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飲食チェーンの若い経営者が30店舗ぐらいになってくると、大社長になったような気になり、店を顧みず、従業員に感謝せず、個人の贅沢三昧(高級車・別荘・歓楽街通い)が始まるケースが多い。
チェーンストア理論の大家、渥美俊一先生は30店レベルで満足している経営者のことを「小成主義」と言われた。(小さな成功で満足して私利私欲に走る経営者のこと)

なぜ、国民生活の豊かさと幸せのために500店〜1000店の低価格チェーンを、目指さないかということです。チェーンストアは日本の物価を下げるという社会的使命があり、その努力に尽力し続けなければならないのです。(ユニクロ・ニトリ・サイゼリヤ・丸亀製麺・スシロー・すき家・吉野家・かつや)

サイゼリヤの創業者、正垣会長は世界に1万店を作って今の価格を半分するのが夢と言われた。
ミラノ風ドリヤ300円→150円、パスタ500円→250円、フードサービス業の究極の価格は、スーパーで食材を買って調理をするよりも、安い価格で提供できることなのです。

日高屋の創業者、神田正会長は現在465店舗の低価格チェーンで成功されています。そして村一番の貧乏だった為、お金の使い方が分からないと言われます。

「飲食の戦士たち」(キイストン)の神田会長の原稿を紹介します。

株式会社ハイデイ日高 代表取締役会長(執行役員会長) 神田 正氏

中学卒業後、職を転々として、20歳の時にラーメン店ではたらき始める。1973年、中華料理「来々軒」をさいたま市大宮区宮町に創業。「ちょい飲み」需要を取り込むなど、駅前のロケーションを活かした独自戦略でブランドを確立。1999年に株式を公開。2023年までは東京・埼玉・神奈川・千葉の駅前を中心に展開していたが、2024年以降は群馬・栃木・茨城などのロードサイドへの出店も増やしていく予定。現在店舗数465店。625億、経常利益65億円!過去最高益更新中。

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村いちばんの貧乏
1941年2月20日生まれ。今年(2026年)85歳になる。
「村いちばんの貧乏で、住む家もなくってさ。親戚の家を転々としていたから、じつは出身地も正確にわからない」という。
会長は4人兄弟の長男。「兄弟全員、中卒」と、苦笑する。戦争で負傷したお父様に代わって、お母様がゴルフのキャディをして兄弟四人を育てられている。

母を真似て、長男の会長もキャディのバイトをした。
キャディをしたおかげで、人間をみる目ができたらしい。
「だって、朝初めて会った人と4時間もいっしょにいて、その人たちの様子を観て、どうしたらいいかを判断するんだよ。チップをくれるかどうかも、大事だからね」と笑う。
人生初のコーラは、アメリカ人のお客さんからいただいた気の利いたチップだったらしい。

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職を転々と。

「とにかく、お金がないから、早くはたらかないといけない。だから、中学を卒業して、就職します」。県をまたぎ、板橋区にあった小さな工場に向かった。面接に行くにも、電車はつかわない。お父様と、自転車を漕いで向かったそう。

「3時間はかかったんじゃないかな」と笑う。
お父様にも苦労をかけて就職したが、1ヵ月後、会長は実家にいた。
「住み込みだったんだけどさ。実は、逃げだしてしまったんです」。今や大会社の会長といっても、当時は、まだまだ少年だ。
仕事は転々としたが、だからと言って下を向いたことはない。

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「転職は悪くない。だって、1度きりの人生でしょ。我慢して一つの仕事をつづけても、つまらないだけ。私は、色々な職を経験して正解だったと思っている」。
会長はニヤリと笑う。

オープンしたラーメン店は、1年でクローズする。
「ともだちが暇なんだったらラーメン店で仕事をしてみないかと誘ってくれたのが20歳の時。だから、20歳の時に初めてラーメン店で仕事をします」。

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「それまでは?」とうかがうと、会長はつぎのようにいう。
「キャバレーのボーイってわかるかな? バーでもはたらいた。当時は、『水商売』って言ってね。イメージはよくなかったね」。
まだまだ青二才。仕事もそうつづかない。だが、今度は少し様子が異なった。
「ラーメンもそうだし、チャーハンもそう。みんなこちらで教えてもらいました。でも、それだけじゃなくって、ツケを、初めて知るんです」。
「ツケのからくりを知って、その頃から、キャッシュフローに目をつけていた」と会長はいう。現金ビジネスのストロングポイントを若いなりに見抜いたっていうことだろうか。

青天の霹靂。
<弟さんと二人三脚ですね?>
「そうだよね。私ら兄弟はみんなそうだけど、さつまいもだけで、育ったからね。逆境にもつよいんだ。さつまいも1つあれば、食いつないでいける(笑)」。
その後、会長は深夜営業に活路をみいだし、売上は上昇。ただ、勧められるまま、始めたスナックが大失敗。「妹まで呼んだのに失敗したって噂が広がって。恥ずかしくなって。ラーメンもいっしょ辞めちゃいました」。

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「来々軒」創業。
もちろん、これで幕が閉じるわけはない。第二ラウンドの幕があがる。いや、むしろこれが第一章の始まり。
<つぎにオープンしたのが、創業の「来々軒」ですね?>
「5坪の小さい店だったけど、大宮のちかくだから、ちかくに風俗店もあってね。デリバリーの注文もいただいて。でも、1人じゃできないでしょ。だから、さ」。

「そう、兄弟のきずなですね。そこに、もう1人、ラーメンの修業をしたいという人がはいって、3人になる。そうなると、さすがにキツキツになって。で、来々軒2号店をオープンします」。

ちなみに、ラーメンの修業にきた高橋という青年が、のちに会長とともに社長を務めている。
「弟もいたんだけど、資金繰りからスタッフの募集まで、ぜんぶ私1人でやっていました。今でいう店舗開発も、仕事の一つです。ある日、初めて蕨駅に降りた時かな。貸店舗って貼り紙があって。最初はラーメンはだめだって言われたんだけど、ピンと来たから交渉してさ」。

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「その店は今でも、やっている」と会長は笑う。
ところで、会長曰く、「当時は、ラーメン店が株式を公開するなんて、だれも思っちゃいなかった」そう。「だから、みんな独立するんだな。弟も、独立するって言ってたからね。でも、私は3人でやれば、絶対、大丈夫だって。絶対、時代はかわるからって」。

先生は、赤提灯。
今さら日高屋についてお話することはないだろう。とくに東京ではたらく人にとっては、どの駅前にもある、もう一つ食卓だ。さくっと飲んで帰る。ちょい飲みの始まりは、実は、日高屋から。
この戦略はどこから生まれたんだろう?

「すかいらーくさんとか、デニーズさんとか。そういうチェーンをみて、勉強はさせてもらいましたが、だれかに何かを教わったことは一度もないです」。

<独自路線ってわけですね?>
「そうです。一つ言えば、日高屋の戦略は、赤提灯です」。

<赤提灯?>
「今の若い人には、なかなか想像できないでしょうが、暗くなって提灯が赤々浮かぶようになったら、駅前に屋台が現れるんです。おんでと、お酒。あれが、私の先生です。でも、淘汰されるのが時間の問題だっていうのはわかっていました。だって、路上でしょ。水道だってない。衛生的にもいいとは言えないからね」。

いつか、なくなる。
「時代の動きは止まらない。私は、それをみのがさなかった。屋台がなくなったからといって、お客さんのニーズまではなくならない。だから、うちは赤提灯に代わって、そういうお客さまを取り込むことを戦略にしたんです。ラーメン以外にも、メニューを色々、つくってね。いうなら、現代風の赤提灯です」。

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ふつうのラーメン店は、アルコールの売上に占める比率が5%だが、日高屋は15%ちかくにもなる。
「毎日、日高屋っていうんじゃなくてもいいんです。今日はハンバーガー、明日はカレー。で、『今日は、日高屋で』ってそれでいい」。お客さまにとって、ふらりと立ち寄ることができる店がいい。今も昔もかわらない。

日本でいちばんの幸せ者。

大宮で第二ラウンドの幕が上がってから、約半世紀。今やスタッフは1万名にもなるそうだ。そのスタッフ1人1人に声をかける。
黙って、やめていかれるのが残念だと、10年前からパートさんも集め、年に複数回「感謝の集い」を開催している。テーブルには、つぎつぎと料理がならぶ。うちは、人がすべてという会長の感謝の思いが込められている。
福利厚生にもちからを入れ、週休2日制もいち早く導入している。

ラーメン店。今、日高屋をそう位置づける人は、少ないんじゃないだろうか。
日高屋は、日高屋。それ、以下でも、それ以上でもない。独自路線をひた走りつづけてきた、その結果、独自の進化を果たしている。
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「つぎの戦略としては、ロードサイドです。この数年でロードサイドでも日高屋というブランドが高くご評価いただけることがわかったので、今まで出店していなかった群馬、茨城、栃木にも出店攻勢をかけていきます」。
まだまだつよきで、攻めていく。ただし、利益のため、ではない。
「ご近所の人が、日高屋ができたって喜んでくださるんですね。それが、いちばんです」。

今でも、店舗へ行くのは電車で。東京のラッシュにも、怯まない。
「ある時、ある店に行って、キッチンをのぞいてみようと、ふらりと入ったらパートさんに怒られちゃったんです。『調理場には入らないでください』って(笑)」。

どうやら会長のことを知らないパート歴の浅い人だったようだ。しかし、会長は、ていねいに頭を下げ、謝られたそうだ。「『会長だからいいだろう』なんていえないでしょ。彼女も、周りのみんなも頑張ってくれているんだから」。
そんな会長だからこそ、店に現れると、パートさんまで笑顔になる。会長の周りには、笑顔があふれている。
多くのスタッフに囲まれて、村でいちばん貧乏だったという少年は今、日本でいちばんの幸せ者になっている。