あ し た ふ た た び

あしたがもう一度来るってのは、もう一度チャンスをくれってことなのよ。

奈良の朝

夜行バスに揺られ、朝の5時に京都駅についた。
奈良への始発は30分後で、側のコンビニで夜行バスとコンビニの関係性に考えた。

奈良に着いたのは6時30分頃だった。

予定の時間まで、ならまちを歩く。屋根の低い町屋がリズミカルに並ぶのが楽しい。
金沢は勿論、京都とも違う町屋。一昔前なら、その違いに気付かなかったかもしれない、そんなことを思う。

角を曲がると不意に現れた坂道を下る。右手に開けた空き地が現れ、おばちゃん達が大八車に釜を積んだものに、更に薪と芋を積んでいた。

「写真撮らせてもらって良いですか?」

少し迷って、その場を通りすぎ、少し戻って、そう声をかけた。

「撮るのは兄さんの勝手やけ」

おばちゃんはそう言って、作業を続ける。

「ありがとう」

僕は写真を撮って、その場を離れた。

おばちゃんの素っ気無さが、
僕が異邦人独特の浮き足立った気持ちを照射して
なんだかとても恥ずかしい感じが纏わり着いて離れなかった。
aad973c6.jpg

便り

免疫系疾患は最低のタイミングで発現する。

帯状疱疹っていうのか否かはわからんが、身体中に皮膚の炎症が…
寝て治るかと思ったが、痒みで目が覚めるのだから、きっと病院いった方が良いんだろう。
昨日よりも確実に悪化して、顔も赤くなって来ている。

また「遊び歩いているから、そんなことになるんだ!社会人としての責任感が〜」とか言われたら面倒なので、もう少し耐えてみます。

そういう意味で他者からの外圧はあまり良い方向に機能しないものなんでしょう。

まぁ、それはさておき今年もよろしくお願いします。

生活規範とユートピア

宮台信治のブログに、

欧州の共同体が日本ほど破綻していないのは定期的にキリスト教的な罪と罰という視点で自分達を省みる文化的習慣があったからだ。日本では自分達の省みるための物指し自体が世間に寄っており(恥の文化、の恥であるか否かは世間が判断するが、時間とともに変わっていく)、ぶれるため、なし崩しに社会倫理が破綻した。

という旨の文章が書かれており、妥当性はともかく、クエーカー教徒やシェーカー教徒、アーミッシュの禁欲的生活やデザインの基盤になっている思想への興味がひゅいっと頭を起こしてきた。

日本ではどのような持続的な倫理形成のあり方が相応しいのだろうかね。

節制なんて、考えても実行に移したことなどないですが、禁欲的な生活と美しさについてしばらく考えてみたいと思います。

シェーカー教徒のような文献の少ないものを調べる時には、自分が英語を解しないことに苛立ちを感じますね。

貴方の私への期待値

632ce0a2.jpg貴方の私への期待値を想定して、その落差に私はとても絶望的な気分になるのです。

私はきっと、もっと早くて上手い仕事を、楽しくオチのある会話を、論理的かつ独創的な思考を、迅速かつ正確な行動力を求められている筈だ!

と思い込んでいるのです。


客観的に見ると、期待されていないに違いないのだが、そんなことを自分に言い聞かせるほどマゾヒストではないし、そもそも期待されていない期待をもうひとつ下回って駄目なこともあってですね、失望する顔を見るたびに申し訳なく思います。

嗚呼、もう全部うっちゃって、ひねもす薄暗い部屋の中で根暗に世界への呪詛をノートに書き付けたい。そう思うよ。


遅れていた電車が到着ですよ。明日は晴れると嬉しいものだ。

商業主義が鼻につく

バラエティー番組やポップミュージックに触れると、「お前らこんなん好きやろ?こんな程度でええのやろ?」というメタメッセージを自動的に曲解、受信してしまうようにプログラムされているのか、残念ながら、売れそうなものを見ると嫌悪感が冷静な判断より先走ります。

先日、土曜日の朝活の後にマネジメントについて話をする機会があったのだけど、いわゆる○○マネジメントというのは宣伝等外部からの情報を冷静に判断できない人間は集団の中にある一定程度は存在し、そういう人を絡めとるための手法であり、その論理の中には人間への尊敬の念などこれっぽっちもないのですよ、という話を聞き、本当かよ?と驚き桃の木山椒の木(確か会話の文脈上は「多分そうなのだと思います」という括弧つきでした)。まぁ、でも考えてみれば、これはそのポップに対する嫌悪感と重なるもののようにも思うのですが、聞いた時はマネジメントという思想がもっと人間への尊敬が土台にあると思っていたので驚きました。

物を売る手法とか、笑いを誘発する手法とか、確立とまではいかなくても、ある程度マニュアル化してるやないですか。
コンピュータで自動的に生成されそうな音楽や、脊髄反射的な芸人のコント。中身はいいから、とりあえず買えよ、とか言われてもさ。買わんて。人間馬鹿にしてんのか?!ってな感じになって、より社会的評価の低いもの、駄目なものに惹かれてしまう質みたいなんだな。


最近そのポップ的なものの、わかりやすさが現代建築の潮流やネオリベラリズムを包括して語ることができるのではないか、とか考えている。更に縄文的なもの弥生的なもの、日本建築における見立の手法という話を加えてだな。なんか形になりそうだけど、どうでしょうか。

わかりやすいって無条件で良いことってわけじゃないのではないか、と思います。わかりやすさを追及した時に少しずつ削られるニュアンスや、付加される「馬鹿なお前にはこれくらいわかりやすくないとな」というコミュニケーションを打ち切るメタメッセージはあるものだと認識しています。



いま京都に住んでいた頃に買った樫村愛子の「ネオリベラリズムの精神分析 なぜ伝統や文化が求められるか」を読み直しています。これと、内田樹の「下流志向」、更に格差社会をひっくり返すみたいな本を加えて読書会をしたいものだ。

今日 空 晴れヌ

予定を詰めに詰めた休日。仕事を貯めたまま、という罪悪感が精神的不調を引き起こし、予定が溢れることによって引き起こされる体調の不調と共にコミュニケーションの不調を連鎖的に引き起こす。

会話に誘導され、自分の意見を耳から聞くことで、立ち位置が再認識される。これを繰り返し、ただ繰り返す。現状への否定を重ねたところで情勢は変わらない。

土曜日、現代美術が表現するどうしようもく一人称であるという大前提。語られるメッセージにげんなりとする。一人称で語られた時に理解からこぼれ落ちる人間を思うと悲しい。
これは世界的な兆候なのだろうか?芸術さえも他者、社会との分断を印象付ける。まぁ、所詮裸の王さまである、と切り捨てることもできるのだが、声高に叫ぶ人を否定しきれない。既にお前が表現することが確固としているのなら、既に議論の余地はないのではないか。疑問を感じつつ、勝手にやってくれたまえよ、と言えないのは、作品を作ることが他者の無理解を量産させるだけではない反応を求めているからなのだろう、と期待に似た想いがあるからなのだろうか。

日曜日、石上純也展と民族館へ。世界をシンプルに捉えたいという希求の果てにある形の有り様に(主観です)、純粋さと過激さ、脆さを思った。また、これを提示することの攻撃性をメタメッセージとして感じた。ああいうのを見ると、部屋の隅に凝った闇のような方向性に近付いていきたいという、これまで思ってもいなかった決意が涌いてくる気もします。
民芸館、中に使われる鈍い色見に、というか、その微妙な色の選択に賛成する。あの濁った色が世界の複雑さを引き受けてくれるに違いない。

柳宗悦の掛軸、良かったなぁ。

「セカイ系」と「王権神授説」

いま思い付いただけです。
ツイッターだと、自分の書いたものも遡れなくなるので。

セカイ系と呼ばれる物語の起源がどこにあるのか、と漠然と考えていたけど、世界各国どこにでもあるだろう王権神授の神話が、その起源なんじゃないかと思い付いた。
誰かしら言ってそうだけど、ユリイカとか読まないしわからんね。知っている人いたら教えて下さい。

えーと、つまりですね。
なんか正義とされる神がいて、その神が悪神をやっつける中で土地を獲得していく、とか天地創造の物語の結末に神の子孫が王になるみたいな系統の話がきっとどこにでもあって、そういう大きな物語に取り込まれることに皆、願望があるんやろうな、と思うわけさ。無根拠ですが。

そんで、近いところではマルクス主義とかも、その系統で、市民は資本原理主義から社会的にも精神的にも解放されなければ「ならない」、と言った時の「ならない」には物語が潜んでいる。そもそもマルクス唯物史観て、物語だよね。アメリカの言う自由と正義を獲得せねば「ならない」というのもそうだと思うね。


宗教、イデオロギーが消費されたってことなんかどうなんかはわからんが、力を失って来たのは多分本当のことで、そいつの代わりにエヴァンゲリオンで人類補完計画とかが出てきたんかも知らんよね。

あれらはきっと、胎内回帰を意味していて、精神的に成長しなくていいというか、お前らの代わりに考えてやるよってことだと思います。

おっ

ツラツラと書いていたら、更に変なところに話が落ち着きそうだな。

いま思い出したのは大塚英志のめぞん一刻への評価で、あの物語は大人になる前の主人公が大人になった後もあのアパートに住み続けるという結末になるんだけど、民俗学的な物語の構成であれば、あのアパートは成長する前の若者が集まる場所で、成人すれば出ていかなければならない。
あのアパートに居着くことは成長できなかったことのシンボルである。らしいのですね。

まぁ、民俗学の物語構成をエンターテイメントで踏襲する必要があるのか否かは別にして、そういう観点から見た時に「成長しないことを肯定」しようとする物語に見える作品は増えてきているのだろうと思います。

以下はそれを踏まえて、
民衆の中の物語が成長をテーマにするのは、村コミュニティ内で成長しないことを志向する大人は不要なので、目指すべき大人の方向性は成長なのですが、
消費社会の場合は、成長しない精神の人間の方が都合が良く、また単純に物語ビジネスとしても最終的にキャラクターを成長させない方がコンテンツとして長持ちするのだと思います(極端な話だと、けいおん!のキャラクターができちゃった結婚しました、というエンディングだと、終わった後にはその作品のDVDが割られた画像がネットに氾濫すると思います)

そういった大人の事情も踏まえて、
めぞん一刻の主人公はアパートに居着くことで成長を拒否というか、そのアパートで今後も物語が続くという幻想を提供し、エバンゲリオンは人類補完計画という物語を組み込むことでテレビ版最終話の様なパラレルワールド(物語が終らないことを示唆している。実際に碇シンジ養成計画だっけ?ゲームも出たやん?)を提供した。

ここまで拡げたものを王権神授説まで戻すのは大変な気もするけど、
まぁ共同体願望みたいなものがわりと皆にあって、それは意志を他人に任せられるくらい安心したいという願望と重なっていて、そのイメージはまるきり母胎回帰なんだよね。

王様、神様、イデオロギーが提示する物語が一つのものを暗示していて、それと同じものを現行の資本主義が商品にメタメッセージを込めて配信する時に、行き着く先どこだろうか?という問い自体おかしな問いではあるけど、この問いへの答えが安易に戦争である。とか言いませんし、このメタメッセージを配信する影で世界を牛耳っている奴がみたいな話もしませんが、そういやマルクスも、世の中に支配的な意見があるとすれば、それは支配者達に都合の良い意見である、みたいなこと言っていたな、と思い出すよ。

まぁ、深読みしないでもよくて、物語が終らないのは単純にビジネス上の都合で、それを母胎回帰のメタメッセージとして読書が受け取っているか否かなんて判別しようもないことですよ。

長々書きましたが、草稿というかメモなので。

アメリカまで

という遠藤水城さんの本を読み終わった。
けっこう面白くて、今回は借りて読んだけど、見掛けたら購入してもいいくらいだ。


以下に思い付いたことをツラツラと書きます。脈絡はないです。頭の悪さ爆発みたいな感じなのは、具体的改善の方法をご指導いただければ嬉しいです。


ある美術作品について価値判断ができるという時には、社会的にそれを量るための基準が既にあるということで、現代美術の価値を量る基準というのは「発想の転換法」「問題の立て方」「知的な仕掛け」「社会に対する注釈のつけ方」が問題になるらしい。

なるほどな、とは思って読みましたが、これでは現代美術とは目の前にあるものではなく、その過程そのものである、と言ってしまっているわけでしょう?釈然としない。

あーでも、そうか。

漫画でも建築でも同じことか。


私は美術史などかじったこともないので、現代美術の先駆けがマルセル・デュシャンの「泉」なんだろうか?とか知ってる人が聞けば「なにとんちんかんなこと言っているのか?」というような感じなんだけど、それはまぁおいておくとして、現代美術が既存の思考スキームを打ち破ることを命題に始まったと仮定した時に、既に打ち破る思考スキームという概念自身が破綻しているように見えるんだけど、それは現代美術の意義みたいなものを揺さぶったりはしないんかな?その手法が美術による表現ではなく、政治や環境などの社会問題にフォーカスされる時の新鮮さのみで生き長らえているように感じる。そういった命題は時事問題を取り込むことで一定の新奇性を獲得するだろうけど、いずれ形式化されるのであれば、デザインとの境界はなくなるのではだろうか。

まぁ、そういったことが本当に目的であるなら、一度使われた手法で違う作品が再生産されていく意味とはなんなのだろうか?



めるろさんが生活工芸展について言及していたように(と言ってもうろ覚えなのですが)、生活がどこに根差すのか、伝統工芸に対置するのか、と考えた時に、伝統工芸によって演出されていたもてなし文化の破綻によって、生活という概念で工芸をくくることも成り立たなくなったのではないか、というような疑問にも通じるのではないか。

大塚英志の「物語の命題」を読んで感じたこととも少し被さってくる。
物語の型式を踏襲するという手法を、意識的に離れる時に生じる非倫理性が、日本の漫画を中心とした物語ビジネスに蔓延るように、美術の世界にもその非倫理性は確実につながっているように感じた。その倫理自体が既に価値を持っていないのだろうけど。

と、書いては見たけど、美術が人間性を高めることに寄与した過去はあったのだろうか?と考えると、もともとそんな倫理性を期待するものではないような気もするな。

むしろわりと頻出するであろう母胎回帰的なテーマも、成長の逆行を許容しているわけで、

あー、

問題は何故今更母胎回帰なんか、てところにフォーカスされるべきなんかな?そのなかで、人が成長逆行を求める社会の生きづらさを〜とか言うんかな?


長谷川裕子さんへのインタビューで、シンプルにやっていると言った時に、遠藤さんはとても感じ入っているようだったけど、遠藤さんとは逆のベクトル人やと思うけど、どうなんかね。まぁ、俺はシンプルは無理やな、そうありたいものだけど、きっといくつになっても人情とか切り離せないわ。

村上隆さんとのメールでのやり取りは、遠藤さんからの繰り返し出てくる、海外で日本人のアートが評価されるときにはローカルなものが記号化、商品化されているのではないのではないか?という質問に、村上さん自身は、そういった問題は個人が問題に感じるなら、その問題について真摯に取り組めばいいことという風情で(そんなこと言ってないけど)、遠藤さんの答えの出ないことを人につい聞いてしまう感じが、若いって良いねって感じで好印象。お前何様?って言われそうやね。

お前どんだけ美術見てそんなこと言ってんねんと言われたら、すいません、くらいしか返す言葉もないのですが。

まぁ、またご指導ご鞭撻よろしくお願いします(=つっこんでください、ということさね)。

月曜日の朝

謝罪で始まる月曜日の朝、電話越しに頭を下げる。
先方は酷く御立腹のようだった。

声のトーンなど、もとより高い方でもないのだが、自分が思っていた以上にトーンを下げられることを発見して、灰色の新鮮さに感じ入っているところを、所長から「もっと明るい声でないのか?」とリクエストがかかる。更に続けて、どこか調子が悪いのか、と聴かれたので、すこぶる快調です、と相変わらずの声のトーンで返事した。

空は私が溜め息を吐く度に曇り、先行きを隠していった。
午後には雨が降り、その激しさは私に進路を見失わせるほどであった。
とか自意識に溢れた文章を書きたくなるような月曜日が過ぎ、火曜日もさほど進捗しない仕事を抱え帰路につく。

地球最後の女の子

26fd52c5.jpgふと地球最後の女の子なら恋できそうだ、と思い付いた。

我ながら馬鹿なことを思い付いたものだと思うけど、星の数ほどいる女性の内から1人だけ選ぶのは難しいものなんさ。
いえ勿論、選択権は自分にないことくらいはわかっているのでござぁますよ?
しかしまぁ、自分にないのは選ばれようと努力する情熱みたいなものが最も欠けていて、負けるのを予測して勝負をなげていると推察されているに違いないので、向こうから指名してくれるか、それでなければパイプカットしてくれれば良いのに、と思ったりして、パイプカットしてくれる女の子を想像して勃起するんだな。

今年は女性と知り合う機会が増えたけど、もう半分くらいは顔も名前もでてこない。

正直、誰でも良いなと思うけど、それは結局は選択できません、と言っていることと同じわけで、猿にラッキョウの皮を剥かせたら、中身は空だったみたいな話なわけで、しかし本来なら匿名性女子の中からインディージョーンズが聖杯を探すが如く「本物はお前だ!」って言わなきゃならんのやろうし、村上春樹なら「君は僕にとって100%の女の子だね」って言わなきゃならんのやろうさ。

まぁ、そうは言ってもね。困るよね。

世界最後の女の子が居てくれれば、僕も世界最後の男の子になってもいいんだけどさ。

以上、世迷い言
プロフィール

ヨシダ ケンジ

1982年 富山県生まれ
2004年 東洋大学工学部建築学科卒業
その後、大阪の建設コンサルタントに3年間勤め、現在は金沢市内の設計事務所に勤務する。

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