2006年09月04日
夏の終わり、緋色の夕日
8月も既に佳境を迎える頃、近所の祭りに出かけた。短パンTシャツのラフな服装にサンダルを突っかけて外へ。夏の始まりに新しく買った麦わら帽子を、今日、初めて被った。頭上からは、新品の麦わら帽子の香ばしい匂いがした。
緩やかに続く川沿いの道を歩く。今日は花火大会も同時に開催される。通りがかる人は皆浴衣を着ていた。少年少女のグループ、犬を連れて歩く親子。皆一様に楽しそうな表情を浮かべている。僕はその光景にデジャヴを感じて、少しだけ考えた。あれは・・・、確か小学生くらいの時の思い出のはずだ。そこまで思い出して、僕は即座に回想を中止した。見上げると空には茜色が塗られていて、過去と現在がクロスフェードした。
祭りの喧騒は僕の耳朶を打ち、屋台の群れが心を躍らせる。浴衣姿もどんどん多くなってきた。彼らはそれぞれに祭りを楽しんでいる。射的にヨーヨー釣り、くじ引き、それから金魚すくい。子供たちが屋台の間を元気に駆け回り、カップルはあんず飴を食べながら楽しげに参道を歩いてゆく。綿飴片手にスーパーボールに夢中になる兄弟。そんな光景を見ながら、僕が考えるのはやはり過去の夏休みの情景だった。擦れた風景が今の視界と重なって、過去へと飛翔する。どう考えてもあの夏は最高だった。あれほどの高揚感を持つ夏の風景は、後にも先にも、小学生の頃、田舎に帰省したあの二週間にしかなかった。最後の一日、あの鮮明すぎる暁の空の下を除いて。
いつの間にか、僕は参道の終わりに着いていた。流石にここまで来ると人も少ない。屋台がぽつんと一つある。誰もその店に見向きもしない。僕はその店に入ってみた。見たことも無い店だった。何か期待感のような物が胸の中で膨らんでいた。
その店の第一印象は、「よくわからない店」だ。店主の姿は見当たらない。ただ妙なものが妙な按配に配置されているだけだ。大量のヒューズ、フランス人形。(英語の)CDやらキャベツやら豚の貯金箱が、シートの上で乱雑に散らばっている。砂嵐を映すテレビの上にはファブリーズが置かれている。そして麦わら帽子。
「ここは<思い出屋>です」
背後からいきなり声がしたかと思うと、老人が一人立っていた。日焼けした顔には深い皺が刻まれている。
「貴方の<思い出>を、再現していだだくことが出来ます」
思い出?僕は夢想した。あの夏の思い出を。世界の全てが、滅び去る暁の一瞬のみが持つ神々しさに包まれていたあの日々を。優しく緩やかな夏の空気に抱かれて、思う存分遊んだあの日々を。間違いなくあの夏は最高だった。今では片鱗すら残さず吹き払われ、脳内の片隅で磨耗するだけの風景だが。しかし、その風景の一部でも良い、もう一度味わえたなら、それはどんなに素晴らしいことだろうか?
「・・・どうやって?」
「持ち物を一つ、私に下さい。代わりのものを差し上げますので」
今、交換しても良いものは一つしかなかった。僕は被っていた麦わら帽子を取ると老人に渡した。老人はそれを笑顔で受け取ると、壁に引っかかっていたあの麦わら帽子を僕に手渡して、言った。
「では、良い思い出を」
−−−
店を出ると、お祭りは一段と人口を増していた。人の塊が参道を埋め尽くしていた。僕は人を縫うように進んで、適当な店に入った。<思い出>の効果を確かめるためだった。
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・
―――――――
「騙されたんだな、多分」
長い黄昏に照らされた川沿いの道を歩きながら、そんなことを考えていた。あの後入った屋台は、どれもあの夏の高揚感を与えてはくれなかった。射的、ヨーヨー釣り。くじ引きに金魚すくい。どれも、これも。よく考えると、<思い出屋>自体、ナンセンスな物のように感じられた。店を見たときに感じた、あの期待感が不思議でならなかった。
「まあ、損はしてないし、良いか」
頭に乗っかった麦わら帽子を被りなおす。その麦わら帽子は、何故か、僕が老人に渡したあの麦わら帽子とそっくりだった。形とか、色とか。にも拘らず、それは何故か懐かしい香りがした。新品の香ばしい匂いではなかった。その芳香はあの夏の麦わら帽子に似ていた。僕はいつの間にか回帰した。過去に閉じ込められてしまった、あの素晴らしい夏へと。
やはり川沿いだった。舗装されていない、土の道を歩いた。夕暮れ時の世界には涼しげな蜩が響いていた。黄昏の日を浴びて川の水面がきらきらと揺らいでいた。虫取り大会の帰り。現地の友人が周りにはたくさんいた。彼らは元気に、はしゃぎ、駆け回り、会話した。僕は少し疲れてしまっていて、色が滴る山だとか、光輝く清流だとか、そういった田舎の風景の数々を眺めていた。それには、明日になったら下の家に帰らなければならない、ということも関係していたのかもしれない。とにかく名残惜しかった。
「ねえ」
背後から話しかけられて、振り返ると、一緒に帰っていた面子が僕を見てニコニコ笑っている。リーダー格の男の子が僕に向かって何かを差し出す。
「これ、あげるよ」
古びた、麦わら帽子。
「え、ホントに?」
「うん、・・・兄貴のお古だけどね」
僕たちの中で、僕だけが帽子を被っていなかった。他の子は皆麦わら帽子を被っていた。僕の持っているのは野球帽みたいな帽子だけで、その帽子を被って彼らと遊ぶのは嫌だった。仲間外れにされたような気分になるからだった。だから僕は何も被っていなかった。―――それも、さっきまでの話だ。
「・・・ありがとう!大切にするね!!」
「おう!」
僕は麦わら帽子を被った。麦の匂いがした。嬉しかった。周りの皆も弾けるような笑顔だった。僕は何時に無くはしゃいだ。楽しかった。風景はいつの間にか、川と山から水田へ変わっていた。何もかも最高だった。風景。仲間。虫取り。夕日と蜩。麦わら帽子。何もかも最高だった僕たちの間を、爽やかな夏の風が通り過ぎてゆく―――。
そのとき一陣の風が巻き上がって、美しい懐古は掻き消された。麦わら帽子が夕日をバックに舞い上がった。飛ばされてゆく。僕は追いかけて、追い付いた。麦わら帽子は、川の土手、生い茂る草むらの中に着地していた。それを見た僕は、悲しくなった。
「・・・何で・・・」
何故なら――
―――そう、思えばあの日もそうだったのだ。僕たちの間を軽やかに通り過ぎた夏の風は、僕の麦わら帽子をさらって行った。僕は慌てて追いかける。友人たちもそれに続く。程なくして、赤い空から麦わら帽子は帰還した。それを見た僕たちは、悲しくなった。
「あ・・・」
「・・・」
「・・・きたねぇ・・・」
「これじゃ・・・取れないよね・・・」
「・・・・何で・・・・」
―――麦わら帽子は、大量の犬のフンに抱かれていた。
「・・・なんでこんな所に犬のクソがあんのやァァぁァァぁァ!!!!!!」
―――夏は終ってゆく。鮮明すぎる暁の空の下、麦わら帽子を置き去りにして。
緩やかに続く川沿いの道を歩く。今日は花火大会も同時に開催される。通りがかる人は皆浴衣を着ていた。少年少女のグループ、犬を連れて歩く親子。皆一様に楽しそうな表情を浮かべている。僕はその光景にデジャヴを感じて、少しだけ考えた。あれは・・・、確か小学生くらいの時の思い出のはずだ。そこまで思い出して、僕は即座に回想を中止した。見上げると空には茜色が塗られていて、過去と現在がクロスフェードした。
祭りの喧騒は僕の耳朶を打ち、屋台の群れが心を躍らせる。浴衣姿もどんどん多くなってきた。彼らはそれぞれに祭りを楽しんでいる。射的にヨーヨー釣り、くじ引き、それから金魚すくい。子供たちが屋台の間を元気に駆け回り、カップルはあんず飴を食べながら楽しげに参道を歩いてゆく。綿飴片手にスーパーボールに夢中になる兄弟。そんな光景を見ながら、僕が考えるのはやはり過去の夏休みの情景だった。擦れた風景が今の視界と重なって、過去へと飛翔する。どう考えてもあの夏は最高だった。あれほどの高揚感を持つ夏の風景は、後にも先にも、小学生の頃、田舎に帰省したあの二週間にしかなかった。最後の一日、あの鮮明すぎる暁の空の下を除いて。
いつの間にか、僕は参道の終わりに着いていた。流石にここまで来ると人も少ない。屋台がぽつんと一つある。誰もその店に見向きもしない。僕はその店に入ってみた。見たことも無い店だった。何か期待感のような物が胸の中で膨らんでいた。
その店の第一印象は、「よくわからない店」だ。店主の姿は見当たらない。ただ妙なものが妙な按配に配置されているだけだ。大量のヒューズ、フランス人形。(英語の)CDやらキャベツやら豚の貯金箱が、シートの上で乱雑に散らばっている。砂嵐を映すテレビの上にはファブリーズが置かれている。そして麦わら帽子。
「ここは<思い出屋>です」
背後からいきなり声がしたかと思うと、老人が一人立っていた。日焼けした顔には深い皺が刻まれている。
「貴方の<思い出>を、再現していだだくことが出来ます」
思い出?僕は夢想した。あの夏の思い出を。世界の全てが、滅び去る暁の一瞬のみが持つ神々しさに包まれていたあの日々を。優しく緩やかな夏の空気に抱かれて、思う存分遊んだあの日々を。間違いなくあの夏は最高だった。今では片鱗すら残さず吹き払われ、脳内の片隅で磨耗するだけの風景だが。しかし、その風景の一部でも良い、もう一度味わえたなら、それはどんなに素晴らしいことだろうか?
「・・・どうやって?」
「持ち物を一つ、私に下さい。代わりのものを差し上げますので」
今、交換しても良いものは一つしかなかった。僕は被っていた麦わら帽子を取ると老人に渡した。老人はそれを笑顔で受け取ると、壁に引っかかっていたあの麦わら帽子を僕に手渡して、言った。
「では、良い思い出を」
−−−
店を出ると、お祭りは一段と人口を増していた。人の塊が参道を埋め尽くしていた。僕は人を縫うように進んで、適当な店に入った。<思い出>の効果を確かめるためだった。
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・
―――――――
「騙されたんだな、多分」
長い黄昏に照らされた川沿いの道を歩きながら、そんなことを考えていた。あの後入った屋台は、どれもあの夏の高揚感を与えてはくれなかった。射的、ヨーヨー釣り。くじ引きに金魚すくい。どれも、これも。よく考えると、<思い出屋>自体、ナンセンスな物のように感じられた。店を見たときに感じた、あの期待感が不思議でならなかった。
「まあ、損はしてないし、良いか」
頭に乗っかった麦わら帽子を被りなおす。その麦わら帽子は、何故か、僕が老人に渡したあの麦わら帽子とそっくりだった。形とか、色とか。にも拘らず、それは何故か懐かしい香りがした。新品の香ばしい匂いではなかった。その芳香はあの夏の麦わら帽子に似ていた。僕はいつの間にか回帰した。過去に閉じ込められてしまった、あの素晴らしい夏へと。
やはり川沿いだった。舗装されていない、土の道を歩いた。夕暮れ時の世界には涼しげな蜩が響いていた。黄昏の日を浴びて川の水面がきらきらと揺らいでいた。虫取り大会の帰り。現地の友人が周りにはたくさんいた。彼らは元気に、はしゃぎ、駆け回り、会話した。僕は少し疲れてしまっていて、色が滴る山だとか、光輝く清流だとか、そういった田舎の風景の数々を眺めていた。それには、明日になったら下の家に帰らなければならない、ということも関係していたのかもしれない。とにかく名残惜しかった。
「ねえ」
背後から話しかけられて、振り返ると、一緒に帰っていた面子が僕を見てニコニコ笑っている。リーダー格の男の子が僕に向かって何かを差し出す。
「これ、あげるよ」
古びた、麦わら帽子。
「え、ホントに?」
「うん、・・・兄貴のお古だけどね」
僕たちの中で、僕だけが帽子を被っていなかった。他の子は皆麦わら帽子を被っていた。僕の持っているのは野球帽みたいな帽子だけで、その帽子を被って彼らと遊ぶのは嫌だった。仲間外れにされたような気分になるからだった。だから僕は何も被っていなかった。―――それも、さっきまでの話だ。
「・・・ありがとう!大切にするね!!」
「おう!」
僕は麦わら帽子を被った。麦の匂いがした。嬉しかった。周りの皆も弾けるような笑顔だった。僕は何時に無くはしゃいだ。楽しかった。風景はいつの間にか、川と山から水田へ変わっていた。何もかも最高だった。風景。仲間。虫取り。夕日と蜩。麦わら帽子。何もかも最高だった僕たちの間を、爽やかな夏の風が通り過ぎてゆく―――。
そのとき一陣の風が巻き上がって、美しい懐古は掻き消された。麦わら帽子が夕日をバックに舞い上がった。飛ばされてゆく。僕は追いかけて、追い付いた。麦わら帽子は、川の土手、生い茂る草むらの中に着地していた。それを見た僕は、悲しくなった。
「・・・何で・・・」
何故なら――
―――そう、思えばあの日もそうだったのだ。僕たちの間を軽やかに通り過ぎた夏の風は、僕の麦わら帽子をさらって行った。僕は慌てて追いかける。友人たちもそれに続く。程なくして、赤い空から麦わら帽子は帰還した。それを見た僕たちは、悲しくなった。
「あ・・・」
「・・・」
「・・・きたねぇ・・・」
「これじゃ・・・取れないよね・・・」
「・・・・何で・・・・」
―――麦わら帽子は、大量の犬のフンに抱かれていた。
「・・・なんでこんな所に犬のクソがあんのやァァぁァァぁァ!!!!!!」
―――夏は終ってゆく。鮮明すぎる暁の空の下、麦わら帽子を置き去りにして。
Posted by febreeese at
02:30
│Comments(1)
2006年04月11日
クランク・アップ
われら ともどもに手さぐりつ
言葉も無くて
この潮満つる渚に集う・・・
かくて世の終わりきたりぬ
かくて世の終わりきたりぬ
かくて世の終わりきたりぬ
地軸崩れる轟きも無く ただひそやかに
T.S.エリオット
――――
僕らは夢想する。結末と創造の交錯するその一瞬間を。
或る昔馴染みの女の子と、街へ雑貨を買いに行った。午前中の撮影を早めに切り上げ、彼女が待ち合わせに指定した公園の広場につくと、そこは普段よりも騒々しかった。時計を見ると12時を少し回っていて、待ち合わせの時刻は12時のはずだった。だが周りを見渡しても、UFOや戦闘機、それと何か爆弾のような物の周りに、物々しい衣装をした人達が右往左往しているばかりで、彼女の姿は何処にもなかった。僕は適当なベンチに座ると、バックから文庫本を取り出して読み始めた。金属音や火花の散る音に混じって、子供の遊ぶ声が微かに聞こえていた。
「待った?」
「遅いよ、言いだしっぺはそっちだろ」
「ゴメンゴメン、服選びに手間取っちゃって」
「別にそんなこだわる必要もないと思うけどなぁ・・・」
「・・・別にいいじゃない、そんなこと、どうでも」
「・・・あとさ、電話したとき、小さい声でさ、僕に言いたいことがあるとか言ってた気がするんだけど・・・あれ、何?」
「え、あ・・・そ、そんなこといってたっけ、私?」
「うん」
「・・・ちょっと、急には思い出せないから、後にしてくれる?」
「・・・まあ、それなら良いけど」
「・・・・」
「・・・で、今から何処に行くの?」
「・・・まず昼ごはんを食べに行きたい、って自分で言ってたじゃないか」
「あ〜・・・ゴメン、忘れてたわ、すっかり」
「全く・・・」
僕らは公園から30分ほどバスに乗って繁華街へと行き、街で一番背の高いビル、その中にあるイタリア料理の店で昼食を取った。そこは眺めがよく、遠くの海の地平線、浜辺に打ち付ける小波、それから建物の隙間で揺らぐ人々といったものを見下ろすことが出来た。
「ここのお店、美味しいね。・・・もう少し食べちゃおっかな」
「注文するなら早くしたほうが良いよ。マスターもうすぐ撮影に出かけるっていうし」
「うーん・・・。じゃあ、このジェラート一つ」
彼女が冷菓に舌鼓を打っている間、僕は外を眺めていた。街はいつもよりずっと騒々しく、そして静かだった。時々遠くの空が瞬いては消えた。光の残滓が細かい破片となって地上に降り注いだ。それは地上の所々に赤い輝きを創り出すのだ。
「・・・ね、午後の買い物って、何処に行くの?」
「近くにショッピングモールが出来たんだ。5時までしかいられないけどね」
「ふうん・・・で?その後は?」
「そっちはなんかあるの?」
「私?今日の真夜中に、ほら、海岸のあそこらへんで撮影らしいわ」
彼女が指差したのは、丘の上の展望台に程近い、公園の隅のほうの砂浜だった。
「ふうん・・・」
「あなたは?」
「この紙をみればわかるさ」
「家が全壊か・・・ご愁傷様」
「いや、まあ、どっちにしろ同じだよ」
「まあ、ね」
2時になる少し前、僕らは店を出た。その店の客は、僕らで最後だった。
ビルからショッピングモールは歩いていける距離にある。背の高い建物の隙間を歩いてゆく。歩道はにぎやかだったが、車道の方は時折バスなどが通るばかりで、がらんとしていた。
「ここだな。・・・ふうん、結構大きいなぁ」
「やっとついたぁ・・・」
「こんだけでへばるのか・・・大丈夫なのか、そんなんで」
「まあ、なんとかギリギリ、って所」
そこは予想よりずっと大きく、そして綺麗だった。ブランド品のアウトレット。お洒落な輸入雑貨店。大きな大きなスーパーマーケット。
僕らはまず雑貨店に入り、彼女は十字架のアクセサリーを買った。僕はその傍らで文庫本を読みながら彼女を待っていた。会計を済ませると店を出て、スーパーマーケットに向かった。そこはドラッグストアも兼ねている大規模チェーン店で、「地域最大級」との謳い文句が、家族連れの持っていた広告には堂々と鎮座していた。
「何か買うの?」
「うん。・・・実は花粉症なんだよね。目薬を買いたい」
「こんな時に花粉症か・・・」
「あと、お菓子も買おう。小腹がすいたら困る」
僕は目薬とポテトチップス、それからペットボトルに入ったジュースを買った。いつの間にかいなくなっていた彼女は、何故か僕の後から大きな紙袋を持って店から出てきた。
「なにそれ?」
「お菓子」
「一人で?」
「あなたと、私」
「・・・マジで?」
「気にしない、気にしない。ほら、早くしないと五時になっちゃう」
「・・・あーホントだ。結構ヤバイかも」
彼女は紙袋を抱えたまま歩き始める。長針が既に10を指している。僕たちは急いでショッピングモールを後にした。
僕たちは渚近くの展望台に向かっていた。そこは彼女が指差したあの砂浜に程近い位置にある。屋根つきのベンチと自販機がある程度で、いつも人気はない。その代わり眺めはよかった。遠くに水平線を一望できた。僕がそこを訪れたのは、以前、撮影に参加した時一度きりだった。
僕と彼女がめっきり背の低くなったビルたちを駆け抜け始めて、もう1時間くらい経っていた。タンパク質の焦げ付いた匂いやコンクリートの破片といった物達が少しずつフェードアウトし、その代わりに潮の香りや新緑の鮮やかな色彩といった物が現れている。彼女が持っていたはずの紙袋は今は何故か僕が持っていて、当の彼女は僕の後をとぼとぼと歩いている。
「ほら、もうすぐ展望台だから、頑張って」
「あー・・・」
「多分、あと10分くらいだから」
「・・・もう無理」
突然何かが僕の背中にのしかかる。それは暖かかく、想像していたのより少し軽かった。傾きかけた夕日が、彼女の寝顔を照らしていた。
「人の背中で寝るなよ、すげー重かった」
「ひっどーい、女の子に向かってそれはないでしょ」
「だったら自分で歩けよ」
「うー・・・」
丘の上の展望台、砂浜と水平線を眼下に見る高台で、僕らは紙袋の中のお菓子を食べていた。ここについてから、疲れのせいか暫くベンチに座って眠ってしまっていたので、時計の短針は7を少し過ぎてしまっていた。空はもう暗くなっていた。時折強い光が現れては闇に飲み込まれていった。遠くの方で、大きな大きな火炎が燃え盛るのが見えた。しかし、その火の光はここには届かず、展望台は薄暗く冷たい空気をまとっていた。
「・・・やっぱりこんなに食べきれないね」
「だから言ったのに・・・」
彼女は紙袋の中から未開封のミネラルウォーターのボトルを取り出すと、封を開け、こくこくと一気に三分の一くらいを飲み干した。「もうこれで今日はおしまい」と、彼女は僕にそのボトルを渡す。そしてベンチから急に立ち上がり、また振り返って。
「ね、あれって、確か、今日負けちゃうんだよね」
そうして、夜空の一点を指差す。彼女の指先で、光が一瞬現れてまた消えた。僕は水を飲みながら答える。
「まあ、最終回だからね」
「最終回・・・か」
彼女は「そっか、そうだよね」と寂しげに呟いて、天を仰ぐ。光のない空は、全くの黒一色。薄ぼんやりとした街灯の光の下、彼女はまた僕に向き直って。
「今日の朝さ、言いたいことがあるって、そんな話したよね」
「したね」
「・・・こんなこと、言わなくてすむならいいたくなかったけど。今言わないと、絶対後悔するって、私思うから。あのね・・・」
「・・・あなたのこと好きだった。昔からずっと」
「・・・」
「もう、いまさら遅いけど。でも・・・」
俯く彼女の薄い肩は震えていた。僕は彼女の頬に優しく手を添えて。
「・・・ありがとう」
唇に―――。
「・・・もう、行かなきゃ」
「そっか。・・・じゃあこれ、持っていって」
「え・・・?何で?」
「目が真っ赤。最後の撮影なんでしょ。そんな顔で映ったら、みっともないし」
「・・・うん、ありがとう」
僕は彼女が見えなくなるまで、夜の帳のその先を、見つめていた。
―――
フィラメントの放つ仄かな照明の下、僕は最後のひと時を、読書をして過ごしていた。ポケットから文庫本を取り出して、物語のクライマックスを、ゆっくりとかみ締めるように。その本は「渚にて」という本だった。冒頭に記されている、エリオットの詩が僕は好きだった。最後の一ページをめくり終わると、僕はまた冒頭に戻って、その詩を読み返した。
このいやはての集いの場所に
われら ともどもに手さぐりつ
言葉も無くて
この潮満つる渚に集う・・・
かくて世の終わりきたりぬ
かくて世の終わりきたりぬ
かくて世の終わりきたりぬ
地軸崩れる轟きも無く ただひそやかに
僕は一人だった。このひんやりとした灰色の世界の終わりに。
―――
「渚にて」を閉じる。ポケットにその文庫本をしまう。何かが手に触れたと思ったら、くしゃくしゃの紙切れが一枚。撮影の予定表だった。僕はその紙切れのしわを丁寧に伸ばし、小さく折りたたむと、掌に乗せた。それは潮の匂いを乗せたそよ風にさらわれて、夜の向こうへと消えていった。時計の針がもうすぐ12時を指そうとしていた。あの予定表の通りならば、今日の12時に全てが消去されるのだ。それはまるで不要な細胞がアポトーシスによって自ら死んでゆくように。
渚が相変わらず静かに、そして優しく揺らいでいるのを感じた。ベンチの背もたれに体重を預け、安楽椅子に座る老人のように、静かに目を瞑る。そうして僕は滅亡までの少しの間、世界が白くフェイドアウトしてゆく様子を、電源が落ちるように黒くカットアップされてしまう様子を、夢想していた。
(了)