2005年08月10日

シュート打ってよ、マサルくん!

ワールドカップの話をしよう。
来年のドイツではなくフランスワールドカップの話だ。
日本人が誰ひとり見ることのなかったであろう、幻のフランスワールドカップ・・・。
× × × × × × ×

「マサルちゃんこっちこっちー!僕ーっ!んもぅ!僕にも蹴らせてよーっ!」
清は大きな石をふたつ並べて簡易ゴールにしたその前でふくれっ面だ。
「あー、なんだァ、清いたのかァ」といたずらっぽく笑うマサル。
「マサルちゃん自分ひとりでやってて面白くなーい!もうやめるーぅ!」となおも清は頬を膨らませている。
他にいた清と同年代かそれより年下の近所の子たちも不満気ではあるものの、マサルの魔法のような球捌きに目を奪われ、必死でボールに触れようとするのに軽々と抜いていくマサルに憧れの眼差しを向ける気持ちの方が強かった。

 岐阜県は長良川河畔の広っぱ。まわりに転がる小石やゴミを片付けただけの雑草と土のピッチ。
ところどころ土が盛り上がったりへこんだりしているがそれを気にする者はいない。
マサル以外は目にした事のない本皮のサッカーボール。それを見せびらかすかのようにマサルはリフティングをして見せた。
足の甲、膝、頭、肩、首筋をぐるっと回して胸に留め、また足の甲…。
それはいつまでも続いた。
「よーし、じゃあ4対4で試合をしよう!」マサルがそう言って試合を始めたものの、マサルは自分がボールを持つと誰にもパスを送らず、ひとりでドリブルをし、ふたつ並んだ石の間を確実に通すシュートを決めるのだ。
遠くまで行ったボールをマサルの妹の冨美が嬉しそうに小走りで拾いに行く。
4対4の試合のはずがその内マサル対冨美を入れた相手8人のボールの取り合いになった。
それでもマサルはまるで磁石でボールを引き寄せるようにコントロールし、誰ひとり触らせることはなかった。
やがて清はそんな遊びに完全に飽きてしまい、持って来ていたバットとボールで野球を始めてしまった。
他の子達も馴染みのないサッカーよりは普段自分達も遊んでいる草野球の方に興味が移り、マサルは冨美ひとりを相手にまたリフティングを披露するしかなかった。
6歳離れたそんな兄を、冨美は飽きることなく目をキラキラさせて見つめている。

 1936年8月4日、ベルリンオリンピックで日本は優勝候補の一角と目されていたスウェーデンに2点のリードを許しながらも同点に追いつき、このまま終わるかと思われた試合終了5分前、日本の選手が猛烈にドリブルを始め、相手DFを抜き去り、最後はGKの股を抜く見事な逆転ゴールで勝利を飾った。
“ベルリンの奇跡”である。
しかしその3日後、日本はイタリアに8点を献上する被完封試合で大会を終え、選手団は日本への帰途についた。
 オリンピックでベスト8になったことで選手達はもちろん、それまで不遇をかこっていた日本サッカーにも陽が当たり、それは遡ること十数年前にアストラ倶楽部というサッカー団を率いていたチョウ・ディンというビルマ人による、それまでの英国仕込みのロングボール主体のサッカーからショートパス主体のサッカーへ転換させた、現在にも連綿と繋がる日本サッカーへの贈り物でもあった。
ベルリンの奇跡は、日本のサッカーが当時は大学サッカーが主であったため、関東リーグが行われていた1924年10月25日竣工の明治神宮競技場を観客でいっぱいにした。明治神宮競技場は現在の国立競技場の前身であり、当時から日本サッカーの聖地であった。

 翌1937年、マサルは早稲田大学の2年生になっていた。
ベルリンの奇跡はマサルが所属する1924年9月17日創部の早稲田大学ア式蹴球部にも大いなる活気を与えていた。
それも当然の話で、奇跡を起こした16人中10人が早稲田の選手だったのである。しかも早稲田ア式の監督をしていた工藤孝一もこのとき東大の竹腰重丸とともにコーチとして代表選手団に加わっていたのだから活気がないわけがない。
 マサルは前年に起こった奇跡を、右肘靭帯断裂というサッカーにはおよそ似つかわしくない怪我により、故郷の岐阜で病がちの母親と妹の冨美の三人で関係なくやり過ごした。
近所の家からは大学生のマサルが東京から帰って来たということで、雑音交じりではあるが日本の活躍を伝えるラジオを是非聴きに来いと執拗に誘いの言葉をかけられたが、そして母親もそうしろと言ったが、マサルはそれを丁重に断り、自分が大学に行ってるおかげで仕送りをしてやれないばかりか、4年前に現地軍として満州事変で死んだ父親の恩給を食いつぶしているせめてもの償いとして、母子三人の時間を慈しむようにして過ごした。
しかし、近所に住む野球が大好きな幼馴染の清の誘いだけは別だった。
清はマサルより三歳年下だったが幼い頃から負けん気が強く、よく一緒になって近所の長良川で魚を突いたり鵜飼船を見つからないようにちょっとだけ漕いでみたり、キャッチボールをやったりして遊んだ弟のような存在だった。
だからマサルは大学から隠して持ち帰っていたサッカーボールを見せたくて冨美と一緒に外に出たのだった。

 そのマサルの怪我も治り、ベルリンの奇跡によって世間の注目を集めている関東大学リーグ緒戦には人一倍燃えていた。マサルは厳しいことで有名な工藤監督からレギュラーに抜擢されたただひとりの2年生なのである。
1903年11月21日に第1回が行われた早慶野球と違ってまだ早慶サッカーは行われておらず、早慶サッカーで盛り上がるには1950年10月1日まで待たなければならなかったが、1万を越す観衆で埋まった明治神宮競技場の公式戦でボールを蹴るのは晴れがましく、観衆の興奮がまだベンチにいるマサルの気持ちを一層奮い立たせるのだった。
練習で気を抜いている選手には石を投げつけることもあった工藤監督はしかし、マサルにアップを命じる事はなく、結局この年は昨年まで4連覇を成し遂げていた関東大学リーグの覇権を明渡してしまうことになるのだが、それまでにはまだもう少しの時間があった。
 先にベルリンの奇跡を起こした日本代表16人中10人が早稲田の選手と書いたが、他には慶応、東大、そして当時は日本の一地域であった朝鮮半島からも金容植(普成専門)が加わっていた。
そういった錚々たる日本代表のライバル達の中に何とか割り込もうとマサルは必死だった。
翌1938年はフランスでワールドカップが行われるのだ。
オリンピックに次いで今度は世界のサッカーの桧舞台で日本の強さを見せつけてやる!
マサルに限らず、ア式のチームメイト達もみんな燃えていた。必死だった。
しかしマサルにはそれだけではない思いがあった。
ここで活躍すれば名前が知れ渡り、就職に有利だとの思いがあったのだ。
岐阜で暮らす母親は寝たり起きたりの生活をしながらそれでも内職を続け、13歳になる冨美を養っている。
戦死した父親の恩給はほとんどマサルの学費に消えていたのだからそうしなければ冨美を養ってはいけなかっただろう。
マサルはフランスワールドカップで活躍して帰国したら早稲田を退学しようと考えていた。
せっかく無理に入れてもらった大学だけど、これ以上母と妹に負担をかけるわけにはいかなかった。
男は自分ひとりなのだ。
その後のリーグ戦でマサルはとうとう途中出場を命じられ、CF(センターフォワード)のマサルが入れた1点を守りきり、次の試合からは先発を任されるようになった。
この年の3月をもって、ベルリンの奇跡を起こすことになる1点目を入れたア式のキャプテンでもあったCFの川本泰三が卒業したこともマサルには幸いしていただろう。
マサルはそれでも有頂天になることなく、後には川淵三郎現日本サッカー協会会長をも指導することになる厳しい工藤監督のしごきに耐えてレギュラーを不動のものにしていった。

いよいよ来年のワールドカップ出場をかけて戦う予選の相手国が決まった。
オランダ領東インド。現在のインドネシアである。
マサルは日本代表に選出された。
19歳での選出はチーム最年少。

マサルは岐阜の母と妹に手紙を書いた。
とても長い手紙になった。
 
   僕は自分のために蹴球をしているのではありません。
   母上と冨美の幸せのために球蹴りをしているのです。
   今まで親不孝をした分、必ずふたりを幸せにしてみせます。
   そうしますから、絶対にそうしてみせますから、今しばらくの辛抱です。
   
手紙の最後はそう結んであった。

その二週間後、今度は母と冨美から返事が来た。
マサルは母親の書いた文字を目にするのは初めてだった。
鉛筆書きのその文字は細く、ひらがなが多くて読み難かったが、マサルは一文字一文字声に出して読んだ。
封筒の中にはもう一枚、清からのメモ書きみたいな紙切れも一緒に入っていた。
そこには汚い字で「シュート打ってよ、マサルくん!」とだけ書いてあった。
マサルは万感の思いで涙し、長良川近くに住む家族と幼馴染に遠く思いを馳せたのだった。




1937年7月7日、北平(現、北京)郊外の盧溝橋付近で日本軍が夜間演習中、中国第29軍側からの発砲を受けた。
盧溝橋事件である。

 7月8日 日中両軍が交戦
 7月9日 日本軍特務機関長・松井久太郎大佐と北平市長兼中国第29軍副軍長・
  秦特純の協議で停戦合意成立
 7月9日 参謀本部作戦課(課長・武藤章大佐)が「北支時局処理要領」を作成
 7月9日 日本政府、臨時閣議
  不拡大方針を確認
 7月11日 五相会議
 7月11日 臨時閣議
  中国への派兵を決定
 7月11日 北平で停戦協定調印
  中国軍側の謝罪、撤退を決定


しかしこの事件はそれだけでは収まらず、日本と中国の戦争へと発展していくのであった。世に言う日中戦争(支那事変)である。
当然日本のワールドカップ予選への参加は取りやめになり、以後太平洋戦争を挟んで日本のサッカーは大きく衰退の一途を辿ることになる。


 7月11日 五相会議
 7月11日 日本政府、臨時閣議で派兵を決定
 7月11日 北平で停戦協定調印
  中国軍側の謝罪、撤退を決定
 7月17日 蒋介石が抗戦演説
 7月26日 広安門で日中両軍が交戦
 7月27日 日本政府、内地からの増派を閣議決定
 7月29日 通州事件
 8月 船津工作
 8月9日 大山中尉事件
 8月13日 第2次上海事変
  日本軍、上海を占領
 8月17日 日本政府、不拡大方針放棄を閣議決定
 9月2日 日本政府、「事変呼称ニ関スル件」を閣議決定
 9月23日 中国・国民党、第2次国共合作を宣言
 11月〜 トラウトマン工作
 11月18日 大本営令公布 (即日施行)
 11月20日 大本営設置
 11月20日 中国・国民党政府、重慶への遷都を宣言
 12月12日 レディバード号事件
 12月12日 パネー号事件
  日本海軍機、米警備艦「パネー」を撃沈
 12月13日 日本軍、南京を占領
 12月13日〜 南京大虐殺
 12月24日 日本政府、支那事変対処要綱(甲)を閣議決定
1938(昭和13)年1月10日 日本軍、青島を占領
 1月11日 御前会議
  御前会議で「支那事変処理方針」を決定
 1月16日 第1次近衛声明
 5月5日 国家総動員法施行 (4月1日 公布)
 5月19日 日本軍、徐州を占領
 5月〜 宇垣工作
 6月 孔祥煕工作
 7月26日 宇垣・クレーギー会談
 10月27日 日本軍、武漢三鎮を占領
 11月3日 第2次近衛声明
 12月22日 第3次近衛声明
1940(昭和15)年3月30日 汪兆銘政権(南京政府)成立
 8月19日 日本海軍、零式艦戦を戦線に投入

                (盧溝橋事件については「統合戦争辞典」より抜粋引用)
                


マサルは1940年に日本軍に初めて導入された零式艦上戦闘機、通称ゼロ戦の三番目となる出撃により還らぬ人となった。
22歳の若さだった。
10月23日。
奇しくもこの日、遠くブラジルの地では後に「KING」と呼ばれることになるサッカーの偉人が生まれている。


岐阜商野球部で全国制覇を成し遂げた後、早稲田野球部で捕手から外野手に転向し、打者として活躍した近藤清は1943年10月16日に行われた「最後の早慶戦」で3番レフトを守り、慶應の別当(戦後タイガース−オリオンズ)と互角に渡り合う好打者ぶりを見せ、1945年4月28日、特攻機に乗って沖縄に出撃したまま還らぬ人となった。
学徒出陣直前に行われたこの「最後の早慶戦」については、後に小説や映画として発表された『英霊たちの応援歌』に詳しい。



日本がこの後、ワールドカップ初出場を果たすまでには60年もの長い歳月が必要だった。それはこの当時の誰もが想像しえなかったことだろう。
そして日本がワールドカップ初出場として踏みしめた、マサルが踏もうとして果たせなかった緑に輝くピッチはフランスにあった。






*当記事は<FC JAPAN>より「賀川サッカーライブラリー」の記事と<マネー教育への挑戦状!>より「日本サッカー昔話」の記事を参考にしています。

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この記事へのコメント
人様のブログに長文のコメントを付けるのはマナー違反だとは思いながら、書かずにはいられません。

とても面白く拝見しました。
この話の根幹(主人公のマサル個人の境遇)はおそらくフィクションだと思いますが(違っていたらすみません)、その他、戦争やア式蹴球部、当時の全日本に関する記述は調べてみたら全部実話なんですね。
「キング・ペレ」の誕生日を調べて、その日にマサルがゼロ戦で特攻して亡くなる設定にするなんて…。
しかも本当にその日にゼロ戦で亡くなった方がいるなんて!!
Posted by T.Matsushita at 2007年12月18日 03:51
驚きました。
事実がどうなのかを検証するのがとても楽しく、事実と貴エントリーの内容が合致する度に鳥肌が立ってしまいました。
他のエントリーもそうですが、とても幅のあるサッカーにまつわる話ばかりで、気がつけば4時間にわたって読みふけってしまいました。朝起きれるかなぁ(苦笑)。
サッカーの素人観戦記や、記者・サッカーライターによるゲーム記録?はネット上に溢れかえっていますが、正直面白いと思うものがあまり見当たりません。
ほんの数人の方の書く物を読んでそれでおしまいです。
Posted by T.Matsushita at 2007年12月18日 03:53
他のエントリーでは記者席での話や記者会見での未発表のエピソードなんかの記述があるところから判断すると、おそらくそういう場に居られる立場の方だと思うのですが、匿名のブログをやっているってことは、きっと聞いても明かしてはくれないんでしょうね。

随分と古いエントリーにコメントしましたが、読んでいただけることを願って…。
どうか更新頻度をお気になさらずに、ご自分の書きたいことだけを書かれるよう願っています。
でも是非やめないでいただきたいことは思いを込めて伝えたいと思い、滅多にしないコメントをしてみます。

それでは長々と失礼しました。
どうかお許し下さい。
Posted by T.Matsushita at 2007年12月18日 03:53