June 20, 2006

日曜日よりの使者

このまえの日曜日、あっちぃピッチのウラ側から届いた声の はなし。

毎週ラジオから聴こえる いつもの素の“ウチ”向きな声。
久しく聴いてないなかった よそゆきの“ソト”向きな声。

ひとつの声なのに、なんだか二人の女の子がハモっているように聴こえる。
その二人の声の、そのあいだ。そこにある隙間に魅力を感じる。
石川梨華の声は、そんな声。

彼女の歌声は技量という名の秤にかけてみると、自己主張へは傾かない。
でもただ、声のなかの隙間をソッと聴く人に向けて開けてくれる、
詞の言葉を届けるのではなく、詞の言葉を使ってその隙間を更新していく。

自分はその隙間に吸い込まれて、何も考えられなくなってしまう。
大袈裟な物言いだけれど、そこでは考えること、考えをまとめることが難しい。
鋭利に光る論理が なりをひそめて どすーんと沈没して、
かき消されていた記憶のかすかな明かりが、その明滅がぼんやり浮かんでくる。

そして自分は決して、その明滅に焦点を合わせることはしない。
それはしちゃいけないことになっている、ということを何となく知っている。
さわれないことになっているから=ガキさんの名言なことは、よーく知っている。

焦点を合わせないことで、そのポジとネガという明滅の繰り返しは更新される。
そのひとつひとつの明かりには、ネガティブ石川な陰影がくっきり刻まれていて、
だからこそ、そこに手を伸ばしてしまいそうになるのだけれど、
それは、しちゃいけないことになっている。さわれないことになっている。
「そんなときがあったんです」と笑顔でさらっと流しちゃうくらいがちょうどいい。

こんなことは、ひとりの普通の声や、別の二人から発せられる声では、起こらない。
そこには隙間がなく、もしくは隙間というには大きすぎるスペースが広がるから。
あくまで、隙間、ひとりになれる他者の感触、身動きがとれない不自由さの豊かさ。
石川梨華の声は、そんな声。

ピンクなワンピにヨーヨー姿、とどめのカチューシャ きりりと輝く。
シャララ〜ラ ラララ ラ〜ラ♪ とハイとロウなヒトたちのサビとともに、
「あなたがいるから〜」とセンチメンタルな風に寄り添いながら、
「梨華ちゃんのおかげで〜」なんていう謳いをも思い起こさせる。
“だぶるはい”の対岸から届いた、“日曜日よりの使者”の声。




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