【地球の裏側で!!】 食べて・踊って・恋をして☆ in アルゼンチン♪

南米のパリ☆ と謳われたブエノスアイレスを起点に、海外あれこれをお届けします。

Tango(アルゼンチン)が教えてくれたコト、“自分に優しく” ね。

この街には素敵なカフェがたくさんある。
ヨーロッパ調のシャンデリアが優しく灯り、細やかな装飾のなされた木の柱や壁に、白と黒のタイルが交互にしきつめられた床、ちょっとだけ高級な感じの石のテーブル(枠と足は木造り)に木の椅子、そんなものたちが、ブエノスアイレスが“南米のパリ”と謳われていた頃を彷彿とさせる。
大統領府から国会までのびるAv. De Mayo の通りは残念ながらゴミゴミしてしまっているのだけど、日本人の知人も言っていたように、この街は空を見上げて歩くととても美しい歴史ある建物が目に飛び込んでくる。同じく、そんな歴史ある建物のカフェなんかに入ると、時間がゆっくりと流れ、ちょっとだけ柔らかい気持ちに包まれる。

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※拝借画像なので夏ですな。今は冬の入り口。

 今日は長雨になるという予報が出たちょうど真ん中くらいの土曜日。スタバに行きそうになるところをぐっとこらえて、近所の歴史あるカフェの一つ“36 BILLARES”に腰を落ち着けてみた。慣れというのは怖いもので、こんなに素敵なカフェがあるのに、結局いつもスタバは落ち着くのは、こういうカフェが高級な感じを漂わせているので敷居が高いように感じてしまうからだと思う。でも、地元っ子に言わせれば、「スタバは高いしコーヒーも美味しくない。」(笑)とのこと。
そりゃそうだ。ブエノスアイレスにカフェができ始めた頃、コーヒーを持ち子んだのはイタリアからの移民達だろう。美味しくないはずがない。
独立記念日が近いからか、通りに面した入口の窓ガラスからは、白と空色のアルゼンチン人が愛してやまない美しい色合いの国旗が、通りにたくさん吊るされてたなびいている。夏の間中、通りを美しい緑で覆っていた木々も、すっかり枯れ葉と枝ばかりになっている。

この地区は土日になると急に静かになるところが気に入っている。通りを行き交うバスや車の数も半分くらい。通りを歩く人々の足取りも穏やかだ。
このカフェは、奥にこじんまりとしたコンサート会場があったりして、Tango の演奏もあったりする。友人の歌や演奏を聴きに何回か来たこともあるし、テレビにはタンゴ番組が流れていて、私はそれだけで「あぁ、この街に来てよかったな。」と幸せになる。
入口の傍に座ってしまったのでドアが開け閉めされる度に冷たい空気がびゅうっと飛び込んできて寒いのだけど、右手に伸びる階段はさっきから、ビリヤードをしにきたおじさま達が階下へ下っていく。玉を突く音、ちょっとした歓声なんかもたまに聞こえてきて、なんだか楽しい気分になる。

気が付けばこの街に来て一年と一ヶ月が過ぎた。
あっという間の二年目最初の一ヶ月。何をしてたかといえば、“歌いたくない病”にかかっていた。そして大好きな歌の先生達に助けてもらって分かったこと。「私、無駄に日本人」。
何が起きたかというと、とある歌のコンクールに参加したのだけど、入賞とかが目標ではなくて参加するコト、それに向けて練習するコト、その経験に意味があると思って参加したのだけど…。すごくすごく練習したのだ。たくさん研究もしてすごくすごく準備したのが自分を苦しめることになった(笑)。
予選はクローズなものだったので、参加者と審査員しかいない…、と言ってもすごい人(つまり参加者)、人、人…。例によって、すごく上手い人から、お世辞にも上手いとは言えない人、技術的には素晴らしいけど感動しない人、なんか下手だけど感動してしまう人。いろんな人がいて勉強になるな~…。や~、こんなに色んなTango が聞けるなんて幸せだな~、なんて呑気に自分の番を待っていた訳である。
私の番になって、名前を告げに行くと審査員の一人が「Kaori だよね?」と私を知って下さっていた模様(しかし私はどこで会ったのだか分からない…)。伴奏に来ていたのはギタリストにバンドネオニスタ。知り合いだといいな~…、と思っていたものの、とっても顔が似てるからNicolas のお兄ちゃんかな?、なんて考えていたら後で分かったら本人だったとか…。相変わらず、こっちの人に数回会っただけでは認識できない…。
「君、韓国人だよね?中国人だっけ?」「いやいや、日本人よ!頼むよ~。」なんて話していると、このコンクールで優勝したら一緒に歌えることになるブエノスアイレス市のOrquestaのトップがやってきて、挨拶を始めたりなんかするものだから、前で待たされる…。
全然、緊張してないと思っていたのだけど、やっぱり生演奏で初めて伴奏してもらう人達と合わせるというのは未だに難しい。「急がないのよ。」と先生に言われていたし、伴奏をよ~く聴きながらたっぷり歌おうと思っていたのに、なんだかどんどん早くなっていく気がする…。Tango は“語るように”歌わないといけないので、楽譜どおりにメロディーを歌ったりなんかしたら「うん。上手く歌えるね。でもTangoじゃない。」と言われてしまう。なので、感情に合わせて、歌詞に合わせて早く歌う(語る)場所があったり、遅く歌う(語る)場所があったり、ダイナミズムを変えないといけないのだけど、ここでバンドネオンが刻んでいるリズムをゆっくりに戻したいんだけど…、あああぁ~~~!!!としてるうちに「チャッ、…ッチャン!」と曲が終わってしまった…。

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※本人とは関係ありません写真。
 
感情は上手く表現できたと思うし、音も多分外さなかった。でも、一番気を付けたかったところができなくて、一番準備したつもりのところができなくて撃沈…。
一緒の学校に行っているSusana に「私、急いじゃったよね?」と聞くと「そんなことなかったよ、上手く歌えたじゃない!」と言ってくれるものの、ネガティブになった私の頭には入ってこない。後で分析しようと思って録音していた自分の歌を聴いて更に撃沈…。
「ひどい…、ひどすぎる…。」
と、一人で負のスパイラルに入り、翌日、「やっぱりもっと生伴奏で歌わなきゃ!」と歌いにいくも、今まで一度も起こらなかった“音を外す”という事態が発生。ちょっとしたズレなのだけど、あまりにショックでその場に来ていたギタリストの友達になんでか聞いてみる。「あの時、たくさん人がお店に入ってきたよね、だから集中力が切れたんだと思うよ。」と。…そ、そうか。しゅ、集中力ね…、そうだよね、それ、私無いよね、必要よね…。なんてブツブツ頭の中で繰り返しつつ、翌日、家で練習していると、自分の歌が前より下手になっている気がしてくる。…するとこうなる訳である。
「やっぱり私にTango なんて歌える訳がないんだ…。」「全然、上手くなんないし、もう嫌~!」「もう歌いたくないよ~!!!」
こうなると真っ逆さまに急降下である。何もしたくないよ~、歌えないよ~、レッスンも行きたくないよ~、踊りにも行きたくないよ~…。
と、ネガティブ子ちゃんすること2週間。なんとか這い上がってレッスンに行って先生達に何が起こったか分析してもらおうと思って聞いてもらう。
「何で?上手く歌えてるじゃない。」と。
…。
…、…?
…、…、…??
「え、でも、私、ここで急いでますよね?ってことは、ここで急いだ分、その時間を取り戻すためにここは待つとか、テンポ落とすとかしないとダメですよね?」
「…。う~ん…。そうねぇ、確かにここはKaori急いでるけど、ここで彼(バンドネオン奏者)は待って、ここでこう応えてる訳でしょ?“音楽”になってるじゃない。Kaori のその考えはとても日本人的ね。」と。
…!?
…!?、…!? !?
…!?、…!? !? !?、…!? !? !? !?
えええ~??? 

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 だってね、”楽譜” ってゆー ”規則” を頭に浮かべると "ルールに従わなきゃ!"って考えちゃうんだもん…(笑)。
 
あー、やだやだ。ここでも現れたか、私が捨てないといけない“日本人気質”…。
大雑把なわりにA型で几帳面なとこには妙にこだわる私。なんか“きっちり”“ちゃんと”できてないと、すごく“できなかった”と思って自分を責める癖があるということを発見。
こっちで失敗した時、アルゼンチンは皆、”No pasa nada~!”(なんでもないよ~!) “Tranquila~!!”(大丈夫、大丈夫、落ち着いて~って感じ。)と言って、皆すごくリラックスしている。私がうじうじしてると、「まだ悩んでるの?そんなに苦しまないで~!」と言ってくれる。

これ、Tango だけではなくて、アルゼンチンで暮らすということ、アルゼンチン人と過ごす時にとても大切なスタンスだと思う。
「リラックスして、自分を責めない。」というコト。
彼等は「自分を責めないから他人に優しくなれる。」のだと思う。書きかけの文章があるのだけど、アルゼンチン人は「徹底的に自己中だから人に優しくできる」のだと思うのです。
日本人は自分に厳しすぎるんじゃないかな、と思う今日この頃。だからこそ素晴らしい部分もたくさんあるけれど、もうちょっと自分に優しくしてあげて、自分を愛してあげることができた時、自分が望んでいるところに行く近道になるんじゃないかな、なんてことを考えた土曜日の午後でした。
さぁ、今日は久々に歌いに行きます♪

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アルゼンチンで「日本人である」ということ

「秋晴れ」というのは、どの国でも美しいもので、まだ冬が来たわけでもないのにやってきた大寒波が去った今日、ブエノスアイレスの午後に爽やかな青空が広がっている。
私の住むMonserrat は通りという通りに建物がぎっしりと立ち並んでいるので、通りに光が届く時間というのは限られている。時と街の変化によってすさんでしまっている薄汚れた白い壁が、それでも建築当初はさぞや美しかっただろうなと思わせる姿で光を反射しているその先に、青空が見える光景というのは、理由なく心が晴れ晴れとする。
あまりの寒さに家の中に引きこもりがちだけど、お昼間は気分転換に外に出るに限るな…、なんてコトを考えつつ。

誰かの文章を読みたくなる時というのは、その人の考え方やセンスや生活に触れたい時なんだろうなと思う。モノの見方とか生き方とか。海外で暮らしている、もしくは暮らしていた友人達の文章というのが私は好きだ。
私は多分、人一倍おしゃべりで日本語の繊細な表現力から切り取る世界観とかがとても好きなので、そんな言葉が通じる彼女達ととめどなくおしゃべりするのが大好きだった訳だけど、離れている分、彼女達との会話は彼女達が書き綴る文章を通してのものになるのかもしれない。

「ねぇねぇ、ブエノスで暮らしてて思うんだけどさぁ。」
日本にいるなら、彼女達が横にいるなら、こう始めて彼女達の意見を聞きたいトコロ。

仕事柄…(といっても問題ないくらいには少しは板についてきただろうか?)、日本語の生徒ちゃん達から日本の繊細さ、美しさについて再認識させられることが多すぎる。
私達が想像している以上に私達の国は繊細で美しくて、“静か”だ。

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この「静けさ」の生み出す美しさがお分かりだろうか?
この騒音大国(失礼!)アルゼンチン(いや、ブエノスアイレス市内限定か!?)に住んでいると、
自然を愛してきた民族ということもあるだろうし、「もののあわれ」なんて、もはや思い出しただけで美しくてため息がでる。
私の生徒ちゃん達は、空手の先生に合気道の先生、墨絵や日本画の先生と、日本文化を愛してやまない人達だ。そして大概、日本に行ったことがある。皆、日本が大好きだ。
「ZEN」というのはこちらでも流行りの一つなんだろうけど、ファッションとしてやる人に「禅」ができるはずもない。私の大好きな生徒ちゃんの一人は、日本の大学で日本画を勉強していたのだけど、日本にいる時、修行中は一言も喋らない(私、無理だ!!w)という瞑想をお寺で数日間したらしい。同じプログラムがブエノスであるというので楽しみに参加したところ、「アルゼンチン人には無理なんだって分かった…。」とがっかりしていた。
もともとお喋りな国民である。それに加えて”決まり”(って何?くらいの勢い)を守る人達は少ない(スミマセン。)。ということで、瞑想中はなんとか頑張れたとしても、例えばトイレで顔を合わせたら喋り出す等々、全く修行の意味がない!と、彼女は憤慨していた。
彼女に頼まれて日本語で書かれた日本画の本の説明をしていた時のこと。あまりに絵を描けるに至るまでの準備が繊細で複雑で、「なんて大変なんだ!」と二人で叫びながらも、「いや~、すごいねぇ、美しいねぇ…。」と感嘆したものだ。貝殻や天然石から作られた色の粉を、固まらないように温めながら何度も何度もこねるとか、紙を貼るのは晴れた日だとか、紙を準備するのは曇りか雨の日だとか(反対だったらゴメンナサイ)。

そんな繊細さを持ち合わせ、素晴らしい教育の賜物である上品さが日本人の美しさなのだ。
「海外で長く暮らした人は日本に帰ってくるとすぐ分かる。」
と、こちらでお世話になっている素敵な日本人のお姉さんが話してくれた。
「“雑”になってくるんだよね。」と。
いやしかし、日本人の繊細さを持ち合わせたままでは海外では潰れてしまうということもある。海外で生きるというコトは随分と図太くならざるを得ないし、細かいことなんて気にしてたらストレスで死んでしまう。特にこの愛すべき大雑把な国、アルゼンチンでは(笑)。
「あ~、やだやだ!気を付けようね…。」とお互いに戒めつつ…。

ブエノスアイレスには思ってた以上に多く日本人が暮らしている。私からしたらTango 以外でこの国に来る理由があるのか?と不思議でならなかったりするのだけど(だってスペイン語やサッカーの勉強したいなら他にも選択肢はある訳だし…。)、でも人は自分の知らないところで必要なものを選んで生きているのだと思う今日この頃。

最近、この街に暮らす友人達での女子会で至った結論。「ブエノスアイレスで暮らす日本人女子は“面倒くさい女”(日本では)なんだ!」というコト。(あくまで我々論ですw)。
例えば、Aちゃんは、好きな人には常に抱きついてチューしたいし、恋人なら「愛してる」と毎日何回でも言いたい。Bちゃんは、多分、異常すぎる(日本なら)エネルギーで感情を常に爆発させて生きている。Cちゃんは言葉が通じないから、一言一言“Google先生w”に聞かないと会話が成立しない。日本なら面倒くさい女達だろう(笑)。しかし、この国では日本ほど深刻な問題にならない気がする。
(本人たちは悩んだり、諦めたりを繰り返す訳だけど。)
特に感情面においては、そこにいた女子達だけではなくて、ここに住む日本人女子達からもよく聞くのが、「日本にいたら絶対見せなかったような感情を見せて、“泣いたりわめいたり叫んだり”するようになったよね~。」という件。アルゼンチン人は勿論、自分の言いたいコトを言いたいだけぶちまけるので、私達が少々騒いだところで動揺しない(笑)。で、私が思うには極論「自分中心」なので、あまり他人の感情に左右されないのではないだろうかというコト。
日本人だったら感情移入してしまったり、自分が悪かったなと罪悪感を感じてしまったりして事態が複雑化するのではないだろうか。言いたいコトをぶちまけあって、後はスッキリしてしまっている彼等というのはある意味、羨ましい限りである。そして、そんな彼らに私達は救われていたりもする。

ということで、この記事を温めている間に第二弾まで書いてしまったので、今日はここまで(笑)。

Tango 新旧について考えてみた。

「Tangoとは何か。」この街でもこの話題は尽きることがないし、Tango を愛している人であればある程、思い入れがあるので、時に自論を展開するのはタブーに近いこともある。
多分、Tango をやってる人なら少なからず一度は考え、答えを探し続けるものではないだろうか。
 
「Tango とは生き様なんだ」「Tango は人生だ」というのは、よく耳にする言葉だけど、
・・・ということはである。「Tango とは何か?」を語るということは「人生とは何か?」とかについて討論するのと同じだから、結論があるはずもない。
100人いれば100通りのTango があるのだ。それなら考えてみよう、私なりのTango。

まず話題を複雑にさせる理由の一つが、Tango は踊るTango 、聴くTango、演奏or歌うTango の立場があるというコト。
踊るTango にも色んなスタイルがあるので、「あれはTango じゃない、これがTangoだ。」的な主張をする人達もいる訳で…。
特に現地のTango界が地元のオリジナルとしてのTangoに誇りを持ちつつも、世界のTango Loversに引っ張られてる感は否めない事実としてある訳で。
この前、映画「Un Tango Más」の舞台挨拶で、María Nieves も「Tango なんてこの街じゃ何にもならないけどね、世界中から観光客呼び込んでる訳でしょ。」と皮肉めいた冗談をとばしていたし、観光客の減るオフシーズンのMilonga なんて閑散としたもので、海外で人気のある先生達は海外に教えに出てしまう。

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やっぱり、「道」を極めた人ってのは、オーラが違いますよね…。かっこいい…。

私は踊るTango はのらりくらりと楽しんでいるレベルなので、真剣に踊りに向き合っている訳ではない(スミマセン)。ダンサーを目指してこちらでエネルギーを燃やし尽くしてる親友を見ながら「た…、大変そうだわ…。」と傍観してるくらいなので、そんな人種の意見とご理解下さい。歌もこちらで始めた一年生、濃く色々見聞き考えはしてると思うけれど、あくまで“今現在”の私論。

こちらに来てよく現地の人が話していて考えるようになったのが「輸出用」もしくは「観光客用」のTango。何事においてもそうだと思うのだけど、星の王子さまも言ったように(笑)「大切なものは目にみえない。」のだ。
Tango の、一緒に踊って音楽と相手と溶け合う瞬間だったり喜びだったりというのは、すごくすごく繊細で本人たちにしか分からないと思う。分かる人には分かるみたいだけど、よほど観察力のある人とかじゃないと“目に見える”ものではないと思う。
あ、でも本当にすごい人達は見てるだけで涙出たりするか…。

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私の親友はものすごいエネルギーで大会でどんどん勝ち進んでマス。尊敬…!!

分かりやすくするには刺激が必要なのだ。だから音楽だってすごくスピード感があったりリズムを刻んでくれるようなものが喜ばれたりするし、それに合わせて派手な動きをする方が観ている方としても楽しいのは分かる。
だから、Tango を踊ったことがない人がサロンTangoを観てもあまり面白くないだろうし、Show Tango が海外や観光用としてはもてはやされる訳である。観光客向けの舞台で仕事で演奏してるバンドネオン奏者の知り合いは、「僕の好きなTangoな訳じゃないから、たまに疲れる。」と言ってたのも分かる気がする。Show Tango を否定している訳ではなくて、素晴らしい芸術だと思うし、それはそれとして好きだけど、私の求めるTango ではないというだけ。はい。

あぁ、だめだ。この文章、終わりがない。どこに辿り着くのやら…。

新しいTango というのを全否定する人も少なくない。「僕にとって新しいTango とか、新しいバージョンとかはTangoじゃないんだ。だってもう、何千という完成されたTango があるのに何でそんなもんが必要なんだ?」とまで言ってのける人もいたけれど、トラディショナルはトラディショナルで良しとして、時代にそった表現を人は必要としてくるんじゃないだろうか…。
と、考えるようになった今日この頃。(あ、踊りもそうなのか?)
というのも、私も今はTradicional なTangoが好きだし、「新しいTango なんて」と思っていた類なのだけど、でも Nuevo の流行がなかったら、もしかしたらTango をやらなかったかもしれない訳で…。

中途半端な新しいものは要らない。でも本当に心に響くものであればそれはTangoだと思えるようになった出来事があった。 
友達の可愛いキレイなギタリストちゃん Mirta の紹介で友達になった女性歌手Vivi。彼女のCDがGardel 賞にノミネートされたというのでそのお披露目ライブに足を運んだ時のこと。彼女がコンセプトを伝えて作詞家やミュージシャンと何度も何度も語り合いながら作り上げたという、オリジナルのTangoを歌ってくれた時のこと。「あ、このTango歌いたい!」と思ったのだ。

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http://www.viviverri.com/
 ご興味ある方は、彼女のHPトップにある "Dejámelo Pensar" 聴いてみて下さい♪ 

歌の合間に「昔の女性なら、ここでめそめそしてたんだろうけど、私達、もう、そんなこと言わないわよ!ねぇ!?」なんて大きな笑顔で笑い飛ばしながら舞台で語る彼女。
そういえば“Cantando”という曲を練習していた時、先生に「昔だったら、弱々しく可愛らしく歌っただろうけど、現代女性は違うのよKaori!もっと力強く歌いなさい!本当のあなたはそんな女性じゃないでしょう!?」と叱られたのを思い出した。
時代が変われば人も変わる。例え同じ歌詞だったとしても、違う解釈をして違う感情を込めて歌うことができるのだ。昔の歌手を聴きながら、「どうやったら、こんな風に歌えるかな~。」と必死だったのだけど、「昔の映画で、話し方が今と違うように、歌い方だって今と違うのよ。」と言われた時は目からウロコ。「今、ブエノスアイレスで演奏してる Orquesta が D'Arienzo だ Troilo だ Puguliese だって、それぞれのスタイルを真似てるけど、真似で終わるならオリジナルのCDを聴いた方がずっといいわよ。だって、完成してるんだもの。だからKaori だってKaoriにしか歌えないTangoを表現できないなら、意味がないのよ。」と。

オリジナルという話で思い出したけど、お友達が何人か演奏してる Pablo Valle Sexteto の曲も、彼らの想いとかストーリーを知ってるのもあるんだろうけど、好きだなぁ。

 
"Para siempre" by PV6


・・・・・・と、一日ねかせて分かった!“Tango風”なものが私は嫌いなんだ。多分。
そこに魂がないように感じるもの。

私が歌いに行くのが好きな場所の一つに、Mandyju という場所があるのだけど、24時に行ったって誰もいやしない。平日夜中の2時3時に大盛り上がりするその場所は、プロからアマチュアまでTangoを愛してやまない人が集まって、その時に集ったミュージシャンによってギターだったり、バンドネオンだったり、バイオリンだったり、コントラバスだったり、その場で練習もなく「これ、歌います。このキーで。」と言って一緒に一曲二曲作り上げるのだ。
聴く方も真剣で、大好きなTangoにともに酔いしれている。
なんだか、そういう“Tangoへの愛”が詰まった場所、好きだな。

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大好きな Osvaldo おじいちゃん♪
 
ま、そういう場所では“新しいTango”が披露されることはまずない訳だけど、トラディショナルを現代の人たちが解釈して演奏しているという意味では“新しいTango”なのかもしれない。
そういえば、サラリと歌詞を変えて笑いを誘うおじいちゃんとかいるしな…。

昔ながらのMilonguero スタイルを愛してその先生もしている私の日本語の生徒くんは、「最近のTangoが失ってしまったものはコネクションなんだよね。もっと胸で感じて動くっていう意味のコネクション。最近の女性はそれがないから、ほうきと踊ってるみたい。」と嘆いていた。

踊りを追求してる訳ではないので、あまり意見できる立場ではないと思いつつ、こちらでMilonga に行くと、特にフランスの人とかはヌエボ系の人が多い気がする。それはそれで楽しいのだけど、うむむ。後、最近勢いがあるらしいロシアの人は技術的にはすごいんだけど、何も感じない(笑)。で、ヨーロッパ勢が多いヌエボ系?の場所(動きが大きくて激しい…)は私は身体能力的についていけないという自負wもあるし、怖くて足を踏み入れないけど、トラディショナルなTango を愛するこちらの人に言わせれば「上に上にエネルギーがいってるよね。もっとTango は下へ下へいくものだと思うんだけどなぁ。床とのコネクションがなくて、なんだかねぇ。」とのこと。
100人いれば100通りのTango、と前置きしたのでどれが正しいという話がしたい訳ではない。
もしかして、人と人の距離感というか親密さというか、そんなものが現代社会で薄れてきているのも関係あるのかしらん?なんてぼんやり考えたり。

音楽としてよいかは別として、今日「僕はFacebook が嫌いだ」というタイトルのオリジナルTangoを披露してる人がいたので、面白かったのでシェア。
単にウケルってだけなんですけど、はい。
魂があるかは別にして、現代に生きる人を笑わせる社会風刺という意味ではアリではないだろうか。 



まぁ、結論に至るはずもないこのテーマ。
流行り廃れがあったり、好みがあったりするのは当たり前。
ただ私が好きだし大切にしたいのは、“魂を感じることのできるTango”ってことかな。
それを表現できるように、今日も修行に励むとするとしよう…。

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 私の100倍くらいのエネルギーと集中力で踊りに生きる彼女と、のらりくらり歌人生な私w

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