【地球の裏側で!!】 食べて・踊って・恋をして☆ in アルゼンチン♪

南米のパリ☆ と謳われたブエノスアイレスを起点に、海外あれこれをお届けします。

新年に想うアルゼンチン

 ブエノスアイレスの市内至るところに“上がる”というよりは、夜景の美しい夜の街の中に“開く”花火を眺めながら新年を迎えた。素晴らしく見晴らしがよいマンションの屋上のテラスで、遠くまで街を一望できるそこから臨むその様子は、アルゼンチンそのものの風景だった。
 ちなみにアルゼンチンは今、真夏である。うだるような暑さは夜になっても収まることを知らないし、この街の湿度は下手すると日本以上ではないかと疑う程だ。
 とにかく何処彼処で花火がゲリラ的に上がり続けるのだ。遠くに見える建物の間で開く花火がビルの形を浮き上がらせているのに目を奪われていると、突然、隣りの建設中の建物の後ろから爆音とともに花火が上がり始め、私たちを明るく照らしたりする。
 
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 どこまでも広がるブエノスアイレスの至るところで花火が上がっているのは、個人でもち上げているからで、数発で終わる花火も多い(笑)。「日本ではありえないよね…」、と日本に長く住んでいた友達と話しながら、花火の形にもアルゼンチンを感じずにはいられない。なんといっても日本の花火は巨大で真ん丸。こちらの花火は“とりあえず作りました~!”感が満載で、「ん?上がればいいでしょ!? ん?色がついてて四方八方に広がればいいっしょ!?」と言わんばかりの完成度?である。これをアルゼンチンらしいと言わずになんと表現しようか…。
 でも、これがアルゼンチンの美しさだとしみじみ思った。色んな色と形があって、至るところで好き勝手やっているから、昼間は小汚くても夜の街を美しく彩ることができるのだ
 
この街は夜が美しいと思う。夜は限られた世代のものでもなくて、真夜中(明け方?)であろうとおじいちゃん・おばあちゃんまで楽しそうに過ごしている姿には、ものすごいエネルギーを感じさえする。勿論、家族連れだって多いし、小さな子どもをそんな時間帯に見かけると心配になるのは日本人なら私だけではないはず。

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年越しは、私の大好きな日本語の生徒ちゃんファミリーと過ごした訳だけど、センスのいい彼等らしく、テラスの木のテーブルの中央にママが白い大輪の花を活けていたり、素敵な空間が準備されていく。奥で息子君がアサードの準備に汗しているのをよそに、私の大好きな優雅で自由気ままなおばあちゃまが「人生っていうのはね、外に何かを探しちゃ駄目なのよ。自分の中に探すの。」と語っていたかと思うと「あぁ、本当、暑いわね!耐えられないわ!!」とテラスの先に置かれたウッドチェアに風に当たりに行っってしまったり。

そんな様子を楽しく微笑ましく眺めていると、大好きな写真家のMumu が「本当に幸せそうな顔してる。」とびっくりしている。彼女は4月にアルゼンチンを経ち、世界各地を写真を撮りながら旅をして数日前にブエノスアイレスに帰ってきた。
 私は、人と世界への鋭くて、でも温かい眼差しを持った彼女が大好きだ。時にキツすぎる程、はっきりとモノを言う嘘のない彼女なので、彼女の言葉を私は信用している。もともとハイクラスな世界で育った彼女なのに、だからこそ全く違う世界を見たいと敢えて苦しい冒険を続けている。人っ子一人いない島で何時間も何時間も歩き続けて巨大な鯨の死体に出会ってその場を離れられなかったという話や、戦争が始まるであろう瞬間の人間の狂乱を目の当たりにして震える手を押さえながらシャッターを切り続けた話や、聞いているだけで飽きないけれど、何よりそこで彼女が何を感じ、考え、変わってきたのかというのを感じること程面白い時間はない。
 当然だろうが、この数カ月で驚く程彼女は成長した。あまりに違いすぎる価値観や世界を見すぎて自分の人生の意味を見失いかけてもいる。わがままで傲慢にも思えた部分もあった性格は、ひどく繊細で傷つききった彼女の大切な人とのアレコレで、とても深く丸く優しくなった。もともと人としての真ん中がとても純粋で優しい人ではあったけど、とても強い人なので、他人の弱さに厳しい部分があった。もしかすると彼女の方がもっともっと傷ついてもおかしくない状況。でも彼女はその出来事を通して“弱い苦しみ”が、世界中で起きている悲惨な状況にある人達の苦しみと同じくらい深いということを理解し、受け入れたのだ。

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私と彼女のバックグラウンドは笑える程に真逆である。きっと日本で出会っても絶対友達になれなかったとお互いに笑う。二人ともブエノスアイレスに冒険に来たから分かりあえるし、お互いに刺激を与えあえるのだと思う。
彼女は久しぶりの“快適で優雅な”空間と時間に違和感を覚えていた。私はそういうものにずっと憧れて生きてきたので、幸せな顔をしていたのだろう。そして“家族”というものに。一緒に新年のシャンパンを待ちながらそんな話をしながら、「Kaori はこういう人達といたら幸せになれるんだろうなと思ったけど、今、それを本当に求めてるの?」と、また鋭い質問を打ち込んでくる。

いつも求めるものは手に入ってきた。夢は叶うし叶えるものだと信じてきたから。
今、眺めている風景は明らかに去年、下町の Monserrat の我が家の屋上で近所の建物に阻まれて見えない花火の音を聞きながら求めていたものだ。優雅な時間と場所。知的で上品な人達と穏やかに家族を感じながら過ごす時間。
Mumu が帰国後しきりに私の表情が変わったと言う。日本にいた時の写真なんて別人だと。私もそう思う。日本にいた時の自分の写真を見ていると、別の人の人生を眺めているみたいだ。つい最近まで「こんなに“キレイに”してたのにな…。」と悲しくなったりもしていたのだけど、ただ色んな意味で“着飾って”背伸びしてただけだということに気づいた今、下品でガサツで小汚いこの街がやっと好きになれたし、限りなくそれに近い素の自分も好きになれた。以前より太っていようが、それがなんだというのだろう。前みたいに素敵な服や靴が買えないといってそれがなんだと言うのだろう。

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今日のこの状況というのは“昔の私”が切望していたシーンであって、素の自分を受け入れることができた“今の私”が求めているものは実は違うのかもしれない。それをMumu は分かってるし、実は私も分かっているのかもしれない。

2017年。何を願おうか。何を望もうか。
 
とりあえず、1月半ばから二カ月NYに行くチャンスを頂いた。想像もできなかったけど、2016年の1月の手帳には「NYかインドに行く!」と書いている。
 大概の人は信じられないだろうけど、私もMumu もタクシーに乗れないからと3時間も真夜中にバスを待ち続けるような生活をしている。それでも世界を旅できるのだ。それでも大笑いして幸せなのだ。立ち上がれないと思えるほど道に迷うことがあっても、この街の生活に疲れ切ってしまうことがあっても、「本当に自分が望む人生」を探し続けているご褒美だと思っている。

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 Photo by 夢無子

2016年、一年の三分の一くらいは泣いていたような、半分以上は動けないでうだうだしていただけのような、そんな気がしても、8カ月ぶりに私の Tango を聞いた Mumu が涙してくれたのが私への最高のご褒美。彼女がちょっとやそっとのことでは感動しないのを知っているから。

NYで何が待ってるか分からないけれど、私のことを慕ってくれている妹のような彼女が私を呼んでくれた。彼女の赤ちゃんに会えるのが本当に楽しみ!
何だか Jazz よりは Blues に触れたい気分。それなら Chicago だと突っ込まれつつ(笑)。とにかく“魂から歌う”Tango 以外の音楽を感じて来よう。そしてたくさんの面白い人に会わなくっちゃ。
この街で生きていくエネルギーを充電するためにも。

「現実は自分が創り出してる」のだとすると…

とりあえずブエノスアイレスはやる気をなくす暑さ(少なくとも私には…)だ。
蚊に刺されるのをとるか、少しでも風が通るのをとるか…、の悩みの末に開け放たれた扉から明るい明け方の青空がのぞき、ベッドでうだうだしているうちに向かいの廃墟みたいになった建物の白壁に強い日差しが照り返しだすと、北向きの(日本でいうところの南向き)の私の部屋にはもう居られない。天井に取り付けられたファンを回しても、折角の静かな日曜日に騒音を戻してしまう。
 ということで、車も人通りもグンと少なくなる 9 de Julio 大通りを越えてまたスタバにきてしまう。店内にはクリスマスソングが流れている訳だけど、30数年北半球で暮らした身としては真夏のクリスマスなんて全く情緒もなければ現実味もないし、街角で見かけるサンタクロースの人形なんて暑苦しいだけだ。

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 暑さのせいなのか、やりたいこと・やるべきことが山積して頭がショートしてるからなのか、単に疲れているのか、頭はかなりボーっとしているのだけど、書いておこう。

 昨日は Tango の日を祝うためのイベント、目抜き通りをフロアにかえてしまうグラン・ミロンガだった。去年は日本レストランで働いていて、でもどうしてもこの光景が見たくて、貧乏なくせに終わりかけの真夜中にタクシーでかけつけたんだっけ、なんて思い出しながら、「去年の今頃は苦しかったなあ…、それに比べたらなんて幸せで楽しい今日なんだろう。来年はきっともっと楽しくなるはず!」なんて自分に語りかけながら、昼間の暑さを忘れさせてくれる涼しい夕暮れの風を受けながら、大通りを渡る。

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会いたいのに会えない人。
会いたかったのに今となっては…、な人。
意図せずとも会ってしまう人。
「人生は私たちに驚きを運んでくる」、なんて言葉を日本語の生徒ちゃん達から聞いた午後、夜にはこんなことかなあ…、なんて頭をよぎる。

最近の私の思考のテーマは「現実は私の思考の結果である」というもの。
結局いつも同じような人を選んでしまう。同じような状況になってしまう。
…なんでだろう!?、なんて考える余地もなく答えは明白である。
「実は私がそれを望んでいるから。」「その状況が私にとってふさわしいと信じてしまっているから。」というのを痛いほど学んだつもりだったのに、まだ続けるの私!?、と、いい加減嫌気がさし、自分を一番大切にする思考回路をもとうと、発言、行動をかえようと奮闘中の今日この頃。それができなくて泣いてしまっているところに「大きな変化を起こそうと思ったら、少しづつ変えなきゃだよ。」なんて言葉をもらって救われたり。
相手の言動が問題じゃない、自分がどう考えるかだ…、なんてグルグルぐるぐる考えながら、会いたかった彼ともつれかけた糸をほぐす会話をした後、バルコニーの先に輝く三日月と一番星の写真を送ってミロンガへ。

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相変わらず困ったオッサンに捕まるのが得意な私は、隣に座ったおいちゃんが大声で、合ってるのかも怪しいタンゴの歴史を話し続けウンザリしてるトコに、私が通ってる学校でバンドネオンを習ってるというこれまた困ったオッサンに絡まれ出し…、これはこの場を去るに限る!とメインステージ横の特等席を諦め、道路で踊る人たちの波に交じってみる。踊り出してもまたヒドイおっさんにばっかり捕まるので疲れ果てて、サブステージに向けて大通りを歩き出す。後ろから聞こえる美しいタンゴに気をよくして歌いながら歩いていると、横断歩道で上手そうなお兄ちゃんが「踊ろう」と声をかけてくる。ステージとステージの中間にあたる場所なのでその周りで踊ってる人もおらず、「えっ!?ココ?」と訊くと、「なんでダメなの?」と笑い返されるので踊ることにする。下手な人と踊ると大後悔する大好きなプグリエーゼ!ドラマティックタンゴ十分に楽しく踊らせてもらい、ご機嫌でその場を後にする。
すっかり足取りも軽く、最近、踊りの相性がすごくイイというか、一緒に踊ってて気持ちよ過ぎる友達がいるのだけど、やっぱり彼に連絡すれば良かったな…、なんて思いながら数ブロック先のサブステージの一つを通り過ぎようとした時に「Kaori!!」と呼ぶ声が…。
そう、その彼なのである(唖然w)。
近くでお友だちとお茶してたらしく、このイベントがあることすら忘れていて、舞台を見ながら「Kaori いるんじゃないかな、と思ってた!」って…。そう、会う人には意図せずとも会ってしまうものなのだ…。

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折角なので大通りの逆端のサブステージまで見に行って、真ん中のステージに戻ってくる。
彼の好きな軽やかで温かみのあるタンゴがかかって喜んでいるので、踊ることにする。
本当に彼と踊るのは気持ちが良くて一曲があっという間。
以前は会いたくてたまらなかったお気に入り君が奥のメインステージで演奏してるのが、通りの真ん中に設置された大ビジョンに映し出されている。
「去年は演奏してるって知らなくて、もう会わないって決めたところで心がざわついたなあ、でも幸せだと思えたんだっけ…」なんて思い出しながら、歌の肥やしにどんな気持ちになるのか確かめたくて、メインステージの方へ行ってみることにする。恋人でもなんでもない、でも気持ちよく踊れるお友達の腕の中から見る、元・お気に入り君にはもはやもう何も感じなくて、不思議なもんだなと思う。来年は誰を想っていて、どんな気持ちで踊ってるんだろう!?なんて、気持ちいい夜風に当たりながらくすりとする。
やんちゃな彼等の演奏は私たちが踊りたいタンゴとはちょっと違うし、アスファルトの上で踊るのに少し疲れて、次のオルケスタの演奏は座って聴くことにする。

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 踊ってる時はドキドキしそうなくらい気持ちよくて、曲と曲の間は離れられないくらいなのに、いったん離れてしまえば何も感じない(笑)。
“こういう感覚になる人とは一線を越えないに限る”というのがダンサーの女友達のとの共通認識なのだけど、だって私たち、セックスしたいから踊ってる訳じゃないし、でも感情をフルに感じて表現するにあたり、このギリギリの感覚を持ってる相手というのはたまらなく良いのである。
 なんてコトを思い出しながら、しかし彼とその共通認識があるわけでもないしな~、なんてコトを考えつつ中央のサブステージに戻ってみると、サックスがメインでタンゴを演奏しておる…。や、あまりロマンチックにされすぎても困るんですけどね、なんて思いながらもまた踊り出す我々。
サックスの音色ってのは官能的だな、うん。
曲と曲の間、離れられないのはいつものことなんだけど、手の触れ具合とか、抱きしめる具合とか、顔の合わせ方とか、どんどんエスカレートしてませんか…!?、と思いつつも気持ちよいのでほっておく。大人しそうにみえても、やっぱりラティーノは感情表現すごいよね…。
少し肌寒くなってきた夜風から守るように抱きしめられて、お互いの呼吸や肌の感じや、全身を感じきってから、少しづつ、少しづつ踊り出すというのは、すごくすごく気持ちいい。
 多分、日本のミロンガでは絶対できないし、「何やってんだよ、おい!踊り出せよ~!」(と言われるに違いない)…って時間が実は醍醐味だったりする。
 
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 で、結局、普通のミロンガでもないし、道端や大通りのど真ん中で、踊りたい!ってなった人達が自由に踊り出す風景が、なんとも言えず楽しいね!なんて日常の延長に出現したような空間だっただけに、彼は私を抱きしめることをやめないし、気づけば踊りの延長のような形で彼は口づけをしてきた訳だけど、気持ちよかったのでよしとする。
美しい大通りの、少し肌寒い夜空の下、大好きなタンゴを聞きながら、そんな時間を過ごしたなんて美しい思い出じゃねーか。
 そして、例によって離れてしまうと何も感じないので(笑)、家の前まで送ってくれた彼に「じゃねっ!」と言い残してサクッと帰る私。

さてさて、私が本当に求めているものは何なのか、変わらないといけない部分はなんなのか、先週の出来事達を材料に考えることにしよう。
大切なのは、私の一番を考えるというコト☆

“弱さ”が”弱み”ではない温かい国、アルゼンチン。

日本はすっかりクリスマスモードの模様…
なんてのを、真夏が近づく全く年末の情緒も感じさせないブエノスアイレスから、
半分羨ましく、半分呆れ顔で傍観しているこの私。
ブエノスアイレスは、日本でいうところの「桜」にあたる春の花、ハカランダが咲き乱れている。うす紫の可愛らしい小さいラッパ型をした花が、手毬みたいにまるっとなりながら木々の全体を覆っている。日中は白い建物とのコントラストが美しくて、夜は深い藍色の夜空に映える花なのだ。もう一つ、名前は知らないけど可愛らしい小さな黄色い花も街路樹の明るいグリーンの上に咲き乱れていて、夏の近づく道路に散ったその花が、風に巻き上げられる様が美しいなと思った昨日。どちらの花にも、桜ほどの儚さはないのだけど、何だか日本人の心に沁みるのだ。

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と、書いていて気づいたことが一つ。
この国は急に夏になるなあ…、なんて去年思ったのだけど、それは梅雨がないからそう感じるのだろう。日本人はあの長い雨の中、夏を迎える準備ができるのは幸せなことだと思う。

最近、気付いたことがある。この国の人達は“温かい”。
知ってたつもりだけど、ちょっと身に沁みたので書こうと思う。
先日、ずっとずっと練習してるのに上手く歌えない Tango があって、FBでポツリとつぶやいたのだ。
「もう諦めそう…。歌えないよ…。」というような内容を。
すると、
すると驚いたことに、いつもはコメントしないようなアルゼンチン人がどんどん反応してくるではないか!! 基本的に「弱みは見せれないぜ!」ってのが日本人としては根本にあると思うので、あまりそういう投稿はしない(してないつもり!?w)なのだけど、今回の件で再確認。
アルゼンチン人は弱さをシェアする人種なのだ。
私の同居人や歌の先生(二人ともイイ年こいたいいオッサンです。はい(笑))は、信じられないくらい困ったことや辛いことがあると大騒ぎする。「痛いよ~!」とか、「辛かったんだよ~。」ってコトを。もちろん彼等の性格もあるだろうけど、“男たるもの…”という文化のもと育ったワタクシとしては、いつも唖然としてしまうし、それに対して解決策をあーでもない、こーでもない…、と、大して根本的な解決にはならなさそうな(あ、またまた失礼!)ものをそこにいる全員が次々と話し出す様を、不思議な気分で眺めていたのだけど、
彼等にとって大切なことは、「“問題”や“痛み”を共有すること」なのだ。
そしてそれは、とてもとても温かいものだということが身に沁みた今回。

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いつも「私は一人だ…」と勝手に落ち込んで寂しくなるのが得意な私なのだけど、実は簡単だったらしい。
(あ、最近その落ち込み方はだいぶなくなりましたけどね、ええ。)
多分、「寂しいよ!」と言えばいいのだ。そうすれば、この国の人達は「もういいよ…。ほっといてくれ、少しは…。」って位、皆でよってたかって良くしてくれる。
 先日、私が参加したコンクールで優勝(と同義の賞。政治的問題wなので詳細は別の機会に)を手にしたクラスメートの Susana は「Kaori の外国人が理由の口の形の問題含め、教えてあげるから家においで!」と誘ってくれるし、「私もこの曲は苦手だけど、このVer. を参考にしてみて。」と動画を送ってきてくれる友達、「一緒に練習して上手くなろう!」とメッセージをくれるまだ一回しか会ってないクラスメート等々、本当に温かい気持ちになった。
 多分、日本では(少なくとも私は)、少しでも“いい部分”を見せようとしてしまうのじゃないだろうか。「“弱み”を見せることで心配をかけたくない。」という思考も働くかもしれない。
 でも、もっと甘えていいのだ。もっと泣き叫んでいいのだ。もっと「できません!」って言ってもいいのだ。
 ちっともカッコ悪くなんてない。
 ちっとも迷惑なんてかけない。
 皆、助けてくれるよ。だいじょうぶ!

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