小和田雅子出勤
隠れ創価信者も博士の独り言より。(2007年7月31日)

過去の経歴を隠しておられるようだが、広中和歌子氏は、数学者・広中平祐氏の夫人である。一家は知られた創価学会員であり、広中和歌子氏が池田大作の通訳を務めたと同様に、令嬢もまた池田大作の通訳を務めている。

なぜ、広中氏が民主党(新進党経由)なのか、との脱会者の指摘も聞こえて来たことがあったが、少なくとも、可能性がいよいよ膨らむ「公明党と民主党による連立」が行われる時のパイプ役となるためであろう。その反日勢力の融着のための「のりしろ」として存在している、と認識すれば判りやすい。

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雅子さんは1986年12月31日東宮御所への御茶会・年越しパーティに、ハーバード教授の広中平祐らと共に招かれている。

上記の事が公然のことであれば、この時すでに東宮職員の中に、創価の介入がありと考察して良いと思う。

雅子と結婚できなければ、死ぬなどと言って、御所を飛び出したとされる記事もあったが、真実はどうだったのか。 

雅子入内計画がスムーズに進行したかに見えていたが一転、暗礁に乗り頓挫したことに固執し、二度目のお妃候補に急浮上したとき、固辞する態度を見せた小和田家だが、母優美子が「雅子不憫説」の弁を見るといささか胡散臭い。


ここで日英協会を含め浩宮との接触をカウントしていく。

エレナ王女のパーティーの出会いからの軌跡をたどる。

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‘英協会→1986年11月中旬、英国大使館で浩宮、小和田雅子出席。

東宮御所
→ 同年12月31日東宮御所パーティに広中教授らと出席

この東宮御所内で御茶会はごく内輪の催しものだった。そういう茶会に両親、妹と共に招かれたのである。また小和田一家と親しい広中平祐ハーバード大学教授と谷口貞一ボストン総領事館の家族も同席。

E日東宮御所の年越しパーティーに出席、浩宮と顔合わせ

て英協会→1987年、1・9 皇太子、もちつき大会で小和田雅子と会う
テ英協会 →同年、2月、小和田雅子と会う。
ζ英協会→同年 4月上旬にパーティで皇太子、小和田雅子と会う

日英協会パーティーののち、高円宮邸の夕食会が4月25日、セッティング→小和田雅子を浩宮が出迎え夕食会へ二人で出席。
(この日、英国夫妻が欠席する。それらの理由から、後、高円邸での夕食会の運びとなる)

東宮御所→小和田雅子を御所へ招く。(このあたりから、浩宮と小和田の急接近が一部マスコミに漏れ始まる。)

東宮御所→浩宮さまの学友の賀陽正憲と一緒に雅子さんを招き現在の東宮仮御所内にて、夕食を共にする
12月20日 指差し恫喝事件勃発→1987年12月20日付けの日刊スポーツで、
かなり厳しい言葉を取材のカメラマンに次々発したと報じられた>ソースは河原本


1987年内までに小和田雅子が浩宮と積極的に足を運び会われた回数と小和田雅子のマスコミ対応である。

最初のこの流れから見れば、無理やり小和田雅子を拉致って会っているのか?
小和田は、好奇心から御所へ上がっていると優美子に言っている。

あの指差し恫喝が小和田の本性を知らしめた後、

海外紙は一斉に小和田雅子の留学中の男性遍歴を報じ、マスゴミは報道規定でも持っていたのか無視を決め込んでいた不思議がある。

日本のマスゴミは創価の影響が大きく無視し続けていたとみていいと思う・・・しかし、決定的な事件がおこる。アメリカからの英文怪文書の送付である。

このことに触れず、美智子妃は、小和田家・および雅子のマスコミ対応にお妃としてふさわしくないとして諦め、その後、宮内庁側にある 「怪文書」が送られ無視できなくなった最大の理由のひとつであり宮内庁は小和田雅子をお妃リストから外す。

それはズバリ、彼女の男性関係にまつわる噂だったという。

妃候補としてその名前がはじめて浮上した6年前から、小和田雅子という女性に
は常に男性の噂がつきまとってきた。


 実は妃内定直後の1月11日、アメリカの日刊紙「シカゴ・サン・タイムズ」が
“小和田雅子サンの元ボーイフレンドが彼女のトップレス写真を持っている”
といった衝撃的な内容の記事を掲載する騒ぎが起きている。


「日本のマスコミはこの記事の存在を知りながら一切黙殺していたようですね。
それに同紙もそのわずか4日後に記事を取消す続報を掲載して、あれはデマだったという結論にいつしか落ち着いてしまった」(大手紙・外信部記者)

 しかし、地元では依然として噂はくすぶり続けているという。というのも、告白したデビッド・カオなる男性は確かに実在しており、最低でも2回はハーバード留学中の彼女と同じパーティーに出席していたことが確認されているというのだ。在米特派員の一人もこう首をひねる。
「『シカゴ・サン・タイムズ』紙はいい加減な三流ゴシップ紙ではないですからね。デマだとしたら、どうしてあんな記事を載せたのか。その後の記事取消しもあまりに対応が早すぎるし、不自然な点は多い」

「シカゴ−」紙の記事と同じ内容で、ハーバード大学留学中の男性関係についての噂はこれまでもかなり頻繁に囁かれている。
お妃候補として彼女の名前がはじめて浮上した87年には、宮内庁と一部マスコミにやはり彼女が白人男性と交際していたことを英文で綴った怪文書がアメリカから送りつけられている。

曰く「 白人男性とつきあっていた」「日本人留学生と半同棲生活を送っていた」等々。これが真相のようである。


宮内庁が88年に突如として小和田雅子を妃候補から除外したのも、公にされている母方の祖父が公害タレ流し企業のチッソ社長をつとめていたから、というような理由ではなく、このハーバード時代の交友関係が原因だったとの見方もある。

「お妃候補の家系は皇太子に引き合わせる前に必ず調べますからね。チッソを問題にするなら、最初から会わせていませんよ。時期的に見ても、小和田さんをはずしたのは例の白人男性との交友が書かれた怪文書がキッカケになっているのは確実です。一説には当時の宮内庁長官だった富田朝彦が内調室長時代のパイプを使って雅子さんのハーバード時代を徹底的に洗い直したという話もある」(宮内庁担当記者)

 いや、ハーバード時代だけではない。外務省の研修でオックスフォード大学に留学中の際には、イギリス人男性との交際が噂になったこともあり、あるフリーカメラマンがツーショットを撮影して、女性週刊誌に持ち込んだもののボツになったとの、まことしやかな話も漏れ伝わっている。

 また、91年の春から92年のはじめにかけては外務省内で上司と不倫をしている、との噂がかけめぐった。
この時、相手と名指しされたのは彼女の所属する北米二課のM課長補佐。

「たしかに小和田サンとMサンは例の半導体交渉でコンビを組んでいた関係で、二人きりで海外出張する機会も多かった。外務省は伝統的に不倫の多い役所ですから、噂になるのもわかりますけど、でも実際はどうですかねえ」(外務省関係者)

 さらに上司との不倫ではS北米二課長との関係を指摘する怪文書が出回るなど、とにかくこのテの話は数えあげればキリがないほど流れてきたのである。

噂の真相 1993年3月号
マスコミが絶対書けない皇太子妃・小和田雅子逆転決定に見る
“現代の生贄”の検証

 ●結婚を誓い合った恋人がいた!?

 しかし、こうした無責任なデマがとびかう中で、小和田雅子を取材し続けてきた記者たちが唯一「本物」と口を揃える相手がいる。

 その相手とは東大法学部から彼女と同期で外務省に入省している男性。もちろん独身である。ここでは仮にT氏としておこう。

「T君のことは我々の間でも有名でしたよ。この何年かというもの、小和田さんの
側には常に彼の姿がありましたからね。かなり真面目なつきあいという印象でしたし、我々が小和田さんの可能性が薄いと判断したのも、T君の存在が大きかったため」(女性週刊誌記者)

 たしかに二人は東大時代からかなり親しくつきあっていたようだ。小和田雅子は外交官試験に合格したばかりの86年10月、裏磐梯へ男5人女5人で一泊二日のグループ旅行に出かけているが、T氏もこれに参加している。

 また、妃候補としてマスコミに追いかけ回されていた入省直後の頃、通勤電車の中でT氏が彼女をかばうように隣りにいる姿も何度か目撃されている。
 二人の親密さを裏づけるようにこの間、週刊誌等に掲載された彼女のプライべート写真の中にも、隣にT氏がピッタリと寄り添っている写真が何点か存在する。

 そして88年7月、彼女は外務省の在外研修でオックスフォード大学に留学するのだが、実はT氏も彼女と同じオックスフォードを希望、一緒に渡英しているのである。

 ある外務省関係者は絶対オフレコを条件にこう話す。
「二人の仲が本格化したのはこのオックスフォード時代と聞いています。ちょうど彼女が『否定会見』を開いて、お妃候補からはずれたのもこの時期。おそらくこの頃、彼女はTクンとの結婚を真剣に考えていたと思いますよ」

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2度目のお妃候補浮上に対するマスコミへ会見で述べた
小和田恒の「マスコミ報道に傷ついた」発言は、小和田雅子の怪文書に対するものであればとても解り易い。

その後、皇太子は数多にのぼるお妃候補とお見合いするのだが、・・・
一連の流れは以下の通り。

なぜかかしら、小和田雅子が入内したのち、皇后さまや信子様の身が大変な事が起きているのだ。

また紀子妃殿下や秋篠宮さまにも。

「これが雅子のしかいし」でしょうか。


1990年(平成2年)12月10日 路上インタビューを試みたフジ「タイム3」ディレクター勝本晶子氏に対し「涙を流さんばかりに笑い転げた」。
1992年(平成4年)2月13日 日本新聞協会が皇太子妃報道自粛の申し合わせ
1992年(平成4年)2月23日 皇太子誕生日記者会見「(お妃の条件について)みんなが納得してくれる人というのが必要と思う」
1992年(平成4年)4月    学習院大学史料館の客員研究員に就任。
1992年(平成4年)8月16日 千代田区五番町の元外務次官柳谷謙介氏宅でひそかに再会、5年の空白期間を忘れて近況を語る。
       柳谷氏本人がテレビで、皇太子をバンに乗せて自宅に連れて行ったと語る(拉致か?)
1992年(平成4年)10月3日 千葉県市川市の宮内庁新浜鴨場でプロポーズ(その後、雅子さんは辞退される)。
1992年(平成4年)11月28日 東宮仮御所で3度目のデート。
1992年(平成4年)12月12日 東宮仮御所で二人きりの時に、雅子さんはプロポーズに対しOKする。
1992年(平成4年)12月25日夜 東宮仮御所に両陛下をお招きして夕食をとられた“後”雅子さんを招き、初めて紹介された。
          実質的にお二人のご婚約が内定。
1992年(平成4年)12月30日 赤坂御所に小和田夫妻を招いて、両陛下がお会いになった。
1993年(平成5年)1月19日 午前8時から開かれた皇室会議によってご結婚が正式に決定。
          同日午後2時45分から東宮仮御所でお二人の記者会見。
1993年(平成5年)6月9日 小和田雅子さん皇太子とご成婚。


1993年(平成5年)10月 美智子さまが皇室内で仕切っているとのマスコミによる女帝報道が流れる。御所内の木を美智子様の指図で切ったという週刊誌での叩き。御所内の動きを知りうる人間からのリークに基づくものか。

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現在、雅子さんには、結婚前と同様な噂が囁かれている。単なる中傷だろうか・・・