大河の向こう側

歴史と本

日々これ堕落してます…。

第五章 教団サファヴィーヤの発展と挫折、そしてサファヴィー朝へ

  アルダビールの聖者サフィー以後、教団サファヴィーヤはアゼルバイジャンからアナトリアの都市民の支持を集め、修行に励む出家者以外にも、多くの在家信者を持つようになった。その結果、教団の持つ名声と財力によって政治的にも有力な存在として世俗政権から一目置かれ、同時に恐れられる存在となり、様々な軋轢も生むようにもなっていった。

 創始者サフィーが1334年9月12日に死去した後、教団の教主となったのは、すでに30歳となっていたその息子サドル・アッディーン(1304/5〜1391)であった。彼はシャイフ・ザーヒドの息子など競合者を排除あるいは取り込み、また兄弟たちが(なぜか)次々と死亡したため教団を確実に支配する体制を整える事が出来た。
 また父の聖者としての名声をより高めるため、サフィーの墓廟をアルダビールに建築して教団の聖地となし、またサイイドとしての血統を捏造したとも言われる。
 世俗君主と同じように一族の貴種性を安定的支配の担保としようとしたのあろう。祖とする第7代イマーム=ムーサー・アル・カーズィム以降、サフィーの父アミーン・アッディーンに至る系統は、サファヴィー朝時代でも混乱が見られ歴史的事実とは認めがたい。
 しかしアリーの子孫と偽る試みの効果か、教祖サフィー家の人々が以後代々の教主を嗣ぐ教団サファヴィーヤは連綿と続くことになる。
 
 富裕となった彼らサファヴィーヤをまず敵視した始めたのは、アゼルバイジャンに遊牧地を持つ、モンゴルのスルドュス部のチュパン家であった。チュパン家にしてみれば、いや遊牧諸勢力にしてみれば都市支配に邪魔になる在地の有力者が政治活動に手を染め、自身の勢力内で影響力を持つようになることは許せることではなかったため弾圧されても当然であると言えなくもない。サルバタール政権のような都市自治など、遊牧政権の経済的搾取の邪魔以外の何物でもないのである。チュパン家に暗殺者を差し向けられたサドル・アッディーンは度々亡命して難を逃れるざるを得ず、支持者に匿われて嵐が過ぎるのを待つことが何度もあった。特にチュパン家首長シャイフ・ハサン・クーチャクが敵対勢力に暗殺され、弟のマリク・アシュラフが継いだ以降の弾圧は激しくなった。有能な主張を失ったチュパン家の勢力は次第に弱体化していったが、マリク・アシュラフは権力基盤確立のための資金源として宗教関係者から財産を奪って補填しようとしたのである。しかしマリク・アシュラフの弾圧は、多くの亡命者の訴えを受けたジュチ・ウルスのジャーニー・ベグのアゼルバイジャーン侵攻の名目となってしまい、マリク・アシュラフは敗北し処刑され、チュパン家はあっけなく滅び去り、サファヴィーヤの危機は当面なくなった。サドル・アッデーィンはジャーニー・ベグと会談し、アルダビール周辺の様々な権利を認められたと伝えられているが、実効性があったか疑わしいようだ。

 
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第四章 ウズン・ハッサン

 君主カラ・ウスマーン死去の後、アク・コユンル(白羊朝)は彼の4人の息子達による内乱状態に陥っていた。
 長兄アリー・ベグが一応バヤンドゥル家の頭領として起ったものの、次兄ハムザ・ベグがこれに不服で兄と争う道を選んだのである。
 その下の弟たちカーシム・ベグとシャイフ・ハサンも、それぞれの部族民を率いて兄たちが争うのを傍観し、隙あらば権力を握ろうかと画策している有様であった。
 しかしカラ・コユンルのジャハーン・シャーの攻勢が激化すると、その首都であるディヤルバクルを失い、王家は逃亡しマムルーク朝の保護下に逃れて存続を図らねばならなくなった。

 長い雌伏の間に亡命中のアリー・ベグ、ハムザ・ベグが死に、首長の座はアリー・ベグの息子ジャハーンギールが継ぐこととなった。彼の代になって、ようやくアク・コユンル氏族連合に勢力の回復の兆しが見始める。領土が拡張しすぎ戦線の維持にほころびが見え始めるなど、カラ・コユンルに隙が出来るようになったからである。これは年老いて活動が以前ほど活発でなくなったジャハーン・シャーの統治能力の低下も一因であった。そのジャハーン・シャーの目が東方に向いている隙をついて、アク・コユンルは兵を集めてディヤルバクルを奇襲、これを奪還したのである。
 
 だがそれ以上の成果は手に入れることは出来なかった。防備を固めることでディヤルバクル周辺を維持する事には成功したが、正面切って強大化したジャハーン・シャーに対抗するなど全く無理なのが現実であった。結局ジャハーンギールは、仇敵ジャハーン・シャーに臣下の礼を取ることで、その攻撃を受けぬようせねばならなかったのである。

 だがこうしたアク・コユンル側の努力も、ジャハーン・シャーが当時起きていたいくつかの反乱を制圧して余裕が生まれると、その成果を維持することは出来ないであろうと予測された。ただジャハーン・シャーは自ら攻撃をかけてくることはしなかった。代わりにジャハーンギールの叔父シャイフ・ハサンを唆して、反乱を起こさせる謀略外交でアク・コユンルの勢力弱体化を謀ったのであった。
 
 シャイフ・ハサンは父カラ・ウスマーンから多くの部族民を付与され、武勇を知られており、彼の兄アリー・ベグもおいそれと手を出すことのできなかった厄介な人物であった。その叔父の反乱という難局にジャハーンギールは弟アブー・ナスルに鎮圧に向かわせることとした。
 この時ジャハーンギールは兄弟仲が良く野戦に才能があると見込んで信頼している弟アブー・ナスルでも、叔父への勝利は難しいと考えていたようである。だが大敗をすることなく戦を長引かせられれば、叔父との間に政治的妥協を模索できるのではないか、こうした外交でジャーハンギールはこの反乱を解決するつもりであったと思われる。

 このような雰囲気、あるいは情報はシャイフ・ハサン側にも知られて(あるいはわざと流されて)いたらしく、有能な野戦指揮官であるはずのシャイフ・ハサンに率いられた軍隊の動きは緩慢であった。まともな戦いになるはずがなかった。
 誰も本気ではなかったのである。
 ただ一人、派遣軍側の総大将であった王弟アブー・ナスル・ハサン・ベグ、通称ウズン(「背の高い」の意味)・ハッサンを除いて。



 軍勢を率いたウズン・ハッサンは手加減する気など毛頭なかった。この戦いを絶好の好機と捕らえたのである。無論兄のためにではなく自身の野望実現のためのである。
 ウズン・ハッサンは、自分の力と後援者たるジャハーン・シャーの権勢を恃んで油断しきっていた叔父の軍勢を急襲して徹底的に破った。
 また、その後の敗戦処理でも手際良く振る舞い、敗残の敵部族を吸収し自分独自の勢力を拡充することにも成功したのである。

 そしてそれまで協力し合い良好な関係を築いていたはずの兄に対しても、野心の牙を剥き出す。
 兄王が他出している隙をついて首都ディヤルバクルに軍勢とともに進撃し、これを奪取し王位を宣言してしまうのである。
 1453年、ウズン・ハッサンが28才のことであった。

 


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第三章 西アジアの風雲

 イラン、イラク、アフガニスタン西部といった旧ササーン朝に該当する地域は、13世紀半ば以降チンギス汗の孫フレグが樹立したイル汗朝(ドウラテ・イルハーニー、俗に言うフレグウルス)の支配下にあった。
 しかしこの王国は第九代の君主アブー・サイードが1335年に男子を残さず死亡したことで、求心力を失ってしまう。
 そして乱世を収束させ最終的にイル汗朝の中心地だったイラクと北西部イラン、そしてサファヴィーヤの拠点アルダビールを含むアゼルバイジャンを押さえたのがジャライル朝(首府はバグダード、スルターニア、タブリースなど)である。
 
 さて実質的に最後のイル汗であるアブー・サイード亡き後の、イル汗位を継いだのは、当初宰相ギヤース・ウッディーン(「集史」の編纂者として有名なラシード・ウッディーンの子)の擁立したチンギス・ハンの孫アリク・ブカの子孫アルパ・ケウンであった。
 しかしアルパは半年も地位を保てなかった。アルパの即位後、その擁立に関与できず、政権内の地位の低下に不満を抱いたオイラート部の反乱が起きたのである。その制圧のためにアルパは自ら出陣したしたのであるが、敗戦し殺されてしまったのである。この反乱者アリー・パディーシャーはこの大勝利によって勢いづき、第6代イル汗であったバイドゥの孫ムーサーを擁立、イル汗朝の実権を握ろうとした。しかし、これを不服とする地方のアミール(この場合は総督)達によって何人ものチンギス裔の傀儡イル汗が擁立され、互いに覇を競う乱世をイル汗朝は迎えることになってしまうのである。
 
 勢力としてはアリー・パディーシャーの擁立したムーサー。アリーは、イル汗アブーサイードの生母ハジ・ハトゥンの弟であり、アブー・サイードの小姓の一人で、アブー・サイードがスルドゥス部のチュバン家と対立した時に、アブー・サイドのために戦い功績があった人物である。

 ホラサーンのアミール達が共同で擁立したトガイ・ティムール。彼はチンギスの弟ジョチ・カサルの子孫で、叔父にあたるバーバー・バハドュ−ルが、1305年に部衆を率いてにイル汗に臣従していた。叔父の後を継いだトガイ・ティムールは、ホラサン地方の制圧にまず目を向けた。
  
 ジャライル部族長のシャイフ・ハサンが探し出して汗位につけたフレグの血を引くスルターン・ムハンマド。
 チュバン家のシャイフ・ハサンと区別するため、後の人からはシャイフ・ハサン・ブズルグ(大ハサン)と呼ばれるようになった。
 
 かつて権勢をふるったチュパン家の一族であるスルドュス部のシャイフ・ハサン(ジャライル部のハサンとは同名の別人)が第八代イルハンだったウルジェイトウの娘サティ・ベグ、後にはフレグ裔のスライマーンを擁立した。
 
 さらにホラサン地方にはイル汗から自治を許されていた小王国クルト朝(首府はヘラート)が存続していた。同じくホラサンのサブザワールにはサルバダール朝が政権を樹立した。サルバタール朝は後のサファヴィー朝と同じくシーア派スーフィー教団が都市富裕層の自治組織(これをサルバタールという)の支持を受けて成立させた政権である。南イランにはペルシスによったムザッファル朝(首府はシーラーズやイスファハーン)がイル汗朝の土着した地方長官の政権(インジュー朝)を駆逐して成立して大いに勢力を伸ばしてきた。またホラムズ島の政権やアナトリア、ルール地方に割拠する諸アターベク政権が存在していた。
 まさに群雄割拠の時代となったのである。

 
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第二章 シャイフ・サフィー

 教団サファヴィーヤの創始者シャイフ・サフィーこと、サフィー・アッディーン・イスハーク・アルダビーリー(1252年−1334年)は、近年ではクルド系の人物であったとも言われるが、はっきりとしない。残した詩文などからタット古語(クルド系の言語の影響を受けたペルシア語方言の一つ)を母語としていた可能世はあるが、彼がクルド人であった可能性を証明できるものではない。アゼルバイジャン周辺に勢力を持ったクルド人王朝との関係を示唆することで、クルド人達を味方に付けようとする目的の政治宣伝であった可能性もある。

 記録ではサフィーは自分が第四代正統ハリーファ(カリフ)のアリーの血に繋がるサイイド(預言者の一族)であると主張し、周囲にも信じられていたと言う。サフィーが実際にサイイドであったと自分で公言していたかどうかは、実ははっきりしない。だが少なくとも16世紀までには教団によって、そのような出自が流布宣伝され信じられていたようである。

 アリー家の出自に関する逸話で特に重要なのは、彼がアリーの息子フサインと、その妻でイスラーム以前に500年にも渡りイラン高原を中心に大勢力を誇っていたサーサーン朝ペルシア最後の皇帝ヤズデギルド三世の娘シャハル・バーヌーンの末裔であると主張している点である。
 なおシャハル・バーヌーンの名は「王国の女主人」の意味で、ゾロアスター教の河神であり戦神であるアナーヒター女神の礼拝名である。この事から分かるように、この架空の結婚は神話的な要素が多分にある。
 この事実ではありえない婚姻は、シーア・アリー(シーア派)のムスリムに、かなり初期の頃から信じられていた「伝説」であった。

 シーア派信徒が崇拝するハリーファ・アリーの子孫であり、その宗教的後継者たる歴代の十二人の首長は、イマームと呼ばれる。
 イマームは、狭義では各地の日々の礼拝の際に、壇上で人々に礼拝を先導し、クルアーンの章句を唱え、説法をする導師であり、広義では「信徒の指導者」と言う意味である。それが転じてウマイヤ朝時代にシーア派にとっての「救世主的指導者」の意味を持つようになったのである。
 そして十二人のイマーム達のうちフサインの子孫九人は、シャハル・バーヌーンの血も引いており、ムハンマドの血統とともに、サーサーン朝の血も受け継いでいると言う貴種流譚説的な逸話を持つようになった。これは勿論、イランを統治する際に支配者としての「正当性」を与える根拠となっていった。
 サーサーン王家は紀元前にエジプトとインドも含む広大な帝国を築いたアケメネス朝イラン王家の末裔を主張していたから、まさにイマーム達やフサインの子孫であるサイイドらは世界でもっとも古く高貴な一族と言うことになるのである。
 ちなみにサフィーはアリー家第七代イマームであるムーサー・アルカーズィムの14世の子孫であるとされている。勿論、これは虚構だろう。
 サフィーの伝記はその息子第二代教主サドルッディーンの時代に、弟子(ムルシド)イブン・バッザーズによって作られたと考えられている。ところが初期の写本の中には、ムーサーにつながる系統図は記入されていない。
 そのため後世改竄されたと思われるが、この伝記にそれが付け加わったのは王朝成立以後の写本であると言う。もっとも伝承の中には、一般民衆の間に古くからサフィーはサイイドであったとする風説が流布されていたとするものもあることを付け加えておく。

 イスマーイール1世が即位し、教団の運営を大ハリーファ職に移管するまで、サファヴィーヤの教主はスーフィーのシャイフであり、マフディーとして「アリーの転生者」と称していたことは確かであるが、血筋を声高く称するようになるのは政権獲得後であるとしておこう。


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序文 サファヴィー朝について書くことにした訳だが

 以前ブログなどでイランを支配した王朝であるサファヴィー朝について、かなり適当な事を書いていた時期があった。
 日本の歴史好きの中では、比較的人気の高いイランの王朝ではないかと思う。悪魔のような美しさを持つ少年王イスマーイール1世によって打ち立てられた…というフレーズだけで人々を引きつけるに十分であるが……。
 その後は内容に不満があってブログ記事を削除し、うち捨てていたのであるが、テキスト自体は保存してあった。また最近はほとんど歴史趣味について文章を書いたりしなくなったので、すっかり知識が錆び付いてしまった。この点は歴史好きとして反省している。
 そこで、今回リハビリを兼ね昔書いた文章を見直し、多少は手を加えて再掲することにした。学び直しと言う事である。


 サファヴィー朝は、サファヴィーヤと言う教団の指導層を中心に、様々な宗教や言語、地域の人々が共同で生み出した王朝であった。大昔に良く言われたようなアゼルヴァイジャーン国家やイラン的国民国家の祖などと一括りに出来るような単純な政権ではない。
 王朝の創始者達は、過去にイラン及びその周辺で形成された諸政権で培われたノウハウをなりふり構わず投入する事で、当時諸勢力が割拠し、統合の難しい情勢であったイラン高原を、何とか統治することを可能としたのだが、その道は実に困難なものであったであろう。

 聖者信仰、宗教的指導者出身の君主、スーフィズム、伝統的イラン国家(主にサーサーン朝)との関連、アリー家との血縁、遊牧諸部族の連合による軍事力、イラン諸都市の定住者層(タージーク)出身の官僚との連携、神秘主義とペルシア的な詩作文化……。
 これらは過去のイラン諸王朝にも認められている政権の成立に係わった諸要素である。
 サファヴィー朝の成立やその後の発展においても、これらが王朝の権威付けに利用されたことが認められる。付け加えるならサファヴィー朝は過去の失敗を鑑み、より慎重にこれらが用いられたと思われる。初代イスマーイール1世が年若い君主で在りながら、短期間に混乱していたイラン諸地方を統合できたのも、王朝設立の計画が周到なものであったことを伺わせる。
 しかし表面上は、美貌の少年王イスマーイール1世のカリスマ性や軍事的な才覚が喧伝され、大きな比重を占めているかのように幻惑されがちである。
 おそらくはそれも王朝の指導層の尽力によるものであろう。このサフィー家の王朝を計画した中心人物は誰かを、明確にすることは難しいが、イラン系の官僚層をまとめ上げることが可能な知識人階層の人物であったと思われる。残念ながら私の様な素人レベルでは、サファヴィー朝成立の謎を解き明かすには到らず、自身の力不足を感じざるを得ない。

 さて以下に掲載していく本文は、日本語で読み、入手できる書籍や論文を元に簡単にサファヴィー朝の創生期の歴史をまとめたものとなっている。内容として間違っていたり、古い部分もあり、最新の専門書や論文の引用は少なく、またそれ以前に学術的な価値はないものであることを最初に付言しておく。

 内容としては以前にブログに掲載していたサファヴィー朝の前史、イスマーイール1世伝、タフマースプ1世伝に加筆し、新規としてイスマーイール2世伝を加えたものを予定している。





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宦官専横の幻想

(1)文宗と宦官

「今の朕、制を家奴に受く」

 中国唐の文宗皇帝の独語、嘆きの言葉として知られる文言である。

 唐文宗皇帝、姓名は李昴は唐帝国晩期の皇帝の一人で、即位の頃から家奴即ち宦官(性器を喪失した宮廷奴隷)の制肘を受け、特に治世後半では政治的な実権を完全に宦官に握られた傀儡皇帝とされる。また官僚も宦官の監視化にあって、完全に逼塞し、軍も宦官の言いなりとなった。監禁された文宗皇帝は残りの生を閉じた宮廷内で鬱々と過ごす無気力な人物と成り果ててしまったと語られる事が多い。
 だが実際はどうなのであろうか。

 文宗は809年に生まれ、826年に17歳で即位、840年に31歳と言う若さで病没している。つまり青年皇帝、いや少年皇帝であった訳である。
 一般には、その即位は有力な宦官であった王守澄によって後援された結果であると言われている。また当時の官僚達も貴族とも言うべき門閥が確固として存在しており、党派間抗争(所謂、牛李の党争)も激しい不安定な時代であった。宮殿の外に出れば、各地に軍閥が割拠しており、ウイグルやチベット方面では、首都長安に侵攻すべく外敵が虎視眈々と機会を伺っていた。少年皇帝は即位した時点から、有力者達の圧力の下で難しい政権運営を余儀なくされていたのである。
 特に宦官たちへの対応は難しかった。

 唐末は、東漢末、明末と並び宦官が跋扈した時代であったと一般に言われている。文宗の前代においても激しい権力抗争が行われ、宦官劉克明が敬宗を謀殺するという事件が発生したのである。その後の絳王擁立を画策した際、梁守謙らと謀って劉克明を殺害する。文宗を擁立したのは、この王守澄であった。しかし王守澄は旧唐書では唐中興の祖と言われた憲宗皇帝の暗殺と穆宗の擁立(元和十五年、820年)に陳弘慶(旧唐書では陳弘慶)とともに関わったと噂された人物でもある。複雑怪奇な当時の朝廷の暗闘が伺えるエピソードなのだが、実はこの時期の王は宦官としては高位であったとは言えなかったので史実であったかどうかは議論の余地があるようだ。暗殺の首謀者説、首謀者ではないが実行犯説、無関係であったとする説がある。つまり後世の記録の改竄がなされた可能性があるのである。

 憲宗皇帝死後の唐王朝で有力宦官に擁立された穆宗、敬宗の二人の皇帝は、いずれも無気力で、宦官に政権を壟断させる結果となった。しかし宦官に擁立されたとは言え、走狗当初の文宗は傀儡でいるつもりは全くなかった。若き皇帝は、この状況を改善し皇帝権力の絶対化を夢想したのである。その夢を実現させるべく文宗が立案した政策は、主に朝廷における政策立案、協議の場である朝議等のシステムに手を加えて監察体制を確立し、皇帝自身による積極的な政策立案への関与を実現すると言うものであった。

 だが王守澄は文宗擁立後、驃騎大将軍、右神策軍中尉となって権勢を振い、文宗を悩ませた。文宗は宰相に抜擢した翰林学士、宋申錫に宦官排斥の密命を与えたが、事は露見し、宋は太和五年(833年)大逆罪で誣告されて開州司馬に左遷、宮廷を去った。この際に数百名にも及ぶ人々が連座して処刑されたと言われ、宋はそのため同年噴死したと言う。この事件は文宗の指導力、政治的な技量のなさを露呈した事件であった。
 宦官排斥のために権限を与えておきながら、太逆罪で誣告された時にこれを庇うことすらできず唯々諾々と宋申錫を見捨てているからである。しかし24歳の若すぎる皇帝にとって、これが限界であったのかもしれない。
 宋申錫死後、文宗は作戦を変えて宦官同士を競わせることでパワーバランスを保ち、皇帝権力を強化しようともくろんだ。その際に表舞台に躍り出てきたのが後の権臣となる仇士良である。文宗はまず王守澄の引きで立身し実力者にのし上がった李訓と鄭注を味方の引き込み、王排斥の協力者とすると、二人の進言で、文宗擁立の際の協力者でありながら才覚を警戒されて王守澄によって遠ざけられ日陰の身に甘んじていた仇士良(781〜843)を用いる事にしたのである。
 文宗は、彼を左神策軍中尉兼左衛功徳使に抜擢、王を牽制させる事を決定した。
 仇士良は後の「甘露の変」の立役者となる人物であるため奸臣の権化の如く語られているが、決して無能な人物ではなかった事に留意する必要がある。彼は循州興寧(広東省興寧東北)の人で、字は匡美。順宗の時に東宮に入り、憲宗時代に内給事となり、その後平廬、風翔の監軍として赴任する。御史の元稹と宿舎の上席を争って元稹を傷つけると言う事件があったが、憲宗は逆に元稹に非があるとして排斥するなど皇帝の信任が厚かった。
 
 太和九年(835年)王守澄が仇士良との権力争いに敗れて失権、自殺する。
 それを受けて李訓は今度は仇士良以下の宦官勢力を一挙に排斥しようと陰謀を巡らすことになる。
 李訓は宮内にある一本の石榴の木に甘露が降りたという風聞を流し、それを仇士良に確かめるように皇帝から命令を出させ、現れた仇士良らを伏兵を持って暗殺する計画を建てた。仇士良はしかし石榴の木に近づくと一陣の風が舞い、その周辺に巡らされた幕の後ろに兵士たちがいる事に気付いた。危険を察知した彼はすぐさま逃亡、親衛軍の軍権を握る右神策軍中尉の魚弘志と大盈庫使の宋守義と合流すると文宗を拉致し、信頼のおける軍隊の下に逃亡した。
 これが有名な「甘露の変」である。
 危機を脱した仇士良は、徹底的な粛清を行う。李訓とその一党を反逆を企てたとしてその郎党含めて族滅した。この虐殺で官僚勢力は人員の半数を失ったという。また自身は右驍衛大将軍に、魚弘志は右衛上将軍兼中尉、宋守義は右領軍衛上将軍として側近を高位に昇らせ、地位を固めたのである。また李徳裕ら宦官と融和的な官僚と結び、政権運営における発言力はかつてない程大きくなった。
 さて文宗は事件後、既述のように発言力を大いに失い、以後鬱々として楽しまなくなったとされる。しかし実際には文宗は政治に意欲を失っておらず、宦官の抑制や皇帝権力の再確立に向けて、制度面での改革を実行していくことになる。彼の努力は後の武宗、宣宗時代に実を結び、皇帝権力の復権に繋がっていく。またそれは宋の時代に確立される統治制度へと発展し、中華皇帝の新たな姿を生みだすことになった。彼は制度の発案者としては優れていたのだろう。
 
 しかしながら文宗は英雄肌の名君とは到底言い難い人物であった。制度改革に意欲的ではあったが、優柔不断な性格であり、人事や諸勢力の圧力に毅然とした態度を一貫してとる事が出来なかった。新たに考案された制度は優れたものであったが、皇帝個人への負担も増大し、それに対処する部分が未成熟であったために、武宗の様に決断力のある、または宣宗の様に人事に巧みな皇帝でなければ運用する事は難しかった。文宗は知性も教養もあり、真面目で勤勉であったが、周囲の圧力、押しに弱く、そのため公平な判断をその場その場で執る事が出来なかったのである。
 文帝は無能な愚帝ではなかった。安史の乱以前で、あれば名君として名を残したかもしれない。
 しかし弱体化し、乱世の足音近づく王朝の運営者としては不適格であった。

(2)宦官の評価

 それにしても中国において、いや世界中で宦官は悪評を持って語られるものである。

 そもそも宦官の出現は古く、新石器時代から崇拝されたアナトリア起源の女神キュベレ(クババ)の去勢神官は有名である。
 また古代メソポタミアの楔形文字資料から、官僚としての宦官も古くから存在していた事が伺える。アッシリア帝国の女王サム・ラマト(所謂セラスミス女王のモデル)が宦官を厚遇して政局に混乱をもたらしたことが知られている。
 アッシリア帝国では「王の結び目」と呼ばれる中央直属軍の総司令官が宦官であった事が知られており、時に戦場で大軍を指揮していた。

 宦官の起源は、牧畜社会における家畜の去勢に由来すると考えられている。
 去勢された家畜はおとなしくなり、良く育ち太る。
 去勢された馬は戦場においても興奮することが少なく、軍馬は基本的に去勢した牡馬が用いられる。
 この様に家畜の飼育に有用な去勢技術を人間にも適用したことが始まりであったのだろう。メソポタミアの牧畜文化の中から宦官が誕生し、各地に伝播していったと推定されている。
 ただ宦官が広く用いられた地域が、全て牧畜が盛んであったと言う訳ではない。
 牧畜が盛んなヨーロッパやギリシャでは去勢技術が知られていたにも関わらず、宦官は余り広まらなかった。キリスト教の影響を唱える説もあるが、ローマ時代のキリスト教は人間の去勢に理解を示し、その禁止を基本的に行わず、禁欲的行為として推奨する事すらあった。
 一方、商や周の時代の牧畜社会から影響を受けて、宦官を使用し始めた中国では、農耕社会が完成された後にも宦官が用いられ続けた。
 朝鮮半島でも中央集権化を進める過程で採用され、近代まで存在していた。インドのヒジュラなども特異な宦官と言って良いかもしれない。
 
 一方、日本は軍馬の去勢すら行われていない稀有な例である。
 国内では三田村泰助氏が提唱した
 「日本は征服、被征服を経験していなかったために、主に異民族に適用される去勢による奴隷制度も発展しなかった」
 との説が長く支持されてきた。
 それも理由の一つであろうが、世界中の例を見えも同一民族間での去勢や宦官登用は多々あり、しかも中国の影響を常に受ける立場にあった日本が宦官を採用しなかった理由にはならない。
 また滝川政次郎氏が説くように、日本人が唐律受容に際に「賢くも」宦官を拒否したと言う仮説も成り立たないだろう。おそらくは日本人のモラルの問題ではなく、単に利用するメリットに気付かなかったか、必要を感じなかったため宦官が発展しなったのであろう。牧畜技術の未発達な山がちな日本では騎馬戦術も発展せず、性に関するモラルも余り高くなかったから後宮管理のための宦官制度も必要なかった。さらに君主権が不安定で宮廷の規模が小さかった事も大きいだろう。日本の君主のレベルでは宦官を利用する余力もなかったのである。

 ビザンツ史家の井上浩一氏によると、結局、宦官は多数の臣民を少数の人材で統御する必要が生じるような体制、つまり専制君主支配の元で発展維持されたと考えられると言う。一般的に日本や東南アジア、ヨーロッパなど封建的または分権的社会では、宦官は維持コストの面で効率的ではなく不要であり、発展しなかった。こういった地域では、存在しない者に対する無理解が、宦官常在社会に対する蔑視を醸成したのであろう。ちなみに日本に宦官がいなかった訳では勿論ない。少数だが、「羅切」と呼ばれ武家の奥を取り仕切る人物として存在していた。
 まとめてみると裏切る可能性の少ない、巨大な権力を握る支配者にとってのみ有用な存在として、王朝社会を支えていたのが宦官であったと言えよう。

 唐代の宦官に関しては、その権力が従来過大に評価されていたとする反省の立場から、再検討がなされている。
 唐の宦官は皇帝を殺害し、その擁立を意のままにしたと語られることが多いが、武氏による易姓革命の危機を経験した李氏皇帝家は、大規模な内乱を避けられ、革命に繋がる恐れのない宦官による皇位決定を歓迎あるいは容認していたと思われる。また武人が軍政を司る地方いわゆる藩鎮を制御するための監査のために、中央政権と決して離れる事のない宦官を用いるのは当然の帰結だった。
 また過大な権力を振るう様になった宦官は、宦官同士を競わせ、引退に追い込む形で対処している。処刑されるケースももちろんあったが、概して穏便な対応を指向していた。文宗皇帝の嘆きも、若い皇帝の老練で抜け目のない執事に対する愚痴でしかない。宦官は皇帝家を真に守護してくれる唯一の存在であった。またかんがんも自分達を重用し、権威を与えてくれる李氏による独裁皇帝体制を破壊するつもりはなく、歓迎していた。一方彼らと対立する官僚や軍人は、当然ながら忌み嫌い誹謗中傷をまき散らした。記録を残す側による批判は割り引いて考えねばならないだろう。
 男性ホルモンの分泌がなくなるため髭が生えない。
 排尿の問題から体臭もきつくなる。
 女性的で丸い体つきになる
 …など外見的な蔑視と、性欲の代替としての権勢欲や賄賂などの金銭的腐敗、或いは狂気などの批判は中国だけでなくギリシャ・ローマ世界やイスラーム社会、ビザンツ帝国などでも見られるステレオタイプのものである。
 実際、権力に近い地位に居るため、後者の批判に該当する宦官は多い。しかし当然ながら、権力者となった人物がその地位に粘着的にしがみ付き、人間不信に陥り、金銭を掻き集め、時に過大な贅沢に耽るのは、宦官でなくても良く見られる事を失念してはいけない。
 現代日本のマスコミが行う官僚批判も、決まり文句が似たようなものである事は示唆的だろう。官僚特有の問題を批判しているように見えて、実は人間社会一般に適用できるものでしかないのである。

 宦官を重用した例として、ビザンツ帝国の例も良く知られている。
 元来キリスト教は宦官に寛容なことで知られている。教皇庁ですら去勢歌手(カストラート)が近代まで存在していた。
 良く引き合いに出されるのがマタイ書におけるイエスの言葉である。
 「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れる事が出来る人は受け入れなさい」
 井上浩一氏によれば、これら三種の「〜者」は翻訳でははぐらされているが、原語からはっきりと宦官を指していると言う。
 宗教的清貧の思想から自ら生殖器を切り落とす行為は、古代キリスト教世界ではかなり流行し、しばしば禁止令が行われた。
 キリスト教は、元来宦官を擁護していたのである。

 そのためか古代キリスト教社会の正統な後継者であるビザンツ社会は、歴史上で最も宦官が表舞台で活躍し、大きな影響力を持った時代であった。

 11世紀までのビザンツ帝国では皇帝側近として多数の宦官が登用された。ビザンツ帝国皇帝はキリスト教君主であり一夫一婦制であるため、中国宮廷やイスラーム世界と違い後宮を取り仕切る内官としての宦官は少なく、通常の官僚と同じ立場で帝国政治に関与していた点が特徴である。
 宦官は、軍総司令官から地方長官、高級官僚、総大司教まで、皇帝位以外は全ての官職に就くことが可能であった。
 著名な人物としては、
 ユスティニアヌス一世時代の将軍ナルセス。軍事的天才であり、80歳の高齢でイタリア征服を完遂し、帝国市民にも非常に人気のある人物である。
 アモリオン朝時代の総主教であり、聖人となった聖イグナティオスや聖メトディオス。
 マケドニア朝時代に絶大な権力を誇ったヨセフ・ブリンガスなどである。
 他にも有能な人物は多数あり、宦官の害といった様相は余りない。皇帝独裁が機能していた11世紀まで、宦官は帝国に忠実で、これを根底から支えていたと言っていいだろう。
 ただビザンツ社会では、他の地域で性器と睾丸その物を切除する完全去勢が好まれたのに対して、睾丸を潰すあるいはメスを入れて取り出す不完全去勢が一般的であった。

 イスラーム世界では、ペルシャ帝国の伝統を引き継ぎ多数の宦官が活躍した。アラブの大征服期の一時的な断絶を除いて、イスラーム諸王朝には宦官は欠かせない存在であった。これもヨーロッパ諸国と比べて君主権が強かった影響であろう。
 イスラームの宦官と言えば、ハーレムの存在と切っても切れない。
 一般にイスラームでは去勢は禁止されているため、宦官は主に異民族、異教徒から供給された。

 アッバース朝時代の宦官を指す言葉はハーディムである。これは侍従の一部を指す場合もあり、必ずしも宦官のみを指す言葉ではない様であるが、一般的にハーディムとは「髭がない人」宦官の事となる。

 アッバース朝の宦官で大物と言えば、ムーニス・ハーディム(〜933年没)であろう。彼は軍人として立身し、ハリーファから政治権力を奪い、言わば最初の大アミール(軍事政治の権力を手中にした存在。日本の征夷大将軍に近い)とされている人物である。ハリーファの直属軍を掌握し、ハリーファ=ムクタディルの地位を脅かした。結局、ムクタディルは彼によって殺害されるが、彼自身も後継ハリーファによって謀殺された。しかし以後も宦官は重用された。他の地域同様に宦官であるために王位そのものを簒奪する事はなく、アッバース家も宦官を用い続けたのである。後世のオスマン朝でもハーレム内では黒人宦官が絶大な権力を持っていたが、政治権力を掌握するまでには至っていない。
 やはり、権力者にとって簒奪を阻止するための宦官は必要であり続けたのである。ただ宦官でありながら王朝を創始した人物もある。例えば古代アナトリアのアッタロス朝のフィレタイロスや、前近代のイランでカージャール朝を創始したアーガー・モハンマド・シャーなどである。

 宦官は歴史的に日陰者であり、果たした役割に比して、非常に低く評価されている。
 彼らは様々な理由で宦官となったが、性器を切除したから、その行動が特異であったと言う訳ではない。
 彼らは権力に近付いた人間、近づこうとする人間が陥りがちな行動パターンを体現する存在、言わばモラルを批判する際の鏡として利用されてきたのである。
 多くの歴史記述が官僚などの知識人によってなされたが、彼らの描く宦官像は自分自身の写し絵でしかなかったのである。
 そのために近親憎悪による完全否定こそ、宦官と言う存在が悪として認識され、現代社会で消えていった理由であろう。「宦官」は形を変えただけで、現代にも存在し続けているのである。

 (以下は旧ブログ記事再掲です…)。

ファーティマ朝略史〜ムイッズ時代まで

 イスラームにおける分派の最大派閥であるシーア派には第4代ハリーファ=アリーの子孫の誰を奉じるかで大きく三つの流れがありました。

 第3子であるムハンマド・ブン・ハナフィーヤの系譜であるカイサーン派。
 次男フサイン系の子孫ジャアファルの子らから分岐した人物を奉じるイマーム派。
 主に長男ハサン系(フサイン系も含む)の子孫を奉じるザイド派。

 この内、現在主流となっているのはイマーム派です。
 さらにイマーム派は大きく分けてヌサイリー派(近代ではアラウィー派と自称)、アレヴィー派、ニザール派(ホージャ派)、ムスタアリー派(ボーホラー派)、ドゥルーズ派、シャイヒー派、バーブ教、バハーイー教、十二イマーム派に分裂し、十二イマーム派以外は現在極少数派となっています。

 これらの内、ニザール派、ムスタアリー派、ドゥルーズ派はイスマーイール派が分裂した結果生まれた分派で、中世においてはイスマーイール派がシーア派の主流であった時期があり、エジプトにファーティマ朝が成立した時代には大きな勢力を振るったのです。


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■ウマル・ブン・アルハッターブ(586から592年頃の11月5日生?〜644年11月3日または7日没、在位634年8月23日〜644年)

 第二代ハリーファ=ウマルはムハンマドの教友の中で最も重要な人物であり、世俗イスラーム国家の基礎を確立した稀有な政治家である。
 彼は、ムハンマドの伝道初期は反対派の急先鋒であったとされる。しかし、やがて改心して熱心なイスラームの徒となった。
 ハディージャとアブー・ターリブ死後に、政治・経済的にムハンマドを支えたのは親友アブー・バクルであったが、二人が亡くなった同年にウマルがムスリムとなると、すぐさまマディーナ時代のムハンマドを新たに政治的に支える重要人物と成り仰せた。
 アブー・バクルによると伝えられるハディースには「ウマル以上に優れた人間の上に、陽光がさしかかることはないであろう(つまりウマルが最高のの人間であると言うアラブ的褒め言葉)」というものがある。彼は多弁にして剛胆、義を重じたと言う。伝承では理想的アラブ人男性と言うイメージが固定されているようである。
 また彼も商人で在り、シリア方面に旅することもしばしばであったと言うから、外世界を見て、広い視野を持つに到った人物でもあったと思われる。

 元々は反ムハンマドの急先鋒であったと言われるウマルが、突然転向して敬虔な教徒に変貌した事件は奇跡のように語られる。妹が改宗したことを知り激怒して、彼女の家に刀を持って押しかけた際、妹に渡されたクルアーンを読んでたちまち改心したと言う逸話である。
 そして改心後の彼へのムハンマドの信頼は揺るぎなく、かつ徹底していたと多くの伝承が記録されることになる。

 しかしながら実際はどうであったのだろう。伝承にある理想化されすぎたウマル像に、我々は疑惑を持たざるを得ない。
 教宣組織の重鎮たるハディージャやムハンマドの庇護者であったアブー・ターリブが死んだ直後という入信の時期、妹など近親者がイスラームに初期から入信していた事などから、彼自身もすでに初期から入信しており、ただし政治的理由から表向きは信仰を隠していただけだったのではないかと言う説も見受けられる。
 つまり元々ムハンマドのブレーンで、彼のイスラーム批判は擬態であり、宣教の計画の一部ではなかったのでは?と言う推測も成り立つ。それがハディージャやアブー・ターリブの死によって、組織の表に出ることになったのかもしれない。

 まあ妄想はともかく、実際にウマルは共同体の諸制度を創始した建国者と言えるだろう。
 公平である事を重視し、決して妥協しない強固な意志の持ち主であり、暗殺されなければ随分とイスラーム世界も違っていたかもしれない。
 またクルアーンを結集して、現在の形にしたのも彼の治世になっていただろう。

 アブー・バクルは亡くなる前にウマルを後継者の指名した。長老クラスの人物で、クライシュ族内で問題なく指導者として認められる人物は、彼とシリア出征中のアブー・ウバイダぐらいであったので、順当な選択と言えた。こうした事前の根回しが功を奏したのか、この継承は特に異議申し立てはなされなかったようである。
 ウマルは自身を、神の使徒の代理人の代理人(ハリーファ・ハリーファ・ラスール・アッラーフ)と名乗った。後に単にハリーファと省略される事になる。
 ただ煩雑なこの名称より、軍の指揮官と「信仰者達(おそらくムスリム以外の一神教徒も含む)の指揮官」を意味するアミール・アルムウミニーンと呼ばれる事を好んだ。この称号の採用は、軍の指揮官たち(おそらくアムルかムギーラ・ブン・シュウバ)が、そう呼んだ事がきっかけであったと考えられる。
 アミール・アルムウミニーンの称号は、実質的に後のハリーファ達の正式称号となっていく。

 アブー・バクルの跡を継いだウマルが最初にした事は、シリア軍の指揮権をハーリドから奪い遠征初期の総司令官アブー・ウバイドに移譲させることであった。
 ウマルとハーリドは元々不仲であったとされる事や、イラクの征服地のアラブ達に支持層を持つハーリドが西方でも大軍の指揮権を握る事は危険であると考えたのであろう。謀将アムル・ブン・アルアーシーが、後にエジプトで半ば独立した勢力になった事を考えると、ウマルの懸念も仕方がない所であった。ハーリドはその後、前線に復帰することはなく、隠棲に追い込まれた。

 内政面では、各地の占領地帯の統治の問題に追われた治世であった。
 征服地はアラブ軍駐屯地として設営された軍営都市(ミスル)を中心に、徴税のみが中央政府の業務と連結して整備された。徴税業務のために設置されたのがディーワーン(台帳の意味。転じて税務と年金管理を行う役所を指す)であり、集めた税金を年金(アター)として、アラブ軍人や支配層に再分配する役目を与えられた。
 地方行政の大半は徴税機構と人材を含めてビザンツやサーサーン朝時代のものを、そのまま継承した。司法も同様であり、軍営都市に派遣された総督が裁判を実施する場合も、ほとんどがアラブ人の起こした問題に限られたようである。
 イスラームの司法制度は、後世にビザンツ帝国のそれにサーサーン朝の宗教的要素を含む司法システムを加味して枠組みが作られ整備される。しかしウマイヤ朝時代まで、ハリーファの裁量権の枠組みが判然としなかったため、皇帝が絶対的権威を持っていた二つの帝国時代と違い、司法に関する問題は何回かの大きな揺らぎを経験する事になる。
 ウマルはカーディー(裁判官)を各地に派遣したと伝承されているが、これは司法専門の職ではなく、総督に司法権も委ねた事を意味すると考えられている。
 つまり初期イスラーム帝国時代に組織的な司法制度が整備された形跡はない。しかし、そう言ったものを目指していた事は間違いなく、その先鞭を切ったとするならば評価は出来る。
 税制に関しては、征服地の人々にはハラージュ(土地税)とジズヤ(人頭税)が課された。ただしウマル時代に両者の区別が厳密になされていた訳ではない。実際の業務は地方の旧制度の関係者の権限を再確認し、前代と変わらない徴税方法で徴収され、それを一年に一度一括してハリーファが送り込んだ徴税人(アーミル)に引き渡すと言う単純なものであった。
 一方アラブ人の土地保有者は、少額のウシュルのみ納税すればよかった。それすら時に曖昧となる事が多かった。
 文書行政機関も、収税と軍人への給与を行うディーワーンのみであり、人口調査などを積極的に行って直接に政府が人民を掌握する体制には程遠かった。
 ウマル(とその側近)は税制の基本を示したものの、その実施には困難が伴ったのである。

 また征服地の人々、特にシリア・エジプトなどでは、新たな支配者がより寛容な政策を取ることを期待し降伏した人々も多かった。
 しかし、未成熟な統治体制では劇的な変化など望めるはずもなかった。
 実際にイスラームは宗教的には寛容な、と言うより無関心な姿勢を取ったので、残虐な弾圧者ではまったくなかった。
 そう言った意味では寛容であった。
 しかしビザンツ帝国時代の宗教非寛容政策も大虐殺であるとか、税の過度の不公平などを伴うものではなく、制度的にイスラーム統治時代と大差はなかった。
 税金などの金銭的負担や労働義務などは、全く変わる所はなかったのである。それどころかイスラームの統治時代には負担は増大する傾向にあり、非イスラームの住人は旧帝国時代以上の困窮状態に陥る事となった。
 またヒジュラ歴を制定した事でも有名である。文書行政上、正確な暦は必須であった。ウマルが国家としての形だけでも作ろうと格闘していた姿が思い浮かぶ。
 軍事面でも、ウマルは積極的に前線に赴いた。
 ウマルは638年にはイェルサレムを自ら訪れ、その降服交渉を指導した。そしてシリア戦の仕上げを行い、イラク征服に続いてイラン、アルメニア、アゼルバイジャーンなど征服地の拡大に邁進した。この征服活動については次回以降詳細に記述したい。

 さてウマルは徴税改革を行うに当たり、征服最初期に多くのアラブ達が占領地を私物化して、農地を囲い込んでいる事に頭を悩ませた。この問題は、結局はアッバース朝時代まで尾を引く大問題であり、マディーナの中央政府が大征服のコントロールを完全に出来ていなかった事に起因している。
 ウマルは自ら定めた原則を断固として実行する決意を固めていたであろうが、結局はそれが彼の寿命を縮める事となった。
 その計画の一環としてウマルは、教友の一人アルムギーラ・ブン・シュウバの私有地からも徴税を行う事を決定した。
 シュウバ自身がどう思っていたかは不明であるが、教宣組織の強化のためにウマルの説得に応じたと思われる。
 しかしながら彼のペルシア人奴隷アブー・ルウルウが、イスラーム政権成立に大功のある主人への課税に激怒したのである(あるいは主人の代弁をしていただけかもしれない)。
 そして644年11月、ウマルが礼拝を行っている最中に事件は起きた。
 アブー・ルウルウはウマルの近付くと、隠し持っていた短剣でウマルを襲い、6ケ所以上の刺し傷を与えたのである。
 アブー・ルウルウは周囲の人々をも次々と襲って殺し、ようやく取り押さえられるとその場で殺された。
 ウマルはその後、3日ほど生きながらえたがもうろうとした意識の中で後継者を決めかねた。
 結局、合議によって決めるように伝えて息を引き取ったのである。
 偉大なハリーファは不本意な凶刃に倒れ、志半ばで世界の表舞台から去った。

 そして次の後継者選びは、紛糾する事になるのである。

 
イスラームの形成:宗教的アイデンティティーと権威の変遷
ジョナサン・バーキー
慶應義塾大学出版会
2013-04-28

今回はシリア遠征について。
 原文は10年近く前に書いたもので、最新の研究に依拠していない伝統的な解釈を元に大まかな流れを再構成しています。その点ご了解下さい。

アラブの大征服の始まり シリア遠征

 ・・・アブー・バクルはアラビア半島の離反勢力を制圧すると、直ぐさまシリア(アラビア語でアッシャーム)に向けて軍勢を送ることを決定した。アラブの大征服の始まりである。

 アブー・バクル政権における、シリア遠征の背景には以下の理由が主に挙げられる。

(1)政治的な理由。
 
 リッダ反乱の鎮圧に伴う不平、不満、余剰となった軍事的エネルギーの発散。内部の不満を外部への攻撃や略奪に向けさせる事は、古今東西よく行われた施策である。ビザンツ帝国の東方諸州パレスティナ、フェニキア、(小)シリア、アラビアの統治システムはサーサーン朝によって完全に破壊されており、再建が始まったばかりであった。当然防衛体制も脆弱であり、各地に配備された部隊も十分な経験と訓練、連携を欠いており、さらに前線部隊の多くが諸氏族から招集されたアラブ人部隊によって構成されていた。彼らアラブ部隊から情報を得られればリスクも少なく、帝国の支配体制が瓦解しているシリアを継続的に略奪できると考えられた。

(2)宗教的理由。

 一神教発祥の地であり、イェルサレムを始め重要な聖地を持つシリアの併合に関しては、熱心な信仰者からの要望が強くあった。シリアは様々な宗教が混在する地域で在り、多神教徒とみられる人々も存在していた。彼らを排除するか改宗させ、一神教(イスラームではない)による宗教的統一を図ることを望む者は、ムハンマドの政権に参加した人々の中に多数存在していた。

(3)商業的な理由。

 ムハンマドを含めてターイフやマッカの有力者は、シリアとの交易で利益を上げていた。彼ら新支配者層の経済的基盤であるシリアの交易網の確保や管理、拡大は、商人達の利得の増大をもたらす魅力的選択枝であった。

(4)民族的な理由。
 
 アラブの統合が目的であった。シリアには長くビザンツと同盟して、イスラーム共同体に加わっていない多数のアラブ部族が存在した。アラブの統一の維持と言う観点からも、彼らを統合するなしでは実現は出来ないと考えた。

 …等である。

 また本格的なシリア征服が始まる以前にも、何回かシリア襲撃が行われている。
 特に大規模なものは以下の遠征である。主たる敵として想定されていたのはビザンツ帝国所属のアラブ部隊であったようである。

・預言者ムハンマド時代
 
 629年9月10日 ムウタの戦い 
 アラブ側主将:ザイド、副将ジャーファル、ハーリド・ブン・アルワリード
 ビザンツ側主将:不明(ヘラクレイオス皇帝?)。兵は殆どがアラブ人。
 結果:アラブ側の敗北

 630年10月 タブーク遠征
 アラブ側主将預言者ムハンマド ビザンツ側不明
 会戦なし。タブークやトゥーマル・アルジャンダルオアシスの併合。

・アブー・バクル時代

 632年 ムウタの戦い(第2次)
 アラブ側主将:ウサーマ・ブン・ザイド
 会戦なし。ムウタなどを制圧するが、トゥライハの勢力にマディーナが襲撃されたために帰還。


 この様にシリア方面にはムハンマドが生前から遠征軍を派遣していた事から分かるように、イスラーム共同体国家が成立した時点から、その維持拡大のためにも必須の行動であると考えられていたようである。

 様々な説を総合すると、その当初の目的は、長期の戦争が終結したシリア地方において、政治的な空白をついて街や都市を占拠あるいは脅迫して影響力を及ぼし、独占的な貿易の再開するためであったと思われる。つまりシリア方面の通商路を支配する遊牧民を威嚇することと、東ローマ(ビザンツ)と正面から激突しない範囲でできるだけ多くのシリアのアラブ人を支配下におくことにあった。

 また従来の部族間闘争の際には、各部族の影響下のオアシスや町に略奪遠征が相互に行われた。その戦利品は遊牧民の臨時収入として、常に魅力的なものであった。これがムハンマドによって禁じられた結果、それにかわって外に対する略奪行為が必要になった事も重要な理由であった。
 
 加えてイスラーム共同体の安全保障上、サーサーン朝の長期の支配から奪還されて間もないビザンツ帝国の東方地域の防衛組織が未だ十分機能していない内に、隣接するシリアに対して攻勢をかけて、ビザンツの防衛体制を確認する必要もあった。影響を及ぼし得る限界点を探り、緩衝地帯を設ける必要があったと思われる。

 こうした様々な理由からアブー・バクルはリッダの中でも有力であったムサイリマの勢力が瓦解した段階で、ムハンマド時代に計画されていたと思われる案を基礎としてシリア遠征の準備を始めた。

 ハリーファは主にムハンマドの死後もイスラームに忠実であった人々、つまりムハージルーン、アンサール、マッカのクライシュ族、ターイフのサキーフ族、(リッダ参加者を除く)ヒジャーズのカイス族系遊牧民、ヤマン系のオアシス農民、牧畜民、遊牧民から兵士を募った。

 
 戦いの流れはおおよそ次の通りではないかと思われる。
 諸説在り、はっきりと分からない点が殆どである。

 シリア遠征開始は諸説あるが、ヒジュラ暦12年ラジャブ月(633年の9/10月)とされている。なおバラーズリーは634年634年4月7日であったとしている。
 集まったおおよそ20000から30000名のアラブ兵は、初期の段階では4隊に分けて派遣され各地で略奪を行い、一定の地域を確保した後に撤退する計画であったのではないだろうか。
 
 アブー・バクルは三人のアミールを指名して各々3000(後に増援を受け7500)名軍隊を与えた。なお全軍を統率するシリア方面軍の主将は、最初期の教友の一人でウマルの友人であり、次代のハリーファ候補でもあった主将アブー・ウバイダ・ブン・アルジャッラーフ(581年〜639年)であったようだ。

 総指揮に当たるアブー・ウバイダは、まずシリアのダマスカス南方の内陸部ハウラーン地方を制圧する事を目標としていた。
 最初の戦闘は、マアブ(アレオポリス)のビザンツ同盟アラブ部族軍への襲撃である。アラブ部隊を瓦解させて、シリアのアラブをイスラームに靡かせる事が目的であったのであろう。
 アブー・ウバイダはビザンツの部隊を壊乱させた後にマアブを占領、和平条約を結んで撤退した。
 ヘラクレイオス帝はマアブ襲撃と占領に驚き、すぐさま対策を取るように命じたと言う。

 またアブー・ウバイダの指揮下にある他の三人のアミールは以下の通り。ヤジード・ブン・アブー・スフヤーン、アムル・ブン・アルアーシー・ブン・ワーイル、シュラフビール・ブン・ハサナである。

・ヤジード・ブン・アブー・スフヤーン軍…当初はハーリド・ブン・サイードが担当する予定であったとも言う。ヨルダン渓谷東部バルカー地方を担当。

・シュラフビール・ブン・ハサナ軍
 ヨルダン本土を担当した。ヤジードとほぼ共同して行動。周辺の町や村を分担して、征服し条約を結んだと思われるが、詳しい情報がなくはっきりしない。

・アムル・ブン・アルアーシー・ブン・ワーイル軍の行動
 ネゲブ、パレスティナ方面を担当した。アムルは不動産関係の商売でこの地を幾度も訪問しており、個人としても土地を所有していた。そのため地理に詳しく、人脈がある彼が指揮官として選ばれたのものと思われる。ただ彼はハリーファの思惑以上に野心的な人物であり策略家でもあった。

 彼らの目的はシリアの主要都市の直接の攻略ではなく、周辺のアラブ遊牧民を支配下に置くことによって各地域を孤立させることにあったと思われる。これはムハンマドのアラビア半島における戦術そのものであった。
 だがこのシリア侵攻は予想外の戦果を収めることになる。

 アムルはワーディー・アラバの戦いでビザンツ軍アラブ部隊を撃破、ガザに進撃した。アムルは先述のようにエジプト・パレスティナ方面で交易に従事しており、この地域の政情や地理に詳しかったと言われる。またガザはムハンマドの先祖で、マッカ興隆の基盤を築いた商人ハーシムの没した場所であり、クライシュ族にとって特別な場所であった。後にハーシムの町との異称で呼ばれるガザはシリア・パレスティナとアラビア交易の重要拠点でもあった。
 進撃してきたアムルに対して634年2月4日、ガザの司令官でカンディタトス(皇帝警備官長)の地位にあったパトリキウス(アラビア語でビトリーク)のセルギオス率いる軍隊が会戦(ターシンの戦い)した。結果はビザンツ軍の敗北に終わり、セルギオスは戦死、ガザは包囲された。しかしアムルの率いる部隊の規模では、これ以上の戦果を望む事は不可能であった。戦力不足は明らかであり、アムルはハリーファに援軍を要請することとなった。
 そのためアムルは一旦ガザから離れ、ビザンツ軍の増援部隊との戦闘のために他方面に転進した。なおガザ陥落は637年のことになる。


 各部隊の初期の行動は各部隊に担当地区を割り当てただけで計画的とは言えず、各々ばらばらに行動し、アブー・ウバイダが統括していたようには思えない。おそらくは今回のの派兵がまだ第一段階のものであり、短期間に恒久的な占領地の拡大・統治を目指した決戦を求めるものではなかったからだろう。貢納金の支払いや交易の安全を確保すれば撤退する伝統的な略奪戦争に終わる可能性も高いと考えていたのかも知れない。

 しかしビザンツ帝国側が予想以上に弱体化しており、周辺のアラブ人の帰順が進むと、さらなる攻勢が可能であると前線指揮官は考えるようになった。

 ビザンツ側は、突然侵略的な行動を開始し始めたイスラーム勢力に驚愕し、その排除と、シリアのアラブ部族の早期の再編を決意したと思われる。帝国は大規模な反攻を企図し、キリスト教系アラブの再編と、アルメニア方面から正規兵の増援を送り込んできた。こうして情勢が一変したのである。大軍同士の決戦が不可避な情勢となったのである。ただしこうしたビザンツの反攻の詳細は実は良く分からない。各都市の占領の時期や反抗のビザンツ軍の派遣時期、規模などの情報が錯綜しているからである。以下の内容は伝承に依拠した物語と考えて貰っても良い。

 アブー・ウバイダからの急報を受け、アブー・バクルは大軍同士の会戦の経験を持ち、その手腕が実証されている武将であるハーリド・ブン・アルワリードを、急遽イラク方面から呼び寄せた。
 634年4月、これに答えてハーリドは600余りの最精強の部隊と共に、アラビア半島の沙漠地帯を横断、6日と言う強行軍を断行してダマスカス前面に現れたのである。
 アブー・ウバイダは、占領地域を放棄して軍隊を集結させ、到着したハーリドに引き渡した。 
 戦争の天才であるハーリド率いるムスリム軍は、まず中部シリアの最重要都市ボスラに進撃した。そしてパレスティナ方面に別行動をとっていたアムルを除いた全部隊を集結させ、時期は不明だが短期間でこれを降伏させた事は間違いないようである。
 そしてハーリドはビザンツ軍の集結に合わせて、アムルの部隊も呼び寄せ合流させると、634年7月10日(または20日)、アジュナーダインで東ローマの大軍と対峙した。

 このアジュナーダインの戦闘の詳細も、再現するのが難しい。
 記録によればビザンツ側は90000〜100000と言う大軍であり、ムスリム勢は30000程となる。しかし実際は、ほぼ同数の兵力であったと考えられる。
 戦闘事態は数日間ほどで決着を見たと思われる。

 まず初日は小競り合いであり交渉がもたれたようである。
 伝承は高級武官同士の決闘が行われたとか、帝弟テオドロスがハーリド暗殺をしようとしたとかあるが疑わしい。
 戦列は中央にムウダ・ブン・ジャバル、左翼にサイード・ブン・アーミルとアブド・アッラフマーン・ブン・アブー・バクル、右翼にシャラフビールともう一人(アムル?)。中央の予備として後方にヤズィード・ブン・アブー・スフヤーンが配された。
 東ローマ軍はヘラクリウス帝の弟テオドロスとヒムス(あるいはエメサ)総督ヴァルダーン(またはアルタブーン)を指令官とし、アルメニア方面の増援とアラブ部族民からなっていた。
 戦闘は2日目以降は、乱戦の気配を見せ、双方甚大な被害が出たと考えられている。しかしハーリドは弓兵を巧みに利用して戦列を維持し、右翼の猛攻で次第に優勢になったようである。
 最終的にはヤズィードの予備部隊の適切な投入によって、勝敗が決したようである。
 敗走したビザンツ軍は北上して、ペラ(フィフル)で籠城したが、追撃してきたムスリム軍はこれを包囲、4ヶ月後に降伏した。

 アジュナーダインの敗戦は帝国の軍事オプションを失わせた。
 シリア方面軍を統率する指揮系統が瓦解したため、各地の都市防衛隊は各々で籠城することしか出来なかった。総兵力は未だアラブ軍に匹敵したはずだが、部隊同士連絡を取り合う事もなかっため、地域防衛は不可能であった。また地域の連絡網がないも同然となった事は、帝国の情報収集能力をも失わせた。そのためビザンツ帝国軍は、シリアの支配能力を完全に失ったのである。シリアの農村地帯は孤立して、アラブ軍の為すがままの状態となった。兵坦組織などなかったはずのアラブは、略奪によって補給が可能になり、長期の軍事活動を行うことができたのである。

 アジュナーダインの戦いの前後に、アブー・バクルは病没した。
 アブー・バクルが指名したウマルによって、シリア征服は遅滞なく遂行されていく。

 参考文献
 

その他諸地域の制圧。

 632年9月中旬。アブー・バクルは、フザイファ・ブン・ミフサンに命じてオマーンのアザド部族を統率するラキート・ブン・マーリク、別名ズー・アッタージ(王冠の主)への討伐部隊を派遣した。
 フザイファは賢明にも事前に情報を集め、その結果アサド部族の勢力は予想以上に強力であり、増援が必要であると判断した。
 彼からの急使を受けて、ハリーファは、632年9月末頃イクリマを将軍とする支援部隊を派遣した。イクリマは周辺部族民を威圧しつつ進軍して、諸部隊を糾合しアサド部族との戦闘に入った。直接の会戦は11月下旬頃に発生し、オマーンの主邑ダッバー(あるいはダバーまたはダンマー)でイスラーム勢力が勝利した(ダッバーの戦い)。

 その後、フザイファはオマーンの総督となり、彼の地におけるイスラーム支配体制の再構築を行う事となり、イクリマはダッバー周辺地域を荒らしてアザド部族の抵抗勢力を瓦解させた。
 その後イクリマはアブー・バクルの命令で、さらにマーラへ進軍した。
 イクリマが現地に到着すると、マーラを担当していたアルファジャ・ブン・ハルサマが、天候や編成の遅れでマーラに到着していなかった。
 マーラの防御はそれほどでもないと判断したイクリマは単独で攻撃を行う事を決め、これを急襲して降伏させた。

 一方シリア方面のビザンツ帝国との境界地帯では、ビザンツを支持するキリスト教系部族とアラビア半島古来の宗教を信奉する勢力が混在し、ユダヤ教徒も多かった。
 632年10月に、アムル率いる軍勢が遠征しシリアの統制を試みたが、結果は芳しくなかった。
 また、この地域で下手に動けば強力なビザンツの援軍が到来する可能性もあり、反乱諸集団は強気であったようだ。
 結局はアムルはタブークとドゥーマルト・オアシス、ムウタなどビザンツ国境に近い町を陥落させるには至らなかった。アムルは慎重な策を採り、シュフラビール軍が到着するまで攻勢をかけない事とした。
 援軍が到着する頃には半島の他の地域も制圧が進み、イスラーム勢力の優勢が明らかとなっていた。そのため反乱は急速に勢いを失い、さしたる抵抗もなく諸都市、諸勢力はフムスを結んでイスラームへの従属を再び選択した。

 さてイエメンでは前述のようにイスラームに改宗したサーサーン朝の元総督ワフリズ(またはバドハーン)が死ぬと、632年6月(または7月)頃、マズヒジュ族の有力者カイス・ブン・アルマクシューフが偽預言者アスワド・アルアンシーを截てて独立を策した。 しかしカイスの心変わりによってアスワドが死ぬと。後継の総督としてアバーン・ブン・サイードがイエメンに送られてきた。ところがアバーンの統治期間中にアスワド殺害に協力したアルアブナーの長ダーザワイフはカイスと仲違いしたらしく、折しもダーザワイフが急死すると暗殺の嫌疑がカイスに掛けられることになった。
 ムハージル・ブン・アビー・ウマイヤがサヌアー総督となった際にカイスはアブー・バクルの元に送られ、審問が為された。アブー・バクルは彼を無実とし、シリアに送ってビザンツとの戦争に参加するように命じた。


 バフライン討伐は、ヤマーマにおける反乱に決着がついてからとなった。
 バフラインはムハンマド時代に、使者として派遣されたアラー・ブン・アルハドラミーの説得を受け入れ、ラービア族の氏族でアブド・アルカイス族のキリスト教徒の小王ムンジル・ブン・サーワー・アルアブディーと、サーサーン朝のハジャルのマルズバーン(総督)であったシーブフトが帰順していた。
 しかし預言者が死亡しムンジルも死去すると、カイス・ブン・サーラバ族がシュライフ・ブン・ドバイアブン・アムル・マルサド…通称フタムを首魁に叛乱。またラービア族もイスラームに反旗を翻しヒーラの王ヌーマーンの息子ムンジルを立てて離反した。フタムはムンジルと合流して、ジュワ−サー城塞に籠もったアラー・ブン・アルハドラミーと対峙した。進撃してきたラビーア族に対して、アラーは出撃して矛を交えたが敵し得ず、城塞に退却し、また包囲を受ける事になった。
 結局、アブー・バクルはウーラ・ブン・ハドラマーニーに命じて、討伐軍を送り込んだ。迅速な進軍による急襲によって諸都市は防衛線の準備の間もなく簡単に陥落し、反乱者は逃亡した。追撃してきたウーラに沿岸部まで追いつめられると、反逆者である王子アル・ガーリフは633年1月(または3月)に彼に降伏して捕虜となり、後にイスラームに入信した。

 ハドラマウト討伐は厄介であった。ナジュラーンを中心に勢力を持つキンダ部族の有力者でハドラマウトの王族、ウルフ・アンナール(炎を鬣)のラカブを持つアシュアス・ブン・カイスが、633年初頭反乱を起こし、強力な軍隊と共にイスラームを棄教したからである。
 ハドラマウトの代官ジヤード・ブン・ラビードは、キンダ族の一部が叛乱を起こしたときにこれに夜襲を掛けて多数の捕虜を得た。この捕虜達を連行する際にアシュアスの統治する地域を通った。捕虜達は泣き叫んでアシュアスに助けを求めた。その声を聞いたことで、アシュアスは叛乱を決意したと言われる。
 怒りに震えたアシュアスは部族を集めてジヤードに襲いかかり、ムスリム軍を敗走させた。アシュアスの勝利によってキンダ族の大部分はアシュアスの元に集まった。この勢力が強大となり、ジヤードは単独での討伐は難しいと考え、周辺部族にキンダ族に同調しないよう外交攻勢をかけると共に、マディーナに援軍を要請した。
 アブー・バクルによってムハージル・ブン・アビー・ウマイヤ率いる援軍が送り込まれ、ジヤードと共同して戦うよう命令が与えられた。またアブヤーンに駐屯していたイクリマの部隊にも、当面の任務を完遂次第、ハドラマトに向かうよう指示が出された(結局間に合わなかったが)。
 ザファールで合流したジヤードとムハージールの軍勢は、633年1月下旬にアシュアスの軍隊を衝突し、これを敗走させた。アシュアスはアンヌジャイル要塞に籠もって対抗したが、援軍のない包囲戦に利はなく力尽き降伏した。アブー・バクルは彼に娘を娶せ、ムスリムに再改宗する事を許した(後に子孫が反乱を再び起こす事になるが)。こうして事態は収拾された。

 
イスラーム信仰概論
水谷 周
明石書店
2016-08-15

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