2007年11月14日

Chateau de la Tuilerie Cuvee Eole

冬も近づいてきているし、夜は冷え込んできましたな。

もう少しで新規開店から1年。
まだ終わってはいないけれど、今年はいろいろなことがあったなと思いを巡らせてみたり。迷惑をお掛けしたなと反省したり。

Chateau de la Tuilerie Cuvee Eole


今日はストックしておいたシャトー・ド・ラ・チュイレリーを開けよっと。

キュヴェ・エオル。
ヴィンテージは2000年。
ラングドックの当たり年。



出来立てのカスレでゴクゴク胃に流し込んじゃいますか。
そうだな、そうしよう。全部流しちまえ。トミー、そうします。
後ろには戻れないし、だったら前見て歩きますって。

少し早いですが、有り難う御座いました。
皆様に多大なる感謝の気持ちを込めて。

握手を。

fed_bar at 03:50|PerlmalinkComments(0)TrackBack(0)clip!ワイン 

2007年10月02日

カストロ議長のハバナクラブ

エクスクジート




私、世界中のリカーショップを覗いて探し回ってます。
フィデル・カストロ議長専用とも言われる、エクスクジート。

熟成年数が長い?味が旨い?香りが良い?
いえいえ、酒の価値基準はそれだけでは決められません。

ある意味、マキシモより貴重。
マキシモは金さえあれば買えますから。

ラム酒は奥が深い。だからこそ、トミーは悩みます。



2007年09月14日

房総半島一周してた時に流れてた音楽

夏も過ぎ、こないだは天気も良かったんで房総半島一周してきたんです。
ついでに頭の中は音楽で世界一周してきました(ジャンル関係なし、1曲しか聴いてないアルバムもあり)。

千葉県にいるのに気持ちだけあっちの世界にフッ飛ばすのが大のお得意なもので。

よーし。不良番長風で、「行くぜぇ!」

LET´S ONDO AGAIN








LET'S ONDO AGAIN/Niagara Fallin' Stars
(1978:NIAGARA/Columbia)

「エッホ、エッホ」

Batucada Sa Calesa








Batucada Sa Calesa/BONG PENERA
(1978:Vicor)

「ちきゅうのよあけはもうちかい」

A Meeting by the River








A Meeting by the River/Ry Cooder & V.M. Bhatt
(1993:Waterlily Acoustics)

「二人、スライダー」

Shahen-Shah








Shahen-Shah/Nusrat Fateh Ali Khan
(1989:Real World)

「アッラーへのゴスペル」

Rom‐Pop








Rom-Pop/VERA BILA & KALE
(1999:Wagram)

「ジプシーと股旅」

Le Sacre des Lemmings








Le Sacre des Lemmings/Tete
(2006:Sony/BMG)

「断崖絶壁」

LA RUTA DEL CHE (NO ESCUCHAR)








LA RUTA DEL CHE「NO ESCUCHAR」/boikot
(1997:PRODUCCIONES BKT)

「勝利するまで、ずっと」

Las Damas Primero








Las Damas Primero/JAVIER RUIBAL
(2005:Nuevos Medios)

「このままアンダルシアの青い空」

Any More For Any More








Anymore For Anymore/Ronnie Lane & Slim Chance
(1974:GM GML)

「自分のペース」

Rum Sodomy & the Lash








RUM SODOMY & THE LASH/THE POGUES
(1985:MCA)

「飲み過ぎシール」

Palm Wine Sounds of S.E. Rogie








THE PALM WINE SOUNDS OF S.E. ROGIE/S.E. ROGIE
(1989:Workers Playtime)

「椰子酒なわけなんですが…」

Libertango








Libertango/ASTOR PIAZZOLLA
(1974:CAROSELLO)

「情事の前の動」

Domingo








DOMINGO/gal e Caetano Veloso
(1967:Verve)

「情事の後の静」

Palo congo








palo congo/SABU
(1957:Blue Note)

「ジャズじゃないブルーノート」

Song Book








BOB ANDY'S SONG BOOK/BOB ANDY
(1972:STUDIO ONE)

「パラゴンズだとビールのイメージが強いんでこちらを」

Macka Fat








Macka Fat/Jackie Mittoo
(1970:STUDIO ONE)

「ジャマイカじゃなきゃ生まれ得ない」

EVERGREEN








EVERGREEN/BOOKER T
(1974:Epic)

「夏の日の思ひ出」

Calypso Is Like So








Calypso Is Like So/ROBERT MITCHUM
(1957:Capitol)

「粋な伊達男」

Paradise and Lunch








Paradise and Lunch/Ry Cooder
(1974:Warner Bros.)

「世界で一番好きなアルバム」

THE LATE GREAT TOWNES VAN ZANDT








The Late Great Townes Van Zandt/TOWNES VAN ZANDT
(1972:Poppy)

「テキサス、路上」

I KNOW (YOU DON'T LOVE ME NO MORE)








I KNOW (YOU DON'T LOVE ME NO MORE)/Barbara George
(1962:Collectables)

「ハートいっぱい、臭いいっぱい」

LAID BACK








LAID BACK/GREGG ALLMAN
(1973:Polydor)

「気だるい」

IT'S TIME FOR








IT'S TIME FOR/JONATHAN RICHMAN & THE MODERN LOVERS
(1986:Rough Trade)

「僕の眼球に命中したのはやもめのジョナサン」

BOUQUET








BOUQUET/The Percy Faith Strings
(1959:Columbia)

「ジョジョ版も良いですが、こちらの赤い風車を」

Waitress in a donut shop








WAITRESS IN A DONUT SHOP/MARIA MULDAUR
(1974:Warner Bros.)

「当店はラム酒専門店です」

Right on Be Free








RIGHT ON BE FREE/The Voices of East Harlem
(1970:elektra)

「ハイ!チビッこのみんな!」

The Times They Are A-Changin'








THE TIMES THEY ARE A-CHANGIN´/BOB DYLAN
(1964:Columbia)

「お経かラップか」

SMiLE UNSURPASSED MASTERS VOL.16(1966-1967)








SMiLE UNSURPASSED MASTERS VOL.16(1966-1967)/THE BEACH BOYS
(1999:SEA OF TUNES)

「お店のコンセプトを考えた時、この音たちが頭の中で鳴っていました」

ISLANDS








ISLANDS/Cyrus Faryar
(1973:Elektra)

「中東、ハワイ、西海岸を繋ぐ架け橋」

Rabbit Island Music Festival








Rabbit Island Music Festival/Gabby Pahinui
(1973:Panini)

「カクテルに孫の手入れないで」

melanesian choirs:the blessed islands








melanesian choirs:the blessed islands chants from THE THIN RED LINE [SOUNDTRACK]
(1999:RCA Victor)

「魂揺さぶる南の島のゴスペル」

The Blue Hearts








The Blue Hearts/The Blue Hearts
(1987:Juggler Records)

「気が狂っちゃって、到着」

三番瀬は木屑だらけ。
ツクツクボウシも鳴いてるぜ。


2007年08月15日

海神と名付けられたラム

North Field,Tinian
マリアナ諸島を制圧したアメリカ軍は、各島を急ピッチで基地化していきました。

特にテニアン島は隆起珊瑚礁からなる平坦な島であったため、世界最大の航空基地ノース・フィールド基地が建設され、その姿を大きく変えていきました。

そして再び、マリアナ諸島から届け物が日本本土に送られてきました。

B29の投弾は雨アラレと

その届け物はあの時のような、甘く芳しく優しいラム酒ではありませんでした。
それは全てを焼き尽くすほどの爆弾だったのです。




焼き尽くされた東京下町(昭和20年9月28日)
マリアナ諸島占領に伴い、日本本土がB-29爆撃機の爆撃圏内に入ったことから、東京など主要都市への空襲が本格化していくこととなり、街は焼け野原となり、多くの人々が焼死しました。

届け物はこれだけではありませんでした。

1945年8月6日、広島。

江戸時代広島藩の城下町として栄え、明治以後は広島県の県庁所在地であった広島市は中国地方の行政、経済、教育、文化並びに軍事の中心地となっていました。

8時15分で止まった懐中時計


午前8時15分。
雲一つない夏の日の朝。広島は時が止まった。





テニアン島から飛び立ったB-29爆撃機エノラ・ゲイ号は高度約9600メートルの地点で地球上初めてとなる爆弾リトルボーイを投下。
その爆弾は恐るべき大量殺戮兵器原子爆弾でした。

広島・原爆雲
ラヂオが「敵大型機3機、西条上空を…」と放送したところで「ピカッ!」という強い閃光が走り、一大爆発音が起きました。

細工町島外科病院の上空580メートルで炸裂した原子爆弾は、その瞬間、摂氏数100万度の火の玉となり強烈な熱線と爆風で人々を殺傷し、爆心地から2キロ以内が全壊全焼し、4キロ以内の建物が破壊されました。

皮膚をズルッと引きむき、垂れ下がらせた人、ひたすら呻くだけの人、「水を下さい」と叫ぶ人、そして苦悶のうちに自らの命を絶つ人。
広島は阿鼻叫喚の地獄と化していました。

黒い雨の跡の残る城壁


爆発の約20分後、広島に雨が降りました。
その雨は黒。放射能を含んだその雨はどす黒い色をした黒い雨でした。



8月9日、長崎。

長崎市は長崎県の県庁所在地として行政、教育の中心を占め、そして一大軍需生産地でもありました。
長崎市の歴史は古く、フランシスコ・ザビエルのキリスト教伝来以降、キリスト教信仰が根強く残されていた地域でもあり、ロマネスク様式の大聖堂浦上天主堂は見事な景観を誇っていました。

11時2分で止まった柱時計

午前11時02分。
蝉の鳴く蒸し暑い日の昼少し前。長崎は時が止まった。





テニアン島から飛び立ったB-29爆撃機ボックス・カー号は高度約503メートルの地点で原子爆弾ファットマンを投下。

長崎・原爆雲

浦上川地域のほぼ中央、松山町170番地の上空500メートルで炸裂した原子爆弾は、南北に繋がる二つの丘陵に挟まれた山あいの地に閃光を走らせ、爆発音と共に黒ぼこりが巻き上がりました。

長崎に炸裂した原爆は広島のそれに比べ破壊力が強く、その熱線と爆風は一斉に大地が火を噴くように燃え、そして一斉に消えた。
一瞬の内に人も物も全てを焼き尽くし、街々を破壊しました。

浦上天主堂の聖母像とヨハネ像
浦上の丘にそびえる浦上天主堂では、イエス・キリスト像、聖母マリア像や聖人像が一瞬の熱線により焼かれ、爆風に吹き飛びました。

天主堂大伽藍は堂壁だけを残し崩壊。神父及び信徒が運命を共にしました。

右にも左にも石ころのように死体が転がり、眼球が飛び出した人、ガラスや木が体に突き刺さった人、幽霊のように彷徨う、最早助かる見込みのない重傷者たち。一瞬の死者は無数に続きました。

焼き場に立つ少年(Joseph R. O'Donnell, September 1945)

その死者たちの死体処理も難航しました。
火葬するにも火災により焼く材料となるものが全く無い状況でした。
亡くなった人たちは放り投げられるように一個所へ山積みされ、ほとんどの遺骨は誰のものか分からないまま葬り去られたのでした。



爆発の約20分後、黒ぼこりが納まったのと同時に雨が降り出しました。
その雨は広島の時と同じように、どす黒い色をした黒い雨でした。

厚木に降り立つ、マッカーサー連合国軍最高司令官


8月15日、終戦。



最高司令官をダグラス・マッカーサー陸軍元帥(1880〜1964)とする、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の日本統治が始まりました。

10月1日、南洋興発株式会社はGHQからの直接指定をもって企業閉鎖を命じられ解散を余儀なくされます。

1921年に設立され、僅か24年のうちに約20社に及ぶ傍系企業を擁する南興コンツェルンを構築し、南洋群島にサトウキビを植え、この地を繁栄させた南洋興発株式会社。
太平洋戦争が熾烈化し、サイパン島、テニアン島、グアム各島の玉砕の地で「在留邦人は、終始軍に協力し、およそ戦い得る者は敢然戦闘に参加し、おおむね将兵と運命を共にせるものの如し」、一億火の玉となってこの地に葬られた移民たち。
そして、事業地全域にわたる施設の破壊。
たまたまこの島々が戦場と化してしまった以上、国家総動員法に基づき、国土防衛に協力するのは国民として当然の責務でありました。

南洋に全てを託した松江春次の夢、そして移民たちの希望。
この時、南興は終わりを告げたのでした。

しかし、その思い全てが終わったわけではありませんでした。
日本で初めて造られたラム酒、南興ラムはここで消え去りはしなかったのです。

1946年、東京・芝浦にあった南洋興発株式会社・芝浦製酒工場が競売にかけられ、これを旧南興人が落札。
翌1947年、旧南興人によって太陽食品工業株式会社が設立。

その後、子会社として同年に精製糖部門の芝浦精糖株式会社を設立。
そして、1950年には酒造部門が分離され、太陽醸造株式会社が設立されました。

この太陽醸造株式会社に南興時代の施設及び南興ラムのノウハウが受け継がれ、ラム酒の研究が行われるようになりました。

1952年。
南興ラムの系譜を継ぐ、戦後発の国内産ラム「ネプチューン・ダーク・ラム」が遂に完成します。

ネプチューン・ダーク・ラムは、その原料に芝浦精糖株式会社が東南アジア・南米から輸入した原料糖を精製行程にかけた後、残った糖蜜が使用されており、それを醗酵させ、単式蒸留機で蒸留。
このラム原酒を濾過した後、琥珀色に色付けをされ、瓶詰めされていました。

この年、本格的な国内産洋酒としてネプチューン・ダーク・ラムは販売を開始し、バーの酒棚を飾るようになりました。

合同酒精東京工場・ラム工場内部
1961年12月8日、太陽醸造株式会社は合同酒精株式会社と合併。



旧南興人を主流とする従業員は合同酒精株式会社に移籍し、ネプチューン・ダーク・ラムは千葉県松戸市の合同酒精東京工場内で引き続き生産されることとなりました。

1974年、千葉県松戸市の合同酒精東京工場内にあったラム酒製造工場は処理設備能力の高い北海道旭川市の旭川工場に移説され、継続生産されていきました。

ジャマイカラム成分のクロマトグラフィ
当初、ネプチューン・ダーク・ラムは「飲む洋酒」として販売が成されていました。


しかし、高度成長期に伴い経済が上向きになって行くとともに、洋菓子業界から「香り付けのためのラム酒」としてネプチューン・ダーク・ラムが切望されるようになり、やがて、香りを重視した製菓用ラムとしての研究が進められて行くようになりました。

この研究により、中米カリブ諸島ジャマイカ産のラムがウイスキーやブランデーを凌ぐほど高い芳香性を持つことが分かり、ネプチューン・ダーク・ラムの原酒にジャマイカ産ラムが使用されていくようになります。

ネプチューン・ロゴ
そして現在。


2003年、オエノングループ合同酒精株式会社となった後もネプチューン・ラムは継続生産されています。

ネプチューン・ダーク・ラムの原酒には、香り高いジャマイカ産のヘビーラム、コルバ・ラム原酒を中心にブレンドされたものが使用されており、日本一の製菓用ラムとして不動の地位を獲得し、数多くの洋菓子店で愛用されています。

また、ネプチューンはラム酒だけではなく、ネプチューンの名の下にその他のスピリッツ、リキュール類もネプチューン・シリーズとして販売され今に至っています。

テニアン・ロングビーチ

青い海、白い砂浜、南洋の明るい太陽の下、宝石のように瞬く長閑で平和な島々。



楽園と呼ぶに相応しいマリアナ諸島は、今も私たちを魅了して止みません。

畑ビキ糖ンアニテ
しかし、あの時のサトウキビ畑はもうどこにも見当たりません。今のマリアナ諸島では、サトウキビの生産はなされていないのです。

tangan tangan

戦後、アメリカ軍はサトウキビ畑の広がるこの島々に、タガン・タガンという繁殖力の強い植物の種を蒔きました。



今、この島々を覆う緑のジャングルはタガン・タガンの緑です。
そして、このタガン・タガンの緑の下に、平和な日本、繁栄する日本を望み太平洋の防波堤となって散っていった日本人の亡骸が今も眠っています。

ネプチューン・ダーク・ラムを私は飲む。
私はラムを、酒を飲めるのだ。
この幸せは一体誰のお陰なのか。
これを幸せと言わずして何が幸せなことなのだろうか。

オエノングループ合同酒精株式会社のネプチューン・シリーズのパンフレットに「ネプチューン」の名前の由来について説明がなされていました。

Managaha Island






その名の由来となる「ネプチューン」は、ラテン名「ネプトゥーヌス」の英語読みです。
ギリシャ神話でポセイドンと呼ばれています。
オリンポスの12神の中でもっとも気まぐれで怒りっぽい神であった、「ポセイドン(=ネプチューン)」は海を支配する強力な力を持っていました。
古代の旅人たちは船旅に出る前に安全な航路をこの海神に請い願ったと言います。
気が変わると突然、その微笑みが怒りへと転じてしまう海の恐ろしさは近代になっても変わりません。
洋酒づくりで半世紀を超える合同酒精は、遠い南洋でしか手に入らない貴重な原料を長い航海を経て日本に運び、苦心の製造によりお客様にお届けしてきたという歴史があります。
「ネプチューン」というブランドネームには製菓用洋酒づくりを通じて持ち続けている合同酒精の夢、お客様に最良の商品をお届けし、ご一緒に喜びを分かち合っていきたい、という思いが込められています。


太陽醸造株式会社時代、このネプチューンという名称を命名したのは、旧南興人で当時、芝浦精糖株式会社社長であった花田菊造氏でした。

「遠い南洋でしか手に入らない貴重な原料を長い航海を経て日本に運び、苦心の製造によりお客様にお届けしてきたという歴史」とは南興ラムの歴史。

サイパン島興発会社・甘蔗運搬列車


南洋の夢、そして希望。



それは今も生きているのです。
製菓用ネプチューン・ダーク・ラムの中に。
確実に生き生きと。

私がこのラムを調べ始めた時、幸運にもサイパン島やテニアン島で働いていた元・南興人の方々とお話しすることが出来ました。

その一人の方が私にこう言うのです。

ネプチューン・ラム・ダーク
「ネプチューン・ダーク・ラムは、あの時の南興ラムと同じ味と香りがする」、と。



あなたにこの意味が分かりますか。この意味が届きますか。

ネプチューン・ダーク・ラムを飲むたびに私は思う。
酒とは歴史。
私は歴史を飲んでいるのだ、と。

松江春次銅像
サイパン島シュガー・キング・パークにて今も南洋諸島を見守っている松江春次の銅像。
このラムを飲むたびにサトウキビがざわめき、南洋桜が咲く、あのサイパン島やテニアン島に私の心は連れて行かれるのです。


皆様もどうぞネプチューン・ダーク・ラムを飲んでみて下さい。
ペットボトル容器に詰められたこのラムを飲んでみて下さい。
「製菓用ラムはちょっと…」なんて言わず飲んでみて下さい。

1ショット600円。
当バーで一番安いラム酒です。
日本人のラム酒好きならば、一度は飲んでおくべきだと私は思います。

松江家代々之墓

今年、6月8日。
私は福島県会津若松市にいました。

松江春次。
彼は今、兄松江豊寿と共に磐梯山に見守られながら静かに眠っています。


今から73年前の6月8日、テニアン島の地でテニアン酒精工場が竣工されました。

全てはここから。
日本のラムの歴史は始まったのです。

砂浜に置かれた海神ラムと愛用の湯呑み

偉業、その労苦と涙。
先人たちに敬意を表して。

日本人の1ラム酒好きとして。
2007年8月15日に記す。



※資料、情報提供有り難う御座いました。

オエノングループ合同酒精株式会社
財団法人アジア会館内・社団法人太平洋諸島地域研究所

その他、大勢の方々と出逢い、貴重な情報、そして、御協力を頂きました。
本当に有り難う御座いました。皆様に感謝致します。

南興ラム

ハワイ真珠湾攻撃の勝利により、勢いに乗る日本軍は開戦からわずか5ヶ月でアジア各地を占領していきました。
しかし、1942年6月、日本に最も近い米軍の基地であったミッドウェー諸島の占領および米空母部隊の壊滅を狙ったミッドウェー海戦で敗北を期して以降、同年に行われた第一次ソロモン海戦や南太平洋海戦、翌1943年初頭に行われたレンネル島沖海戦では日本は勝利を手にするものの、ニューギニア、ガダルカナル島やマキン・タラワ島をめぐる戦いで戦局に影が生じるなど、1年を経過せず、日本の戦局は徐々に悪化していきました。

1943年。
戦中の動乱の最中、ラム酒の研究を続けていた東京・滝野川の南洋興発研究所は、遂に日本で初めてのラム酒を完成させました。

王冠で栓がされたビールの大瓶に詰められたこのラムは、テニアン島で収穫されたサトウキビの糖蜜を原料にし、連続式蒸留機で造られたラム原酒をベースに、同じく、サイパン島で収穫されたサトウキビの糖蜜を原料にし、連続式蒸留機で造られたラム原酒と小さな単式蒸留機で造られたラム原酒を独自にブレンド。その後、活性炭で濾過し、琥珀色に色付けされたダークラムでした。

南興ラム


このラムこそが、日本で初めて造られたラム酒、南興ラムです。





ラベル中央を囲むのはテニアン島とサイパン島のサトウキビ。
ラベル左右にはモートロック諸島に伝わるタプアヌ仮面を模した絵柄が描かれ、入道雲は青空に大きく広がり、ヤシの木の生える小島は紺碧の海に浮かぶ。

宝石のように輝く平和なマリアナ諸島から送られてきた、大切な大切な贈り物。

このラムが最初に卸されたのは、東京・神楽坂の花街で、「酒の無い時代、舞妓さんなどに大変喜ばれた」と南興ラム開発員の1人である元・南興人の方からお話を伺う事が出来ました。

しかし、同年11月。
政府は軍需生産第一主義を確立するため、軍需省を新設。
南興ラムは軍需品として陸軍航空糧食・航空元気酒などの原料に使用されることとなり、洋酒として愛飲家を獲得することなく、この世の中から消えていったのでした。

翌1944年。
日本で初めてのラム酒を生んだマリアナ諸島は一刻の猶予も許さない危機的な状況に置かれていました。

連合国軍に対し、各地で劣勢に回りつつあった日本軍は、本土防衛並びに戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けました。その絶対国防圏の最重要地点に位置付けられていたのが、あのサトウキビ畑の広がる、マリアナ諸島でした。

同年6月11日、マリアナ諸島攻略計画を発動させたアメリカ軍はサイパン、テニアン、ロタ、グアム各島に対し大規模な空襲を開始しました。更に12日にも大規模な空襲を行い、13日には戦艦による艦砲射撃も開始されました。

中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将
アメリカ軍の上陸が最早確実となったサイパン島を守備するのは、中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将(1887〜1944)率いる陸海軍の兵士と多くの民間人でした。



日本軍はアメリカ軍上陸前から陣地の構築を進めていましたが、資材等は大幅に不足しており、当時の内閣総理大臣、東條英機(1884〜1948)の「サイパンは難攻不落」との自信とは裏腹に実情は簡単な塹壕を掘っただけの陣地が大半でした。
そのため、艦砲や空襲に対抗するのに適した山や谷を利用した縦深陣地の構築を行うことは出来ず、水際撃滅作戦が採用されることとなりました。

U.S. Marines land on Saipan Beach,15 June 1944.
6月15日早朝。
12万人を超すアメリカ軍は遂にサイパン島チャランカノアの海岸から上陸を開始したのでした。

日本軍は水際で激しく抵抗しました。
しかし、物量と兵器の差が余りにかけ離れているアメリカ軍に日本軍は太刀打ちすることが出来ませんでした。

破壊されたサイパン製糖工場

平和だったこの島は今や地獄絵図と化していました。




多くの日本人が戦死する中、あれほど栄えていた製糖工場や酒精工場は破壊され、サトウキビ畑は火炎放射器で焼き払われ、サトウキビの茎だけが棒杭のように立ち並ぶ畑をアメリカ軍戦車は進撃する。

やがて、アメリカ軍に飛行場を奪われ、チャランカノアやガラパンの街は瓦礫の山となっていったのでした。

負傷したアメリカ兵と砂糖黍畑(サイパン)





それでも逆境に挫けることなく、サイパン島日本軍守備隊は増援部隊の派遣を信じ、島の北部に部隊を退け抵抗を続けていました。

丁度その頃、アメリカ軍のサイパン上陸を知った連合艦隊は、空母9隻、艦載機459機からなる機動部隊をマリアナ沖に向かわせていました。
迎え撃つアメリカの機動部隊との間に太平洋の制空権及び制海権を賭けた一大決戦が始まろうとしていました。

日本軍機動部隊は、艦載機の足の長い特性を活かし、アメリカ艦載機の来襲しない海面上で攻撃機を発進させるというアウトレンジ作戦を採用していました。 これに対し、アメリカ機動部隊は160キロ先の敵機を感知することが出来るレーダー・マーク12と音に反応して破裂するVT信管付き対空砲火といった最新鋭兵器を用意し、日本軍を待ち構えていました。

マリアナ沖海戦
6月19日、マリアナ沖海戦が開戦。
日本軍機の来襲をいち早くレーダーで察知したアメリカ機動部隊は、戦闘機450機をただちに発艦。
上空で日本軍機を待ち伏せました。
長距離飛行をしてきた日本軍機にアメリカ軍戦闘機が襲いかかる。

攻撃一辺倒で防御防弾を軽視したゼロ戦は次々とグラマンF6Fヘルキャットの餌食となっていきました。
また、空中戦で生き残ったゼロ戦もVT信管を搭載した対空砲火の標的となり、海の藻屑となって消えていきました。

アメリカ軍はこの様子を「マリアナの七面鳥撃ち」と称し嘲笑しました。

勢いに乗るアメリカ軍は日本の機動部隊を追撃し、空母3隻を撃沈。
21日、作戦は中止され機動部隊は壊滅しました。

この海戦の大敗により、太平洋の制空権及び制海権はアメリカが完全掌握することとなり、マリアナ諸島の日本軍や民間人は救援や脱出の望みが絶たれました。これにより、大本営はサイパン島の放棄を決定しましたが、この事は各島守備隊に知らされることはありませんでした。

増援部隊の派遣を信じ、絶望的な戦いを続けていたサイパン島の日本軍守備隊は、中部山岳地帯にあるタポチョ山に新たな防御線を敷き、壮絶なる抵抗を繰り広げていました。

しかし、7月5日。
サイパン島北部、マッピ山北面崖下の洞穴内に追い詰められた中部太平洋方面艦隊長官南雲忠一中将、第43師団長斎藤義次中将(1890〜1944)、第31軍参謀長井桁敬治少将(1894〜1944) 、第6艦隊司令長官高木武雄中将(1892〜1944)ら司令部は、「サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ、米鬼進攻を企画してより茲に二旬余、在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は、克く協力一致善戦敢闘随所に皇軍の面目を発揮し、負託の任を完遂せしことを期せり、然るに天の時を得ず、地の利を占むる能はず、人の和を以って今日に及び、今や戦ふに資材なく、攻むるに砲熕悉く破壊し、戦友相次いで斃る、無念、七生報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻依然たり、サイパンの一角を占有すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃下に散華するに過ぎず、今や、止まるも死、進むも死、死生命あり、須く其の時を得て、帝国男児の真骨頂を発揮するを要す、余は残留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし」という訣別電を発し、残存部隊に最期の総攻撃を指示。翌6日未明に自決しました。

バンザイ突撃の後、タナパグ近くの海岸に横たわる日本兵の死体
7月7日。
残存部隊約3000名は、島の北部タナパグ地区に集結。


最早、銃弾尽きた日本兵は手榴弾や銃剣のみを手に取り、アメリカ軍に対し最期のバンザイ突撃を敢行しました。

2日間に及ぶこのバンザイ突撃は正に鬼気迫るもので、アメリカ軍は激しく混乱しました。
しかし、アメリカ軍は艦砲射撃などによってこれらを退け、サイパン島日本軍守備隊は玉砕。
タナパグ・ビーチは日本兵の死体で埋め尽くされました。

断崖から身投げする女性(サイパン北端マッピ岬1944・7)






また残された民間人たちも「生きて虜囚の辱を受けず」という戦陣訓を受け、島の北端マッピ岬やマッピ山の断崖から「天皇陛下万歳」と次々に投身自殺を図り、日本軍と運命を共にしました。

9日夕刻、アメリカ軍はマッピ岬に到着。
サイパン島の占領を宣言しました。

難攻不落と言われたサイパン島の攻略を完了したアメリカ軍はその攻撃の手をグアム島、そしてあのテニアン島へ向けて来ました。

同年7月21日、アメリカ軍はグアム島に上陸。
続く24日、テニアン島への上陸も開始しました。

第1航空艦隊司令長官角田覚治中将

テニアン島でアメリカ軍を迎え撃つのは、第29師団第50連隊連隊長緒方敬志大佐、第1航空艦隊司令長官角田覚治中将(1890〜1944年)率いる陸海軍の兵士と多くの民間人でした。

サイパン島と同じく、テニアン島でもまた資材等は大幅に不足しており、また、航空機や艦艇が一機一艇も無い危機的状況に置かれていたテニアン島日本軍守備隊は、それに挫けることなく「掘ろう、断じて掘り続けよう」と素手で岩盤を掻き陣地の構築を進め、上陸予測地点を島の南西部テニアン港付近と位置付け、アメリカ軍の上陸を待ち構えていました。

テニアン島チューロビーチより米軍上陸(7月23日)

しかし、アメリカ軍の陽動作戦により、不意打ちをくらったテニアン島日本軍守備隊は、島の北西部チューロ・ビーチからアメリカ軍の上陸を許してしまいます。


これに対し、日本軍は同日深夜に夜襲を仕掛けましたが、アメリカ軍の猛烈な弾幕射撃と照明弾による妨害により反撃は失敗し、2500人あまりの日本軍兵士が戦死しました。

日本軍の攻撃を撃退したアメリカ軍は南下を開始しました。

破壊されたテニアン製糖工場

サトウキビ畑は燃え、家屋は吹き飛び、島中が破壊されていきました。


更に南下を続けるアメリカ軍は飛行場を奪取し、日本軍の新たな防衛線も次々と突破、そして7月30日、廃墟となったテニアン市街を占領しました。

31日、島の南部カロリナス高地北方に新たな防衛線を構築した日本軍はマルポの井戸、テニアン町南側、第3飛行場南側付近で反撃を開始。
戦闘は夕刻まで続いたが日本軍は敗れ、南端のカロリナス高地へ撤退し、丘の頂上で最後の戦線を敷きました。

同日夜半、連隊長緒方敬志大佐は大本営並びにグアム島の第31軍司令官小畑英良中将(1890〜1944)に対し、最後の報告を打電。

8月1日 前夜半から早朝にかけて3度にわたる反撃を実施、激烈な白兵戦のあと日本軍は撃退された。
海軍の栗原大佐、設営隊長林技術少佐をはじめ多くの将兵が戦死しました。

この日アメリカ軍はテニアン島占領を宣言。

夜間の突撃で死亡した日本兵の死体1944・8(テニアン).
2日夜半、緒方連隊長は軍旗を奉焼。
残存部隊と民間義勇隊等約1000名は最期の攻撃を敢行しました。

敵の猛烈な機関銃、迫撃砲火、火炎放射戦車などのため死傷者は続出し、緒方連隊長も後退中に戦死しました。

また角田司令長官は手榴弾を持って壕をでたまま帰ることはなく、三和参謀長以下幕僚もその職に殉じ、第56警備隊司令大家大佐も戦死、守備隊の組織的戦闘は8月3日の夜明けとともに終わりました。

そして、カロリナス高地の断崖に追い詰められた民間人たちはサイパン島マッピ岬やマッピ山の断崖で起きた悲劇を繰り返していました。

テニアン・カロリナス断崖


絶望にかられた人々は、捕らえられるよりは死を選び、次々と断崖から身を投げていきました。




先に子供に言い聞かせて突き落としその後飛び込む親たち、子供を絞め殺した後飛び込む父親、子どもを体にくくりつけて一緒に飛び込む母親。
崖下の岩礁には死体が折り重なり、紺碧の海は真っ赤に染まりました。

8月11日、グアム島の日本軍玉砕。

こうして、マリアナ諸島はアメリカ軍に占領されるに至り、絶対国防圏の要は崩れ去っていったのでした。

※第3話、「海神と名付けられたラム」に続きます。

南洋興発株式会社

サラェボ事件


1914年6月28日、ボスニア・サラエボ。





オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ=フェルディナントが当時オーストリア領であったサラエボを視察中、セルビア人の青年ガブリロ・プリンチプによって暗殺された事件、所謂、サラエボ事件が発端となり、ドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリアの同盟国と、三国協商を形成していたイギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国の2つの陣営に分かれ、第一次世界大戦が勃発しました。

これに対し日本は8月23日、日英同盟に基づき、ドイツに宣戦布告をし連合国の一員としての参戦を表明。
10月14日、赤道以北のミクロネシア・ドイツ領ニューギニア(南洋群島)を無血占領し、海軍による軍政を実施しました。

1918年11月、ドイツのキール軍港での水兵の反乱をきっかけに始まったドイツ革命によって、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は退位に追い込まれ、休戦協定に署名。第一次世界大戦は終結しました。

これを受けて始まったパリ講和会議において、1919年5月、アメリカの反対が起こったのにもかかわらず、国際連合最高会議は日本にミクロネシアの委任権を与えます。しかし、アメリカはこれに賛意を示さず、再び会議が行われますが、1920年12月17日、またも国際連合最高会議は日本のミクロネシアに対する主張を是認しました。
その後、列強との間で重要な交渉が行われた結果、アメリカは日本がグアム以外のミクロネシア諸島を支配するC級委任統治とすることでようやく合意し、1922年2月11日、日本のミクロネシア委任権が発効されました。
それに伴い、1922年3月、総理府の下に日本民政の南洋庁がパラオ諸島コロール島に設立され、それまでの海軍軍政から民政に引き継がれました。

こうして、「南洋群島」、つまり、西太平洋の赤道以北に位置する、東西5000キロ・南北2400キロもの広大な海域に散らばる島々である(現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦)内南洋の日本統治が始まりました。

南洋群島

日本で一番最初に造られたラム酒の話はここから始まるのです。



南洋群島における日本人の経済活動は第一次世界大戦が終わる以前から行われており、農業関係で言えば、大戦景気に湧く1916年に喜多合名会社がテニアン島でヤシ園の経営と綿作事業を、1917年に西村拓殖株式会社がサイパン島の製糖事業とロタ島の綿作事業を、同年、南洋殖産株式会社がサイパン島で製糖事業を始めていました。
しかし、これらの企業は何れも、1920年の戦後恐慌に遭うとたちまち壊滅に瀕し、南洋殖産株式会社が倒産、他2社も不調に陥りました。
これら先発企業の事業破綻により、サイパン島に置き去りにされた移民約1000人は生活の資を断たれ、飢餓地獄の惨状を現出していました。

松江春次

この事態を打破するべく、南洋に夢と希望を持って立ち上がった男がいました。
彼の名は松江春次(1876〜1954)。





松江豊寿

松江春次は、1876年、旧会津藩士松江久平の次男として福島県会津若松市に生まれました。
兄はあの坂東俘虜収容所長として著名な松江豊寿(1872〜1956)です。


野口英世


また、同級の友人には、黄熱病や梅毒等の研究で知られる細菌学者の野口英世(1876〜1928)がいました。




東京高等工業学校の応用化学科に入学し、専攻科目に製糖学と醸造学を学んだ彼は卒業後、大日本製糖株式会社に入社。
入社後、農商務省の海外実業練習生試験に合格し、それと同時に日糖から海外遊学を命じられ、アメリカ・ルイジアナ大学砂糖科に入学。
1905年に卒業し、マスター・オブ・サイエンスの称号を授与されました。

その後、フィラデルフィア市のスプレックス製糖会社に入社し、角砂糖の研究に当たり、在職1年にして退社。
以来1年にわたり、アメリカ・ヨーロッパの製糖事情を視察し、日本に戻りました。

1907年、大日本製糖株式会社に復帰し、大阪工場工務長に就任。
この時期に日本で初めての角砂糖製造を成功させます。

1910年、宿願であった台湾糖業の開発を目指し、大日本製糖株式会社を退職。
同年9月、斗六製糖株式会社の創立に参画し、専務取締役に就任。
1915年、斗六製糖株式会社が、株式の買占めにより東洋製糖株式会社(後に大日本製糖株式会社と合併)に合併されたため、直ちに専務取締役を辞任し、同社を去ります。

同年10月、新高製糖株式会社に招かれ取締役に就任。
大阪工場建設精製糖部長となり、後に念願の台湾に在勤。同社の事業を飛躍的に発展させます。
1920年、新高製糖株式会社の将来を危惧し、同社社長に対し、度々南洋群島への糖業進出、調査を進言したが受け入れて貰うことは出来ず、決別辞任。

1921年2月、自発的にサイパン島、テニアン島を一ヶ月調査。
同年8月には2ヶ月に亘る二度目の再調査を行い、浮浪移民の惨状を目撃するとともに両島の糖業開発に確信を持つに至りました。

そして、同年11月29日。
「万が一、開拓に失敗しても神が誉めてくれれば良い」との開拓者精神に則り、南洋興発株式会社を設立。
サトウキビ栽培に長けた沖縄からの移民と現地の浮浪移民、計3千人を雇い、サイパン開拓が始められました。

場工糖製ンパイサ社曾式株發興洋南
こうして、1923年3月10日。
サイパン製糖工場が竣工し、サイパン島における製糖業が開始されました。


しかし、サイパンでの糖業定着はそれ程生易しいものではありませんでした。
結果、初年度における砂糖の生産量は僅かに1282トン、歩留まり3.75%という散々な成績に終わります。

その原因として、ハワイの糖業に大打撃を与えたサトウキビの害虫オサゾウムシの被害にあい、害虫撲滅のため、多量の未処理サトウキビを耕作人から買収の上、焼き捨てたことやラウラウ周辺での鉄道工事が難航し、新しく植え付けるためのサトウキビ輸送が遅れ、その収穫を次年度に繰り越したことなどが挙げられます。

関東大震災
加えて、同年9月1日に関東大震災が起こり、東京倉庫に保管してあった初年度分の砂糖を焼失。


不測の損害を蒙る不幸に見舞われました。

このため、南興は初年度早々から極度の資金難に陥りました。
そして、次こそはと期待を込めた第二年度の操業でしたが、またもや虫害が終息しなかった上、今度は大干ばつに見舞われ、生産量は僅かに3503トン、歩留まり5.5%と予定の半量にも達せず、極めて不成績のまま終わりました。

この事態に当時のサイパンでは「松江はやはり大山師」、「専務よく聞けお前の末は、サイパンあたりで野たれ死に」という歌が流行するほど非難の声が続出しました。また、内地財政界においても南洋の開発について悲観論が挙がるようになり、「南洋群島の統治権は放棄すべき」といった極論も飛び交うようになっていました。

チャモロ族の一家、カナカ族の固有住宅と風俗
しかし、松江春次はこの事態に対し、自らの全財産を投げ打ち、難局を切り抜けます。
こうした松江の不屈の信念と不抜の開拓者魂に先住民であるチャモロ人やカナカ人たちも共感することとなり、製糖事業に協力するようになっていきました。

糖熟セル甘蔗
また、オサゾウムシの対策として、台湾から導入したジャワ品種の161POJ(POJ系)サトウキビに切り替えるとともに、オサゾウムシの天敵とされるタキニット・フライをハワイから緊急輸入し、徹底的なオサゾウムシ掃討作戦を開始しました。

これらの労苦が実を結び、第三年度操業においては、生産量は8937トン、歩留まり7.9%といった飛躍的成果を収めることとなります。

南洋興発株式会社サイパン酒精工場

翌1926年7月6日にはサイパン酒精工場を竣工。



砂糖精製工程の副産物を利用し、主に合成酒などを造り日本本土に出荷しました。

こうして、未だ誰一人として成功させる事が出来なかった、南洋群島における糖業確立を松江春次は成し遂げるのです。

南洋サイパン島風景・ガラパン港を望ム
サイパン島での砂糖生産最盛期である、1935年には24413トンもの砂糖が生産されていました。


こうした砂糖生産の隆盛ぶりから次第にサイパン島は活気づくこととなり、サイパン島1の繁華街であるガラパンは「南洋の東京」と称されるほど繁栄していきました。

同年10月。
サイパン島の糖業が軌道に乗ったことで、彼はその利益をテニアン島に注ぎ始めました。
すでにテニアン島で綿花事業を経営していた喜多合名会社から、テニアン島の農地租借権を買収し、同島における開墾可能地のほぼ全面積を掌中に収め、開拓が始まりました。

マリアナ群島風景・テニアン・甘蔗の積込作業






沖縄や朝鮮、会津を中心とした東北からの移民を多数受け入れ、ジャングルを開墾し、島全体をパッチワークのように碁盤の目に分け、東ハゴイ、西ハゴイ、新湊、チューロ、ソンソン、マルポ、カーヒー、カロリナスなどの農区に分け、更にその区画ごとに小作人区画を分割、海岸線に沿って工場や倉庫を建て、全てを鉄道で結びました。

テニアン・スズラン通り
そして、街には様々な商店街、郵便局、病院、学校、公民館が作られました。


テニアン島1の繁華街、テニアン町にはサイパン島を往復する船が接岸し、スズラン通りなどの目抜き通りは大いに賑わいを見せていました。

テニアン製糖工場

1930年1月23日、遂にテニアン製糖工場竣工。



南興テニアン酒精工場

1934年6月8日にはテニアン酒精工場が竣工されます。


また、同年12月25日にはテニアン第二製糖工場が竣工。
これにより、第一、第二を併せた公称原料製糖処理能力は1日当たり2400トンという東洋屈指の製糖工場となりました。

南興砂糖袋詰
テニアン島での砂糖生産はサイパン島での砂糖生産を大きく上回るほどで、1935年には43708トンもの砂糖が生産されていました。

こうして、テニアン島及びサイパン島は名実共に南洋一、二位を争うサトウキビ産地へと変貌を遂げたのです。

南興耕地白糖






そこで作られる砂糖は耕地白糖 (Plantation White Sugar, Mill White Sugar) と呼ばれる、サトウキビ生産地で直接加工された、糖度98度以上のグラニュー糖でした。

ロタ製糖工場
次に彼はテニアン島南に位置するロタ島でも製糖業を興し、1935年12月14日にロタ製糖工場を竣工します。

更に南進を続け、製糖業や醸造業以外に、水産、貿易、真珠採取、土木工事にまでも手を広げ、約20社に及ぶ傍系企業を擁する南興コンツェルンを構築。南洋興発株式会社最盛期には、従業員約5万人を擁する内南洋一の大会社へと成長し、「海の満鉄」「北の満鉄、南の南興」と称えられるほどになっていました。

いつしか人々は松江春次を「南洋開発の父」、「シュガー・キング(砂糖王)」と呼ぶようになっていました。

Ladder Beach
青い海、白い砂浜。南洋の明るい太陽の下、宝石のように瞬く長閑で平和な島々。ここでの生活は正に楽園でした。

南興テニアン砂糖黍畑
サトウキビはざわめき、労働に汗を流す。
そこに住む誰もが夢を見、そして笑っていました。


マリアナ諸島が一番輝いていた時代。

しかし、そんな幸福な時代は長くは続きませんでした。
本土では軍部の暴走により、不穏な空気に包まれていくのです。

1931年に起こった満州事変を巡り、日本は1933年に国際連盟を脱退。

五・一五事件

1932年5月15日の五・一五事件。



2・26事件
1936年2月26日の二・二六事件により、軍部が発言権を増していくようになり、日本の権益を武力で守り、拡大させていくことが全てにおいて優先されるようになります。

1937年、日中戦争勃発。
戦線は拡大し、戦争は泥沼化していきます。

1938年、この総力戦を支えるため、政府は国家総動員法を制定。
共産主義者を弾圧しながら、実は戦時共産体制を確立していきます。

1939年、第二次世界大戦勃発。
日本はアメリカ・イギリスと中国権益を巡り争っていたこともあり、1940年、ドイツ・イタリアの枢軸国と日独伊三国軍事同盟を締結。
発言力を強めようとしましたが、かえって日独伊と米英などとの対立に拍車をかける結果となってしまいました。

山本五十六連合艦隊司令長官









当時の欧米事情に詳しく、日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対を唱えていた、山本五十六連合艦隊司令長官(1884〜1943)と親交のあった松江は「アメリカ・イギリスとの戦争回避に向け、この上ない尽力をお願いしたい」と嘆願するも、最早、アメリカとの戦争は避けられない状態にありました。

このような情勢の中、マリアナ諸島からある届け物が日本本土に送られてきました。

南興テニアン酒精工場蒸留機
1941年、東京都滝野川区にあった南洋興発研究所がテニアン酒精工場に対し、蒸留原酒を送るように依頼を出したのです。

その蒸留原酒はサトウキビの糖蜜を原料にし、醗酵、蒸留した酒。即ち、ラム酒でした。

その後、南洋興発研究所はサイパン酒精工場に対しても、ラム原酒を送るように依頼を出しました。

こうして、東京・滝野川の地でラム酒の研究が進められていくこととなったのです。

しかし、同年12月8日。
日本海軍は航空機350機をもってハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊に奇襲攻撃を開始し、遂に大平洋戦争へと突入していくのでした。

※第2話、「南興ラム」に続きます。

2007年08月12日

ヘイケボタル

ヘイケボタル


今年も会えた。
秘密の場所で。
この光りは生まれ変わり。
淡い光りは僕の心を照らす。




僕はかくもグローバリゼーション化され、デジタル化した今の日本に生まれた。
外人に良い奴もバカもアホもいるって僕は知っているよ。

今の僕は幸福。だから忘れない。

夏は。
8月は。

僕には少しだけほろ苦いのです。

2007年08月01日

日本におけるラム酒のルーツ(考察と疑問)

どうも蘭姆酒熱烈歓迎のトミーです。

日本におけるラム酒のルーツシリーズは書き上げるのに「結構時間かかっちゃったな〜」てのが本音でして。
私の友人で横浜某区(潮干狩りが出来るとこ)出身、ハゲでデブのナガオミシマヨシ君にも、「おい、トミー。こんなのブログじゃねーよ。ブログってのは日記みたいに書き綴っていくものじゃん!つまんねーって、お前エロなんだからエログやれよ、エログ」となじられてしまったりもして。

ま、いいじゃんいいじゃん。硬い事言うなってナガオミ。
私がこれを書き綴りたいと思っているのだから、どうしようもない。

でも、この日本におけるラム酒のルーツ話は1年かけてさりげなく書き綴っていこうって思っていたんです。ホントのところ。

ま、いいのさ。
予定は未定。
形は変わる、自分のままで。あの時、僕はああだった、のだと。

さて、日本におけるラム酒のルーツが出揃ったところで、これらについての私なりの考察と疑問を綴っていきます。

現在、日本でラム酒が造られている土地は4つ。
沖縄本島、沖縄・大東諸島、鹿児島・奄美諸島、東京・小笠原諸島です。

それらの土地で私がラムのルーツとされる蒸留酒として挙げたものを下記に記述します。
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台湾 糖蜜酒
沖縄本島 キビ焼酎、黒糖酒
沖縄・大東諸島 爆弾
鹿児島・奄美諸島 黒糖酒、サタ酒
東京・小笠原諸島 泡酒、糖酎、ナサニョル・セーボレーが造っていたラム酒
------------------------------------------------------------------------------

これらの蒸留酒は現在の酒税法で照らし合わせれば、ほとんどのものがラム酒です(一部、アルコール度数の関係でしょうちゅう扱いされるものもある)。

しかし、私はこれらの蒸留酒がラム酒であったと認識しておりません(但し、ナサニョル・セーボレーが造っていたラム酒は除く。こちらに関しては後述します)。
ラム酒と言い切るには何かが違うように思うのです。

確かに、ラム酒と同じくサトウキビを原料にした蒸留酒である事に間違いはないですし、これらの蒸留酒がその土地毎に存在していたからこそ、日本のラム酒が生まれた事に疑いの余地はありません。ですが、ある部分が明らかに欠落しているように思うのです。

それは、ラム酒を製造しているという意識です。
ラム酒という酒は洋酒です。焼酎とは違い、元々、日本古来から存在している蒸留酒ではありません。

この概念が前提にあるとするならば、ラム酒を製造しているという意識がこの蒸留酒たちに存在するはずです。

しかし、ラム酒を製造しているという意識がこの蒸留酒たちに感じられない。
名称にもまたそれらを感じることが出来ないのです。

つまり、これらの蒸留酒たちは焼酎や中国酒である白酒を製造しているという概念で造られた蒸留酒だったのではないのでしょうか。

江戸時代より造られ始めた、奄美諸島の黒糖酒やサタ酒は当然の事ながら焼酎を造っている意識であったでしょう。
ラム酒などという蒸留酒の情報が当時の奄美諸島に入る余地は無かったでしょうし、この土地は紛れも無く焼酎文化圏でした。

明治〜戦前に造られていた台湾の糖蜜酒はどうでしょうか。
糖蜜酒が盛んに造られていた当時の台湾では、華人が多く住むことから米酒・紅酒の製造もまた盛んに造られていました。
米酒という蒸留酒は中国の蒸留酒である白酒、または厳密に言うならば台湾産焼酎にカテゴライズされる酒です。

これらの蒸留酒と共に造られていた糖蜜酒もまた、白酒や焼酎を製造している意識であったとしか考えられません。

同時期に造られていた、沖縄・大東諸島の爆弾、東京・小笠原諸島の泡酒や糖酎はどうでしょうか。
これらの土地には伊豆・八丈島出身者が多く移住しました。
当ブログ、2007年05月28日に書き込みをした「日本におけるラム酒のルーツ(沖縄・大東諸島編)」で前述したように、彼等は薩摩の国・阿久根で薩摩藩御用回漕問屋を営む商人であった丹宗庄右衛門により、焼酎製造を覚えた人々でした。やがて、彼等は伊豆諸島や小笠原諸島へと蒸留技術を伝えていきます。

そんな彼等が造る蒸留酒は当然の事ながら、焼酎を造っている意識であったはずで、ラム酒を造っているなどという意識は皆無であったはずです。

戦前〜戦後、物の無い時代に造られた沖縄本島の黒糖酒はどうでしょうか。
物が無いのですから、酒などといった嗜好品は二の次であったわけで、飲めるだけ幸せであった時代に、わざわざ、洋酒、しかもラム酒を造ろうと意識した人が果たしていたのだろうかと疑問に感じてしまいます。
やはり、泡盛や焼酎を造っている意識で造られていたと考える方が自然です。

そもそも、日本は2007年05月12日「アラック」の項目で前述した蒸留酒の伝播のとおり、焼酎文化圏であります。
洋酒が造られたのは、鎖国制度下の1812年前後、長崎奉行の目付であった茂伝之進がオランダ商館員に対し、ジンを造ったのが一番最初であり、その後、本格的に洋酒が造られていくのは近代・明治になってからの事です。

つまり、これら洋酒の情報が手に入ったのは長崎出島や一部の大都市圏だけであり、本土から離れた島々にこういった情報が流れる事は皆無であったに等しいように思います。
そうだとするならば、ラム酒を製造しているという意識がこれらサトウキビ原料の蒸留酒に存在しなかったのも当然の事であろうと思います。

現在の酒税法が存在しない時代。
ラム酒を製造しているという意識が無く、焼酎や白酒を製造しているという意識でサトウキビ原料の蒸留酒を造っているのならば、やはり、これら蒸留酒は焼酎であり、白酒であるわけなのです。丁度、カシャーサがラムではなく、カシャーサであることと話しが似ているようにも思います。

「日本でラム酒を製造している」と言うのならば、絶対的にラム酒を製造しているという意識が不可欠なのです。

このように日本におけるラム酒のルーツを考察していくとある疑問が浮かんできます。
では、日本で初めて造られたラム酒というのはどのようなラムだったのだろうか、と。

ここで、一つの蒸留酒が壇上に挙がって来ることと思います。
それは、小笠原開拓時代にナサニョル・セーボレーが父島・奥村で製造していたラム酒です。

このラム酒は確かに現在の日本の地で造られた初めてのラム酒でした。

ナサニョル・セーボレーが生まれたアメリカ・ニューイングランド地方、マサチューセッツ州は世界的に有名なラム酒製造のメッカという土地でした。
ですから、ナサニョル・セーボレーもラム酒の造り方を熟知していたのだと推測出来ます。

そして、アメリカ・ニューイングランド地方という土地はアメリカにおける捕鯨のメッカでもありました。
18歳から船員として船に乗り込んでいたナサニョル・セーボレーには、当然の事ながら数多くのホエーラーに知人がいました。

当時、大西洋から太平洋にその漁場を移していた欧米捕鯨船は、ハワイ諸島・小笠原諸島・北海道を結ぶ三角形の海域「ジャパン・グラウンド」で縦横無尽に鯨を追いかけていました。

かの有名な小説、ハーマン・メイヴィルの「白鯨」はこの時期のジャパン・グラウンドや捕鯨船の様子を描いた作品です。
この作品中、モビィ・ディックを捕らえる前祝いとして、皆でグログ酒で乾杯をする場面が描かれています。
グログ酒とは、=グロッグ=ラム酒の事です。

つまり、捕鯨船の乗組員が好んだ酒は、やはり、海の男の酒ラムでした。
この事を当然のことながら、ナサニョル・セーボレーは承知していたのです。

だからこそ、父島・奥村の自分の敷地内でサトウキビを栽培し、ラム酒を製造していたと考えられるわけです。

しかし、この時の小笠原はまだ日本の領土ではありませんでした。
小笠原の日本領有が国際的に確立されたのは、1876年(明治9年)の事です。

そして、ナサニョル・セーボレーはその2年前の1874年に死去しています。
彼は小笠原の地で二度結婚をし、たくさんの子孫を残し死去しましたが、ラム酒製造技術はそこで途絶えてしまいました。

代わって、小笠原の地酒に台頭していったのは、糖酎や泡酒です。
これらの酒は前述したとおり、八丈島出身者の焼酎蒸留技術を踏襲しており、ナサニョル・セーボレーのラム酒と関連付けることは出来ません。

ナサニョル・セーボレーのラム酒は現在の日本の地で造られた初めてのラム酒であるわけですが、日本で一番最初に造られたラム酒ではないのです。

日本でラム酒を製造しているという意識を持って造られた初めてのラム酒。
平たく言って、「日本で一番最初に造られたラム酒」とは一体どのようなラム酒だったのでしょうか。

サトウキビあるところに戦いがある。
世界のサトウキビ産地の歴史を紐解くと、必ずといって良いほど、血生臭い戦いと深い悲しみがありました。
サトウキビを原料とするラム酒もまたこれらの歴史と隣合わせです。

日本で一番最初に造られたラム酒にもまた悲しい歴史が、そして、激流とも云うべき時代の流れに翻弄され、人々から忘れ去られていきました。

次回のトミーのラムまみれは一連の最終章「日本で一番最初に造られたラム酒」について書き綴っていきます。

夏。
8月にこの話を書き綴ることが出来、私は日本人の1ラム好きとして誇りに思います。

先人たちの苦労と涙に敬意を表して。
8月1日に記す。

2007年07月21日

日本におけるラム酒のルーツ(東京・小笠原諸島編・下)

日本の小笠原領有が国際的に確立されたのを機に日本政府は翌1876年(明治9年)から日本人移民の渡航を再開。
それとともに、移民の数は年を追って増加していきました。

釜場の前で勢揃い。女性の服が八丈風






この小笠原に移民する人々は圧倒的に八丈島出身者が多く、明治末期には、小笠原島民の大半が八丈島出身者で占められるようになっていたそうです。

入港当日の船長帰化人 押川春浪の絵葉書












また、先住していた欧米系住民たちは1877年(明治10年)、ロベルト・モリスを初めとして、次々と日本に帰化を申し出て、1882年(明治15年)までには全員が日本国籍を獲得、
その後は日本人としての全ての権利と義務を享有するに至りました。
こうして小笠原は欧米帰化人と日本人とによる国際的な社会を形成していくのです。

さて、島の開拓は苦労や困難こそあれ、順調に進められていき、牧畜、水産業、林業、農業といった各諸事業は大いに発展していきました。

特に農業に限って見れば、コーヒー、ココア、サトウキビ、レモン、バナナ、マンゴー、パイナップルなどが栽培され始め、その中でも、サトウキビが父島、母島、そして硫黄島(いおうとう)における一大農産物となっていきました。

沖村の鮫ヶ崎〜西浦、乳房山にかけて(大区画はサトウキビ栽培)
小笠原開拓初期の様子を書き残した貴重な史料である折田家総括録には、「明治22年になると、母島ではサトウキビの栽培が全島に広がり、農業のようすが一変した。これは八丈島大賀郷出身の安井萬吉氏が明治20年にサトウキビ栽培を始め、好成績をあげたためで、それまで安井氏を非難していた人たちもサトウキビ栽培を始めたからである。そして農業労働者を雇うようになり、移住者も急に増えた。この年、5,OOO坪にサトウキビを栽培、さとう120樽、総収入562円50銭。支出は器械と牛80円、樽代31円25銭、人足雇賃231円で、純利益が120円50銭であった」といった記述が見られます。

小笠原父島製糖場





こうして、1890年(明治23年)、父島製糖組合が設立されたのを機に、1895年(明治28年)に製糖試験所、母島沖村糖業組合が結成、1900年(明治33年)には小笠原製糖同業組合が結成される事により、小笠原におけるサトウキビ栽培は本格化していきます。

そして、この時期、砂糖製造の際の副産物として、サトウキビを原料にした酒が造られるようなります。
それは、蜜酒、泡酒と呼ばれていました。

1906年(明治39年)、山下石之助によって書き記された小笠原島志によれば、

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砂糖酒の製造

汁をたき、煮つめて、石灰を加え、白下糖を作る。






砂糖酒に二種類あり一は蜜酒と称する糖蜜より製造するものにして一は、泡酒と称し白下製造の際沸出せる泡沫より製造す其製法は概略左のとおり。蜜酒は再製糖製造の際生ずる糖蜜に微温湯を加え希薄となし其溶液の適当なるもの四斗樽又はヒバ樽に容れ薦筵類を以って之を覆い温暖なる場所に安置せば足る又泡酒は白下糖製造の際沸出せる泡沫を汲み集め之を前述の如く容器に入れ安置するなり其醗酵及び製造法は芭蕉酒の部に延べしと同一なるを以って之を略せり。

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という記述が残されています。
また、1929年(昭和4年)に東京府より発行された小笠原島総覧によれば、

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樽詰めした白下糖を運ぶ












砂糖酒には、泡酒と蜜酒とがある。何れも砂糖製造の際に生ずる副産物で、泡酒は白下糖製造の際、沸出する泡沫を汲み集め、之を容器で醗酵せしめ蒸留したもので、蜜酒は再製糖の際生ずる糖蜜に微温湯を加へ、容器を温暖な場所に安置し、醗酵せしめて造るものである。従来何れも島内で消費し、未だ内地に移出するに至らない。

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といった記述も残されています。

牛を使ってサトウキビを搾り、煮詰めて白下糖をつくる(硫黄島)



この記述を見るに、蜜酒は糖蜜にぬるま湯を加え、醗酵して造られた醸造酒であり、泡酒は白下糖製造の際に生じる泡を集めて醗酵させ蒸留した蒸留酒であった事が伺い知れます。

また、この蜜酒、泡酒以外に「糖酎」と呼ばれるサトウキビを原料にした焼酎が造られていました。

山田毅一小笠原視察(硫黄島・砂糖黍畑)
当然ながら、この焼酎は現在のように明確な定義付けがなされていなかったため、幾通りかの製造方法があったようですが、基本的には父島、母島、硫黄島で栽培されたサトウキビを搾り、その搾り汁を木樽で5日間ほど自然発酵させて蒸留されていました。
熟成は施さず、焼酎よりも概してアルコール度数が高かったそうです。
出来上がった原酒の中には70度を超す高アルコールなものもあったようで、ものによっては、甕に入れた様々なアルコール度数の原酒をブレンドし、度数調整を行っていたとも云われています。

このような砂糖黍産業は大正中期の糖価暴落を境に、徐々に衰退していく事となり、農作の中心は観葉植物栽培とカボチャを中心とする野菜栽培に変わっていくのですが、糖酎の人気は衰える事を知らず、小笠原の地酒として、戦前まで島民に愛飲されて行くのでした。

時代は昭和になり、太平洋戦争が勃発。
小笠原は本土防衛の前線基地となります。

栗林忠道

政府は1944年(昭和19年)5月22日に、小笠原防備をさらに増強することを目的として第109師団を創設し、栗林忠道中将(1891〜1945)を師団長に任命し、栗林中将は6月8日に硫黄島に着任しました。


6月15日、アメリカ軍はサイパン島上陸とあわせて、父島、母島、硫黄島を空襲、翌日の空襲と合わせて硫黄島内の各部落はほぼ焼失します。

その後も小笠原では空襲と艦砲射撃が続いたため、軍の勧告により、政府は島民に対し6月下旬に内地へ疎開する命令が内示され、軍に軍属として徴用された者を除く、6,888名の島民が小笠原を離れる事となりました。

硫黄島に上陸する米軍(1945年2月19日) 
1945年2月19日、アメリカ軍硫黄島上陸。
硫黄島の戦いが始まります。

制空権と制海権を持ち、兵力も物資も日本軍を遥かに上回るアメリカ軍に対し、硫黄島が長く持ちこたえることが出来ないことは誰の目にも明らかでした。
しかし、栗林中将率いる日本軍硫黄島守備隊は上陸部隊に出来るだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせるために決死の覚悟で戦いに望みます。彼等は硫黄の噴出する、薄暗い地下坑道に潜伏し、米軍に対し攻防を繰り広げました。

Raising the Flag on Iwo Jima
しかし、2月23日午前10時15分、アメリカ第5海兵師団は遂に摺鉢山頂上へ到達し、星条旗を掲揚。


午後12時15分に改めて5フィート×8フィートと先の旗の2倍となる星条旗を掲げることになり、AP通信の写真家ジョー・ローゼンタールがその瞬間を捉えた写真とあわせ写真3枚を撮影しました。
この写真が同年ピューリッツァー賞写真部門を受賞し、アメリカ海兵隊を水陸両用作戦のプロとして広く世界に存在を知らしめる事となった『硫黄島の星条旗(Raising the Flag on Iwo Jima)』です。

星条旗掲揚後、日本軍は猛烈な反撃を行い、この星条旗を引きずり下ろし、日章旗を掲げましたが、またも米軍が奪回。
再び星条旗を掲げ直すという争奪戦が二度に渡って繰り広げられました。
最後に翻った日章旗は血染めであったといいます。

硫黄島上陸前のアメリカは「攻略予定は5日間、死傷は1万5千人」という予測を立てていましたが、戦いは36日間にも及び、日本軍2万129人、米軍2万8686人の戦死傷者を出す大激戦となりました。

この戦いは、世界の戦史に名を残す名戦であり、また、太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦闘であり、そして、上陸後わずか3日間にて当時のD-デイを含むアメリカ軍の各戦場での戦死傷者数を大きく上回った戦いでありました。
こうしてアメリカ第3、第4、第5海兵師団は硫黄島の戦いで受けた痛手のために沖縄戦には参加出来なくなってしまったほどです。
また、2月23日に星条旗を摺鉢山に掲げた6名の海兵隊員のうち、生きて故国の地を踏むことが出来たのは3名のみでした。

3月17日、硫黄島玉砕。
小笠原は完全に米軍によって占領されるに至りました。

終戦後は、日本軍の食糧補給部隊として残留を命ぜられ生き残った青壮年島民も将兵と共に本土に送還されました。

こうして、小笠原は島民が一時姿を消してしまう事態となるのです。
1830年最初の定住者である、ナサニョル・セーボレーら白人5名、ハワイ先住民約20名の欧米移民団が現れ、開拓が始まり、八丈島島民などの日本人が入植を開始し、培っていった小笠原の文化は一度幕を降ろさざるを得ないことになってしまうのでした。

奥村サミエル家の前の海岸・カヌーの手入れをする





1946年 (昭和21年) 。
ナサニョル・セーボレーの血を受け継ぐ、サミュエル・セーボレーら欧米系島民とその配偶者135名のみが帰島を許されます。
以後、小笠原が日本に返還されるまでの22年間、小笠原社会は彼等とアメリカ海軍の人々のみが暮らす社会となりました。
1956年(昭和31年)には教育機関としてラドフォード提督学校が設置され英語教育が始まりました。

1947年(昭和22年)。
一方で帰島の許されない島民たちによって、小笠原・硫黄島帰島促進連盟が結成。
86回に及ぶ長期の嘆願のかいあって、1968年(昭和43年)4月に小笠原返還協定が調印され、6月26日小笠原諸島が日本に返還されました。

ogasawara
こうして国の特別の支援を受け、東京都を中心に復興事業が開始。港、道路、住宅、学校、診療所、警察、郵便局などが整備され、1972年(昭和49年)には小笠原諸島が小笠原国立公園に指定。

1979年(昭和56年)、小笠原村が発足され、今に至っているのです。

さて、このような歴史背景を下敷きに、小笠原諸島では1社、ラム酒の生産をしています。

それは、糖酎の復活を目指し設立された、1991年創業の小笠原ラム・リキュール株式会社です。

糖酎

戦前まで島民に愛飲されていた、糖酎。
1991年。小笠原・母島の地でこの蒸留酒が復活したことがありました。



村が出資する第3セクターの酒造会社、小笠原ラム・リキュール株式会社が「島の人に飲んで欲しい」という気持ちから懐かしい名前をラベルにし、糖酎を販売開始したのです。

しかし、まもなく税務署から指導を受ける事となります。
その内容は「酒税法ではサトウキビを原料とする蒸留酒は原則としてラム酒に分類され、奄美諸島の黒糖焼酎を除き、焼酎ではない」
「戦前のままの酒であっても、酎(ちゅう)の名称は使えない」といったものでした。

奄美諸島と同じように小笠原諸島にもサトウキビを原料とする焼酎が造られていたという歴史があったのにも関わらず、小笠原では奄美のように焼酎製造の特認を受けられなかったのです。

その見解は「酒税法が制定される際、小笠原はまだアメリカに統治されており、日本に返還されていなかった。そのため、欧米系島民とその配偶者135名以外の小笠原島民は帰島しておらず、サトウキビを原料とした焼酎製造の実績が途絶えてしまっていたため」といったものでした。

誰も好きで島を離れたわけではなかった。
誰も好きで島に戻らないわけではなかった。
誰も好きで糖酎造りを止めたわけではなかった。
正に歴史の皮肉としか言いようがない回答でした。

この糖酎は1000本ほどを出荷したところで幻と消え、RUMのラベルに切り替えられ販売されるようになりました。

小笠原母島ラム


こうして生まれたのが小笠原母島ラムです。




原料には母島で採れるサトウキビの搾り汁、そして糖蜜が使われています。
この原料に乾燥酵母を加え、10〜14日発酵させたものを単式蒸留機で蒸留。
原酒は年度別に5つのステンレスタンクに分けられ、一番貯蔵期間の長いタンクから瓶詰め用のラム酒を払い出していき、出した分だけ次に熟成期間の長いタンクから継ぎ足しをする、ソレラ方式での熟成が施されています。
この熟成期間は3年前後と言われており、年間4千本ほどが出荷されています。

小笠原母島ラム&パッションリキュール






その他の製品についてですが、このラム原酒に、小笠原の特産品であるパッション・フルーツの果汁を合わせた、アルコール度数12度のリキュール、小笠原母島パッション・リキュールがあります。パッション・フルーツ特有の爽やかな甘みによる優しい口当たりとエレガントな香りは、かつて存在したことのないエキゾチックさを堪能することが出来ます。

また、特別なラベルが貼られた製品として、小笠原観光親善大使を務める、現読売ジャイアンツに所属する、小笠原道大選手ラベルのラム酒とパッション・リキュールが存在します。

2003年小笠原道大選手首位打者記念ラム


2003年に小笠原選手が首位打者を獲得したことを記念して作られたラベルのラム酒。





小笠原親善大使の小笠原選手ラベルのラム酒とリキュール

北海道日本ハムファイターズのファン・フェスティバル2006で販売された、小笠原選手ラベルのラム酒とリキュールです。こちらはボトルNoが入り、各500本限定で販売されました。



小笠原道大

小笠原道大(1973〜)は千葉県出身の読売ジャイアンツに所属する選手です。
ポジションは主に一塁手、または三塁手。球界屈指のフルスイングを誇る、日本を代表する打者です。



2006年まで北海道日本ハムファイターズに所属し、力と技を兼ね備えたパシフィック・リーグを代表する選手として活躍していましたが、同年ファイターズの日本一を置き土産にして、オフに読売ジャイアンツへFA移籍しました。

小笠原道大選手はその名字が「小笠原」である縁から、1999年12月25日に小笠原観光親善大使に就任し、島の少年野球チーム「小笠原ファイターズ」にユニフォームをプレゼントしたり、同村の交流事業に参加したりするなどの活動を行っています。また本人自身も2000年末、父島など小笠原諸島を訪問しています。

小笠原選手の応援歌のイントロ部分に入るコールは小笠原村に因んだものであり、チームの札幌移転時に削除・変更が検討されたが、小笠原が観光親善大使であることから現在も引き続き使用されています。

なお、日本ハム球団のフランチャイズが東京ドームであった時代には小笠原のホームラン時に小笠原村のザトウクジラの写真がバックスクリーンに表示されていました。

小笠原・砂糖黍畑





戦前の糖酎は有り余るほどのサトウキビがあったからこそ、その原料にサトウキビの搾り汁が使用されていました。
しかし、現在の小笠原では明治〜戦前の時のようにサトウキビ栽培は行われていません。
そのため、当時の糖酎の原料や製法をそのまま踏襲する事は出来ないのです。

小笠原母島ラム・オーク樽
「昔と全く同じものは出来ない。例えそうだとしても、戦前の糖酎のように、島の人に毎晩飲んで貰える旨い酒にしたい」

こういった思いから、弛まない努力を続け、2005年から一部の原酒をオーク樽熟成するという、新しい試みが始められました。

そのヒントは工場設立当初に造られた、1000本ほど出荷した糖酎にありました。

12年近く保管されていた糖酎ラベルのラム酒を口にして驚嘆したのです。
「同じ原料とは思えないくらい、まろやかな口当たりになっている。時間をかけることも必要なのだ」、と。

樽熟成を施した小笠原母島ラムが販売されるのはいつになるのか。それはまだ分かりません。
今はまだ眠っているのです。樽の中で、琥珀色を身に纏うために。

漁サン
如何でしょうか。17世紀に日本人によって発見されて以来、複雑多岐に亘るグローバリゼーション化した小笠原の歴史を辿って見た時に、東京・小笠原諸島に小笠原母島ラムが存在している理由が理解頂けるのではないでしょうか。

日本におけるラム酒のルーツが出揃いました。
次回のトミーのラムまみれはこれらについての私なりの考察と疑問を綴っていきます。

※資料、情報提供有り難う御座いました。感謝致します。

小笠原村役場教育委員会
小笠原ラム・リキュール株式会社
財団法人アジア会館内・社団法人太平洋諸島地域研究所


2007年07月20日

日本におけるラム酒のルーツ(東京・小笠原諸島編・上)

Bonin Islands
小笠原諸島は東京のはるか南、約1000kmにある島々で、全域が東京都小笠原村に属しています。


聟島列島、父島列島、母島列島からなる小笠原群島、火山(硫黄)列島、三つの孤立した島である南鳥島、沖ノ鳥島、西之島から成り立っており、村の中心は父島です。
また、父島、母島、硫黄島(いおうとう)、南鳥島以外の島は無人島になっています(但し、硫黄島には自衛隊、南鳥島には自衛隊、気象庁、海上保安庁の施設があり、関係者のみ常駐している)。
小笠原諸島は、英語ではBonin Islandsとも呼ばれていますが、これは江戸時代の無人島(むにんしま)に由来しています。

1593年(文禄2年)、信州深志の城主小笠原長時の曾孫、小笠原貞頼が発見したと伝えられています。

1669年(寛文9年)12月、阿波国海部郡浅川浦の船主で船頭の勘左衛門、荷主の紀州藤代の長左衛門や阿波国の水主らが江戸に向けてみかんを積んで航行していましたが、不運にも暴風のため遭難し、翌年の1670年(寛文10年)に小笠原・母島に漂着。後に八丈島経由で伊豆下田に生還。島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告されました。
それらの一件についての報告書によると、その島が無人の地であり、先住民や先着漂流者の形跡も見られなかったそうです。

現在では、この報告例が小笠原諸島に上陸した最初の報告と考えられています。

こうして幕命による、当時は無人島 (ムニンシマ)と呼ばれていた小笠原諸島への巡検目的の渡航が成されたのが、5年後の1675年(延宝三年)でした。漂流民の報告をもとに調査船富国寿丸を派遣し島々の調査を行い、幕府は「此島大日本之内也」と記したと云われます。また、調査結果は将軍はじめ幕府上層部に披露されました。その後、幕府は再度、小笠原渡航の計画を企てましたが、実現する事は出来ず、小笠原は無人のまま久しく放置されていました。

1727年(享保12年)、小笠原貞頼の子孫と称する小笠原貞任が貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求めて幕府に訴えを起こしますが、最終的に貞任の訴えは却下され、探検の事実どころか先祖である貞頼の実在も否定されてしまいます。
しかし、これ以降、無人島 (ムニンシマ)は、小笠原島と呼ばれるようになっていきます。

林子平

1785年(天明5年)、林子平(1738〜1793)は三国通覧図説を出版。
この中で無人島を小笠原島として紹介しています。




このように小笠原の発見後、日本は領有の意志こそは示していましたが、定住する事はありませんでした。

1824年(文政7年)、小笠原に初めて欧米系人が来島します。
母島に漂着したアメリカ捕鯨船トランジット号の乗組員は船長のコフィンの名を取って、この島をコフィン島と命名。
その2年後の1825年(文政8年)にはイギリス捕鯨船サプライ号が父島に入港。

Frederick William Beechey

1827年(文政10年)。フレデリック・ウィリアム・ビーチー(1796〜1852)を艦長とする英国軍艦ブロッサム号が小笠原を発見。




英国軍艦ブロッサム号
父島ロイド港(二見港)に投錨した後、ピール島(父島)、ベイリー群島(母島列島)、パリー群島(聟島列島)、バックランド島(兄島)、ステ−プルトン島(弟島)などと命名し、これらの島々を英国領と宣言します。

ロシア探検航海者リュトケ


ビーチーが去ったその翌年の1828年(文政11年)に来島したロシア軍艦のリュトケ艦長は英国領と提示した銅板を見た時、大変残念がったと言われています。



こうして、欧米の捕鯨船やロシア軍艦が続々とやって来る中、後に小笠原の礎を築く人物・米国人ナサニョル・セーボレー(1794〜1874)ら白人5名、ハワイ人約20名といった、国際色豊かなメンバーがこの島で定住を始めます。

ナサニョル・セーボレーは1794年7月31日、アメリカ・ニューイングランド地方、マサチューセッツ州に生まれ、18歳から船員として英国商船に乗り込んでいました。
1829年、サンドイッチ諸島(現ハワイ諸島)・ホノルル湾で迎砲を撃った際に、手を負傷し、その治療のため船を離れてホノルルに残ります。

丁度その頃、ホノルルでは無人島についての噂が流れており、1827年のキャプテン・ビーチーによる無人島英国領宣言に伴い、益々、温暖な気候、豊かな土壌と豊富な海の幸についてのニュースが届くようになっていました。

こうした中、ホノルル駐在英国領事であったリチャード・チャールトンは小笠原の植民地化を図るため、無人島移民団を組織します。
この話に乗ったのは、例のナサニョル・セーボレーを含む白人5名で、セーボレーと同郷のマサチューセッツ州出身のアメリカ人オールディン・チャピン、イギリス人ジョン・ミリチャンプ、オランダ人のチャールズ・ジョンソン、一行のリーダーでイタリア・ジェノヴァ出身のイギリス人マテオ・マザロでした。
この5名に加え、ハワイ人約20名を連れ、一行はスクーナー帆船に乗り組み、小笠原へ向かいました。

こうして父島に到着したのは、1830年6月26日の事です。

最初の入植者たちの住居





当初、一行は洲崎海岸付近に小屋を建て、開墾生活を始めましたが、次第に大村、奥村と各方々に散らばり、各自自由に小畑を耕し、海ガメを捕り、豚や家畜を飼って、薪水補給のために父島に寄港する船を相手に物資を売ったり、交易しながら生活を送っていました。

さて、先のナサニョル・セーボレーは今の奥村全域、約5000坪の敷地を所有するようになり、この敷地を畑として耕し、煙草、芋、そしてサトウキビを植え、交易により相当な財を築いていきました。ナサニョル・セーボレーはアメリカ式捕鯨の中心地であるマサチューセッツ州出身であったため、ホエーラーに数多くの知人がいたのです。そして、そのホエーラー達と取引された商品の中に、サトウキビから造られるラム酒がありました。

黒船ペリー


後にアメリカ捕鯨船の薪水補給・避難港のために小笠原来航、遂には日本開国を果たす、東インド艦隊司令官ペリー提督(1794〜1858)が記したペリー艦隊の日本遠征記には以下のようが記述があります。



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NARRATIVE OF THE EXPEDITION OF AN AMERICAN SQUADRON TO THE CHINA SEAS AND JAPAN

PERFORMED IN THE YEARS 1852, 1853, AND 1854,

UNDER THE COMMAND OF COMMODORE M.C. PERRY, UNITED STATES

CHAPTER 10

He also carries on a trade in sweet potatoes of his own raising and in a rum of his own distillation from sugar cane, with the whaling ships which frequent the place; and he has prosecuted his business with such success as to accumulate, at one time, several thousands of dollars.

「ペリー艦隊の日本遠征記」 第10章(抜粋)日本語訳

セーボレーは、小さいがある程度の作物のとれる農地を耕作し、同地によく現れる捕鯨船との間で、自ら収穫したサツマイモやサトウキビから蒸留したラム酒の取引をしている。この事業は見事に成功し、一時は数千ドルもの蓄えが出来るまでになった。

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つまり、このナサニョル・セーボレーが父島・奥村で造っていたラムこそが現在の日本の地で初めて造られたラムです。
現在の日本の地で初めて造られたラムはアメリカ・ニューイングランドのヤンキーによって造られ、欧米の捕鯨船船員に愛飲されていたのでした。

Scène de chasse à la baleine,






ジャパン・グラウンド範囲




この時代、太平洋にその漁場を移したアメリカ式捕鯨は、「ジャパン・グラウンド」、つまり、ハワイ諸島・小笠原諸島・北海道を結ぶ三角形の海域で操業し、更に北上しベーリング海峡に入り、カリフォルニア沿岸を南下するコースを辿っていました。

そのため、広大な太平洋を駆け巡る捕鯨船にとって、小笠原は薪水補給や避難港として機能していたのでした。

ジョン万次郎

そういった中、1847年(弘化4年)、アメリカ捕鯨船フランクリン号でジョン万次郎(1827〜1898)が小笠原に来航。


出航後、この航海の途中で万次郎は副船長となりました。
後年、彼は日本側官吏として小笠原にやってくることになり、その後に小笠原の地で日本人による初めてのアメリカ式捕鯨を試みることになります。

日本に向け出帆するペリー艦隊
1853年(嘉永6年)。
小笠原の占領及び米国領化を主張する、マシュー・ペリー提督が小笠原に来航。

その際に父島には31名の定住者がいたことが確認されています。
その記録によると、最初に小笠原に渡った欧米系の5名のうち、マザロ、チャピン、ジョンソンの3名は既に死亡し、ミルチャンプはグアムに移住したので、島に留まっていたのはアメリカ人のセーボレーただ一人となっていたそうです。

その他の定住者として新しく加わった人々は、アメリカ人、イギリス人、ポルトガル人、ハワイ人等この島で生まれた子供達でした。そのため、この頃にはセーボレーは小笠原社会の首長的存在となっていました。

ペリーはセーボレーから父島・清瀬に貯炭場として1000フィート四方の土地を購入し、管理を依頼。
またセーボレーらに対し「ピール島植民政府構成法」の案を示し、欧米系住民に自治制度を樹立するよう勧め、セーボレーを行政長官に選出した後、帰還して行きました。

水野忠徳
ペリー提督の小笠原に関する報告書によって、小笠原に外国人が定住していることを再認識した幕府は1862年(文久元年)外国奉行水野忠徳(1810〜1868)を小笠原に派遣しました。その目的は、凡そ200年も放置していた小笠原を回収することでした。


小野友五郎

幕府は派遣する船についても島民を軍艦で威圧するために大砲などで充分武装した軍艦を選ぶよう指示しましたが、結局、艦長を小野友五郎(1817〜1898)とする、太平洋を横断したばかりの咸臨丸が派遣されることになりました。




さて、この回収の背景として、幕府が憂慮していたのは領土に関する問題でした。
前述したように英国は1827年に領有を宣言していたし、アメリカは、自国の捕鯨船が常に小笠原の二見港を利用しており、薪水補給港として、また、サンフランシスコと上海を結ぶ太平洋横断汽船の中継港として小笠原が将来重要な位置を占めるものと考えていました。

ラザフォード・オールコック
それに対し、英国公使ラザフォード・オールコック(1809〜1897)は、小笠原は万国共有とするべきだとし、これまで通り、自由港として開港するのならば、日本人の移住を認めるという意見を述べました。

米国公使ハリス


一方、米国公使タウンゼント・ハリス(1804〜1878)は小笠原の領土問題には触れず、現地住民の既得権の保護を求めました。




また、日本近海に英国領土が誕生するのは、太平洋進出を図ろうとしていたアメリカにとって大変不都合であった事から、英国領土になることを強く懸念する見解を保持しました。そのため、部下の書記官に命じて水野忠徳一行らに関して好意的に綴った書状を現地の住民に送りました。

このようにしてアメリカは幕府の行動を側面から援助する一方で、住民たちに対しては今回の幕府の回収がアメリカの了解のもとに行なわれたものであることを印象付けようとしたのです。

父島に向かう咸臨丸






こうして、南海の小島を舞台に、サムライたちと自由と独立の精神を持つアメリカ人を島民代表とした、ハワイからの欧米系移民団による会談が始まりました。

この時の会談の様子は「小笠原島應接之記」に記述が残されています。
その中に「於小笠原亜人ゼイボレ対話之次第」とあり、外国奉行水野忠徳は「外国奉行水野筑後守」と記されています。

それによれば、「其方共ニモ永年無事ニ而相暮シ居候暇大慶存候」の挨拶があり、島民代表のセーボレーも「難有奉存候」と挨拶を返したところから会談が始まったそうです。

水野忠徳は『今回の来島の目的は開拓のためであり、外国人を退去させるのではないこと。』、『そして、やがて送られてくる日本の開拓民と共に末永く平和に暮らすことを願っている。』という旨を伝えました。それに対し、セーボレーの答えは『私たち一同もそのように願っている。』という回答をした後、『但し、1827年以来、この島は英国領になっている。』といった旨を述べ、その証書もあるからそれを御承知おき願いたいとも付け加えたそうです。

サムライである水野の心境は内心穏やかではなかったはずですが、それ程大きな食い違いも無く、大筋は友好的に終始しました。
会談終了後には酒一樽、吸い物椀、錦絵、煙管、扇子などが贈られ、島民は大喜びだったといいます。
また一行は星条旗翻るセーボレー家にも招かれたという記述があります。

さて、幕府の役人とセーボレーの仲介者として通訳を務めたのはジョン万次郎で、この時、前もって用意してあったポートマンからの手紙が手渡され、それがセーボレーの警戒心を和らげるのに功を奏したと言われていますが、その一方、ハワイからの欧米系移民団も寧ろ日本の公権力が及ぶ事を望んでいたという一面もありました。

何故かと言えば、それは時折、海賊まがいの怪しい船が入港し、略奪や暴行を働く事があったからです。

例えば、1949年、パーカー船長率いる船団が香港から二見港にやってきましたが、彼等の正体は海賊で、船の修理が終わるや否や、父島を4ヶ月に渡り占拠。島民は山に逃げても逃げ切れず、言語に絶するような略奪と暴行が続きました。

このような恐怖の消えない島民たちは、日本の公権力が及ぶ事を歓迎していたのでした。

小花作之助

こうして、水野忠徳ら一行は予想以上の成果をあげ、日本に戻りましたが、その時、外国方定役の小花作之助(1829〜1901)らを島務の処理に当たらせるために島に残すことにしました。


その後、幕府は1862年(文久2年) 、夫婦15組、大工などの職人8名の計38人の八丈島島民を第一回移民団として小笠原に送りました。
これらの人々が小笠原に定住した最初の日本人です。
そしてこの38名の八丈島島民の中に、後に伊豆鳥島でのアホウドリ乱獲により巨万の富を得、無人島であった沖縄・大東諸島をサトウキビの島として開拓する玉置半右衛門(1838〜1910)がいました。

小笠原島父島ノ内大村住人葡萄牙人ジョン・ブラボー居宅
この小笠原第一回移民団が送られたのは欧米系の先住民が小笠原に住むようになって32年後のことです。


欧米系の人々は大村、奥村洲崎、扇浦、北袋沢、南袋沢に、八丈島からの移住者は扇浦にそれぞれ住居を構え、島を挙げての本格的な開拓が始まりました。

ジョン万次郎が描いたクジラの絵
またこの時、日本でアメリカ式捕鯨を行う事を夢見ていたジョン万次郎は、幕府から小笠原の地で捕鯨事業を行う了承を取り付け、船長としてジョン万次郎があたり、日本人乗組員の他に欧米系人4名を雇い、日本人による初めてのアメリカ式捕鯨を試みることになりました。

しかし、鯨2頭だけを捕獲するといった結果に終わり、一度の出漁のみで挫折。事業は中止になってしまいます。

小笠原ホエールウォッチング




しかし、このジョン万次郎が築いた小笠原における捕鯨の礎が、時代の流れと共に食べる鯨から見る鯨へとシフトして行き、現在の小笠原観光の目玉である「ホエール・ウォッチング」に続いて行くのです。

さて、こうして開拓も軌道に乗りかけた1863年(文久3年) 、幕府は突如八丈島からの移住者と幕吏の全員を小笠原より強制的に引揚げるという強行策を取りました。それというのも、前年に起った薩摩藩による生麦事件の賠償金を請求する英国が東洋艦隊を横浜沖に集結させ、賠償金の支払い期限を5月10日とする通告を幕府に送ったためで、幕府は戦争となった場合、まず小笠原の日本人が襲撃されることを恐れたのです。

引揚げに際し、島長の小花作之助は家屋や倉庫、また米、麦、大豆、小豆、水、油などの貯蔵食料を欧米系先住民に分け与え、日本人が開墾した土地も島民の願いによって割付けました。そして、欧米系の人々を召集し、日本人が全員撤退しても小笠原の主権には何等変化がないことを伝え、貸し与えた家屋や土地は日本人が再び戻ってきた時には速やかに返却すべきことを伝え、二見港を後にしました。

こうして、この島は再び欧米系をはじめとする先住民のみの島となってしまいました。先住民たちはこの島の治安悪化を憂い、彼等との別れを惜しんだそうです。

初代ナサニョル・セーボレーの墓(昭和43年)

1874年。
小笠原の礎を築き、現在の日本の地で初めてラム酒を造った、ナサニョル・セーボレーが80歳で死去します。


セーボレー家の人々
彼は最初の開拓者のうち、最も子福者であり、たくさんの子孫を残しました。



そして、平成17年3月現在、SAVORY(セーボレー)、瀬堀の姓を持つ、16世帯27人の誇り高き人々が小笠原の地で繁栄を続けています。

田辺太一
1876年(明治9年)、駐日各国公使に小笠原島の回収を通告します。
明治政府は小笠原開拓再開を決定し、幕末外交談の田辺太一(1831〜1915)らを小笠原に派遣することを決め、出港させます。

こうして1876年(明治9年)、日本政府は新たに制定した小笠原諸島規則をイギリス、アメリカ、ロシア、オランダ、スペイン、フランスなど十二箇国の駐日公使に通達。これに対し、イギルス領事は異義申し立てをしませんでした。

ここに至って、日本の小笠原領有は国際的に承認される事となりました。

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