Iの夫である物理学かなにかの研究者は彼女よりも十五も年上で、
モスクワにいるということだった。

十五も年上なのよ、とIはくりかえし、
とにかく何ヶ月も会っていないのよ、
と私にでなく、Sの丸顔をのぞきこむようにして強調する。

そんなことをIは、
四号炉のすぐ前で、
未曾有の事故より一万倍も大事なことのように、
問われもしないのに話した。

いつも彼女が仕事をしている原発三十キロ圏から外にでて、
たまさかきれいな空気を吸うと
「きれいすぎてかえって頭痛がするのよ」
とも気どっていってみせる。

自棄にまみれた、
下手な冗談ではあった。




辺見庸「オーブン」