2005年12月06日

手 紙

前略

相変わらず元気でサッカーしていることでしょう。
あなたの好きなJリーグもやっぱり観に行っていますか?

前にあなたがこだわっていた「集団と個」についてのことですが、
正直言ってどう答えていいのかわかりません。
答えがわかるとかわからないとかじゃなくて、
あなたにどう答えればいいのかがよくわからないってことです。
真摯に考えて答えを出そうとすれば、
いつだってその答えは「わからない」です。

人は自意識を確認するために他人によく質問します。
でもそれは多くの場合、正解が欲しいからじゃないですよね。
今回のあなたの質問もそうだと思います。
ですから私はあなたに正解なんて言いません。
だってあなたと私の正解は違うことを知っていますから。
子供の論理を求めているのならそれに見合った適当な人物を他に当たって下さいな。

私は私の思うことをちょっとだけ書いてみますね。
もしこれを読んでどうしても何か言いたいことが出来たなら
今度近い内にそちらに行く機会がありそうですので、
その時たっぷりと時間を作ります。
久しぶりに酒でも呑みながら話しましょう。
前に連れて行ってくれた新宿のあの店がいいなァ。
トミさんはまだ元気に包丁握ってる?

さて。
サポーターというのは集団のことを指す言葉ではありません。
そして集団というのは個人を失ったものではありません。
家族が、街が、国がそうであるように。
またサッカーのチームがそうであるように。
しかし、言葉にした時にはその個人と集団の境界を確認しないまま使われることがほとんどです。
単数と複数のその部分を曖昧にしたままサポーターという単語を使っている文章や言葉にはどうか疑ってかかって欲しいと私は願っています。
対象を曖昧にしているってことは主体も曖昧なんでしょうから。
まぁこれは年寄りのぼやき、なんでしょうね。

サッカーが人生の比喩なのか、人生がサッカーの比喩なのか私にはわかりませんが、確かにサッカーにはあらゆることが比喩的に詰め込まれていると感じます。
『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』というのは市井の哲学者ロバート・フルガムの著書タイトルですが、もしフルガムがアメリカ人ではなくイングランド人やブラジル人であったなら、自ずとその著書のタイトルは変わっていたことでしょう。

supportという言葉には「耐える」という意味が含まれています。
予め耐えることが設定されている人をサポーターと呼ぶわけです。
なぜ耐えるのか、なぜ耐えなければならないのか。
その意味をわかっていなければいくら本人が自分をサポーターと呼んでも成立はしません。
私はサッカーを「夢」だとか「感動」だとかに置き換えたりする人間ではありませんから、おそらくその意味の近くにはいるのかもしれません。
サッカーはいつまでもただサッカーであるだけです。
だけど、耐える意味がわからず、あるいはそういう幻想を必要としている人達には、
甘やかに翻訳はしてあげてもいいとは思っています。
だってサッカーには確かにそういったものが違う種類の言語で含まれているはずですから。

でも多すぎる。
「感動乞食」があまりにも多すぎませんか?
あなたのまわりにはいない?
まるで初めからサッカー(サッカーのみならずスポーツ全般ですが)が感動を味わう道具のような、ね。
もっと言うなら、初めから他人に感動を請求しているような。
そういう、自らが感動の作り手としては一番遠いところにいるような人間は、自分がどんどん感動のハードルを下げていることに気付きません。
そんなに他人から感動、欲しいですか?
そんなに泣きたいですか?
そんなのいくらでもそこらへんに再生産されて転がっているじゃありませんか。
まるで子供です。
お涙頂戴の安っぽい演出に嬉々として涙を流す人たち。
不思議でしょうがありません。
まぁこんなことをいくら言ったところで何かが変わるわけでもないんですが。

つまりは志を持っていないってことなのかも知れません。
いや、正確に言うと「持てない」なのかな。
いずれにしてもこの「士(サムライ)の心」を表す言葉は、
分解すると「十一の心」、つまりサッカーの1チームを表す言葉としてピッタリだとは思いませんか?
大事なのはこのココロザシなんですよ、実にね。

注意深く生きていれば、たとえその人がいくつであっても、他人と自分の違い、あるいは世間と呼ばれているものを成り立たせているものの正体、そういったことはわかります。
するとそこに突如として選択肢が提示されて悩んでしまったりします。
何かがわかると今まで見えなかったことが見えてしまうことってありますよね。
ところが集団っていうのは最低ラインに合わせるように出来ています。
彼の阿佐田哲也がかつて言ったように、麻雀の場において、上からA B C Dとランクの違う人間が集まった時、その場は最低のDランクに合った場になってしまう。
集団ってそういうものなんですよね。

それが嫌なら徹底的に孤独に慣れるしかないでしょう。
孤独に慣れるということは人類の目指している方向とは違います。
だから事ある毎に後悔するはずです。それは自分の中の人類が後悔させるんですね。
しかもそれでいて「完全な個人」というものは存在出来ない。
どうしましょうねぇ、困ったもんです。

それでも。
確かにサッカーの中にはそれに対する示唆が満ち満ちている。
あなたが言うように、受け手にその示唆を変換出来る装置さえ備わっていれば、だけど。
メタファーというのはあくまでもメタファーであって、人生そのものではあり得ません。
サッカーがいつまでもサッカーそのものであるように、ね。

もう一度言います。
集団は個人を失ったものではありません。
何に価値を見出すか、それは個人の志で決まります。

あとは今度会った時の酒の肴に取っておきましょうかね。

小茶のお母さんがいなくなってからというもの、あの時に味わった中身のぎっしりと詰まった孤独というものに触れたことがありません。
それはそれで案外淋しいものです。


それではまたいずれ。









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この記事へのコメント
今回のは難しすぎて正直よくわかりませんでした・・・。
Posted by ひょえー at 2005年12月07日 06:25