【地球の裏側で!!】 食べて・踊って・恋をして☆ in アルゼンチン♪

南米のパリ☆ と謳われたブエノスアイレスを起点に、海外あれこれをお届けします。

“弱さ”が”弱み”ではない温かい国、アルゼンチン。

日本はすっかりクリスマスモードの模様…
なんてのを、真夏が近づく全く年末の情緒も感じさせないブエノスアイレスから、
半分羨ましく、半分呆れ顔で傍観しているこの私。
ブエノスアイレスは、日本でいうところの「桜」にあたる春の花、ハカランダが咲き乱れている。うす紫の可愛らしい小さいラッパ型をした花が、手毬みたいにまるっとなりながら木々の全体を覆っている。日中は白い建物とのコントラストが美しくて、夜は深い藍色の夜空に映える花なのだ。もう一つ、名前は知らないけど可愛らしい小さな黄色い花も街路樹の明るいグリーンの上に咲き乱れていて、夏の近づく道路に散ったその花が、風に巻き上げられる様が美しいなと思った昨日。どちらの花にも、桜ほどの儚さはないのだけど、何だか日本人の心に沁みるのだ。

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と、書いていて気づいたことが一つ。
この国は急に夏になるなあ…、なんて去年思ったのだけど、それは梅雨がないからそう感じるのだろう。日本人はあの長い雨の中、夏を迎える準備ができるのは幸せなことだと思う。

最近、気付いたことがある。この国の人達は“温かい”。
知ってたつもりだけど、ちょっと身に沁みたので書こうと思う。
先日、ずっとずっと練習してるのに上手く歌えない Tango があって、FBでポツリとつぶやいたのだ。
「もう諦めそう…。歌えないよ…。」というような内容を。
すると、
すると驚いたことに、いつもはコメントしないようなアルゼンチン人がどんどん反応してくるではないか!! 基本的に「弱みは見せれないぜ!」ってのが日本人としては根本にあると思うので、あまりそういう投稿はしない(してないつもり!?w)なのだけど、今回の件で再確認。
アルゼンチン人は弱さをシェアする人種なのだ。
私の同居人や歌の先生(二人ともイイ年こいたいいオッサンです。はい(笑))は、信じられないくらい困ったことや辛いことがあると大騒ぎする。「痛いよ~!」とか、「辛かったんだよ~。」ってコトを。もちろん彼等の性格もあるだろうけど、“男たるもの…”という文化のもと育ったワタクシとしては、いつも唖然としてしまうし、それに対して解決策をあーでもない、こーでもない…、と、大して根本的な解決にはならなさそうな(あ、またまた失礼!)ものをそこにいる全員が次々と話し出す様を、不思議な気分で眺めていたのだけど、
彼等にとって大切なことは、「“問題”や“痛み”を共有すること」なのだ。
そしてそれは、とてもとても温かいものだということが身に沁みた今回。

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いつも「私は一人だ…」と勝手に落ち込んで寂しくなるのが得意な私なのだけど、実は簡単だったらしい。
(あ、最近その落ち込み方はだいぶなくなりましたけどね、ええ。)
多分、「寂しいよ!」と言えばいいのだ。そうすれば、この国の人達は「もういいよ…。ほっといてくれ、少しは…。」って位、皆でよってたかって良くしてくれる。
 先日、私が参加したコンクールで優勝(と同義の賞。政治的問題wなので詳細は別の機会に)を手にしたクラスメートの Susana は「Kaori の外国人が理由の口の形の問題含め、教えてあげるから家においで!」と誘ってくれるし、「私もこの曲は苦手だけど、このVer. を参考にしてみて。」と動画を送ってきてくれる友達、「一緒に練習して上手くなろう!」とメッセージをくれるまだ一回しか会ってないクラスメート等々、本当に温かい気持ちになった。
 多分、日本では(少なくとも私は)、少しでも“いい部分”を見せようとしてしまうのじゃないだろうか。「“弱み”を見せることで心配をかけたくない。」という思考も働くかもしれない。
 でも、もっと甘えていいのだ。もっと泣き叫んでいいのだ。もっと「できません!」って言ってもいいのだ。
 ちっともカッコ悪くなんてない。
 ちっとも迷惑なんてかけない。
 皆、助けてくれるよ。だいじょうぶ!

男女ってビリヤードみたいなもんか…。

男女ってビリヤードみたいなもんだな…。なんて日曜日の静かな9de Julio 大通り沿いを歩きながら考える。あの人の一言が引き金になって、この人の方に言葉を飛ばす。そこでぶつかれば二人の中で何かしらの動きが生み出されたり、予想もしなかったボールを動かしてしまったり。
 どんなに色々考えてゴールに持っていこうとしたって、相手があることだから、思い通りには動かせない気がする。ただ、全体を見て、このくらいの力で打てばこのくらいの方向に進んで、二人がぶつかる時に生じるエネルギーはこのくらいで…、なんてことを学んでいくことはできるのかもしれない。

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 ぴったりくっついて、お互いの肌のぬくもりを感じながら眠っていれば安心するけど、離れたとたんに不安になるなんて、我ながらなんて大変な“不安型”なんだ、私。
不安=怖いってことなんだろうけど、じゃあ、「怖いってナンダ?」どうやったら恐怖って消えるんだ?と思って、最近の禅問答の良い相手でもある日本語の生徒の合気道の先生(私は習ってないけど)に問いかける。
彼はそうそう簡単に答えはくれない。
 …答えは各自の中にあるので考えろということなのか。
 とりあえず現段階で教えてくれたことは「危険を察するための動物として感じる“恐怖”はあるべきもの。それ以外は、自分で作り出しているもの。」らしい。

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一時期、よく返された言葉が「 ”私は誰なのか?” を考えろ。」というフレーズ。
いろいろ考え出しそうになる時、「いやいや、そもそもそれを考えてる“私は誰!?” 」なんてことを考えるのも、それ自体が瞑想みたいで面白い。

なんてコトをしていてかれこれ一ヶ月。
「シンプルに楽しめばいいんだよ。」というメッセージをあちこちから受け、とりあえず楽しく生きることにしています。
なんだか、いろいろ上手く回っているような…、気がします。
相変わらずビリヤードは続いていますが(笑)。




地球の反対側で「道」について考えさせられる

日に日に光の量を増す空の明るさは私の気持ちまでも明るくしてくれて、月曜の朝、キッチンと静かな廊下を掃除しながら、太陽の光の差し込む角度や時間、量がかわってくるのを感じながら時の流れを確認する。
いつまでこの家に住むかもわからないし、いつまでこの国にいるのかも、もしかしたらずっといるのかもしれないし、未来は全然分からない。ただ、変わらず Tango を愛しているんだろうなということと、“おばあちゃんになってMilonga に行って「あ~、今日も楽しかったぁ!」と言って幸せな気持ちで眠りにつき、目が覚めたら天国でした…。”という夢は変わらない。
月曜日の静かな朝は、これから始まる騒がしいブエノスアイレスの日常を諦め顔で待ち構える時間だったり、Tango に触れ続けている自分に自信をもとうと改めて思う時間だったり。
決して得意とは言い難いお掃除を、家賃交渉の結果、私の仕事?にしてくれたことを家主君には感謝している。(この国はお掃除の人が来る家も少なくない。)静かに床を掃いたりモップをかけたり、少しずつ少しずつ明るくなっていく100年は歴史のある、この古いけど上手い具合にリノベーションされた家の白と黒のタイル達がちょっと光るようになるのを見ながら、私の心は少し落ち着くのだ。

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顔見知りが増えていくというのは、街に根付いていっている感じがしてなんだか嬉しい。毎朝、前を通る度に「Buen dia! “サヨナラー”」と声をかけてくれる隣のマンションのおじいちゃんだったり、まさかこの人が!と思うような見た目の(ゴメンネ!)敏腕美容師 Carlos だったり、いつも「Hola, Linda~!」と旬の野菜や果物を勧めてくれる人の好いペルー人姉妹だったり。

日本もそうなのだろうけど、古い建物というものには美しさがある。時間をかけることが許された時代だからこその贅沢なのかもしれない。ブエノスアイレスには古くて美しい建物がたくさんあって、そういった建物に住んでいる人も多いし、素敵なお店に変身している場所もあれば、廃墟のようになって崩れ落ちそうになっている場所もある。でもこの国にも明らかに現代化?の波は押し寄せていて、どんどん立ち並んでいく味気ないただの四角い同じ形をしたマンションを見ながら、すごく残念に思う。なんだか、小さく細かく区切られた同じ箱の中に、どれだけ人を詰め込めるかという商魂が視覚化されている気がして、なんだか悲しくなるのだ。といいながらも、現代日本人として育った身としては、快適で清潔な感じに安心感を覚えるのはそういう建物だったりもするのだけど。

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私はどれだけ時間がかかってしまったとしても、いつ来るかも分からないような時間の中で待ち疲れて「もう嫌!」と思っても、結局、バスで移動するのが好きだ。地下鉄は早くて便利かもしれないけど、街並みを眺めることができないから。Centro から Palermo へ向かいながら、「あぁ、あのバルコニーの手すりの感じ、贅沢だなぁ…。」とか、「なんで外壁にあんな細かい装飾ができたんだろう、美しいなぁ…。」とか、「しかし、斬新な壁画が多いよなぁ、アーティスティックな国だぜ…。」なんてぼんやり考えながら目的地までたどり着く時間は素敵な時間じゃないだろうか。

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最近はだいぶと一週間が過ぎるのが早い気がする。この国の暮らしに慣れてきたからかもしれないし、一週間のスケジュールが大体落ち着いてきたからかもしれない。つまり同じことが繰り返される日々というのは特に刺激がないからこそ、淡々と過ぎていくのだろう。
ここに私達は「冒険」を常に入れていかないといけないのだと思う。(少なくとも私はそういう人種だと気付く今日この頃。)安定して安心できる場所からいつもちょっとだけはみ出して自分に負荷をかけてあげること。それが人生を楽しくするコツのような気がする。新しい気付きや出会い程、人生に新しい風をもたらし、エネルギーを生み出してくれるものはないように感じる。動けば動くほど、力や新しい世界への扉は自分の中に流れ込んでくる。とどまってしまうと澱んでしまうのだ。私達は流れ続けないといけない。もしくは、私達の身体や精神に風を通し、水が流れるようにするといいと思うのだ。

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ただ新しいものだけ次々に触れていくという訳ではない。新しいものに触れることで、本来自分が大切にしていたものの美しさに気付かされることがある。以前分からなかったものの素晴らしさにやっと気づけたりする。
 日本語の生徒ちゃん達のおかげで、日本文化の美しさや考え方についてはっとさせられることが多いのだけど、スペイン語の勉強もかねて「禅と武道」なんて本を貸してもらって読んでいる。それが「面白い!」って話をすると次々に別の生徒ちゃん達も本を貸してくれて、私の課題図書は増えるばかりなのだけど(笑)。
 そんな中ではっとさせられたことを一つ。
東洋の「練習」の概念と西洋のそれとの違い。日本画の先生のJulieta ちゃんのHPの翻訳を頼まれて訳していた文章の中にあったのが、「西洋は実利主義なので、“練習”というのは何か成果を得るための手段であり、東洋は“練習”という繰り返しの中に価値を見出す」という話。単純に見える基礎練習に価値を見出せず、すぐに画を書きたがる人や長続きしない人が多いと彼女は嘆いていた。
そして「禅と武道」の本の中で見つけた文章が最近の私を救ってくれているのだけど、「“道”というのはどこかに辿り着くことが目的ではなく、その歩む道のり自体に意味がある。」という話。日本人とはいえ、かなり西洋社会に影響を受けてしまっている現代の私達、何か結果を手にすることだけに価値を見出しているのではないだろうか?
かくいう私も「こんな日々を送っていて何になるのだろう?」「いつかまともに歌える日がくるのかしら?」と道の先ばかりを見て、“今”歩んでいる道の価値に気付けずにいる時間の方が多いように思う。
よくも悪くも、日本にいる時に比べて“着飾る”ことをしなくなったなと思う。裸になってしまったこそ、素の自分と向き合わなくてはいけないから、なかなかしんどい。色んな意味で着飾って「私、大丈夫!」と自分を安心させていた部分があるから、自分を覆うものがある意味、何もない今、ありのままの自分で「私、大丈夫!」と言えるようになりたい。
…と、まだまだ“道”の尊さに気づききれていない私なのではありますが。


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ブエノスアイレスは雨の夜。
何か気分の上がる音楽でも…、と思いながら結局 Tango を聴いている。大好きだったワルツも課題曲にしてしまうと、「何で私、このリズムとれないのよ~…、どーやったらこんな風に歌えるのよ~…。」と落ち込んできてしまうのだけど、そんな日もあったなぁ…、と笑って歌える日がくると思うから、頑張ってみましょう。…頑張らなくていいのか?…いやいや。…と日々は続く。

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