2005年10月14日

ある物語

ホワイトアウトと言うのかゲシュタルト崩壊と言うのか、あるいはそれらを総称してパニックと言うものなのか、とにかく冷静になった今でもあの瞬間のことはうまく思い出すことが出来ない。

歓喜の物語であっても絶望の物語であっても、わずかな隙間に隠れた小さなブラックホールのような瞬間が必ずどこかに存在する。

もうあれから二週間が過ぎた。
9月27日14時過ぎ頃、日本サッカー協会のウェブサイトで東欧(ラトビア、ウクライナ)遠征の日本代表メンバーが発表され、そこに彼の名前を見つけてから、だ。

箕輪義信である。
川崎フロンターレの屈強なDF、ミノワ・ヨシノブ。

それを望んで、その名前を見つけるためにパソコンをONにしたのだ。
強く願って、すがるように祈って、おそらくはマバタキもせずに名前を追ったのだ。
にもかかわらず、実際にその名前を目にした瞬間、何がなんだかわからなくなってしまった。

今はもうわかっている。
何が起こったのかを確実に理解している。
その時から箕輪義信はサッカーの日本代表選手になったのだ。


× × × × × × × × × × × × × × × × × × × × ×


箕輪義信の経歴は川崎フロンターレのHPに掲載されているのでここで詳しく書くことはしない。
ご存知ない方は最後のリンクでざっと確認してみて欲しい。

彼の今までのサッカー人生における一番最初の大きな転機は1992年に神奈川県立弥栄西高校のサッカー部に入部したことだろう。
そこで今も師と仰ぐ大野真に出会ったことだ。
こちらも最後に大野真を紹介するURLを貼っておくのでどうかご覧いただきたい。
箕輪は大野が去った今も母校のサッカー部に呼ばれては、ちょっとしたアドバイスを後輩たちに話す義理堅い一面を持っている。
高校時代は川崎の自宅から最寄の駅までと、淵野辺の駅から高校までの二台の自転車を用意して通学していた。

箕輪の恵まれた体格を見込み、高さに対する自信と闘争心を植え付けたのが大野なら、「いつ誰がおまえのプレーを見ているかわからないんだから、どんな時でも一所懸命、全力でプレーしなさい」と諭したのも大野である。
箕輪にとって大野は、越えようとして越えられない偉大なサッカーの父なのかも知れない。
その大野の薦めもあって、高校卒業後は仙台大学に進んだ。
進学にあたって箕輪の頭の中にはプロと言う文字はなかった。
大学卒業後には体育教員の資格が得られるという、現実的なことを踏まえた上での進学だったのだ。
そこで箕輪はユニバーシアード代表に選出され、初めての海外遠征で対外試合を経験しているが、ご存知の通り日本でのユニバーシアードと言うのは一般的にはほとんど重要視されていないため、その時点で箕輪義信の名を記憶に留める者はほとんどいなかったろう。
しかし、弥栄西高で出会った恩師が言った通り、見ていた人間は確かにいたのだ。
教育実習を間近に控えたある日、箕輪は大野に呼び止められる。
箕輪に用があったのは当時ジュビロ磐田でスカウトをしていた山田松市(後に湘南ベルマーレ監督)だった。
「君の持っているものをジュビロに預けて欲しい」
山田はそう言って1999年に他のふたり(西紀寛と金沢浄)と共に箕輪をジュビロ入りさせた。

しかし、日本一の名だたるチームの中で箕輪は苦悩することになる。
レベルの高い練習についていけない自分を感じる日々。
ジュビロに入れたことの喜びも束の間、毎日の練習に呻吟し、歯を食いしばるのがやっとだった。
それでも二年目になるとどうにか違和感なくチームの練習にも溶け込み、そうなると当然の事ながら試合に出たいという欲求が湧いてくる。
箕輪は当時の監督であるハジェヴスキーに出場を直訴するも「経験がないから使えない」という、入団二年目の選手にとっては酷な理由により出場を果たすことが出来なかった。
ちなみに箕輪がプロとなった1999年、ジュビロはJリーグ1stステージ、Jリーグ年間、アジアクラブ選手権、アジアスーパーカップのタイトルを総なめにしている。
翌2000年になっても箕輪はチャンスを与えられず初めて移籍を考え始める。
そしてそれはその年の9月に現実のものとなり、自身の出身地である川崎フロンターレに完全移籍を果たした。

しかし、出場機会を求めた移籍だったものの、前年にJ2からの昇格を決め、この年から初めてのJ1を戦っていたフロンターレは成績もさることながら、チームのお家事情も決していい状態とは言えなかった。
2000年の年間を通して三人の監督が入れ替わるというチーム状況。
そんな状況の中にあって箕輪のモチベーションも揺れ動いていたであろうことは想像に難くない。
それでもこの年、とうとう念願のプロ公式戦初出場を果たす。
11月11日のホーム等々力スタジアムで行われたJリーグ ディビジョン1, 2ndステージ 第12節 vsC大阪戦で入場者数5,024人の前に立った箕輪の気分はどんなものだっただろう。
この試合で箕輪は痛恨のPKを与えるファールを犯して失点を喫するも、試合は90分を終えて3−3の同点。
当時はまだあった延長戦に突入し、延長後半の113分、今もフロンターレで箕輪とピッチの右サイドを仕事場としている長橋康弘が勝ち越し点を決めて4−3でゲームに勝利している。
それでもチームは年間通算30試合を戦い、7勝19敗4分の圧倒的最下位でJ2へのUターンを余儀なくされた。

翌2001年は新監督に堀井美晴(現フロンターレU−18監督)を据えて44試合を戦う過酷なシーズンのスタートを切るも、実質的には期待の新戦力として前年にサンパウロFCからコンサドーレ札幌にレンタルされていたエメルソンの完全移籍による獲得と共に、受け入れざるを得なかったブラジル人ヘッドコーチのピッタが現場の指揮を執っていたのだった。
箕輪をはじめ選手達はみなこの一年でのJ1復帰を目指していたが、選手と指揮官(ピッタ)のコミュニケーション不足などもあり序盤から黒星を重ね、選手達の間にも徐々に不協和音が生じ始めていた。
しかし、昨年末までのフロント刷新により今シーズンよりクラブ運営の指揮にあたっていた代表取締役社長の武田信平と事業本部長(GM兼任)の福家三男は、昨シーズンで一度リスタートを余儀なくされていた戦力と監督コーチ陣を冷静に見ていた。
いよいよ負けが込んできた7月、フロントはあっと言う人事を敢行した。
現場での実質的な指揮権を持たなかった堀井に替え、そのシーズン途中の5月15日に大分トリニ−タを解任されていた石崎信弘を監督に据えると、さっさとピッタとエメルソンをセットで浦和に売却してしまったのだ。
チームを去ったのはいずれも前職者(強化担当責任者と代表者)が残していった人事だった。

石崎はトリニータに招聘された1999年と翌2000年、二年連続で勝点1差で昇格を逃し、5月15日の解任後は実家のある広島で、当時「超攻撃的サッカーをしていた」(石崎)サンフレッチェ広島の練習場に通いヴァレリー監督による指導を勉強したり、あるいはその年のワールドユースを見るために30数時間をかけてアルゼンチンまで飛んだりもしていた。
その後、7月18日に自身の好きなリーガ・エスパニョ−ラに指導者留学をする予定ですでに世話になるクラブとの話も決め、飛行機のチケット予約も済ませていた。
フロンターレの福家から監督のオファーがあったのはスペインへと旅立つわずか三日前、トリに−タを解任されてちょうど2ヶ月目となる7月15日のことだった。

石崎は東芝サッカー部(コンサドーレ札幌の前身。本拠地は川崎にあった)を1993年に引退後サッカーを離れ、東芝の社員として生活していく覚悟を決めていた。
他の同期社員より仕事において出遅れていたため、焦燥感があったと言う。
だから誰よりも早く出社し、誰よりも遅く退社するというサラリーマン生活を送っていたのは、あながち川崎出身の妻に対して申し訳ないという気持ちだけではなく、生来の負けん気からだったのかも知れない。
その石崎が浜松町にある東芝本社での一年間のサラリーマン生活を捨て、当時JFLに籍を置くNEC山形改めモンテディオ山形の監督に就任したのは1995年のことだった。
彼をして再びサッカーの世界に身を投じる気にさせたのは、故郷の広島県立広島工業高等学校で同期として共に高校選手権3位を戦った金田喜稔や一年後輩の木村和司らとの再会があったからだった。
金田や木村は石崎にサッカーの世界に戻る事を故郷の広島弁で熱心に勧めた。
いや、もしかしたら金田らは自身のサッカーに対する情熱を語っただけなのかも知れない。
いずれにせよそれは石崎にとってはしばらく置き去りにしていたはずの心の中にあったサッカーに対する止まない情熱を鷲掴みされるに充分な言葉だった。
そうして彼は再びサッカーの世界に身を投じることになり、紆余曲折の末、良く知る川崎の地に、今度はプロクラブの監督として舞い戻る事となったのだ。
しかしそれとても迷いがなかったわけではない。
同シーズンに同一リーグの他クラブ監督就任なのである。
この時石崎の迷いを吹っ切らせたものは一体何だったのか・・・。

監督が替われば選手達のモチベーションは一時的にせよ上がるのは理の当然。
それまでは3バックをやったり4バックをやったり、それに合わせてポジションもストッパーだったりCBだったりと決まっていなかった箕輪だが、ほぼレギュラーを掴みつつあったその座を、監督が替わったからといってそうやすやすと他の誰かに明け渡す気など毛頭なかった。
結局シーズン途中から石崎が指揮を執った2001年は7位でJ2リーグを終えることとなったのだが、シーズン後石崎は就任したばかりの一戦目とニ戦目の敗戦が大きかったと述懐している。
その一戦目は新潟戦で箕輪は出場停止、二戦目は石崎の古巣でもある山形戦で箕輪は復帰したものの1−0で勝っていた残り15分、「箕輪の思わぬミスでボールをかっさらわれ」(石崎)失点し、延長Vゴール負けを喫した試合だった。

なお、チームを振り返ればリーグ戦を終えた後の天皇杯はフロンターレ・サポーターを深く悲しませるものとなった。
というのも、フロンターレはこの年の天皇杯をベスト4まで勝ち進んでいるのだが、その過程においてJリーグと天皇杯の皮肉なスケジューリングにより、11月中にはチームが保有する約半数にあたる15名の選手が戦力外通告を受けた上で勝利を重ねていたのだから。
そして迎えた12月29日、神戸ウイングでの天皇杯準決勝。
相手は清水エスパルス。
それほど深刻ではない怪我から復帰してベンチ入りしていた箕輪は1−2と1点ビハインドを負った直後に、エスパルスからフロンターレに移籍して、このシーズンを限りに引退を発表していた向島建(現フロンターレ育成部)と共にピッチに送り出された。
負ければ共に苦しいシーズンを戦ってきた15名のチームメイトとのプレーは最後となる。
向島はベンチで箕輪と共に「みんなのために、少しでも長くこのメンバーで一緒にプレーするために、もし出られたら全力で頑張ろう」と話していたと言う。
しかし、その頑張りもあと一歩が届かず敗戦。
箕輪は去り行くチームメイト達と共に涙を流したのだった。

迎えた2002年。
石崎は宮崎県の綾町でチームを始動させた。
このキャンプにおいて石崎は一からのチーム作りを目論んだ。
トレーニング方法には自信を持っている。
練習メニューを午前と午後に分け、午前はJ2の長丁場を乗り切るための徹底したフィジカル・トレーニング。
午後はボールを扱った、止めて蹴るといった基本技術と、1対1の対応、クロスからのボールの受け方といった基本的な個人戦術のトレーニング。
しかしキャンプが進むと午後は戦術的なトレーニングが増え、ここで石崎が選手に求めたものは主に中盤からのプレッシングとサンドだった。
昨季の石崎はシーズン途中からの指揮ということもあり、自分達からは仕掛けないリアクション・サッカーが主だった。
しかしこのキャンプでのトレーニングを見る限り、新シーズンは昨季とは違ったサッカーを指向しているのは明らかだった。
相手ボールホルダーに対してひとりが果敢にプレスをかけると同時に、すぐにもうひとりが詰めて挟み込んでボールを奪取する、それの繰り返し。
しかし実際には90分間ずっとプレスをかけ続けられるチームは世界広しと言えどひとつもない。
だから石崎はプレスをかける位置とタイミングを選手達に伝え、ボールを奪ったら素早く前線に預ける戦術を取った。
箕輪は異常に体力を使うこの戦術が決して嫌いではなかった。
しかしながら前年に石崎が来てから3バックの右ストッパーを自らのタスクとして与えられ、このキャンプでやり始めたプレッシング・サッカーと言うものの弱点をシーズンが始まってから思い知らされることにもなるのだが。
それは中盤から前の誰かひとりでも己のタスクを放棄すると、途端にバックにかかる負担が重くなりすぎることだった。
フロンターレはラインディフェンスのチームではない。
よってオフサイドトラップは戦術の中にはなく、ディフェンスの押し上げが曖昧になることも決して少なくはなかった。
実際シーズンが始まると前線のベンチ−ニョがプレスに行かず、中盤のプレスが緩んでしまい、その結果として怖がったDF陣がずるずると下がって相手にバイタルエリアを明渡してしまうシーンも多々見られた。
ともあれ箕輪はシーズンが深まるにつれ、毎日の練習の中で確実に石崎の意図を感じ取っていった。
それは他の選手も同様で、きっと体がキツさに慣れていったことが大きな要因だったのだろう。
しかしながら健闘はしたもののこのシーズン終わりも昇格までは手が届かず、4位の成績で終わっている。
だが選手達も、またサポーターも「来季こそ」の手応えをつかんだシーズンとなったのは間違いないだろう。

明けて2003年のシーズン前、石崎は自分の好きなリーガエスパニョ−ラの観戦のためスペインにいた。
お気に入りのバルサは不調で見るべきものはなかったが、その代りベティスが試合で見せたアグレッシブなプレッシングサッカーは石崎を熱くさせた。
石崎はしっかりとそれを脳裏に焼き付けて帰国すると、キャンプでは前年にいたフィジカルコーチに替わってシーズンを通して肉体的にキツい戦術を敢行出来るためのハードなメニューを選手達に課した。
そしてシーズンが始まってからも練習場ではスペインで見たベティス式プレッシング・サッカーの細かな点をフロンターレ用に修正し、より前線からの連動したプレッシングをチームに浸透させた。
ちなみにシーズン前のスペインでは、この年大宮からフロンターレに加入したホルヘ・ルイス・デリー・バルデスの双子の兄弟であるフリオ・セザール・デリー・バルデスと会ったりもしている。

このシーズンはチームとしてやることが明確なためか、フロンターレに大きな綻びは見られなかった。
箕輪も他の選手達もみなやるべきことをしっかりと認識し、毎試合鬼のようなプレスをかけ続けた。
冷夏だったこともチームには幸いしただろう、石崎がフロンターレ流プレッシング・サッカーの手綱を緩めることはなかった。

箕輪はこの年の6月2日で27歳になっている。
サッカーの世界には選手としてのピークは27歳であるとの説がある。
もしそれが本当なら箕輪はこのシーズンがピークの年だったことになる。
ジュビロでは出場機会が与えられず、フロンターレに移籍してからはとにかくレギュラーとして一試合でも多く試合に出て、チームがJ1昇格を果たすことが最大の目標だった。
箕輪には華やかなサッカー経歴がないゆえの劣等感があるのだろう。
27歳となりそこそこのキャリアを積んでも人の話をよく聞いた。
相手はチームの高畠コーチであったり高校の恩師である大野だったり、はたまた大学の友人だったりと様々ではあるが、まるでサッカー部に入部したての新人のように素直に聞いた。
だが、その劣等感をそのまま抱え込んでいたのではプロアスリートとしての大成は望むべくもない。
箕輪は劣等感をバネとした。
プロとしてのプライドもある。
大事な事はそのプライドの使い方を誤らないことだ。
箕輪は誤らなかった。
それはストイックなまでの練習に対する姿勢に現れていた。
この年の箕輪は例年以上に真剣に練習に取り組んでそれは寡黙を生んだ。
一所懸命。
使い古されたこの言葉が違和感なくトレーニングウェアの背中に張り付いていた。

チームは順調に見えた。
見ていて楽しいサッカーでもあった。
新加入のバルデスの怪我による出遅れと、やはり新加入のジュニ−ニョがチームに完全にフィットしていないように思える以外はこのままJ1昇格への階段を昇っていくかに思われた。
しかし、そこはやはりサッカーだった。
シーズン終盤になって昇格のライバルである広島・新潟が順調に勝ち点を伸ばす中、フロンターレにとって序盤戦での引き分けによる勝ち点2のロスが響いて来た。

迎えた最終戦、舞台はホーム等々力。
クラブ史上最多となる22,087人の観客でスタンドは青く染まった。
相手はすでに昇格を決めているサンフレッチェ広島。
この試合にフロンターレが勝って、ビッグスワンで大宮と試合をしているアルビレックス新潟が負ければフロンターレは昇格出来るという状況だった。
そしてフロンターレは広島に勝った。
しかし・・・。

試合後箕輪は記者に気丈に語っている。
「(J1に)上がるチームというのは、数年惜しいところを経験しているのが多くなってきている。(J1に上がれなかった)今年をいい糧にして、あれがあったから上がれたんだと言えるように来年、再来年頑張りたいです」
これは箕輪の本心だったろう。
しかし、それは多分に自分に言い聞かせようとして発した言葉でもあったように思う。
その夜、箕輪は泣いた。
そして勝ち点1の重みを激しい心の痛みとして確かに知ることとなった。

そして2004年。
石崎はすでに去った。
鹿島から関塚隆が新しい監督として迎え入れられた。
箕輪には期するものがあった。
それは練習始めのランニングを先頭切って走ることにも表れていた。
新加入で代表歴の長い相馬直樹の話もよく聞いた。
傍から見れば箕輪は自信に満ち溢れているように見えたかも知れない。
しかしそこには悲愴なまでの決意が滲んでいた。
シーズン前、前年昇格を逃し、今年また4年目のJ2を戦わなければならないことで個人的な目標を見失っていた。
今年昇格を決めたとしても、翌2005年の一年をJ1で戦った翌年がワールドカップなのである。
ジーコはJ2からは代表メンバーを選ばないと言明していた。
謙虚な箕輪が口にはしない、プロサッカー選手としての大きな目標。
2004年をまたJ2で過ごさなければならない現実は、サッカー選手としてすでに若いとは言えない箕輪にとって過酷な空白のように思えたのかも知れない。
眠れない夜もあっただろう。
しかしチーム一丸となって昇格を目指さなければならない状況で、個人の目標を失ったままシーズンを送ることはプロとしてのプライドが許さない。

箕輪は決心した。
痛みを持って心に決めた。
川崎の代表になろう、と。

チームは序盤から快進撃を続けた。
ジュニ−ニョはJ2では反則だとの声も挙がるくらい得点し、それに釣られたわけでもないだろうがチーム生え抜きの我那覇和樹も得点を重ねた。
チームも、そして箕輪も順調にシーズンを消化していった。
7月にはスポーツウーマンの彼女との結婚も発表された。

シーズンも終盤戦に突入して、迎えた9月26日36節 笠松での水戸ホーリーホックとの試合。
リーグ戦を8試合も残してJ2リーグ史上最速となるJ1昇格を決めた。
試合終了のホイッスルが鳴ると選手達は全身で昇格の喜びを表し、狂喜乱舞するサポーターの前に来て全員で万歳をした。
それからベンチ前で選手、スタッフ構わずウォーターファイトをしてる最中、ひとりの選手が再びサポーターの前に向かって歩を進めた。
箕輪だった。
サポーターが箕輪にトラメガを渡す。
箕輪はすぐには声を発しなかった。
いや、発する事が出来なかった。
川崎から駆けつけた大勢の青きサポーターが全員固唾を飲んでその箕輪を見つめている。
箕輪はおもむろに叫んだ。
「川崎市民でよかったよ!!」
それはほとんど絶叫だった。
こらえきれない熱い思いと情熱の涙から来る万感の叫びだった。
サポーターは熱狂した。
箕輪コールを喜びの嗚咽と共にいつまでも叫び続けた。

全44試合を終わってみれば勝ち点105の得点104は驚異的な数字だった。
2位の大宮アルディージャのそれが87の63であることを見ればいかにぶっちぎりだったかがはっきりする。
だが、得点と共に失点数も38と、アルディージャと同数ながらリーグトップであることは見逃せない。
唯一3失点したのがアルディージャとの1試合だけであとは2点以内、そして7試合連続を挟んで実に無失点試合が19もあるのだから攻守のバランスが抜群に良かったと言うべきだろう。

クラブの、選手達の、サポーターの願いは叶った。
そして川崎代表としての箕輪の目標も・・・。

2005年、二度目のJ1の舞台。
チームメンバーに2000年や2001年のような大幅な変更はない。
昨季J2を戦ったメンバーがJ1を戦っている。
代表監督のジーコも度々等々力スタジアムに姿を見せるようになった。

7月31日から8月7日にかけて行われた2年に一度の「サッカー東アジア選手権」。
今年の開催地は韓国である。
そのメンバー発表の三週間ほど前。
麻生区にあるクラブハウスに一本の電話があった。
それは箕輪義信にパスポートの用意をしておくようにとの日本サッカー協会からの電話だった。
箕輪はそのことをスタッフから聞かされると思わず聞き返した。
「えっ!俺ですか!?」
信じられなかった。
チームには自分よりまわりの評価が高い選手が他にいることも知っている。
一度は断腸の思いで諦めた夢、望み。
箕輪の心は躍った。
だが、同時に他の選手達の気持ちを考えると無邪気に喜んでみせるわけにはいかなかった。
チームには長く不運な怪我に泣いている選手や、試合に出たくても出してもらえない選手達がいる。
ほんの数年前の自分のように・・・。
箕輪はチームメイトの前でその話を封印した。

コアなサッカーファンなら『サッカー批評』と言う季刊誌があるのはご存知だろう。
もう一年J2を戦わなくてはならなくなった2004年の1月にその『サッカー批評』の第22巻が発売されている。
その中に海江田哲朗と言うサッカーライターによって書かれた『川崎フロンターレの「過去・現在・未来」』という記事がある。
そこには川崎フロンターレというクラブが辿ってきた長くはないが曲折の歴史と、現在置かれているクラブの万全ではない状況が詳しく書かれている。
フロンターレを知る者ならそれを読んで大きく頷くとともに、クラブはもっともっと発展のための努力をしなければならないことに同意するはずだ。
箕輪は2004年のシーズン前、目標を見失いかけていた三月にその記事を読んだ。
そして川崎の代表になろうと決めた。
自分本位ではなく、チームの礎として、川崎の箕輪義信として。

東アジア選手権の代表メンバーが日本サッカー協会から発表されたのは7月19日。
しかしそこに箕輪の名前はなかった。
箕輪もそのことは予め承知していた。
なぜなら箕輪はパスポートの用意を告げられてから迎えた7月6日の第14節FC東京戦の試合後、耳の不調を訴えて川崎市内の病院で精密検査を行い、左耳の突発性難聴と診断されていたのだ。
箕輪はそれから7月23日の第18節ジェフ千葉戦で復帰するまでの三試合を棒に振らなければならなかった。

箕輪は代表のパスポートを手に入れていた。
そして降って湧いたような突発性難聴という病気。
その時箕輪の妻の腹の中には新しい命が宿っていた。
悩んだだろう、揺れ動いただろう。
箕輪がひとりならもしかしたら病気の発表を控えてリーグ戦にも出場し、代表召集を待ったのかも知れない。
しかし箕輪はもうひとりではなかった。
共に生きていく人間がいた。
ジュビロからフロンターレに移籍してから積み重ねて来た経験。
ジュビロでは決して手に入れることの出来なかった経験が箕輪を大きくしていた。
“しなやかな強さ”
箕輪が座右の銘をと聞かれて答えた言葉である。

8月27日第21節フロンターレvsサンフレッチェ戦。
等々力スタジアムの特別室にはジーコの姿があった。
そして次節アウェイのエスパルス戦を挟んだ第23節等々力、第24節味の素、第25節等々力のそれぞれ特別室には日本代表テクニカルアドバイザーであり、ジーコの実兄でもあるエドゥーの姿があった。
今回の東欧遠征の代表メンバー発表となった9月27日の直近の試合は9月24日第25節等々力のアルディージャ戦である。
その前日、9月23日秋分の日の未明に箕輪には第一子となる女の子が生まれている。
寝ずに分娩に付き添った箕輪はしかし、エドゥーの見ているアルディージャ戦で鬼神のごとき活躍を見せた。
J1初ゴールはおまけとしても、高さと対人の強さに加え、このシーズンになって目に付くようになった判断の早さとコーチングが専門家の目を引いた。
ほんの数ヶ月前まで自分の仕事を“地味な仕事”だと悟っていた男の姿はピッチの上で輝いていた。
そして箕輪はここでもまた高校時代の恩師である大野の言葉をかみ締めたことだろう。

そして9月27日。
麻生の練習場で午前と午後の二部練習の合間、箕輪は子供の名前を何にするかで頭を悩ませていた。
候補はふたつあってどちらにするか決め兼ねていたのだ。
日本サッカー協会のウェブサイトには東欧遠征の代表メンバー発表は15:00頃と記されている。
午後の練習開始は14:30。
練習に入ってからの発表となるはずだった。
しかし実際に協会のウェブサイトに箕輪の名前を見つけることが出来たのは練習に入る前の14時をわずかに回った頃だったろうか。
それを箕輪はスタッフに知らされた。

そして箕輪はサッカー日本代表の一員となった。



この物語はサッカー選手の物語ではない。
箕輪義信という人間の物語だ。
そして彼を絶望の淵に落とし、希望を与え、支えてきたサッカーそのものの小さな物語でもある。

日本時間で今日の23:00、日本代表チームはウクライナ代表と親善試合をする。
箕輪の出場があるのかどうかはわからない。
しかし−−−。
箕輪は確かにそこにいるのだ。
そこにいて彼を絶望させたり歓喜させたり支えたりしたものの正体を肌で感じているのだ。
彼にとって一番大事なことは代表に選出されたことそのものではなく、彼自身に起こった様々なことが彼をどこに運んだのか、彼に何を見せたのか、実はそのことではないのだろうか。
たとえ何が起ころうとも箕輪はその経験を無駄にはしないことを私は知っている。


箕輪義信。
川崎生まれの屈強なDF、29歳。
ピッチを離れるとまだまだ悩み多き新米パパ。
サッカー選手27歳ピーク説を個人的に覆し、未だ発展途上にいる男。
29歳と4ヶ月での出場となれば、それはサッカー日本代表チーム史上8番目の遅咲きデビューとなる。





・フロンターレ・オフィシャルサイトの箕輪経歴
http://www.frontale.co.jp/profiles/mem_05.html

・大野真 神奈川県サッカー協会オフィシャルより
http://www.kanagawa-fa.gr.jp/info/special/lecture/oono.htm


*この記事は2005-10-12 17:09(ウクライナ戦キックオフの六時間前)に書いた記事を若干修正したものです。
この試合で箕輪選手は後半12分に4バックから3バックに変更した右ストッパーとして初出場を果たし、キャップ1を獲得しました。
試合の方は箕輪選手が入る直前に中田浩二選手が退場となった10人で戦い、終了間際に箕輪選手が不可解なジャッジによるPKを与えてしまい0−1で負けました。
本文中にも書きましたが、サッカーではあらゆることが突然起こります。
この経験が誰に何をもたらすものなのか、あるいはまったく意味のない悪夢となかったことにするのか、それは人それぞれでしょう。
ただひとつだけ言えることは、今回の試合も含めた初代表遠征において箕輪選手が経験したことを得失点で考えるならば、圧倒的に得点の方が多かったということです。

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この記事へのコメント
忙しいんだとは思いますけどいいかげん更新してくれませんか?
毎日楽しみに待ってるんですけど・・・。
Posted by FAN at 2005年11月18日 07:41