神谷和宏 Official Blog 別館

 ブログ記事から選んだ批評や、自分なりに問題提起となっていると思われるものをセレクトして、こちらの「別館」にまとめました。(こちらにのみアップしているという記事は基本的にありません)

今読んでいる『慨世の遠吠え』の中で、今や電車内で、本を読んでいる人は皆無でみんなスマホをいじっていると書いてあったので、改めて眺めてみると、たしかに本を読んでいる人はかなりの少数派。新聞ともなるとほぼ絶滅種。
 このことはしばらく昔、つまり「携帯普及」以降「スマホ普及」以前でも見られたことではあったのだろうが、その状況は一層進行しているんだろう。で、みんないったい何をしているのか見るとはなしに見ていると、大体がLINEかゲーム。
 時間潰しのためのような無料ゲームは、今までパズルゲームが多いように思っていたが、今日はたまたまなのか、野球ゲームをしている人を二人見た。
 ただそれが僕にはまったくおもしろそうに見えなかった。そこには、「実際に打つ感じ」がまるでないからだ。
 かつての野球ゲームには、今考えれば絶妙な「実際に打つ感じ」があった。引っ張る感じに打てば打球は引っ張れたし、振り遅れれば打球が流れていった。後方に体重をかければ打球がフライになりやすく、反対に前方に体重をかければ打球がゴロになりやすいという感覚もあった。それが、今日電車内で見る限り、スマホの野球ゲームではタイミングに合わせてタップするだけで打者がスイングし、まるであらかじめ組まれている確率に応じて結果が導かれているかのようにホームランが出たりしているように見えた。ゲーム機のコントローラーのボタンや十字キーを押す操作感はスマホのタップでは難しいのだろう。
 そう考えると、僕たちの身体性や身体感覚というのは着々と失われているのかも知れない。
 きっと、ファミコンが出た頃もそう思われたのだろう。野球ゲームを例にとれば、野球盤で実際に銀玉を投げたり打ったりする方が、はるかに身体感覚には富む。つまり、野球盤が古い時代の野球ゲームに、古い時代の野球ゲームがスマホの野球ゲームになる過程で身体感覚は失われていったということになる。
 そもそも、あのタップという感覚が身体感覚に乏しい。例えばデジカメなんかだと、半押しすることで焦点を合わせるという感覚があるが、タップにはそれがない。スマホの身体感覚というのは、「触れた/触れない」のデジタルな二元論しかなく、そこには強く押すとか弱く押すといったグラデーションは存在しない。
 体罰はずっと昔から法的には禁じられていた。だが、以前よりも体罰の頻度もその程度も軽微になっている今日になって、急激に体罰を行う教師への批判が増しているのも、昨今の他罰傾向や、教育の管理化によるものであると同時に、体罰という他者による身体への干渉行為に違和感が出てきているからだろう。

 ただ、首都圏に特有ともいえる身体感覚は健在であった。
 電車に乗れば、他者の体と密着する。家の中にいたって、こうも家族とは密着しないであろうという距離感での接触が日常化する。不特定多数の他者の存在を体で感じるというのは、北海道のような地方ではなかなかないことだ。おそらく、他者という存在を意識したり、反対に他者と相対化した自分を見出し、ともに内面化していくということでは、首都圏と地方都市で大きな差があるように思える。今や地方こそ、著しく身体感覚を欠いていっている。
  
 学校の先生が、教え子の児童を膝の上に載せたとか、通りすがりのお婆ちゃんが、幼い他人の子をかわいがって、その親の前で愛情に満ちた表情でほおにキスをしたとか、昔の親の中には、我が子に食事を与えるときに、自分が噛みくだいたものを口移しで食べさせたとか、どれも現代的な感覚でいえば気持ちの良いものではないし、ややもすると変質的な感じさえするが、わずか数十年前まで、そのような濃厚な身体接触はそれなりに日常的に行われていたのである。もっとも、そんな濃厚な身体感覚を取り戻したいといっているのではない。ただ、僕たちは今、アナログな身体的生命から、グラデーションの許されない二元論的な記号的生命へと、不可逆に、急激に変転しているのではないだろうか。そして「引きこもり」や「セックスレス」、また「無縁社会」「直葬」といった、現代的な問題と響きあっているのではないだろうか。

 2015年になって間もなく、イスラム国による数々の蛮行が報道された。
 その報道の中では、自らを「イスラム国」と称する、彼らイスラム過激派を指して、「イラク戦争が生みだしたモンスター」という表現が見聞きされた。
 この過激派グループをモンスターと表現するのは実に的を射ているように思われる。
 モンスターは大衆に恐怖をもたらすものであるが、その出自には、複雑に入り組んだ何らかの理由があり、それはイスラム過激派にもあてはまるように思われたからだ。
 
 かつて世界には、目に見えぬ大きな分断線が引かれていた。それはアメリカ側の資本主義陣営と、ソビエト側の社会主義陣営との対立、つまり東西冷戦によって生じたものだ。 だが、この冷戦は終結。1990年代以降、世界はグローバリズムの名の下に、アメリカ的な価値観に席巻されるようになる。企業は世界全体を商圏とし、市場原理主義が世界中に拡大した。『これからの正義の話をしよう』で有名なM・サンデルの『それをお金で買いますか』によれば、今や、金銭取引にタブーは存在せず、行列の最後尾に並ばずに済む権利が売買されたり、違法な薬物を常用している女性が避妊手術を受けることで金銭を得るということが横行しているのだという。市場原理は、道徳的判断よりも優位な位置にたどり着いてしまった。
 市場原理主義は、やがて富の固定化を促す。富める者は富み続け、貧しい者は貧しいまま。この指摘は最近、経済学者のピケティの緻密な研究によって、より確かな裏付けを得た。世界の大半の富は、ごく少数の富豪によって独占されており、その傾向はますます強まる一方なのである。
 ゲームで劣勢を強いられている者が、そのルールの不当性によって、今後逆転の見込みがないとなれば、想起されることは、既存のルールを破壊し、新たなルールによって、自らの立ち位置を確保するという行為だ。


 30歳を過ぎてフリーター生活を余儀なくされていた赤木智弘は2007年、「希望は、戦争」という挑発的なメッセージを世に投げかけた。赤木は戦争を賛美しているのではない。究極の非常時とも言える戦争が起これば、既存のヒエラルキーが崩壊し、勝ち組も負け組もなくなるということを言い、つまりそのようなことがなければ、自らのような境遇に置かれた人間には浮上の機などないということを訴えたのである。


 今、イスラム過激派をめぐる状況で問題視されているのは、この組織の蛮行に対する事柄ばかりではない。世界中の若者が、この組織に与しないように、どうするべきなのかということが取りざたされている。
 今や世界中に、形勢逆転の希望を失わされた若者が多くいる。そして彼らにとっては、既存の枠組みを壊すことだけが希望と映えるのかも知れない。あの残虐なイスラム過激派こそが、自分たちから浮上の機を奪った体制側と戦う聖戦士であると映えるのかも知れない。
 富める者は富み続け、敗者には、それは自己責任であると言い放つ。そんな不条理から目を背けていれば、第2第3のイスラム国が思わぬかたちで思わぬところから生まれてくるのかも知れない。

 私たちは、モンスターの撃退法ばかりではなく、モンスターを産む土壌を見つめなくてはならないのだろう。

 電子書籍に手が伸びない。
 電子辞書はなくてはならない存在。
 だが、あのつるんとした液晶の画面に表示される活字を目で追って本を読もうという意欲はまるで湧かない。内田樹が、読書は身体を伴う行為であるというのを読み、合点がいった。片方の手で感じる重みから、残りのページ数が自然と頭に入り、推理小説であれば、もうここから出てくる人物が犯人ということはあり得ないな、などと推測する営為こそが、読書なのだという。
 この身体感覚というのは、意外と見過ごされがちなのではないだろうか。
 パワーポイントを多用する授業では生徒の理解度が低いというデータがあるのだと聞いた。実際にそのデータを見たわけではないし、自分自身、パワポのユーザーではないのでパワポ授業の長短はわからないが、その短所として、身体感覚が伴わないということはあるように思う。
 あらかじめ用意された文書がクリック一つで現れ、教室中の生徒が見えるようにスクリーンや電子黒板に大写しにされる。それはいかにも効率が良い。
 でも、目の前で先生がチョークに筆圧を掛けて板書し、それをノートに書き写す身体感覚が内容理解につながるということもあるのではないかと思う。

 身体感覚の欠如が、その存在そのものの興亡に関わりそうなものとして野球がある。
 ファミコン人気の加熱度が高かった1986年に発売された、ファミコンのソフト「プロ野球ファミリースタジアム」は野球人気の裾野を広げたと言って良い。野球少年(少女)はもとより、シンプルながらやり込めるそのゲーム性の高さで、素人に野球の楽しさを知らしめた。僕もその一人だったのだが、ファミスタをやるうちに、実際に野球がやりたくなり、家の裏の駐車場で友達と野球に興じるうち、またファミスタにも興じるのだった。この往還にも身体感覚が関係していることは疑いようもない。実際に野球をやって得られる身体感覚を野球ゲームの内に再現せんとするからだ。この身体感覚は目に見えるようなものでもあり、例えばストレートの速い”まきはら”を操り、直球を投げて三振を狙う時と、変化球投手の”ひかしお”の変化球で打者を翻弄する時では、コントローラーを握る握力から、ボタンを押す圧力まで異なるに違いない。


 思い出すのは、ある将棋の名人から身体感覚を奪って勝負をさせるという一番だ。
 名前は忘れたが、その年輩の将棋の名人はいつも扇子を片手に、それを慌ただしくはためかせながら戦局に臨むそうで、その扇子はいわば思考の道具というものだったのだろう。
 名人には個室に入ってもらい、将棋盤を映したモニターを見ながら、指示を出してもらう。「3四の銀を前に」という風に。対戦相手は格下の学生か何かだったが、この名人は戦局中盤に負けを認め、いつもと違う環境下では勝負ができないのだと言った。
 いつもは目の前にある将棋盤上で駒を動かし、パシッという音とともに戦局が揺らぎ、使い慣れた扇を仰ぎつつ、数手先を読む。それをモニター上で行おうと、本来条件は変わらないはずだ。しかし身体感覚を逸することはこれほどに大きく結果を左右する。


 身体感覚はますます失われていく。ガラケーからスマホに変えると、メールを打つ際の身体感覚がなくなる。タブレットの出荷台数と反比例してノートパソコンの出荷が落ちているが、キーボードを打つという身体感覚もやがて失われていくのかも知れない。
 車の運転もオートメーションが夢の話ではなくなり、私たちの肉体はほとんどその機能を変えていないにも関わらず、実際の生活の中で身体感覚ばかりが失われていくことには不安を感じずにはいられない。

 放送大学院の講義、「21世紀メディア論」で、メディアは東京中心だから、地方に住んでいても、例えば「東京の人が抱く札幌のイメージ」が放送され、札幌にいても、「東京の人の抱く札幌のイメージ」を受け取ることになるのだということを伝えていた。
 それで気付いたのだが、地方にいるということは、日々自分たちが、「標準」の外にいるのだということを刷り込まれているのではないだろうか。
 方言に対し、首都圏の言葉を「標準語」というように(正しくは「共通語」なのだが
)、私たちの意識には、中央の事物を標準とみなす前提が内面化されている。であれば、地方に住んでいる人は日々、自分たちは「標準」の外にいると刷り込まれていることになる。
 標準であるか、そうでないかは本来、優劣をつけられるものではないが、やはり無意識のうちに標準を優とみなしているところはあるだろう。
 地方は「地方である時点」で、そんなコンプレックスを内在しているとも言える。

 去年の早い時期に買った『愛と暴力の戦後とその後』を久しぶりに読み進めていくうちに、「スポーツで青少年の健全な人格形成をする」という使い古されたフレーズへのアンチテーゼが語られていて、全く同感だと思った。
 「基本的に視野を狭くすることが多い」
 「勝つために手段を選ばないことは目的合理的ではあるが、人格がよいとは言いかねる」
 「権力者と親和性がある場合が多い」
 これらの指摘はどれもよくあてはまると思う。
 筆者の赤坂真理は球技が苦手だったと書いているが、だから、そのように思ったのだろうとは言い切れない鋭さがある。
 僕が生徒だった頃もそうだった。クラスで問題を起こすのは大体、体育会系の部活動や少年団に入っている生徒だったし、問題を起こすまでいかなくとも、子ども同士の空間で幅を利かせる〈空気感〉を発するのも、多くはスポーツをやっている子だったので、何となくスポーツ=「悪」というイメージはあった。イメージはあったが、世間は正反対に、スポーツを健全性と結びつけており、そのことへの違和感や怒りもあった。
 先日も、ある高校の部活動内の不祥事を取り上げた新聞社が、「スポーツをやっている人間こそ健全であるべきなのに」と言っているのには辟易とした。
 さらに前になるが、マツコと有吉が「スポーツをやっている人たちって、相当、品のないことをしていた」といっていたが、こういう意見の方がよほど正鵠を得ていると思うのだが、どうも「スポーツ=健全」と結びつけなくては気が済まないイデオロギーがあるように思われる。
 多分、こういうことだろう。
 人格形成期に、スポーツに親しんで人間というのは、「相手の利益を妨害することが自分の利益につながる」と刷り込まれてしまうのだろう。しかもそれが当たり前だと思い込んでおり、それを疑うという発想を持ち得ない。スポーツはそうだ。ヒットを打ちたいと思っている打者からアウトを取るのがこちらの利益であり、シュートを打って、ゴールを決めたいと思っているプレイヤーからボールをかすめ取るのが、こちらの利益になる。そういうことはスポーツの楽しみであり、醍醐味でもある。でもそれは、スポーツの世界の中での価値観であり、現実世界の価値観と異なるのだということをしっかり教え込まなくてはならない。
 ゲームばかりしていると、ゲームと現実の区別がつかなくなるなどという暴論をまことしやかに説く前に、スポーツ信奉者たる大人が無思考的に子どもにスポーツの機会を与えれば、スポーツ的価値観を現実社会でも発露しかねないということを、よく心得た方が良いように思う。
 ゲームやネット社会と違い、スポーツの罪の部分はあまり語られないだけに、スポーツの弊害は深刻であるように思う。今後、オリンピックに向けてスポーツ熱が高まっていくなら、なおさらこの副作用に注意しなくてはならない。
 僕はスポーツが大好きだ。
 野球との出会いがなければ、今の自分はなかったとさえ言える。
 でも、スポーツが悪しき部分を持つことは認識しなくてはならないと思う。
 

 昔、ある国語の研究会に参加した際に、教科書のある題材が困難すぎて、どう扱って良いかわからない、という声が飛び交った。
 その教材は、川上弘美の「水にうかぶ桜」だった。

 水にうかぶ桜は、「なんだか怖い」作品である。「怖い」のではなく、「なんだか」怖い。 
 【あらすじ】理科の時間に桜の花びらの解剖を行った。暗幕で外光を遮断された理科室で、ピンクの花びらを解剖するのは怖かった。
 さらに教師からは、「桜の下に落ちている花びらを採集し、そのおしべの数を数えるように」という課題を与えられ、近所で落ちている桜の花びらを集めていた。
 すると、見知らぬおばあさんに「その花びらを私に下さい」と言われる。怖かったが、おそるおそる、「どうするんですか」と聞くと、家に帰って水に浮かべるのだそうだ。そして「花のかたちをしているものには命がありますからね」と言い添えられたのだった。
 おばあさんの意図を理解し、穏やかな気持ちになるのだった。

 この作品のテーマは何か。
 指導書(教師に与えられる、”こう教えれば良い”的なことが書かれた教科書の教科書)によれば、「小さな花の命を尊ぶ」ことに気付かせるとか、そういうことが書いてあったように思う。だが、それは違うと思う。この題材の内包する主題は、そんな具体的で道徳的で、ステレオタイプなものではない。いや、仮に作者がそういう思いで書いたのだったとしても、やはりそこに主眼を置いて読むと、途端にこの作品の持つ特殊性が、普遍的なものになってしまう。


 思えば、今の私たちは、「具体的な世界」を生きている。
 昔は、「なんだか」わからないものがたくさんあった。
 学校帰りに目にする電柱には、小人症の人たちの興行を宣伝するポスターが貼られ、お祭りに行けば、奇怪な芸をするという「見世物小屋」(怖さと、背徳感と、もったいなさから入ったことはなかったが)があった。
 CMもそうだ。なんだかわからない、美しいような、怖いような、つかみどころのないものが流れたりした。そういうCMにまつわる都市伝説が生まれたりもした。

 ゲームの世界も、「なんだか」よくわからなかった。

 昔のゲームは無機質だ。どういう世界観で、何が目的なのかよくわからない。黒い背景に、ぎこちない効果音。
 マリオブラザーズ---土管から出てくるカメやカニは、みんな可愛い顔をしている。無表情な顔をしたマリオを操り、彼らをひたすら倒していく。後にキャラクターとして確立したマリオとは異なり、それは「何をしているかわからない不気味な大人」だった。たまたまコントローラーを使って操るのがマリオだから、僕らは彼になって、ゲームを展開していくわけなのだが、正しいことをやっているのか、そういでないのかわからない。カニやカメが倒すのに値する悪役なのか、また、土管といくつかの床(?)しか存在しない、そこはどんな空間なのか。当時はゲームそれ自体に、いささかの背徳感があったことから、マリオからは怪しさが拭えなかった。
 思えば、その頃(1980年代)を境に、世の中から「意味のわからないもの(行為)」が駆逐され、抽象的なものが存在することが許されなくなったように感じる。可視化されるものや行為のすべてにはその存在意味が求められる、きわめて具体的な時代へと推移していったように思う。


 「水にうかぶ桜」は、具体の時代となった今日に、なんだかわからない営為を投入し、抽象的なものの持つ、「つかみ所のない」「いいようのない怖さ」を呈示して見せた作品であると言えるだろう。
 だから、教材として教える際には、「何だかよくわからないけれど怖い」もの(こと)があることを察せられればそれで十分ではないか。そこから無理に、一般的で具体化したテーマを抽出してしまえば、この作品を殺してしまうことになる。

 かつて、田中真紀子文科相がいくつかの新設医大学を一時、不認可にした際、朝日新聞で、大学教育問題についての各論が掲載されていた。
 そのうちの一人は、大学進学率を上げることが必要なのだという。現状、50%程度の大学進学率を一層高める必要性があるのだと。その理由に、高卒での就職が困難であるという実情が語られている。

 吉川徹の『学歴分断社会』を最近読み、今日の、大卒層(院卒、大卒、短大卒)と非大卒層(専門校卒、高卒、中卒)の差の開きに歴然とした。だから、高卒層が窮地にあるのはわかる。しかし、だからといって、学究に興味のない者がステータスのために大学に行く流れを加速させるのには反対だ。むしろ、前掲書の著者が提案しているとおり、学歴を「重学歴/軽学歴」と捉え直し、「重/軽」を即、「優/劣」としない取り組みの方が大切ではないか。
 
 また、相変わらず教育をビジネスモデルになぞらえ、淘汰されるべきという意見にもうんざりした。
 各大学に就職率を競わせ、率の高い大学にはより多くの助成金を払うべきという意見だ。
 大学生にとって、就職の可否や、就職先の優劣は死活問題である。だが、大学は就職予備校ではない。企業が「即戦力を」というのを狭義に捉え、対症療法的にビジネスマン養成を計ることに意味があるとは思えない。
 むしろ、その学部学科で、自分が打ち込むべき演習テーマを見出し、課題を設定し、導かれる結論を推論し、そこに行き着くための研究方法を考察、遂行し、指導教官やゼミ生と協議し、調整していくというプロセスが結果、社会人として生きていく上で必要なスキルになっていくというのが理想ではないか。

 一方で、世界的に見れば、大学進学率の上昇が国力の上昇につながるのだとも書かれていた。けれども、学びの有用性を知らないまま、ただ大学に送り込まれても、それは本人のためにも、国のためにもならない無益なモラトリアム人間を増やすだけだ。効果をもたらすためには、学びの有用性を18歳までにしっかり見出させ、自分はどの分野で力を生かすことができそうなのかというビジョンを抱かせる取り組みが必要であると思う。

  「口コミで広まる」ものは良いものだと思っていた。
 この口コミを可視化、制度化したものがAmazonや食べログなどのレビューということになる。

 この圧倒的な人数の素人、非専門家の視点で、プロの創作物を評するということには、一長一短があるように思う。そのプロと何らの関係がない他者からの視点は極めて客観性を帯びたものであるとは言えそうだ。
 けれども、先日の川越シェフの件では、主に短所のほうを考えてしまった。


 川越シェフの店で飲食した客が、店への酷評をする。それは知らぬ間に、水に課金されていたことが発端のようだった。川越シェフにとってはそれが心外な評価であったらしく、年収が高くない客層には理解してもらえないとの旨を発言した。(後に謝罪に及んだ)

 客は自らの年収に見合った店を選ぶということに縛られるべきではない。店が客を選ぶのではなく、客が店を選ぶのは当たり前のことだ。けれども、よりハイレベルなもの---それが料理であれ、芸術、文学であれ---の良さを受容するには、消費者の側にもハイレベルな審美眼(料理の場合は「審美舌」とでも言うのだろうか)がなくてはならないのではないか。


 ピカソの前衛的な絵画も、メディアの発達した今日に誕生したものであったなら、専門家の厳しい審美眼によって高い評価を得る前に、素人による「わかりやすい/わかりにくい」という単純化されたコードに晒されて、落書きとして終わっていたかも知れない。

 ヨーロッパでは、日本とは比較にならないくらい、階層がはっきりしており、低階層が多い地域には美術館や図書館がないということもあるそうだが、これは飲食店に関しても同様で、高級店に、低収入層が行くことは推奨されないのだという。これは、分不相応な浪費を防ぐというよりは、サービスを提供する側のレベルに応じた消費者にこそより理解を得られるという、マッチを重視したものだろう。

 日本で、そこまでの階層化が進むことはまったく願わない。しかし、場合によっては自らが素人、非専門家であることをよく自覚することや、同じく素人や非専門家が大挙して成立しているのが、Amazonや食べログのレビューなど、ネット上の「口コミ」であるということを認識しておくことは重要だろう。


 専門家のつくった「一流」を、素人や非専門家が「三流」のレッテルを貼ってしまえば、「一流」は育たず、誰にでもわかりやすい、求めやすいものだけが「良いもの」になってしまう。

 2009年の『國文学』(学燈社)の休刊に続き、『国文学 解釈と鑑賞』(ぎょうせい)も2011年の10月号をもって休刊となった。共に60年以上もの伝統を持つ雑誌であった。
 「国文学」の名を冠した雑誌の休刊のみで状況を把握するわけではないが、日本中の大学では数年前から「国文学科・日本文学科」の統廃合が進むなど、国文学は衰退の途にあることを見逃してはならない。
 衰退の理由は、ひとえに国文学がそのカテゴリーを拡大できなかったことによると考えている。
 文芸雑誌が小説を募集すると、発行部数以上の作品が寄せられるという、小説の「カラオケ化」も、一億層評論家時代の到来(その出来や影響力はあまりに玉石混淆であるとしても)を予想させるブログやSNSの活況ぶり、また今や一段落した感さえある、ケータイ小説の生産と消費も、すべて国文学上の一事象としてとらえ、掘り下げていけるものであった。もしそうしていたならば、おそらく国文学は古くて新しい学問として、静かに復活を遂げていただろう。

 しかし、国文学はその機会を逸した。国文学はブログ論壇もケータイ小説の存在も無視した。あるいは、それらを研究対象として己のカテゴリーに置くことを拒んだ。
 映画やアニメといった様々な日本のコンテンツは、「クールジャパン」と称され、海外からの注目を浴び続けている。中国その他で、日本のアニメキャラにコスプレする若者が現れるのも珍しいことではなくなった。「クールジャパン」は戦略さえ失敗しなければ、海外に向けた輸出産業として、日本の当面の資源になり得るだろう。
 しかし、日本で好評であった作品が他国でも話題を呼ぶというほど、ことは簡単ではない。アメリカでは『ドラえもん』は全くの不評であるし(のび太がドラえもんに依存しすぎという理解のされ方が原因だという)、逆に日本では数多あるロボットアニメの一つに過ぎない『UFOロボ グレンタイザー』や『超電磁マシーン ボルテスV』が視聴率50%超を記録した国もある。

 キャラクターや主題歌の人気といった外見的な要素ばかりではなく、作品に通底する世界観、ドラマ性などの内面性がどのように理解されるのかを見極めてコンテンツを送り出すことが必要だ。それらの分析に国文学的な視点が生かせたはずだ。長く『万葉集』や『源氏物語』を愛で、その魅力の根源と今後の可能性を追究してきた複眼的な洞察力で、現代的なメディアを分析していけるはずだった。「クールジャパン」という、国を挙げての一大商戦でこそ、国文学は力を発揮できるはずであった。

 今や退場の危機さえ余儀なくされている国文学は、形を変えてしたたかに生き延びようとする種々の表現媒体に目を向け、やはりしたたかにそれらを自らの研究の俎上に載せていくことで、もう一度生き返ることができる。 

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