大河の向こう側

歴史と本

日々これ堕落してます…。

イスマーイール派興隆の時代〜ファーティマ朝の誕生〜

 (以下は旧ブログ記事再掲です…)。

ファーティマ朝略史〜ムイッズ時代まで

 イスラームにおける分派の最大派閥であるシーア派には第4代ハリーファ=アリーの子孫の誰を奉じるかで大きく三つの流れがありました。

 第3子であるムハンマド・ブン・ハナフィーヤの系譜であるカイサーン派。
 次男フサイン系の子孫ジャアファルの子らから分岐した人物を奉じるイマーム派。
 主に長男ハサン系(フサイン系も含む)の子孫を奉じるザイド派。

 この内、現在主流となっているのはイマーム派です。
 さらにイマーム派は大きく分けてヌサイリー派(近代ではアラウィー派と自称)、アレヴィー派、ニザール派(ホージャ派)、ムスタアリー派(ボーホラー派)、ドゥルーズ派、シャイヒー派、バーブ教、バハーイー教、十二イマーム派に分裂し、十二イマーム派以外は現在極少数派となっています。

 これらの内、ニザール派、ムスタアリー派、ドゥルーズ派はイスマーイール派が分裂した結果生まれた分派で、中世においてはイスマーイール派がシーア派の主流であった時期があり、エジプトにファーティマ朝が成立した時代には大きな勢力を振るったのです。


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ハリーファ伝その8 ウマルの治世その1

■ウマル・ブン・アルハッターブ(586から592年頃の11月5日生?〜644年11月3日または7日没、在位634年8月23日〜644年)

 第二代ハリーファ=ウマルはムハンマドの教友の中で最も重要な人物であり、世俗イスラーム国家の基礎を確立した稀有な政治家である。
 彼は、ムハンマドの伝道初期は反対派の急先鋒であったとされる。しかし、やがて改心して熱心なイスラームの徒となった。
 ハディージャとアブー・ターリブ死後に、政治・経済的にムハンマドを支えたのは親友アブー・バクルであったが、二人が亡くなった同年にウマルがムスリムとなると、すぐさまマディーナ時代のムハンマドを新たに政治的に支える重要人物と成り仰せた。
 アブー・バクルによると伝えられるハディースには「ウマル以上に優れた人間の上に、陽光がさしかかることはないであろう(つまりウマルが最高のの人間であると言うアラブ的褒め言葉)」というものがある。彼は多弁にして剛胆、義を重じたと言う。伝承では理想的アラブ人男性と言うイメージが固定されているようである。
 また彼も商人で在り、シリア方面に旅することもしばしばであったと言うから、外世界を見て、広い視野を持つに到った人物でもあったと思われる。

 元々は反ムハンマドの急先鋒であったと言われるウマルが、突然転向して敬虔な教徒に変貌した事件は奇跡のように語られる。妹が改宗したことを知り激怒して、彼女の家に刀を持って押しかけた際、妹に渡されたクルアーンを読んでたちまち改心したと言う逸話である。
 そして改心後の彼へのムハンマドの信頼は揺るぎなく、かつ徹底していたと多くの伝承が記録されることになる。

 しかしながら実際はどうであったのだろう。伝承にある理想化されすぎたウマル像に、我々は疑惑を持たざるを得ない。
 教宣組織の重鎮たるハディージャやムハンマドの庇護者であったアブー・ターリブが死んだ直後という入信の時期、妹など近親者がイスラームに初期から入信していた事などから、彼自身もすでに初期から入信しており、ただし政治的理由から表向きは信仰を隠していただけだったのではないかと言う説も見受けられる。
 つまり元々ムハンマドのブレーンで、彼のイスラーム批判は擬態であり、宣教の計画の一部ではなかったのでは?と言う推測も成り立つ。それがハディージャやアブー・ターリブの死によって、組織の表に出ることになったのかもしれない。

 まあ妄想はともかく、実際にウマルは共同体の諸制度を創始した建国者と言えるだろう。
 公平である事を重視し、決して妥協しない強固な意志の持ち主であり、暗殺されなければ随分とイスラーム世界も違っていたかもしれない。
 またクルアーンを結集して、現在の形にしたのも彼の治世になっていただろう。

 アブー・バクルは亡くなる前にウマルを後継者の指名した。長老クラスの人物で、クライシュ族内で問題なく指導者として認められる人物は、彼とシリア出征中のアブー・ウバイダぐらいであったので、順当な選択と言えた。こうした事前の根回しが功を奏したのか、この継承は特に異議申し立てはなされなかったようである。
 ウマルは自身を、神の使徒の代理人の代理人(ハリーファ・ハリーファ・ラスール・アッラーフ)と名乗った。後に単にハリーファと省略される事になる。
 ただ煩雑なこの名称より、軍の指揮官と「信仰者達(おそらくムスリム以外の一神教徒も含む)の指揮官」を意味するアミール・アルムウミニーンと呼ばれる事を好んだ。この称号の採用は、軍の指揮官たち(おそらくアムルかムギーラ・ブン・シュウバ)が、そう呼んだ事がきっかけであったと考えられる。
 アミール・アルムウミニーンの称号は、実質的に後のハリーファ達の正式称号となっていく。

 アブー・バクルの跡を継いだウマルが最初にした事は、シリア軍の指揮権をハーリドから奪い遠征初期の総司令官アブー・ウバイドに移譲させることであった。
 ウマルとハーリドは元々不仲であったとされる事や、イラクの征服地のアラブ達に支持層を持つハーリドが西方でも大軍の指揮権を握る事は危険であると考えたのであろう。謀将アムル・ブン・アルアーシーが、後にエジプトで半ば独立した勢力になった事を考えると、ウマルの懸念も仕方がない所であった。ハーリドはその後、前線に復帰することはなく、隠棲に追い込まれた。

 内政面では、各地の占領地帯の統治の問題に追われた治世であった。
 征服地はアラブ軍駐屯地として設営された軍営都市(ミスル)を中心に、徴税のみが中央政府の業務と連結して整備された。徴税業務のために設置されたのがディーワーン(台帳の意味。転じて税務と年金管理を行う役所を指す)であり、集めた税金を年金(アター)として、アラブ軍人や支配層に再分配する役目を与えられた。
 地方行政の大半は徴税機構と人材を含めてビザンツやサーサーン朝時代のものを、そのまま継承した。司法も同様であり、軍営都市に派遣された総督が裁判を実施する場合も、ほとんどがアラブ人の起こした問題に限られたようである。
 イスラームの司法制度は、後世にビザンツ帝国のそれにサーサーン朝の宗教的要素を含む司法システムを加味して枠組みが作られ整備される。しかしウマイヤ朝時代まで、ハリーファの裁量権の枠組みが判然としなかったため、皇帝が絶対的権威を持っていた二つの帝国時代と違い、司法に関する問題は何回かの大きな揺らぎを経験する事になる。
 ウマルはカーディー(裁判官)を各地に派遣したと伝承されているが、これは司法専門の職ではなく、総督に司法権も委ねた事を意味すると考えられている。
 つまり初期イスラーム帝国時代に組織的な司法制度が整備された形跡はない。しかし、そう言ったものを目指していた事は間違いなく、その先鞭を切ったとするならば評価は出来る。
 税制に関しては、征服地の人々にはハラージュ(土地税)とジズヤ(人頭税)が課された。ただしウマル時代に両者の区別が厳密になされていた訳ではない。実際の業務は地方の旧制度の関係者の権限を再確認し、前代と変わらない徴税方法で徴収され、それを一年に一度一括してハリーファが送り込んだ徴税人(アーミル)に引き渡すと言う単純なものであった。
 一方アラブ人の土地保有者は、少額のウシュルのみ納税すればよかった。それすら時に曖昧となる事が多かった。
 文書行政機関も、収税と軍人への給与を行うディーワーンのみであり、人口調査などを積極的に行って直接に政府が人民を掌握する体制には程遠かった。
 ウマル(とその側近)は税制の基本を示したものの、その実施には困難が伴ったのである。

 また征服地の人々、特にシリア・エジプトなどでは、新たな支配者がより寛容な政策を取ることを期待し降伏した人々も多かった。
 しかし、未成熟な統治体制では劇的な変化など望めるはずもなかった。
 実際にイスラームは宗教的には寛容な、と言うより無関心な姿勢を取ったので、残虐な弾圧者ではまったくなかった。
 そう言った意味では寛容であった。
 しかしビザンツ帝国時代の宗教非寛容政策も大虐殺であるとか、税の過度の不公平などを伴うものではなく、制度的にイスラーム統治時代と大差はなかった。
 税金などの金銭的負担や労働義務などは、全く変わる所はなかったのである。それどころかイスラームの統治時代には負担は増大する傾向にあり、非イスラームの住人は旧帝国時代以上の困窮状態に陥る事となった。
 またヒジュラ歴を制定した事でも有名である。文書行政上、正確な暦は必須であった。ウマルが国家としての形だけでも作ろうと格闘していた姿が思い浮かぶ。
 軍事面でも、ウマルは積極的に前線に赴いた。
 ウマルは638年にはイェルサレムを自ら訪れ、その降服交渉を指導した。そしてシリア戦の仕上げを行い、イラク征服に続いてイラン、アルメニア、アゼルバイジャーンなど征服地の拡大に邁進した。この征服活動については次回以降詳細に記述したい。

 さてウマルは徴税改革を行うに当たり、征服最初期に多くのアラブ達が占領地を私物化して、農地を囲い込んでいる事に頭を悩ませた。この問題は、結局はアッバース朝時代まで尾を引く大問題であり、マディーナの中央政府が大征服のコントロールを完全に出来ていなかった事に起因している。
 ウマルは自ら定めた原則を断固として実行する決意を固めていたであろうが、結局はそれが彼の寿命を縮める事となった。
 その計画の一環としてウマルは、教友の一人アルムギーラ・ブン・シュウバの私有地からも徴税を行う事を決定した。
 シュウバ自身がどう思っていたかは不明であるが、教宣組織の強化のためにウマルの説得に応じたと思われる。
 しかしながら彼のペルシア人奴隷アブー・ルウルウが、イスラーム政権成立に大功のある主人への課税に激怒したのである(あるいは主人の代弁をしていただけかもしれない)。
 そして644年11月、ウマルが礼拝を行っている最中に事件は起きた。
 アブー・ルウルウはウマルの近付くと、隠し持っていた短剣でウマルを襲い、6ケ所以上の刺し傷を与えたのである。
 アブー・ルウルウは周囲の人々をも次々と襲って殺し、ようやく取り押さえられるとその場で殺された。
 ウマルはその後、3日ほど生きながらえたがもうろうとした意識の中で後継者を決めかねた。
 結局、合議によって決めるように伝えて息を引き取ったのである。
 偉大なハリーファは不本意な凶刃に倒れ、志半ばで世界の表舞台から去った。

 そして次の後継者選びは、紛糾する事になるのである。

 
イスラームの形成:宗教的アイデンティティーと権威の変遷
ジョナサン・バーキー
慶應義塾大学出版会
2013-04-28

ハリーファ伝その7 アブー・バクルの治世その6

今回はシリア遠征について。
 原文は10年近く前に書いたもので、最新の研究に依拠していない伝統的な解釈を元に大まかな流れを再構成しています。その点ご了解下さい。

アラブの大征服の始まり シリア遠征

 ・・・アブー・バクルはアラビア半島の離反勢力を制圧すると、直ぐさまシリア(アラビア語でアッシャーム)に向けて軍勢を送ることを決定した。アラブの大征服の始まりである。

 アブー・バクル政権における、シリア遠征の背景には以下の理由が主に挙げられる。

(1)政治的な理由。
 
 リッダ反乱の鎮圧に伴う不平、不満、余剰となった軍事的エネルギーの発散。内部の不満を外部への攻撃や略奪に向けさせる事は、古今東西よく行われた施策である。ビザンツ帝国の東方諸州パレスティナ、フェニキア、(小)シリア、アラビアの統治システムはサーサーン朝によって完全に破壊されており、再建が始まったばかりであった。当然防衛体制も脆弱であり、各地に配備された部隊も十分な経験と訓練、連携を欠いており、さらに前線部隊の多くが諸氏族から招集されたアラブ人部隊によって構成されていた。彼らアラブ部隊から情報を得られればリスクも少なく、帝国の支配体制が瓦解しているシリアを継続的に略奪できると考えられた。

(2)宗教的理由。

 一神教発祥の地であり、イェルサレムを始め重要な聖地を持つシリアの併合に関しては、熱心な信仰者からの要望が強くあった。シリアは様々な宗教が混在する地域で在り、多神教徒とみられる人々も存在していた。彼らを排除するか改宗させ、一神教(イスラームではない)による宗教的統一を図ることを望む者は、ムハンマドの政権に参加した人々の中に多数存在していた。

(3)商業的な理由。

 ムハンマドを含めてターイフやマッカの有力者は、シリアとの交易で利益を上げていた。彼ら新支配者層の経済的基盤であるシリアの交易網の確保や管理、拡大は、商人達の利得の増大をもたらす魅力的選択枝であった。

(4)民族的な理由。
 
 アラブの統合が目的であった。シリアには長くビザンツと同盟して、イスラーム共同体に加わっていない多数のアラブ部族が存在した。アラブの統一の維持と言う観点からも、彼らを統合するなしでは実現は出来ないと考えた。

 …等である。

 また本格的なシリア征服が始まる以前にも、何回かシリア襲撃が行われている。
 特に大規模なものは以下の遠征である。主たる敵として想定されていたのはビザンツ帝国所属のアラブ部隊であったようである。

・預言者ムハンマド時代
 
 629年9月10日 ムウタの戦い 
 アラブ側主将:ザイド、副将ジャーファル、ハーリド・ブン・アルワリード
 ビザンツ側主将:不明(ヘラクレイオス皇帝?)。兵は殆どがアラブ人。
 結果:アラブ側の敗北

 630年10月 タブーク遠征
 アラブ側主将預言者ムハンマド ビザンツ側不明
 会戦なし。タブークやトゥーマル・アルジャンダルオアシスの併合。

・アブー・バクル時代

 632年 ムウタの戦い(第2次)
 アラブ側主将:ウサーマ・ブン・ザイド
 会戦なし。ムウタなどを制圧するが、トゥライハの勢力にマディーナが襲撃されたために帰還。


 この様にシリア方面にはムハンマドが生前から遠征軍を派遣していた事から分かるように、イスラーム共同体国家が成立した時点から、その維持拡大のためにも必須の行動であると考えられていたようである。

 様々な説を総合すると、その当初の目的は、長期の戦争が終結したシリア地方において、政治的な空白をついて街や都市を占拠あるいは脅迫して影響力を及ぼし、独占的な貿易の再開するためであったと思われる。つまりシリア方面の通商路を支配する遊牧民を威嚇することと、東ローマ(ビザンツ)と正面から激突しない範囲でできるだけ多くのシリアのアラブ人を支配下におくことにあった。

 また従来の部族間闘争の際には、各部族の影響下のオアシスや町に略奪遠征が相互に行われた。その戦利品は遊牧民の臨時収入として、常に魅力的なものであった。これがムハンマドによって禁じられた結果、それにかわって外に対する略奪行為が必要になった事も重要な理由であった。
 
 加えてイスラーム共同体の安全保障上、サーサーン朝の長期の支配から奪還されて間もないビザンツ帝国の東方地域の防衛組織が未だ十分機能していない内に、隣接するシリアに対して攻勢をかけて、ビザンツの防衛体制を確認する必要もあった。影響を及ぼし得る限界点を探り、緩衝地帯を設ける必要があったと思われる。

 こうした様々な理由からアブー・バクルはリッダの中でも有力であったムサイリマの勢力が瓦解した段階で、ムハンマド時代に計画されていたと思われる案を基礎としてシリア遠征の準備を始めた。

 ハリーファは主にムハンマドの死後もイスラームに忠実であった人々、つまりムハージルーン、アンサール、マッカのクライシュ族、ターイフのサキーフ族、(リッダ参加者を除く)ヒジャーズのカイス族系遊牧民、ヤマン系のオアシス農民、牧畜民、遊牧民から兵士を募った。

 
 戦いの流れはおおよそ次の通りではないかと思われる。
 諸説在り、はっきりと分からない点が殆どである。

 シリア遠征開始は諸説あるが、ヒジュラ暦12年ラジャブ月(633年の9/10月)とされている。なおバラーズリーは634年634年4月7日であったとしている。
 集まったおおよそ20000から30000名のアラブ兵は、初期の段階では4隊に分けて派遣され各地で略奪を行い、一定の地域を確保した後に撤退する計画であったのではないだろうか。
 
 アブー・バクルは三人のアミールを指名して各々3000(後に増援を受け7500)名軍隊を与えた。なお全軍を統率するシリア方面軍の主将は、最初期の教友の一人でウマルの友人であり、次代のハリーファ候補でもあった主将アブー・ウバイダ・ブン・アルジャッラーフ(581年〜639年)であったようだ。

 総指揮に当たるアブー・ウバイダは、まずシリアのダマスカス南方の内陸部ハウラーン地方を制圧する事を目標としていた。
 最初の戦闘は、マアブ(アレオポリス)のビザンツ同盟アラブ部族軍への襲撃である。アラブ部隊を瓦解させて、シリアのアラブをイスラームに靡かせる事が目的であったのであろう。
 アブー・ウバイダはビザンツの部隊を壊乱させた後にマアブを占領、和平条約を結んで撤退した。
 ヘラクレイオス帝はマアブ襲撃と占領に驚き、すぐさま対策を取るように命じたと言う。

 またアブー・ウバイダの指揮下にある他の三人のアミールは以下の通り。ヤジード・ブン・アブー・スフヤーン、アムル・ブン・アルアーシー・ブン・ワーイル、シュラフビール・ブン・ハサナである。

・ヤジード・ブン・アブー・スフヤーン軍…当初はハーリド・ブン・サイードが担当する予定であったとも言う。ヨルダン渓谷東部バルカー地方を担当。

・シュラフビール・ブン・ハサナ軍
 ヨルダン本土を担当した。ヤジードとほぼ共同して行動。周辺の町や村を分担して、征服し条約を結んだと思われるが、詳しい情報がなくはっきりしない。

・アムル・ブン・アルアーシー・ブン・ワーイル軍の行動
 ネゲブ、パレスティナ方面を担当した。アムルは不動産関係の商売でこの地を幾度も訪問しており、個人としても土地を所有していた。そのため地理に詳しく、人脈がある彼が指揮官として選ばれたのものと思われる。ただ彼はハリーファの思惑以上に野心的な人物であり策略家でもあった。

 彼らの目的はシリアの主要都市の直接の攻略ではなく、周辺のアラブ遊牧民を支配下に置くことによって各地域を孤立させることにあったと思われる。これはムハンマドのアラビア半島における戦術そのものであった。
 だがこのシリア侵攻は予想外の戦果を収めることになる。

 アムルはワーディー・アラバの戦いでビザンツ軍アラブ部隊を撃破、ガザに進撃した。アムルは先述のようにエジプト・パレスティナ方面で交易に従事しており、この地域の政情や地理に詳しかったと言われる。またガザはムハンマドの先祖で、マッカ興隆の基盤を築いた商人ハーシムの没した場所であり、クライシュ族にとって特別な場所であった。後にハーシムの町との異称で呼ばれるガザはシリア・パレスティナとアラビア交易の重要拠点でもあった。
 進撃してきたアムルに対して634年2月4日、ガザの司令官でカンディタトス(皇帝警備官長)の地位にあったパトリキウス(アラビア語でビトリーク)のセルギオス率いる軍隊が会戦(ターシンの戦い)した。結果はビザンツ軍の敗北に終わり、セルギオスは戦死、ガザは包囲された。しかしアムルの率いる部隊の規模では、これ以上の戦果を望む事は不可能であった。戦力不足は明らかであり、アムルはハリーファに援軍を要請することとなった。
 そのためアムルは一旦ガザから離れ、ビザンツ軍の増援部隊との戦闘のために他方面に転進した。なおガザ陥落は637年のことになる。


 各部隊の初期の行動は各部隊に担当地区を割り当てただけで計画的とは言えず、各々ばらばらに行動し、アブー・ウバイダが統括していたようには思えない。おそらくは今回のの派兵がまだ第一段階のものであり、短期間に恒久的な占領地の拡大・統治を目指した決戦を求めるものではなかったからだろう。貢納金の支払いや交易の安全を確保すれば撤退する伝統的な略奪戦争に終わる可能性も高いと考えていたのかも知れない。

 しかしビザンツ帝国側が予想以上に弱体化しており、周辺のアラブ人の帰順が進むと、さらなる攻勢が可能であると前線指揮官は考えるようになった。

 ビザンツ側は、突然侵略的な行動を開始し始めたイスラーム勢力に驚愕し、その排除と、シリアのアラブ部族の早期の再編を決意したと思われる。帝国は大規模な反攻を企図し、キリスト教系アラブの再編と、アルメニア方面から正規兵の増援を送り込んできた。こうして情勢が一変したのである。大軍同士の決戦が不可避な情勢となったのである。ただしこうしたビザンツの反攻の詳細は実は良く分からない。各都市の占領の時期や反抗のビザンツ軍の派遣時期、規模などの情報が錯綜しているからである。以下の内容は伝承に依拠した物語と考えて貰っても良い。

 アブー・ウバイダからの急報を受け、アブー・バクルは大軍同士の会戦の経験を持ち、その手腕が実証されている武将であるハーリド・ブン・アルワリードを、急遽イラク方面から呼び寄せた。
 634年4月、これに答えてハーリドは600余りの最精強の部隊と共に、アラビア半島の沙漠地帯を横断、6日と言う強行軍を断行してダマスカス前面に現れたのである。
 アブー・ウバイダは、占領地域を放棄して軍隊を集結させ、到着したハーリドに引き渡した。 
 戦争の天才であるハーリド率いるムスリム軍は、まず中部シリアの最重要都市ボスラに進撃した。そしてパレスティナ方面に別行動をとっていたアムルを除いた全部隊を集結させ、時期は不明だが短期間でこれを降伏させた事は間違いないようである。
 そしてハーリドはビザンツ軍の集結に合わせて、アムルの部隊も呼び寄せ合流させると、634年7月10日(または20日)、アジュナーダインで東ローマの大軍と対峙した。

 このアジュナーダインの戦闘の詳細も、再現するのが難しい。
 記録によればビザンツ側は90000〜100000と言う大軍であり、ムスリム勢は30000程となる。しかし実際は、ほぼ同数の兵力であったと考えられる。
 戦闘事態は数日間ほどで決着を見たと思われる。

 まず初日は小競り合いであり交渉がもたれたようである。
 伝承は高級武官同士の決闘が行われたとか、帝弟テオドロスがハーリド暗殺をしようとしたとかあるが疑わしい。
 戦列は中央にムウダ・ブン・ジャバル、左翼にサイード・ブン・アーミルとアブド・アッラフマーン・ブン・アブー・バクル、右翼にシャラフビールともう一人(アムル?)。中央の予備として後方にヤズィード・ブン・アブー・スフヤーンが配された。
 東ローマ軍はヘラクリウス帝の弟テオドロスとヒムス(あるいはエメサ)総督ヴァルダーン(またはアルタブーン)を指令官とし、アルメニア方面の増援とアラブ部族民からなっていた。
 戦闘は2日目以降は、乱戦の気配を見せ、双方甚大な被害が出たと考えられている。しかしハーリドは弓兵を巧みに利用して戦列を維持し、右翼の猛攻で次第に優勢になったようである。
 最終的にはヤズィードの予備部隊の適切な投入によって、勝敗が決したようである。
 敗走したビザンツ軍は北上して、ペラ(フィフル)で籠城したが、追撃してきたムスリム軍はこれを包囲、4ヶ月後に降伏した。

 アジュナーダインの敗戦は帝国の軍事オプションを失わせた。
 シリア方面軍を統率する指揮系統が瓦解したため、各地の都市防衛隊は各々で籠城することしか出来なかった。総兵力は未だアラブ軍に匹敵したはずだが、部隊同士連絡を取り合う事もなかっため、地域防衛は不可能であった。また地域の連絡網がないも同然となった事は、帝国の情報収集能力をも失わせた。そのためビザンツ帝国軍は、シリアの支配能力を完全に失ったのである。シリアの農村地帯は孤立して、アラブ軍の為すがままの状態となった。兵坦組織などなかったはずのアラブは、略奪によって補給が可能になり、長期の軍事活動を行うことができたのである。

 アジュナーダインの戦いの前後に、アブー・バクルは病没した。
 アブー・バクルが指名したウマルによって、シリア征服は遅滞なく遂行されていく。

 参考文献
 

ハリーファ伝その6 アブー・バクルの治世その5

その他諸地域の制圧。

 632年9月中旬。アブー・バクルは、フザイファ・ブン・ミフサンに命じてオマーンのアザド部族を統率するラキート・ブン・マーリク、別名ズー・アッタージ(王冠の主)への討伐部隊を派遣した。
 フザイファは賢明にも事前に情報を集め、その結果アサド部族の勢力は予想以上に強力であり、増援が必要であると判断した。
 彼からの急使を受けて、ハリーファは、632年9月末頃イクリマを将軍とする支援部隊を派遣した。イクリマは周辺部族民を威圧しつつ進軍して、諸部隊を糾合しアサド部族との戦闘に入った。直接の会戦は11月下旬頃に発生し、オマーンの主邑ダッバー(あるいはダバーまたはダンマー)でイスラーム勢力が勝利した(ダッバーの戦い)。

 その後、フザイファはオマーンの総督となり、彼の地におけるイスラーム支配体制の再構築を行う事となり、イクリマはダッバー周辺地域を荒らしてアザド部族の抵抗勢力を瓦解させた。
 その後イクリマはアブー・バクルの命令で、さらにマーラへ進軍した。
 イクリマが現地に到着すると、マーラを担当していたアルファジャ・ブン・ハルサマが、天候や編成の遅れでマーラに到着していなかった。
 マーラの防御はそれほどでもないと判断したイクリマは単独で攻撃を行う事を決め、これを急襲して降伏させた。

 一方シリア方面のビザンツ帝国との境界地帯では、ビザンツを支持するキリスト教系部族とアラビア半島古来の宗教を信奉する勢力が混在し、ユダヤ教徒も多かった。
 632年10月に、アムル率いる軍勢が遠征しシリアの統制を試みたが、結果は芳しくなかった。
 また、この地域で下手に動けば強力なビザンツの援軍が到来する可能性もあり、反乱諸集団は強気であったようだ。
 結局はアムルはタブークとドゥーマルト・オアシス、ムウタなどビザンツ国境に近い町を陥落させるには至らなかった。アムルは慎重な策を採り、シュフラビール軍が到着するまで攻勢をかけない事とした。
 援軍が到着する頃には半島の他の地域も制圧が進み、イスラーム勢力の優勢が明らかとなっていた。そのため反乱は急速に勢いを失い、さしたる抵抗もなく諸都市、諸勢力はフムスを結んでイスラームへの従属を再び選択した。

 さてイエメンでは前述のようにイスラームに改宗したサーサーン朝の元総督ワフリズ(またはバドハーン)が死ぬと、632年6月(または7月)頃、マズヒジュ族の有力者カイス・ブン・アルマクシューフが偽預言者アスワド・アルアンシーを截てて独立を策した。 しかしカイスの心変わりによってアスワドが死ぬと。後継の総督としてアバーン・ブン・サイードがイエメンに送られてきた。ところがアバーンの統治期間中にアスワド殺害に協力したアルアブナーの長ダーザワイフはカイスと仲違いしたらしく、折しもダーザワイフが急死すると暗殺の嫌疑がカイスに掛けられることになった。
 ムハージル・ブン・アビー・ウマイヤがサヌアー総督となった際にカイスはアブー・バクルの元に送られ、審問が為された。アブー・バクルは彼を無実とし、シリアに送ってビザンツとの戦争に参加するように命じた。


 バフライン討伐は、ヤマーマにおける反乱に決着がついてからとなった。
 バフラインはムハンマド時代に、使者として派遣されたアラー・ブン・アルハドラミーの説得を受け入れ、ラービア族の氏族でアブド・アルカイス族のキリスト教徒の小王ムンジル・ブン・サーワー・アルアブディーと、サーサーン朝のハジャルのマルズバーン(総督)であったシーブフトが帰順していた。
 しかし預言者が死亡しムンジルも死去すると、カイス・ブン・サーラバ族がシュライフ・ブン・ドバイアブン・アムル・マルサド…通称フタムを首魁に叛乱。またラービア族もイスラームに反旗を翻しヒーラの王ヌーマーンの息子ムンジルを立てて離反した。フタムはムンジルと合流して、ジュワ−サー城塞に籠もったアラー・ブン・アルハドラミーと対峙した。進撃してきたラビーア族に対して、アラーは出撃して矛を交えたが敵し得ず、城塞に退却し、また包囲を受ける事になった。
 結局、アブー・バクルはウーラ・ブン・ハドラマーニーに命じて、討伐軍を送り込んだ。迅速な進軍による急襲によって諸都市は防衛線の準備の間もなく簡単に陥落し、反乱者は逃亡した。追撃してきたウーラに沿岸部まで追いつめられると、反逆者である王子アル・ガーリフは633年1月(または3月)に彼に降伏して捕虜となり、後にイスラームに入信した。

 ハドラマウト討伐は厄介であった。ナジュラーンを中心に勢力を持つキンダ部族の有力者でハドラマウトの王族、ウルフ・アンナール(炎を鬣)のラカブを持つアシュアス・ブン・カイスが、633年初頭反乱を起こし、強力な軍隊と共にイスラームを棄教したからである。
 ハドラマウトの代官ジヤード・ブン・ラビードは、キンダ族の一部が叛乱を起こしたときにこれに夜襲を掛けて多数の捕虜を得た。この捕虜達を連行する際にアシュアスの統治する地域を通った。捕虜達は泣き叫んでアシュアスに助けを求めた。その声を聞いたことで、アシュアスは叛乱を決意したと言われる。
 怒りに震えたアシュアスは部族を集めてジヤードに襲いかかり、ムスリム軍を敗走させた。アシュアスの勝利によってキンダ族の大部分はアシュアスの元に集まった。この勢力が強大となり、ジヤードは単独での討伐は難しいと考え、周辺部族にキンダ族に同調しないよう外交攻勢をかけると共に、マディーナに援軍を要請した。
 アブー・バクルによってムハージル・ブン・アビー・ウマイヤ率いる援軍が送り込まれ、ジヤードと共同して戦うよう命令が与えられた。またアブヤーンに駐屯していたイクリマの部隊にも、当面の任務を完遂次第、ハドラマトに向かうよう指示が出された(結局間に合わなかったが)。
 ザファールで合流したジヤードとムハージールの軍勢は、633年1月下旬にアシュアスの軍隊を衝突し、これを敗走させた。アシュアスはアンヌジャイル要塞に籠もって対抗したが、援軍のない包囲戦に利はなく力尽き降伏した。アブー・バクルは彼に娘を娶せ、ムスリムに再改宗する事を許した(後に子孫が反乱を再び起こす事になるが)。こうして事態は収拾された。

 
イスラーム信仰概論
水谷 周
明石書店
2016-08-15

ハリーファ伝その5 アブー・バクルの治世その4

ナジュド制圧戦

 トゥライハに対するハーリドの勝利と、その軍4000名の接近を知り、ナジュドのタミーム族の多くはハーリドの陣営に使者を送って帰順してきた。
 しかしタミーム族の一氏族ヤルブ族の指導者マーリク・ブン・ヌワイラは投降を拒否して、逃亡を図った。
 ナジュドの征服自体は大きな戦闘もなく、威圧的な軍事行進を行うだけでイスラームの支配下に再び収まったのである。
 しかしマーリクに対する懲罰は必要であるとハーリドは判断した。
 マーリクは当時の有名人で、寛大さ、詩作の才能、勇気と言うアラブ人男性の美徳として最も重要な3つについて、当代最高の人物と認められていた。
 つまりアラブに大変に影響力のある人物であった。
 またマーリクはムハンマド時代には、ハンザラ族に対する徴税などを任された徴税人(アーミル)となり、その公平さによって多くの人々の信頼を得ていた。ムハンマドが死ぬと、収税した金品を人々に返した事でも知られてる。しかし、これは住民の支持は得たものの、明らかなマディーナ政府に対する背信行為であった。ただし彼がイスラームを棄教したと言う訳ではなさそうである。

 ハーリドは戦闘に勝利すると部下でディラール・ブン・アルアズワルを送って彼を捕らえると、背教者として斬刑に処したのである。
 おそらく日和見や納税を渋っている勢力に対する見せしめの行為であったのであろう。
 そこまでは政治的判断と言う事で許されるかもしれない。だが彼はその他にも捕虜となった多数の人々を斬首し、無用の処刑を戒めたアブー・バクルの命に背いた。
 さらにマーリク処刑の同じ夜、ハーリドはマーリクの未亡人のライラ・ビント・アルミンハルを無理矢理に自分のものにして、さらに彼女と結婚したのである。
 当時最高の美女と言われていたライラを手に入れるために、ハーリドが本当は無実であったマーリクを殺したのではと言う世評が立ち、非難の声が挙がった。
 アブー・バクルはこの件に対する詰問の使者を派遣したが、実際に何らかの罰則が即座になされた訳ではなかった。結局は勝利者の権利、略奪の一環と認められたのである。 
 まずはリッダ勢力の討伐が優先されたのであろう。しかしウマル・ブン・アッターブは独断で処刑を強行するハーリドの行為を越権と批判し、彼に対する不信感を抱いたとされる。

アクラバーの戦い

 最大の敵であるヤマーマ族に対してはイクリマ・ブン・アビージャフルが派遣されムサイリマことスマーマ・ブン・カビール・ブン・ハビーブと対峙する形になった。ただし、イクリマ配下の軍事力は十分ではなく、ハーリドがトゥライハを撃破して合流するまでの間は、ムサイリマの勢力をけん制するに止める方針であった。イクリマの使命はムサイリマをヤマーマに貼り付かせ、他の勢力との共同作戦やマディーナへの攻撃の意図を挫く事であったのである。

 ムサイリマはイクリマに牽制されてはいたが、戦力的には優位である事は理解していた。しかしながら攻勢には出ず、自身の拠点から動かなかった。
 ムサイリマが積極的な攻勢にでなかった理由は不明だが、冒険的な攻撃に出るよりも、ムハンマド時代と同様に何らかの協定を結ぶ事で決着させようと考えていたのかもしれない。マディーナ政権周辺の状況がさらに悪化すると考えていたのであろう。
 しかしムサイリマの予想は外れ、マディーナ政権は内部分裂を収拾し、ナジュドなどを予想外の短期間で制圧することに成功した。このことによりムサイリマも強硬策を取らざるを得ない状況となり、交戦は不可避となった。
 
 さて戦況はアブー・バクルが第二陣としてシュラフビールの軍団を送った事で動き始めた。ただしマディーナ政権側に不利な方向にである。
 632年9月上旬頃、突然イクリマがハリーファの命令を守ることせず、現状の兵力でムサイリマへの攻撃を開始し敗北したのである。おそらく援軍が到着する前にムサイリマを破り、功績を一人占めしたかったのではないかと思われる。

 当然アブー・バクルは、イクリマの不服従の姿勢と独断に驚きと怒りを露わにした。
 アブー・バクルは各地の軍隊に使者を送り、作戦内容の変更を命じた。ブータにいるハーリドにヤマーマ討伐を優先するように伝え、イクリマの軍勢は後退してオマーンへ侵攻予定のフザイファの指揮の元で再編するよう命じた。
 ちなみにフザイファは順調に侵攻してオマーンの担当地域を再征服し、後にイエメンに侵攻したムハージル・ブン・アビー・ウマイヤの派遣部隊を援護するため移動した。

 その間にアブー・バクルはウンマに忠実なヒジャーズ地方のムハージルーンとアンサールの増援部隊を編成してハーリドの元に送った。
 この強化されたハーリドの軍勢が到着するまで、シュラフビールはヤマーマで待機する予定であった。
 しかしシュラフビールはムサイリマ側の誘いに乗って戦闘を始めてしまい、彼我戦力の差が圧倒的な戦闘はムサイリマの勝利に終わった。逃亡した兵士とシュラフビールは敗走したが、行軍してきたハーリドの軍と何とか合流し、壊滅は免れる事が出来た。

 ハーリドは他の将帥に比べて軍事的な攻勢以上に、情報収集と外交交渉なども積極的に駆使してリッダの戦いを進めていた。
 集められた情報を分析したハーリドは、ムサイリマを助けようとする勢力がないことを確認し、十分な兵力を集めれば会戦による早期の解決が可能であると判断した。ここに到りハーリドはムサイリマと妥協する必要性なしと考えたのである。勝てる戦いをしないのは愚かな行為である。
 一方のムサイリマも決戦を望んだようである。緒戦の戦闘で自信を深めた事もあるであろう。
 またハーリドの軍勢がこれ以上の増援を受ける前に、数的優勢を維持して戦闘を開始した方が得策と判断したのであろうか。

 決戦はアクラバーの平野で行われた(632年12月、または633年2月とも)。
 伝承では、戦いの経緯は次の様であったと言う。 
 戦場で隊形を整え相対した両陣営の部隊はアラブ側が13000、ムサイリマ側はハニーファ族のムハッキム・アルヤマーマ、ラッジャール・ブン・ウンフワ率いる40000(おそらく誇大な数)の兵力を持っていたと言う。
 しかしアラブ側が精強な部隊であったのに対して、ムサイリマ側は戦闘経験が少ない者も含まれていた。実質は戦力的に互角であり、決着がついても勝者にも多大な損害が出るであろう事が予想され、実際初日の戦闘で互いに多数の死傷者が出た。ムサイリマ側も主将の一人ラッジャールが戦死したが、ムスリム側も古くからの信仰者達が命を落とした。そのため、ハーリドは単純な正面からの戦闘継続が困難であると考えざるを得なかった。

 そこでハーリドは一計を案じて、ムサイリマを誘い出す事とした。

 次の日に戦場で対峙した際に、アラブの伝統に従って勇者同士の一騎打ちを求め、応じたムサイリマ側の戦士をハーリド自身が次々と打つ破ったと言う(信じ難い話ではある)。
 そして敵の士気がやや衰えた所を見計らって、ハーリドは和平交渉を持ちかけたのである。
 これに同意したムサイリマは、和平の場でハーリドと対峙した。
 卑怯にもハーリドは和平の場で隠し持っていた剣を抜いて斬り付け、ムサイリマを騙し討ちにしようとした。
 だが十分に警戒していたムサイリマは機敏のこれを避けて、自陣営に逃げ込む事に成功する。しかしながら、その逃亡が無様であったためムサイリマの支持者たちに失望が広がったと言う。

 ハーリドがムサイリマに切り付けると同時に、ムスリム側が攻勢を仕掛けた。
 和平がなると考えて休息していたムサイリマの軍勢は油断しており、急襲に耐え切れずに後退をした。
 結局後退は逃走へと変化していった。

 撤退を支援するためムサイリマ側の右翼の指揮官ムハッキムは、自身が率いる予備部隊を決死隊として投入した。
 彼らが時間を稼いでいる間に残存部隊は城壁に囲まれたムサイリマの「アルハディーカ(庭あるいは果樹園)」に撤退させる事が出来た。しかしムハッキム自身は、アブド・アッラフマーン・ブン・アブー・バクル(ハリーファの息子)の放った矢によって討ち取られた。

 ムサイリマは、この城塞「庭」に籠って対抗した。
 要塞攻略は長期化するかに見えたが、アルバラー・ブン・マリクが城塞の門兵を買収して、扉を開けさせる事に成功した。
 ムサイリマは突入してきたムスリム軍に自身剣を手に激しく抵抗し、血みどろの戦いが繰り広げられた。マイース・ブン・アーミルに殺害されたとも、ウフドの戦いで勇名を馳せたワースィ・ブン・ハラブの投げ槍によって遂に討たれ、首を取られたとも言う。またウマイヤ朝の創始者ムアーウィヤ1世がムサイリマを討ち取ったという伝承もある。
 こうしてカリスマを失い、ムサイリマの軍勢は壊乱した。

 ヤマーマはハーリドの制圧する所となったのである。ヤマーマの人々はサダカを支払うことに同意したのである。

 

ハリーファ伝その4 アブ−・バクルの治世その3

今回は短めに…。

 リッダの諸勢力に対してアブー・バクルは、忠誠心や信仰心は疑問だが天才的軍略の持ち主であったマフズーム家のハーリド・ブン・アルワリードに、ヒジャーズ地方の遊牧民からなるウンマ直属の精鋭を与え派遣したのである。
 以下、各地で行われた主な戦闘を個々に解説していこう。

632年9月 ブザーハ(Buzakha)の戦い。

 アサド族のトゥライハは、ムハンマドの死を知ると(あるいはそれ以前から)ガタファーン族の勢力を背景に、マディーナ東方に軍事力を形成した。
 ムハンマドの死後、アブー・バクルはムハンマドの生前から計画されていたマディーナの北方に勢力のあるクダーア族に対する遠征を、ウマルを含む周囲の反対を押し切って実施した。クダーア族は実際の脅威であると同時に、この遠征自体がムハンマドのやり残した事業であったから、後継者たる事を示すためにも行わねばならない遠征であったのだろう。ムハンマドの遺志により、遠征は年若いウサーマ・ブン・ザイド委ねられた。ウサーマは預言者の義子でムウタの戦いで戦死したザイドの遺児で、母親はアビシニア人奴隷であったと言う。ウサーマはウンマに忠実なアラブ部族軍を率いて、タブークやムウタに略奪遠征に出発した。遠征は首尾良く成功して殆ど損害もなく終了した。

 ウサーマが出陣して1週間から2週間が過ぎた頃、ガタファーン系の諸氏族がこの軍事的な空白をついて軍勢を率いマディーナ襲撃を試みた。
 マディーナ側はタルハ・ブン・ウバイド・アッラーフを派遣して反撃を試みたが、一度は撃退されマディーナに逃げ戻る羽目となった。
 ズー・アルカッサに陣取っていたアブー・バクルは、周辺部族から兵士を掻き集めて防御を固め、マディーナ周辺を守りきると反撃に転じた。まずハーリド・ブン・アルワリードを全軍の指揮官に命じ、アサド・ブン・フザイマ族の本拠地ブザーハにいたトゥライハを攻撃させた。トゥライハは、ムスリムの先鋒となった指揮官を逆に殺害するなど緒戦は有利に戦闘を進めたが、トゥライハの言動に不審を持ったファザーラ族の離反もあり、ハーリドは彼らを敗走させる事に成功した。
 その後、アブー・バクルは各地にイスラーム信仰に復帰するよう各地に使者を派遣したが、結果は思わしくなかった。
 ハリーファは、アラビア半島の諸勢力の従面腹背を痛感し、マディーナにすら軍事的な脅威が差し迫った現在の情勢をみて、武力による解決以外に道がない事を悟った。
 こうしてウサーマの部隊が北方の略奪から帰還すると、アブー・バクルは多くがクライシュ族出身の指揮官を任命し、それぞれ部隊を与えて、各地の討伐に向かわせたとされる。
 その主な将帥は以下の通り。


・ハーリド・ブン・アルハリード
 イスラーム最高の名将であり、「神の剣(サイフ・アッラーフ)」と称された。主力部隊を率いて反乱の主力部隊と戦う事を命じられた。 

・イクリマ・ブン・アビー・ジャフル・ブン・ヒシャーム・アルクラシー・アルマフズーミー
・シュラフビール・ブン・ハサナ
 イクリマは当初ウマーンに派遣されて戦闘を行っていたが、その後はイエメンに転じてムサイリマに対峙し、増援が来るまで、そのけん制を命じられた。シュラフビールは後のシリア遠征軍指揮官の一人で、この当時はイクリマへの援兵を率いるように命令された。しかし他の部将と統一された作戦行動が取れていたわけではなかった。

・アムル・ブン・アルワース
 ハーリドと並ぶ名将。娼婦の子であるとの伝説もある。アラブきっての軍略家であり、政治家としても謀略家としても、実に老獪であった。リッダ戦争では、タブークなど北アラビア地域の不穏分子の討伐を命じられた。
 
・ハーリド・ブン・サイード
 シリア方面の背教者達の討伐を命じられた。

・トゥライファ・ブン・ハジーズ
 ヒジャーズ地方東のハワーズィン族とスライム族の内、ハリーファの命令に従わなかった部族に派遣された。

・アラー・ブン・アルハドラマーニー
 バフライン討伐に派遣された。

・フザイファ・ブン・ミフサン・アルバーリキー(またはアルガルファーニー)
 離反したオマーンのアズド族討伐にイクリマと共に派遣された。派遣された。彼自身もアズド族出身である

・アフラジャ・ブン・ハルサマ
 マーラの棄教者に対して派遣される

・ムハージル・ブン・アビー・ウマイヤ。
・スワイド・ブン・ムクラーン
 当初はイエメン方面を担当した。


 最大の軍隊を与えられたのは、実戦経験が豊富で当時最高の将帥と考えられ、実際その通りであったハーリド・ブン・アルワリードであった。
 そのハーリドが、まずやらなければならないのは、マディーナを襲ったトゥライハ中心とするガタファーン族対策であった。
 これを撃退しなければ、マディーナは自由に行動ができなからである。
 632年9月中旬、ハーリドはタイイ族を武力で恫喝して従わせた後、退却したトゥライハを追った。軍勢はブザーハの地に至り、ここで両軍の会戦が行われたようである。
 トゥライハの手勢は15000名余り、ハーリドの軍は6000名前後であったと言われている(この数字はかなり誇大であろう)。
 数では不利であったもののハーリドの軍隊は士気の高いウンマ最精強の部隊であり、正面からぶつかり合った形の戦闘は短時間でハーリド軍の勝利に終わり、トゥライハは逃亡した。残党はファザーラ族のハーリジャ・ブン・ヒスンを首領に30キロほど離れたアルガムルの地にまで退却したが、追撃してきたハーリドの軍勢になんなく捕捉された。9月の第3週に再び戦闘(アルガムルの戦い)が行われ、組織的な戦闘能力をすでに失っていた彼らは、壊滅的な敗北を喫し、多くが降伏した。

 トゥライハは後にイスラームに戻る事を誓い、聖戦への参加を希望した。しかしアブー・バクルは再入信は許したが、戦闘参加は認めなかった。
 その後、632年10月、6000名の兵士と共にヌクラ(あるいはジャウウ・クラーキルとも)に達したハーリドは、この地の反乱者であるスライム族に攻撃をかけて屈服させ、多くを焚刑に処した。そして降伏した者には税納を約束させた。
 10月の後半にはザファールの地を征討し、こうしてマディーナ周辺の反乱勢力を一掃されたのである。

図説 イスラーム百科
キャロル ヒレンブランド
原書房
2016-09-06

ハリーファ伝その3 アブー・バクルの治世その2

 アブー・バクル最大の業績は、アラビア半島の諸部族を本当の意味で支配し、統御する事に成功した事である。
 武力による徹底的な制圧を強行し、アラブ諸部族に対する絶対の権威をイスラーム共同体に与えた功績は大きい。
 あくまでも契約と言う形での統合でしかなかったムハンマド時代と違って、本当の意味での統一を成遂げたのである。

 前述したようにムハンマドの死後、アラビア半島の諸集団はアブー・バクルの権力を認めずに、納税や兵士の供出を拒否し、また多くが政治的にも独立を指向した。
 今までの合意はムハンマド個人との契約・同盟であり、彼の死によって終了したものと解釈された。そのため安全保障や税に関する取り決め、契約が新たになされない限り、ウンマとの関係は断たれたとの立場をとったのである。
 諸集団は具体的な行動も伴い始めた…税の支払いを延ばしたり、かつての同盟者に対する通行安全保障の放棄などである。また敵対するまで至らない集団も、アブー・バクルの政権に対して日和見の姿勢を採ったのである。
 こうした商業的なものを含む諸契約が基本的に個人間のもので、国家や法人との契約を認めない(つまり非生物に人格を認めない)との考えは、現在に至るまでイスラーム世界の特徴であると言える。
 後世のイスラーム学者は、彼らの行動は背教と言う最大の罪を犯したとする立場で語る。故に一様にリッダ(元に戻る事、の意味で棄教と訳される)の民と呼ばれるのであるが、元に戻るという行為は彼らにしてみれば当然のことであった。おそらく実際に、軍事的に制圧された諸集団以外の大部分がムハンマドとの合意・同盟が為された際に、ムハンマド死後の事は規定されていなかったか、継続しないこと事が取り決められていたのではないだろうか。
 例えばバラーズリーは、預言者ムサイリマがムハンマドと盟約を結ぶ際「汝が良しとするなら我らはアムル(政府)を汝に委ねて汝に忠誠の誓いをしよう。但し、汝の死後にそれが我らに委ねられると言う事がその条件である」と語らせている。ムハンマドはこれを拒否した事になっているが、ムサイリマと彼に従う信仰者達との実際の交渉では、彼らのアムルつまり政治的な自立はムハンマド死後には確約されていた可能性があるのではないか。
 もともとムハンマドに従った人々の中にはムサイリマのように以前から一神教の預言者として活動していた人々や、ユダヤ教徒、キリスト教諸派の人々が多数含まれていた。彼らは経済的に豊かなクライシュ族を従えたムハンマドの武威を恐れて、「彼からの脅威」を避けるために安全保障の同盟を結んだのである。そして同時に多神教に対する戦いという大義名分を唱えるムハンマドを様々な一神教全体の司令官と見なして、アラビア半島の安全確保のための一時的なリーダーとして許容したのである。
 つまり棄教者達は唯一神を認め、アラビア半島内の多神教に敵対すると言う点でムハンマドに従ったのであって、彼の伝える預言を受け入れた訳でなかったであろう。
 そもそもムハンマドに与えられた預言は「クライシュ族に与えられた預言」であって、他の部族民はそれぞれに従うべき預言が在り、彼らにはムハンマドの預言は意味がなかったのである。ムハンマドの預言の大部分も古くからのユダヤ教徒やキリスト教徒、アラブの一神教徒に伝わる旧約的世界観・伝承の焼き直しでしかなく、新奇なものではなかった。終末思想を喧伝、強調しすぎる点で嫌悪感すらあったかも知れない。同盟者の大部分はムハンマドの教宣組織の教えに帰依したわけでは全くなかったのである。

 また半島にはムハンマドと正式な同盟を結ばなかった有力な部族もいた。彼らもアラビア半島に生れた政治空白を利用して、覇権を目指した行動を開始した。
 加えてイラクに近い地域では、シャイバーン族など混乱していたサーサーン朝の領土であるイラクへの征服活動を試み、勢力拡大を目指す集団もあった。

 アラビア半島の一神教信仰者の人々の中にはムハンマドの成功を見て、様々な自身の部族内で神の使徒を名乗って活動をしていた預言者達が行動を先鋭化し、各地で周辺の弱小部族へも支持を拡大させていこうとしたことである。
 この預言者達は、ムスリムからは大嘘つきを意味するカッザーブと呼ばれるようになる。続きを読む

ハリーファ伝その2 アブー・バクルの治世その1

■アブー・バクル・アッスィッディーク・アブド・アッラーフ・ブン・クハーファ・ウスマーン・ブン・アーミル・ブン・アムル・ブン・カーブ・ブン・サード・ブン・タイム(573年〜634年8月23日、在位)

 
預言者ムハンマド没後のイスラームの共同体の指導者となった人物がアブー・バクル・アッスィッディークである。初代のハリーファ(ハリーファ・ラスール・アッラーフ)であり、その在位632年〜634年である。
 
 歴代のハリーファの内、スンナ派では初期の4人のイスラーム共同体の指導者を正統ハリーファと呼んでいる(なお血統は関係ないため、「正統」という用語は誤訳であるとする論もあるが、定着した用語であるためこの場では使用している)。
 正統ハリーファ(アルハリーファ・アルラシッドゥーン)とは、「正しく導かれた代理人」の意味であり、後世に規範とされたイスラームの世俗指導者である。
 初期の四人…アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーら「正しく導かれた」ハリーファが支配した期間を理想の時代とするムスリムをスンナ派と呼んで良いであろう。
 
 ただし正統ハリーファの定義が固まる以前は、ウスマーンとアリーを正統と認めない立場、アリーを正統と認めない立場、アリーの息子ハサンが即位したと見做して、5人とする立場を採用する見解もあった。誰が正統のハリーファかを判断する事を、「有徳認定」という。有徳認定はハリーファ以外の初期の教友にも行われることがあるが、イスラーム法学者達の権威付けの虚構が絡んでいてやっかいな問題である。

 なおシーア派では、アリー(とハサン)を除いた3人のハリーファを、ムハンマドの血筋から権力を奪った簒奪者と考えている。

 一般にハリーファには宗教的権威はなく、世俗支配の権限のみをムハンマドから引き継いだと解釈されているが、それはアッバース朝も後期を過ぎてから生み出された論理であり、当初は彼らも宗教的な介入や統制を目指していた事は疑いないであろう。
スンナ派が理想とする社会における国家とは、既述のようにウンマと呼ばれる宗教共同体である。ウンマはムハンマドと彼の生み出した(あるいは所属した)宗教共同体の信仰者たちがマディーナに建設したものを基盤としたものである。
 おそらくムハンマドはマッカとマディーナとその郊外の住民の一部が所属していたシリア起源のユダヤ教的(またはユダヤ教的キリスト教)な敬虔主義的一神教共同体の一員であったのだろう。彼はその宗教共同体の新たな指導者として選ばれたか、あるいは乗っ取り、自身の思想を交えてイスラームの原型を作りあげたのではないだろうか。
 これにマッカ征服後に権威を増したムハンマド個人に対して盟約を結んだアラビア半島のアラブ諸部族、地域の小王国、別の宗教共同体など集団(ジャマーア)を接ぎ木したものが、ムハンマドの創造した新たな王国(マウラカ)であった。
 それでも当初はアラビア半島内での新たな秩序体制として生まれたローカルなものであった。

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ハリーファ伝その1

偏見に満ちたハリーファ伝…ウンマを統治するもの

 
 以下は随分昔にイスラームの指導者ハリーファ(カリフ)について、イスラームの歴史を搦めて、日本で容易に入手できる資料に依拠して簡単にまとめたものを再掲したものである。

 西洋的な価値観をある程度受け入れ、また宗教としてのイスラームがアカデミックな分野においてすら全く根付いていない日本では、このようなイスラーム・カリフ理解が為されており、それが定着しているという一例になればと思って綴られた些か古い文章である。
 同時に古い自分の知識・記憶の記録とも言える
 あくまでアカデミックなものではないので、ご参考までにと言う程度である事をご了承あれ…。

 神は全てを許したもう…。
 

序章:イスラームの指導者論

(1)ハリーファの誕生

 イスラームの指導者と言えばハリーファ(英語風に日本ではカリフと呼ばれる事が多い)と多くの人は考えるであろう。
 このハリーファ(khalīfa)とはアラビア語で代理人、後継者を意味する普通名詞である。
 そして我々日本人が一般的にカリフ、ハリーファと呼んでいるものは「預言者ムハンマドの代理人」あるいは「神の代理人」である政治指導者としてのハリーファとなる。
 アラビアンナイト的な様々な創作物、物語の中でも王、皇帝の称号はカリフとされることが多い。

 歴史的には預言者ムハンマド没後のイスラームの共同体の指導者となったアブー・バクル・アッ=スィッディークという人物がおり、彼を人々はハリーファ・ラスール・アッラーフ(神の使徒の後継者)の称号で呼んだと伝えられている。
 彼アブー・バクルは預言者ムハンマドの義父であり親友で在り、最初期の信徒であり、宣教開始時の教宣組織において娘婿であった豪商ウスマーン(後の第三代ハリーファ)と並ぶスポンサーでもあった。
 
 以下、簡単にハリーファ誕生の経緯を伝承に従って追ってみよう。

 …アラビア半島の大部分を統治し、実質的にアラブの王となった預言者ムハンマドの死後、彼に従う人々の間には直ぐさま問題が発生した。
 アラビア半島の様々な対立関係を調停者として収束させたムハンマドは、宗教者と言うよりも政治家あるいは立法者であったが、その死が対立関係を再び再燃させたのである。 王国の首都的な地位にあったマディーナもまたムハンマドによって和平がもたらされた地であったが、かつての部族間対立が思い返され、またムハンマドの活動を支えてきた宣教当初からの信者(ムハージルーン)と、現首都であるマディーナの信者(アンサール)間の不信が急速に広がっていった。
 マッカのクライシュ族が当然のようにマディーナの諸氏族の上位にあるかのように振る舞うことに不満が累積していたと言う。
 こうした危機に対してアブー・バクルは迅速に行動した。急遽アンサールの話し合いの場に乗り込み、硬軟使い分けた交渉の結果、組織の分裂を主張した彼らを説得することに成功した。そして彼らの同意を経て、教宣組織の指導者に選ばれ、マディーナ市民の同意も後日得ることが出来た…。
 
 実のところ、初期イスラームの政治史は書簡などの同時代史料に欠け、伝承は矛盾があり史実を探し出すことは難しい。どの様な経緯でアブー・バクルが指導者として選ばれたのか詳細は分からないと答えるしかない。
 おそらく基本的な路線としては伝承にあるように、教宣組織の統一こそが各々の利益を確保できる最良の方向性であるとアブー・バクルが説得したのであろう。後の彼の強硬な姿勢を見れば、脅迫まがいのこともあったのかもしれない。実際に脅迫だけで済まず、暴力や暗殺も行使されたかも…。だが残念ながら情報はない。アブー・バクルと対立関係にあり、アブー・バクルには不都合な、異なった伝承が存在するアリー家の立場も明確ではないし、同時代史料もない。

 ともかくムハンマドの創り上げた王国は首都中心部での大きな衝突・分裂を回避する事が出来たのは間違いない。そして有力な信者であったウマル(後に第二代ハリーファに就任)とアブー・ウバイダの後押しも在り、マディーナの主要な信者達の同意、忠誠の誓い(バイア)を得て、彼は新たな王(あえてこう書こう)に就任した。

 アブー・バクルは、その就任した際に行った演説の伝承で述べているように、独裁的な支配者に成ろうとは考えていなかったとされる(そもそも、そんなことは不可能であったであろうが)。
 先述のように彼は王とか族長とは名乗らず、彼は自分をあくまでムハンマドの代理人(ハリーファ)に過ぎないと、その立場を自ら位置づけたと伝えられている。
 当初から彼は、預言者の残したものを引き継ぎ、護り、次世代に伝えるための信者共同体のとりまとめ役でしかなかった。宗教的権威は預言者に比べるべくもなく、また政治的指導権ですら、どの程度認められたかすら怪しい。そして、おそらく意図的にそのような伝承が残されて、流布されて来たことも留意が必要だろう。

 伝承におけるアブー・バクルは、即位後、創設者を亡くして混乱した宗教組織を維持し、言葉も微妙に違う諸部族が混淆した共同体「ウンマ」の統一維持に腐心し、行動に移したのである。

 アブー・バクルは就任直後、早速発生した共同体構成員達の不平・不満に対処しなければならなかった。首都マディーナの対立は話し合い?で解決したものの、同盟を結んだアラブのいくつかの部族が、ムハンマドと結んだ条約に基づいた喜捨(と言う名の税)の支払いを拒否したからだ。ムハンマドが死亡したことで契約も消滅したと考えたのである。
 アブー・バクルはムハンマドの定めたことを改変する行為を恐れて嫌い、ウマルなどの同志有力者の反対にもかかわらず強硬な態度を崩さなかった。預言者時代と同様の喜捨を拒んだ諸部族を背教者として難詰し、武力で制圧することを選択したのである。

 その後行われた各部族への討伐戦は背教者(リッダ)戦争と呼ばれる。彼らの多くは前述の如く、旧来のムハンマド個人に対する喜捨を(彼の死によって無効になったからと)拒んだのであって、共同体を離脱するつもりはなかった。ウマルが諫言した様に、今後の戦争のためにも彼らと妥協する選択もあったはずである。
 しかしアブー・バクルは妥協を拒否した。
 ムハンマドの指示は、神から下されたもので在り、信徒が勝手に改変する事は出来ないとアブー・バクルは考えたと言う。これはイスラームの教義の根幹、原則となっていくものである。ムハンマドの定めたことを絶対視し、その権威を統治に利用するしたのであろう。これは重要な前例となった(あるいは前例として創作された)。

 喜捨を拒むことを背教と判断したように、アブー・バクルはハリーファが預言者ムハンマドの後継者として政治実務と同時に、宗教的な判断をムハンマドの発言や前例を鑑みて行い、またそれに依拠した立法を行うことを決意していた事が窺える。つまり、これは後の法学者の立場と重なるので、いささか史実かどうかは怪しい。

 アッバース朝時代も後期になるとイスラームについての宗教的な判断と神の法の導出は、それを行う民間の専門的知識人階層ウラマーが担う事になるが、初期の時代はハリーファ自身がその最終的な判断を行っていたと思われる。その根拠、法源はハリーファ自身の私見であった場合も多かったであろう。ムハンマドの政治的権威のみをハリーファが引き継いだわけではなかったと思われる。
 ハリーファは『ムハンマドの代理人』なのだから。
 だが当然ながら初期のハリーファ政権においては司法と立法、行政の役割分担は曖昧であった。
 そもそも法律そのものが確固として存在してはいなかった。

 アブー・バクルはまたハリーファ自身に背教的行為があると人々が判断すれば、自分の地位に疑義を挟むことを許容していたと言う。ハリーファの可謬性の認可は、その地位・権威を不安定なものとしたと言えるだろう。初期のハリーファの権力に明確な正統性はなく、暫定的な存在でしかなかったのは確かであろう。ウンマは政治組織としてありとあらゆる事が曖昧なままであったから、ハリーファ個人の地位は暴力で容易に覆された。

 アブー・バクル以後の歴史的な政治の展開も実は良く分からない。
 後の時代に記録されたイスラーム初期についての情報は、やはり伝承や記録の中で改変されていったものしか残っていないからだ。様々な政治的・宗教的な立場の人々によって、それぞれに都合の良い物語が作られていったのである。
 現代まで引き継がれたハリーファの正統性や資格に関する論理が確立したのは、実は10世紀以降であると言うのが現在の通説である。当時のアッバース朝の御用学者達が、すでに実権を失い傀儡・形骸化したハリーファと言う存在を何とか存続させるために、同時に自分達の地位の安定のために生み出した虚説と言うことになる。
 しかし、それは時とともに「スンナ派」の人々を作ることと成り、その共通の合意として受け入れられていった。イスラームにとって異議のない合意が一旦形成されると、それは強い重みを持つ。これを改変する事は中々困難になるのだ。歴史的真実よりも暗黙の合意が優先され、共同体内での「真実」と化すことはイスラームに限らず良くある事である。そもそも歴史的な事実など、イスラームにとっては重要ではない。この様な合意が形成されたこと自体が、アッラーフの為されたことでしかないからだ。

 次はこの合意が形成された歴史的経緯を簡単に記述してみよう。

 続く
 
 

大月氏通史その16

 第14章 カニシュカ王の治世と信仰

 カニシュカ王はクシャーン朝で最も有名な王である。仏教を保護した王としても知られており、北伝仏教では第三回あるいは第四回結集を行ったとも言われる。
 しかし彼の治世については後漢書が完全に沈黙しているため、伝存する文献資料が少ない。そのため主に貨幣や碑文、そして伝承などに頼るしかない。
 彼の治世では貨幣や碑文の分布などから、カウシャーンビーからサータケまで勢力を及ぼしたと考えられる。ただしラバータク碑文に名が出てくるパータリプトラで遺物が見つかっていないことから、彼の地が征服の目標とは成っていたのかも知れないが、実効支配が及んでいたかは不明である。

 ここにクシャーン朝は最大領域を実現したのであるが、だがこれ以上の領土拡大は難しかったと思われる。西のアルシャク朝は最盛期のローマ帝国の攻勢を受けてクシャーン朝を攻撃するゆとりはなかったものの、逆にクシャーン朝が彼らの本拠地たるイラン東部を攻略するにはリスクが大きすぎたし、インド方面も大国が存在するデカン高原まで征服することは不可能であった。カニシュカ王としても広大な帝国の内政を固め、交易の利益の求めるのが現実的であったと思われる。

 カニシュカ王のギリシャ貨幣の銘文は諸王の王カニシュカ『ϷΑΟΝΑΝΟϷΑΟ ΚΑΝΗϷΚΙ ΚΟϷΑΝΟ』であり簡潔である。プラークリット語の貨幣には、大王(マハーラージャ)、諸王の王(ラージャンラージャ)、皇帝(カイサラ)、神の子(ディーヴァプトラ)などと記されており、各地の豪族、諸王達よりも自身の権威が上位である事を知らしめさせた。
 表面のデザインは前王とよく似ている。長い顎髭を持つ鷲鼻の王の立像が描かれており、王は膝まであるロングコート(または鎖帷子)を纏い、下半身にはズボンとロングブーツを身につけている。その肩からは炎を発し、左腰に長刀を帯び、右手を犠牲を捧げるための祭壇あるいは拝火壇に置き、左手に槍もしくは軍旗を持っている。一方、カニシュカ王の正統性を象徴する裏面のデザインはより多彩になっている。そこに刻まれた神々はクシャーン帝国各地で信仰されていた様々な神格が取り入れられている。その支配地域の広がりに伴い、信仰を異にする集団毎にクシャーン王を正統と認めた証として神格を打刻した貨幣を供給したのであろう。

 ギリシャ系では主なものにΗΛΙΟΣ(エリオス、ヘリオス神)、ΗΦΑΗΣΤΟΣ(エファエストス、ヘーファイストス神)、ΣΑΛΗΝΗ(サレーネー、セレネー女神)、ΑΝΗΜΟΣ(アネーモス、風神アネモイ達)などがある。

 イラン系、ゾロアスター教の神格が最も多彩で、クシャーン家の信仰がイラン系であったことが解る。ΑΡΔΟΧϷΟ(アルドクショ、アシ女神)、ΛΡΟΟΑΣΠΟ(イローアスポ、ドラースパ女神、ΑΘϷΟ(アドショ、アータル神)、ΦΑΡΡΟ(ファッロ、神の光輝フワルナフの神格化したもの)、ΜΑΟ(マオ、月神マー)、ΜΙΘΡΟ, ΜΙΙΡΟ、ΜΙΥΡΟ(ミスロ、ミッロ、ミウロ。ミフラ神)、ΜΑΝΑΟΒΑΓΟ(マナオバゴ、ウォフ・マナフ神)、ΝΑΝΑ(ナナ、アナーヒター女神)などである
 
仏教と向けであったと思われる貨幣には仏陀像が刻まれている。ΒΟΔΔΟ(ボッド、仏陀)、ϷΑΚΑΜΑΝΟ ΒΟΔΔΟ(シャカマノ・ボッド、釈迦牟尼仏陀)、ΜΕΤΡΑΓΟ ΒΟΔΔΟ(メートラゴ・ボッド、マイトレーヤ(弥勒菩薩)…などの神名が見える。

 次にカニシュカに関連した碑文について眺めてみよう。

 彼についての最も重要な碑文はラバータク碑文であり、彼の王統について重要な情報をもたらしたことで知られる。

 …〔不詳〕…偉大なる救済者、クシャーンのカニシュカ、正しき者、公正なる者、君主、崇拝に値する神は、
 ナナ神および全ての神から王権を授けられた。神々が望んだために、(新たな紀元)1年を始めた。彼はギリシャ語で勅命を発して、それを(以後)、アルヤ語(バクトリア語)に置き換えた。
 (カニシュカ)紀元元年(のうち)に、それはインド、クシャトラパ達の(治める)諸都市、またα δρ α γο (?)の占領地、ωζο πο(?)、サーケタ、カウシャーンビー(現コーサム)、パータリプトラ、シュリーチャンパーに布告された。
 何処(の町)であれ,彼,そして他の将軍(?)たちは到達し,(その)意思の下に服従させ,全インドを意思の下に服従させた。
 カニシュカ王はカーラルラング職のシャファルへ、この場所カシグ平原にバゲ・アーブ と呼ばれる神殿を建てるように命じた。栄光の女神ウンマの面前に現れたこれらの神々即ち、上述のナナ女神、上述のウンマ女神、アフルマズド…勝利者たるマズダ神?、スロシャルド神、ナラサ神、(そして)ミフルのために。そして彼はまさにその(即ち)ここに記された、これら神々の彫像を作るように命じた。そして,これらの諸王…曾祖父クジュラ・カドフィセス王((κο ζουλ ο κα δφ ι σο)、祖父ヴィマ・タウトゥ(οοημο τακτοο)王、父ヴィマ・カドフィセス(οοημο καδφισε)王,そしてカニシュカ王自身(の像)を作るように命じた。
 諸王の王として、神々の子カニシュカが作るように命じ、カーラルラング職のシャファルがこの神殿を建てた。そしてカーラルラング職のオヤシュ、カーラルラング職のシャファル、ハシュトワルグ職のノコンゾクが王の命令を遂行した。
 ここに記された神々が,諸王の王カニシュカを永遠に健康に、幸運に、(そして)勝利を得て保たんことを。王、神々の子は、紀元元年から6(?)年まで全インドを制圧(?)していた。…この神殿は紀元元年に建てられ(?),また紀元3(?)年に……王の命令によって、多くの儀式(?)が行われ,多くの奉仕人が集められ、多くの…が与えられた。そしてカニシュカ王は、この城砦を神々に捧げた。そしてバゲ・アーブで…これらの自由人たちのために…(以下不詳)

 この中で公用語を従来のギリシャ語から、アルヤ語(母国語)に変更したことが明記されている部分が重要である。これはクシャーン朝の宮廷において、通常話されていた言葉がバクトリア語であったことを物語っている。大月氏が西遷する以前の公用語はトカラ語であったと思われるので、バクトリアを長く統治する中で、使用言語が代わっていったと言うことなのだろう。故地である西域にトカラ語話者の存在が認められるため、カニシュカ即位の頃までに勢力を増したバクトリア在地勢力に反抗した既存の勢力にトカラ語話者がおり、政権から追放された可能性もある。カニシュカ王即位自体がバクトリア人勢力の援助があった、などどと妄想も出来るが…。

 また多数の神々がクシャーン朝の領域では信仰されていた。碑文と貨幣に見出される神だけでも30柱以上である。特にこの碑文に見いだせる神は重要な神格と考えられる。

 まず碑文の記述からナナあるいはナナイア女神は、王権をクシャーン王に授ける役目を持った重要な神である事が判る。
 丈の長いドレスを着て、先端に馬の頭(あるいは牡鹿の角)の付いた杖を左手に、右手には聖杯を持った美しい女性の姿で表現されている。東部にはイランの神らしく後光が表現され、ギリシャ風に王権を表すディアデム(鉢巻)を付け、頭上には三日月が表現されている。
 
 ナナはイナンナとして知られるシュメールの神がその起源とされる。
 良く知られている通り、イナンナはアッカド帝国ではイシュタル、シリアではアスタロテ、古代ギリシャではアプロディーテー、ローマのウェヌスと関連あるいは同一視される重要な女神である。水と植物の繁茂、家畜の繁殖を司る豊穣の女神であり、またシュメールにおいて王権を授与する役割を持っていた時期があった。そして同様な機能がナナイア女神に引き継がれていたのだろう。
 イナンナ信仰は紀元前のパルティア統治時代のイラン西部に広がり、特にスーサでは都市の守護神となっていった。
 一方、グレコ・バクトリア、インド・グリーク朝時代にはバクトリア起源の大河の女神アナーヒターとアルテミス神との習合が起こり、バルクでは守護神となるなどアナーヒター=アルテミス信仰が興隆した。
 さらに元来イシュタル信仰との関連が深かったアナーヒター女神のイランでの信仰の影響を受けて、次第にアナーヒターはイシュタル=イナンナ女神と混淆されていったと推測されている。
 そしてインド・グリーク朝の後継者でもあるクシャーン朝の時代にはイナンナ=ナナイア女神は、アナーヒターと同一の女神と考えられるようになっていた。
 クシャーン朝ではバクトリアの主神とも言うべきアナーヒターの名を碑文やコインに見ることがない。クシャーン人の間では、豊穣の女神はナナの呼び名の方が一般的であったからと思われる。なおナナイアはもう一人のクシャーン朝の豊穣の女神アルドクショと共に王朝の繁栄を祈る信仰の基礎を担っていた。前者が水、植物、家畜を司り、後者は炎の神ウァロの妻として王朝・国家の繁栄を司る母神の機能を司っていたようである。
 アルドクショはイラン神話における運命の女神アシ・オフショだろうと考えられているが、諸説あるようだ。リボンを巻いた頭部から光を発し、穀物の芽を表現した豊穣の角コルヌコピアを手に持った姿で表現され、後にクシャーン朝ではデメテール女神と同一視されたハーリーティー女神(日本では鬼子母神として知られている)と習合していった。

 碑文にはもう一人女神の名が見いだせる。ウンマ女神である。おそらくウマー、つまりシヴァ神の妻パールヴァティーの事であろう。インドを支配下に治めるクシャーン朝としては重要な女神であった。

 アフルマズド…勝利者たるマズダ神は無論アフラマズタ…ゾロアスター教の最高神である。クシャーン朝の信仰体系においても無視できない存在で在り、その神格としての地位は高いのであるが、唯一の絶対者という感覚はなさそうである。スロシャルド神(スラオシャ)、太陽神ミフラと同列の様である。

 ナラサ神は、インドではマハーセーナ、ヴィシャーカ神と同一視されている。ヴィシャーカ神はシヴァの息子あるいは、その分身とされる軍神、つまり鳩摩羅天・韋駄天スカンダ神のことである。同様にスカンダと同一視されるウェーショー神との関連が興味深い。地域毎に信仰されていた似た正確の別の神格が、シヴァに統合された結果なのかも知れない。


 またカニシュカ王は仏教の保護者さらには仏教徒であるとされることがある。
 無論、貨幣的にはカニシュカ王の貨幣に仏陀の立像や弥勒菩薩の座像を打刻したものがあるが、それは王が改宗したことを意味しない。様々な神外を信仰する多様な集団を勢力範囲内に抱えていたクシャーン帝国の王としては、仏教徒向けのプロパガンダとして、王権を授けられ維持できているのは仏陀のおかげで在り、かの教祖への敬意を表明していただけなのかも知れない。
 またカニシュカは仏典の結集を行ったとされることもある。
 大月氏やクシャーン朝と関係の深い于闐国の建国神話では、その祖先をアショーカ王としているが、カニシュカについても彼を転輪王として、アショーカ王よりも賞賛している節がある。

 『是の如く聞いた。まさに即ち、世尊仏陀が涅槃したとき、その他の地において100年が過ぎた。その時によってバーハラカの領地・トカーリスターンに彼を生んだ勇猛有徳智なる力転輪王達の一族がいた。世尊仏陀によって予言されたチャンドラ・カニシカという名の力転輪王が閻浮提に出た』
 
 実際には西域へは、カニシュカ王以前にバクトリアからの移住者が多数いたと考えている。ガンダーラ語が西域で用いられている事から、仏教は彼らによって伝播された可能性がある。その移住地は大唐西域記に見える都貨羅故国(エンデレ)のことだろう。
 ガンダーラ仏教はクシャーン朝で大いに発展したが、クシャーン朝以前の史料については確実なものはない。

 またバラモン達への支援もクシャーン朝は行っていた。信徒の貴族達は商業活動に投資して利子を得て、バラモン達や貧しい者への食料支援を行っていたことが碑文から判っている。インドでは当然ながらバラモン達の宗教的影響力は仏教などよりも遙かに大きく、彼らを援助するのは統治の上で欠かせないことであった。

 またジャイナ教も発展が著しい。商人に支持されたジャイナ教は経済活動に当然深く関わっており、クシャーン朝は彼らを熱心に支援している。勿論、交易を活発化させ、王朝の財政に寄与させるためである。クシャーン朝時代のジャイナ教の拠点で会ったマトゥラーは帝国でも重要な都市であったが、ジャイナ教信仰が盛んであった。第21代ティールタンカラ・ナミナータの生誕の地であるとされているからである。
 ティールカンタラとはジャイナ教の始祖ジナ(マハーバーラ)より前に存在したという伝説の救世主であり、幾人かは実在したと考えられている聖人達のことである。クシャーン朝時代製作と考えられるティールタンカラ像が100体以上もマトゥラー周辺から発見されており、この時代の興隆を物語っている。ストィーパも複数建立あるいは改修され、碑文も多数残っている。組織はいくつかの門派に分かれており、教団の教育システムや在家信者からの寄進はかなり組織化されていたようである。ただし商業活動によって収益を得るシステムではなく、あくまで財政の基盤は在家からの寄進であったようである。

 
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