追憶紀行…エジプト、カイロ/Egypt, Cairo
カイロに到着してからの数日間は、想定外の出来事の連続だった。業界最大手の国際バンクカードにも拘わらず、どのATMからもキャッシュが引き落とせず、不審に思って問い合わせ窓口に国際電話を掛けたところ、何者かによって口座から全ての現金が引き落とされていたことが判明した。
百数十万からの現金が失われたため、金銭的にもかなりのネガティブインパクトだったのだが、それよりも自分が友人だと思っていた人物が実は犯人だったという事実が判明したことによる、精神的ショックの方が大きかった。暫くの間「いや何かの間違いだろう」と信じ込もうとしたが、状況証拠が明らかになるにつれ、そんな願いは幻想に過ぎないということが鮮明になってきた。
だが、そうした混乱状態は長くは続かなかった。危機に直面した時、一番重要なのは正確な現状認識と迅速な対応である。それは今までの短くない海外生活や仕事の経験から嫌というほど学んできた。まず「自分は騙されたのだ」という現実を直視し、銀行カードを凍結、その上で詐欺を立証して預金の補償を求める手続きを取ることにした。だが次のステップをどうするかが真に重要だった。即ち、一旦帰国するか否かの選択だ。
金銭的には、旅行継続は不可能ではなかった。リスクヘッジのため、複数の銀行口座に資金を分散していたことが功を奏し、旅を続けるためのお金は残っていたし、クレジットカードも3種類持っていた。それに、折角憧れのアフリカ大陸の玄関口まで来たのにも拘わらず、ここで戻ってしまうのはあまりにも惜しいという気持ちも強かった。更に、2月にヴェネチアで開催される仮面フェスティバルにも、今帰国してしまったら参加できないことは確実だった。
だが、問題はその資金の安全性だ。現段階でクレジットカード用の預金口座は無傷だが、それは必ずしも今後の安全性を担保しない。迂闊にも、三枚中二枚はバンクカードと同じ財布に入れており、犯人が実利に徹するのであればクレジットもスキミングなりなんなりしていても何の不思議もないからだ。正直、友人だった思っていた犯人を信じたい気持ちは残っていたが、それはあまりにも甘く危険な考え方だった。もし犯人が、クレジット機能を限界まで使った場合、最悪で500万円の損害になる。
俺は悩みに悩んだ末、帰国という苦渋の選択を採った。カイロで最も旧いと噂される、8階建ての安ホテルのエレベーターがゆっくりと昇る軋んだ音を聞きながら、もっと安全な旅を選ぶべきだったのかと自省してみた。純粋にお金が無かった学生時代ならいざしらず、3年仕事してそれなりにお金も貯めたにも拘わらず、一泊数千円のお金を渋るあまり、結局は数百万円の損害が発生してしまった。これこそ「安物買いの銭失い」の典型だと言えよう。
だが一方で、そういった貧乏旅行でなくては決して得られなかったものが多かったのもまた事実だ。安全で綺麗なホテルの個室は、実は日本のそれと大差ない。安ホテルに共通の、旅人同士の奇妙な連帯感は希薄だし、オーナーとの値段交渉といった面倒だが絶好の異文化体験も存在の余地がない。
突然、強い縦揺れが襲い、エレベーターが急停止した。6階と7階の途中で止まってしまったのだ。このエレベーターには自動ドアという気の利いたものなどついておらず、申し訳程度の手動シャッターがあるだけなので、見晴らしが非常に良い。というか怖い。だがこういう事態は昨日に続き二回目なので、特に焦りはない。
俺はなるべく下を見ないように気をつけながら、7階の住人に向かって大声で「どうにかしてくれ」と叫んでみた。声を聞いた宿の主人も「やれやれだぜ」といった感じで、のろのろと近づいてきて、外部のボタンを押してエレベーターを引き上げてくれた。「すごいだろ、このエレベーター。」ドアを開けながら、彼は自慢気にニヤリと笑いかけてきた。こんな体験、高級ホテルでは絶対にできないだろうなと思いつつ、もう少しここに滞在してみようと決意したのだった。