日本講演新聞の社説に「敵に放ったのは銃弾ではなく惻隠の情」が掲載されていました。知らなかった第2次世界大戦中の昭和17年3月、ジャワ島海戦での日本兵の惻隠の情です。
古代中国の思想家・孟子が説いた言葉で、「惻隠（そくいん）の情」というものがある。相手の心情を深く理解し、我が事として胸を痛める思いやりの心のことだ。
「惻隠の情」という観念は、私たちの心に響く普遍性がある。人が悲しみの涙を流すのを見て自分の胸も痛む。そんな心の動きは、人間の存在価値の根源に近いものなのではないだろうか。
明治23年、オスマン帝国（現トルコ）の軍艦・エルトゥールル号が和歌山県串本沖で遭難した。台風の荒波の中、船は大破し、多くの乗組員が命を落とした。
嵐が去った後、負傷した乗組員が浜辺に打ち上げられた。地元の漁民たちは懸命に救助し、自分たちの暮らしも豊かではない中、薬や食料、寝具を与えた。
村人たちはなぜそこまでできたのか。それは理屈抜きに、まさに惻隠の情から来る行動だったのだろう。
この想いは、果たして敵に対しても同じように心に抱けるのだろうか。
よく知られた戦国時代の逸話に敵に塩を送る話がある。
塩の供給を断たれた甲斐の武田信玄。長年対立してきた上杉謙信はその様子を知り、憐みの心から武田信玄に塩を送ったという有名な逸話である。義の精神や武士道の象徴として現在まで語られている。
ただ、この逸話は古すぎる話故に真偽は分からず、諸説語られている。
だが、敵に対する惻隠の情を語るのに、写真も残る確かな史実も残っている。
第二次世界大戦中の昭和17年３月、ジャワ沖海戦でイギリスの戦艦が日本軍の攻撃を受けて、南の海の中にその姿を消した。浮き袋などに捕まって海面を漂流する数百名のイギリス兵。その中の一人に英国帝国海軍士官のサム・フォール氏がいた。
フォール氏は流れ出た燃料オイルで全身油まみれになり海面を漂っていた。ジャワ海が温かかったのが唯一の救いだった。18時間漂い、身も心もボロボロになっていた時に日本の駆逐艦「雷（いかづち）」が現れた。機銃掃射されると思い、「もはやこれまで」と覚悟した時だった。
日本兵が次々と縄梯子を海面に投げた。しがみついて必死に登るイギリス兵。船上に辿り着くと日本兵は綿の布巾とアルコールで全身に付いた油を拭き取ってくれ、衣服も支給してくれた。救助された数百名が艦中央に集められ、日本軍の艦長が現れてイギリス兵に敬礼して言った。
「諸君は果敢に戦われた。今、諸君は大日本帝国海軍の大切な賓客である」（サム・フォール著『ありがとう武士道』／麗澤大学出版会）。
また、惠�惑群霖�『敵兵を救助せよ！』（草思社）には、その出来事を日本兵側から見た描写が記載されている。
浮遊木材にしがみついていた重傷のイギリス兵は最後の力を振り絞って雷まで泳いできたが、もはや投げたロープを握る力も残っていない。そんな彼らは日本軍が投げたロープや竹竿に手を触れると安心したような表情を浮かべ、力尽きて次々と水面下に静かに沈んでいった。
それを見た甲板上の日本兵は涙声で「頑張れ！」とイギリス兵に向かって何度も繰り返し叫んでいた。敵兵の救助を命令した艦長は工藤俊作という名の海軍少佐だった。彼は戦後、公職追放となり、故郷の山形で静かに暮らし、戦地での話は誰にも語ったことはなかった。
1987年にフォール氏が米海軍の機関誌にこの史実を投稿したことにより、工藤艦長が敵兵救出の命令を出したという英断が明るみに出たのである。
2008年、来日したフォール氏は工藤艦長の墓前で感謝の想いを伝え涙を流した。
空襲を恐れることのない空の下、今年も８月がやってくる。戦後80年目の平和なお盆をもうすぐ迎える日本の夏。
だが、今現在、世界には空の下で怯えながら暮らしている人がいる。明日の食べ物もない人がいる。
惻隠の情は、人類が持っている崇高な宝、人智と呼べるのではないだろうか。それは時代や国を越えて人の心を動かす光であり、今を生きる我々にも受け継がれるべき人間の本質だ。
この夏、その平和な光が世界を安寧に照らし始めることを静かに祈りたい。
