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日本講演新聞に「がん闘病からのホノルルマラソン」が掲載されていましたので紹介します!

『メッセンジャー』編集長/シンガーソングライター 杉浦貴之
1999年、28歳の時、僕は腎臓のがんになりました。

腫瘍は巨大で悪性度が高く、両親には「早くて半年。2年後の生存率0%」と伝えられました。
闘病中の病院のベッドの上で、22歳の時にホノルルマラソンを走ったことを思い出し、「もう一度ホノルルで走りたい」と思いました。

当時、僕の髪の毛は抗がん剤治療で全て抜け落ち、とても苦しい日々でした。でも病気が治った後のことを想像して、心をワクワクの状態にしていました。

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同年10月、左腎の摘出手術をしました。
退院後は体調がなかなか元に戻らず、「まだ無理、まだ走れない」と、ずっと自分にダメ出しをする日が続きました。

そんなある日、「がんの大先輩」中里二和子さん(当時50代)に会いに行くことにしました。
中里さんはいつも僕に厳しくも優しい言葉を掛けてくれる人でした。

中里さんに僕の現状を話すと、「あなたはホノルルマラソンを走ることを夢に描いているんでしょ。『いつかは、いつかは』と言っているだけじゃ、そんな日は永遠にやって来ないよ」と叱られました。
そして、「私と一緒にホノルルに行きましょう」と言ってくれたのです。この一言が僕を大きく変えてくれました。

僕たちは、2005年12月に行われるホノルルマラソンへの参加を決めました。僕が走り始めたのはその年の9月のことでした。
まず1キロ走りました。心臓が痛くなり足が震え、しばらく立ち上がれませんでした。

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「これで42.195キロなんて走れるわけがない」と思いました。ちょうどその時、「中里さんが体調を崩した」と連絡がきました。
「やった! これでホノルルマラソン参加は中止だ」と、ほっとしながらお見舞いに行きました。

中里さんは胃がんから体調を崩し、16キログラムも痩せ細っていました。「ホノルルマラソンは無理ですね。諦めましょう」と僕が言うと、家のベッドに寝ている中里さんが強く言い放ちました。
「バカじゃないの、行くに決まっているでしょ。私には3か月後のホノルルマラソンのゴールを切るイメージしかないわよ」

16キログラムも体重が減って苦しんでいるのにまだホノルルマラソンのゴールテープを切ることを諦めていないと知って、僕はめちゃくちゃ感動しました。
そして、僕は「中里さんをホノルルマラソンに連れて行く」と決意し、自分自身に誓いました。「もう絶対諦めない」と。

次の日、僕は走る距離を100メートル伸ばし、1.1キロ走りました。走った後はまた倒れ、心臓が痛くなり、足が震えて止まりませんでした。

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それでも、翌日は100メートル伸ばし、1.2キロ走りました。その後も1.3キロ、1.4キロと距離を伸ばしながら走りました。走るたび、僕は倒れました。でも少しずつ体が慣れていき、1か月後には3キロ、2か月後には10キロまで走れるようになりました。

そして3か月後、ホノルルマラソン本番の舞台に臨みました。
僕のタイムは5時間でした。でも一歩も歩かずにゴールテープを切ることができました。

中里さんも、僕より1時間半遅れでゴールしました。
僕はようやく「がんを克服し、ホノルルマラソンを走る」という夢を実現できました。あの手術から6年の月日が経っていました。

「人間の可能性って本当にすごい」と実感できた経験でした。