aa97d071.jpg「消えたお妃候補たち」の存在は知っていたけれど、その頃私は人生の岐路にあって解決のつかない事に心の中は占められていたけれども環境はそれを許してくれず、そのことを引きずりながら渦にのまれるが如くとんでもないスピードでめまぐるしく生活環境が変わっていきました。

そんな暮らしに慣れていくのが精一杯でしたが、そんな折に転勤先の横浜で待望の一人息子を授かり大変ながらも喜びに満ちた子育てに追われいました、お年始ごろ、雅子さんが皇太子妃に決定!と街中のビルにテロップが流れました。マンションで幼い息子の世話をしながら、直感的に「やっぱり!この人だったんだ」という思いと「この人は嫌いなタイプ。皇室には合わない」と思った。

もうすでに、周知の事実で、「江頭家は窒素問題」に絡んでいるお家柄。

また、実家に帰省した際、雅子さんは実家を訪ね、これから静岡にある老人ホームにおじい様に会いに行くとの報道を見ました。
これは実家の母の弁だが「皇太子妃のご実家とあろうものが、親を老人ホームに入れるとは何事か、こんな家風のお人が皇太子妃のご両親だとは」と顔を濁しそむけました。

美智子皇后さまは、良子皇太后が病床に伏せられておいでの時、毎日御所をお訪ねし御身足をおさすりに通われたとも伝え聞きました。
多忙を極める公務でご自分のお身体も大変なのに・・・本当にできない事だと思ったものでした。

良子皇太后さまはどうか知りませんが、他の宮家ともども、美智子さまが妃時代決していい想い出はなかっただろうと記憶しています。それは国民が艱難辛苦の皇太子妃時代を知っているからです。美智子さまは本当に公務も祭祀もどの宮家の人達よりも文句のつけようがないほど完璧こなし、お歌も書も、ピアノやハープも抜きんでていました、それもこれもご自分磨きを怠らない美智子さまの生き方で、これを見て自分の心を叱咤激励した人は多かっただろうと思う。ですから今でも美智子さま支持が根強いのだと思います。

美智子皇后さまが聖心女子大出身者であり、クリスチャンのご一家でありましたが、美智子さまは入内の際、改宗されたというのは有名な話です。

その後、神尾美恵子さんがご相談役になり、彼女は敬虔なクリスチャンでしたが誰も表立って美智子さんの心にともる信仰の灯をバッシングをしませんでした。なぜなら、美智子妃の献身的な国家への貢献がそれをうわまったという一言に尽きるのです。


雅子さんが、「消えたお妃候補たち」に書かれているのを今読むと、本当に納得度が倍増します。
また、小和田家が最初から宮内庁とかみ合わず、決して小和田家は皇室に嫁がせないとは一言も語っていないのです。ましてや嫁がせたい気が満々な気配を感じます。皇室側で小和田雅子をリストから外したのである。この夫妻は常に外交のような取引を用いて交渉をすすめていったことが伝わってくる。また、物言いが高飛車で謙遜という態度が皆目見えない。

皇太子をこのときからすでに、巧妙に操っていたことがわかる。

また、流れ的に様々な手配が行われた影の力は今なら外務省である事が分かる。

ご優秀伝説が通説であるが、この本では雅子さんが外務省内での評価が低いことを明らかにしている。
事務処理能力も劣っているのだろう、すべからくおのずと休日出勤しなければならなかったのだとみえる。

無理やり皇太子が雅子さんを選んだのではなく、父・恒、母・優美子も断ったと見せかけ、皇太子に、もっとアプローチしてくれないと、「雅子が不憫」とまで発言しているのを見ると、・・・今の現状そのままである。

図書館から借りて読んでいる途中ですが、さわりの部分を一部抜粋形式で転載します。
------------一部抜粋転載開始----------
プロローグから

八四年六月十三日付『東京スポーツ』はトップ記事で<皇太子妃で皇室会議分裂!!構成委員10人中2人が柳原留美子さんに反対/一度消えたはずの小和田雅子さん皇太子妃候補に急浮上>と報じた

雅子が不憫でならない・・・・から抜粋

天皇家は小和田雅子を皇太子のお妃という意向で固まっているが、小和田家はどう考えているのか。小和田雅子の母親・優美子は「正式な申し入れもないのに、マスコミに追いかけられて」と漏らしていたといわれる。
「最終的には雅子の気持ち次第ということになるが、殿下も帝王学に徹し過ぎる。やはり女というのはどうしても受身なんです。男から・・・・殿下からもっとアプローチしていただかないと、雅子が可哀想だ。どうしたらいいのか、ずっと悩み続けている雅子を見ていると不憫でならない」

小和田家の戸惑いと苦悩
天皇家、宮内庁から交際再開をというメッセージに、小和田家では大きな戸惑いを感じたようだ。父・恒は「文芸春秋」(九三年三月号)のインタビューでこう答えている。「あれ(八七年十二月の非公式な申し入れ)から何年も経っていることですし、私どもとしてはもうなくなったことだと思っておりましたので、こういうお話にびっくりしました。それだけに、そうしたお話どう対応するかについて、(九三年一月十九日の)記者会見でも申し上げましたように『いろいろなことがございました』ということです」

 戸惑いとともに前回の経緯から宮内庁に不信感を持っており、人伝てでは納得しないという姿勢をとったといわれる。再会申し入れに返事を渋ったのは、「皇室や宮内庁から正式な申し入れもないのに、マスコミが殺到。宮内庁の沈黙もあって報道に深く傷ついた五年前の出来事」(宮内庁担当記者c)があったためである。そこで、六月初め、柳谷が小和田家に皇太子の意向を伝え、粘り強い説得に乗り出した。この頃、宮内庁はある出版社の米国子会社にハーバード大学留学時代の小和田雅子に関する調査以来もしたという。
皇太子の意向を受けた宮内庁、天皇・皇后の了解も得た仲介役柳谷のアプローチにもかかわらず、小和田恒はともかく雅子本人との接触は難航を極めた。

〜中略〜
「週刊誌やスポーツ紙を読むと、タフな交渉をこなしてきたキャリアウーマンと持ち上げていますが、彼女は他のキャリアと比べて特に突出していたわけではありません。交渉を前行詰まったり、どちらかといえば実力はいま一つというのが北米二課の見方でしたよ。だいたい外交官としての資質を決めるといわれる在外公館勤務が未経験では将来は大使か局長かなどと判断できません」と外務省霞記者クラブのある記者は話した。事務的な仕事に追われていたことは確かで、休日出勤もよくしていたという。それでもゴールデンウイークには、田園調布雙葉学園時代の友人・土川純代の別荘がある伊豆・赤沢に出かけている。土川の長女が座ったそばで彼女が台所に立って、手際よく包丁を動かすスナップはこの時のものである。

〜中略〜
再会が実現しないまま季節は春雷から梅雨になり夏の日差し〜〜〜〜略


再延長が発行した八月十三日皇太子は軽井沢で静養していた。すでに再会の日程は十六日と決まっていた。〜略〜 皇太子をがバルセロナ五輪に出発する前に二人を会わせようというという動きがあった。いったんは七月訪十日に設定されたが、急な都合からキャンセルとなった。

再会への隠蔽作戦

〜中略〜
宮内庁は担当記者が忙しく、人手不足のときに動くクセがある。(八月)十六日は新聞休刊日だった。皇太子の日程は、公式には「午後はテニス。外出など特別の予定はない」と示されていた。前夜からの当直明けの職員にもこう伝えられていたが、皇太子は昼食を終えると東宮仮御所を密かに出た。夕食は前もって遅らせてあった。再会で話が弾み、食事に間に合わなければ、外出が職員に知れてしまう恐れががあるからだ。外出には、赤坂御用邸用地の門で皇居警察のチェックを避けるため目隠しをした職員の車を使った。さらに皇太子の外出には必ずついていた警視庁の警備担当者にも連絡はなかった。マスコミを欺くにはまず身内からというわけである。

※後日転載致します。