていたように思いました。
 僕が平和な日本で暮らしていても、前に進む力を失ってしまって、溺れかけているからそう思えたのかもしれません。そこはエリを見習うべきなのかも。

2013年10月16日

Who is Dayani Crystal?

 今年のラテンビート映画祭、2つ目に見たのは「ダヤニ・クリスタルの謎」でした。見る前はドラマだと思ってたんですが、実はドキュメンタリーでした。
 この映画はメキシコや中米から米国を目指す不法移民の問題を扱っていて、それはそれでとても重要かつ興味深いテーマではあるのですが、ドキュメンタリーという観点で見ると、すでにWhich Way Homeなどもありましたし、あまり新しさは感じませんでした。ガエルがロケしてるのも何かわざとらしいというか、白々しかったり、あと謎という割には結構あっさり解明されてしまうのも何だかなあ、という感想でした。

 ただ、よく纏まっているとは思うので、「僕らのうちはどこ?」や「闇の列車、光の旅」をまだ見てない、という方にはお薦めです。

2013年10月13日

ROA

 今年もラテンビート映画祭の季節がやってきましたね。去年も5本くらい見てるんですが、療養中だったのでサボって感想を書いてませんでした。今年は何とかメモ程度には書こうと思います(毎年メモ以下ですが)。

 さて最初に見たのは「暗殺者と呼ばれた男」。1948年に起きコロンビアの国内動乱のきっかけとなった、ガイタン暗殺事件を題材にした作品です。僕にとってはちょうど同じ日に立教の公開講座でこの事件の話を聞いたので、大変タイムリーでした。
 この事件はケネディ大統領の暗殺事件と似ていて、実行犯は分かっているものの黒幕は謎のままなんだそうです。その実行犯・ロアが主人公、つまりオズワルド的な立場ですね。

 こういう歴史物はある程度背景について知識がないと楽しみきれないですね。もう少し僕もガイタンや当時のコロンビアについて勉強してから見ればよかったと思ったのでした。

 上映終了後のティーチインでカタリーナ・サンディノ・モレーノさんが来てましたが、時間が遅かったので結構皆さん帰ってしまわれたのが残念でした。あんな大物ラテン女優、日本ではなかなか見る機会ないんですけどね。



2013年08月11日

Laugh and run away

 すっかりご無沙汰になってしまっていますが、FacebookやTwitterとの使い分けがよく分からなくなってきているというのが正直なところですかね、またこちらに書いたり、写真をアップロードするようなアクティビティをロクにしていない、というのもありますが。TOEFLの点数が悪かったとか、DELE B2不合格とか、精神的にも若干落ちるような要素はあるのですが、上がるような要素はなく、最近はもっぱら酒とyoutubeでラテンドラマ「Rubi」を見るのが楽しみの毎日です。
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2013年06月06日

Eu quase nao saio, eu quase nao tenho amigo.

 ちょっと前になりますが、ローラー台買いました。ちょっと2,30分汗を流したい時には最適ですね。もっと早く買えばよかった。
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2013年05月11日

CONTROLTECH TEAM ISSUE 2A

 買い物の備忘録です。

 先日ちょっと走ったらサドルがシートポストから何回も外れて最後には固定できなくなり、残り15kmはずっとダンシングで走るはめになったので、シートポストを買い替えることにしました。

 前に使ってたのもアルミなんですが、ヤグラの底の部分がカーボンで、そこがダメになってしまったようです。まあ僕はレース志向でもないし、あまり軽量パーツにこだわらず、頑丈なものを使った方が良いかなと思いました。値段も安いですしね。
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