アレクサンドロス大王の時代
著名なアレクサンドロス大王の治世に関しては改めて書く必要はないであろう。
主要な日本語で読めるし、彼に関する多数の本が日本でも出版されているからだ。
次に主要な参考文献を挙げておく。
まずは伝カリステネス、アッリアノス、プルタルコス、ルフス、ディオドロスの大王伝。
アレクサンドロス大王物語 (ちくま学芸文庫)
アレクサンドロス大王東征記〈上〉―付インド誌 (岩波文庫)
アレクサンドロス大王東征記〈下〉―付・インド誌 (岩波文庫)
新訳 アレクサンドロス大王伝
アレクサンドロス大王伝 (西洋古典叢書)
ディオドロスに関しては本としては出版されていないが、帝京史学に森谷公俊氏の訳文が公開されている。
ディオドロス・シクロス『歴史叢書』第十七巻
「アレクサンドロス大王の歴史」訳および註(その一)
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/kmoritani24.pdf
ディオドロス・シクロス『歴史叢書』第一七巻
「アレクサンドロス大王の歴史」訳および註(その二)
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/shigaku25-05.pdf
ディオドロス・シクロス『歴史叢書』第一七巻
「アレクサンドロス大王の歴史」訳および註(その三)
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/shigaku27-05.pdf
加えて以下の解説書をガイドにアレクサンドロス大王の軌跡を理解することになるだろう。
興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話 (講談社学術文庫)
図説 アレクサンドロス大王 (ふくろうの本)
アレクサンドロス大王 東征路の謎を解く
アレクサンドロス大王―「世界征服者」の虚像と実像 (講談社選書メチエ)
アレクサンドロス大王―今に生き続ける「偉大なる王」 (世界史リブレット人)
アレクサンドロス大王 (刀水歴史全書)
以下、アルサケス朝パルティアに関係していることを簡単に記述する。
マケドニアの侵略が開始される以前、前述したように時の皇帝ダレイオス3世は混乱していた王位継承問題をようやく解決し内政に取り組み、それなりに成果を挙げていた。
彼は決して無能な政治家ではなかったが対するマケドニア王フィリッポス2世は世界史上でも稀な名君であり、政治的・軍事的な天才であった事が彼を破滅に導くこととなった。
アレクサンドロス大王の東征は大半がこの父フィリッポス2世の遺産の上での成功である事は間違いない。
父の残した制度、堅実な作戦計画などを基にアレクサンドロスは無謀な冒険を行ったのである。
しかし結果として大王の東征は予想を超えた大成功を収めた。
ダレイオス3世は戦略的な過ちをいくつか犯してはいるものの、戦場での敗北を重ねた事がその敗亡のやはり原因であった。またペルシア貴族達にも軍人として有能なものは多くいたが、即位の経緯から彼らを掌握しきれていなかったのではないか。ダレイオス3世はマケドニアに敵対的なギリシア人を含め、帝国の人材を活用できなかった。
両国の最終決戦となったガウガメラの戦いでダレイオス3世が敗れ逃亡したのち、アケメネス朝は全く求心力を失い権力の空白が各地に生まれた。
東方に逃走したダレイオス3世は従兄弟のベッソスに暗殺され、ベッソスも力量に欠け貴族たちに見放され、アレクサンドロス大王に捕らえられ処刑された。アケメネス朝は男系の後継者を失い、ここに消滅したのである。
ペルシア貴族や有力者は、安全確保のためにその多くがマケドニア軍人の支配を受け入れた。
またギリシャ人との接触の機会が増えたことで、パルティアに関する情報も散見されるようになった。
この時代にパルティアに存在した住民は勿論、後のパルティア人とは別の集団であったと思われる。
農耕民も居たであろうし、牧民も居たであろう。言語も変動し、同一の集団が100年以上も変わることなく住み続けた訳ではない。
ただし、この地を遊牧の場として居を構えたスキタイ系騎馬遊牧民達は存在したかもしれない。パルティア出身の騎兵が言及されるからである。イラン高原に移動したペルシア人やインドに移動した人々と違い、長く中央アジアに残留して(あるいは孤立し)、その遊牧民としての風俗を維持した存在であったと考えられる。
とは言え長期間隔絶された事により、その言語、文化、習俗、外見などの人種的な特徴は、特にイラン北西部の影響を受け各地に散って行った血族と随分異なったものとなっていた。
ガウガメラの戦いに参加した兵士の中にもパルティアイオイも言及され、ペルシア貴族マザイオス指揮のペルシア軍右翼部隊に編入されていた。兵種は軽装騎兵であったようである。このためダレイオス3世時代にもパルティアは帝国の支配下にあったこととなる。
しかしダレイオスが暗殺されると、パルティア総督であったブラザネスは降伏して捕らえられた。その後、アッリアノスによるとパルティアは現地人であるアンミナスペスが総督となり、それを監視する形でヘタイロイ騎兵出身のマケドニア人将軍トレポレモスが現地に赴任した。さらにトレポレモスが空位となったカルマニア総督に転任するとマケドニア人プラタペルネスが任官した。
しかし予期せぬアレクサンドロス大王の急逝によって、生まれたばかりの大帝国は瞬く間に瓦解していくことになる。
著名なアレクサンドロス大王の治世に関しては改めて書く必要はないであろう。
主要な日本語で読めるし、彼に関する多数の本が日本でも出版されているからだ。
次に主要な参考文献を挙げておく。
まずは伝カリステネス、アッリアノス、プルタルコス、ルフス、ディオドロスの大王伝。
アレクサンドロス大王物語 (ちくま学芸文庫)
アレクサンドロス大王東征記〈上〉―付インド誌 (岩波文庫)
アレクサンドロス大王東征記〈下〉―付・インド誌 (岩波文庫)
新訳 アレクサンドロス大王伝
アレクサンドロス大王伝 (西洋古典叢書)
ディオドロスに関しては本としては出版されていないが、帝京史学に森谷公俊氏の訳文が公開されている。
ディオドロス・シクロス『歴史叢書』第十七巻
「アレクサンドロス大王の歴史」訳および註(その一)
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/kmoritani24.pdf
ディオドロス・シクロス『歴史叢書』第一七巻
「アレクサンドロス大王の歴史」訳および註(その二)
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/shigaku25-05.pdf
ディオドロス・シクロス『歴史叢書』第一七巻
「アレクサンドロス大王の歴史」訳および註(その三)
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/shigaku27-05.pdf
加えて以下の解説書をガイドにアレクサンドロス大王の軌跡を理解することになるだろう。
興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話 (講談社学術文庫)
図説 アレクサンドロス大王 (ふくろうの本)
アレクサンドロス大王 東征路の謎を解く
アレクサンドロス大王―「世界征服者」の虚像と実像 (講談社選書メチエ)
アレクサンドロス大王―今に生き続ける「偉大なる王」 (世界史リブレット人)
アレクサンドロス大王 (刀水歴史全書)
以下、アルサケス朝パルティアに関係していることを簡単に記述する。
マケドニアの侵略が開始される以前、前述したように時の皇帝ダレイオス3世は混乱していた王位継承問題をようやく解決し内政に取り組み、それなりに成果を挙げていた。
彼は決して無能な政治家ではなかったが対するマケドニア王フィリッポス2世は世界史上でも稀な名君であり、政治的・軍事的な天才であった事が彼を破滅に導くこととなった。
アレクサンドロス大王の東征は大半がこの父フィリッポス2世の遺産の上での成功である事は間違いない。
父の残した制度、堅実な作戦計画などを基にアレクサンドロスは無謀な冒険を行ったのである。
しかし結果として大王の東征は予想を超えた大成功を収めた。
ダレイオス3世は戦略的な過ちをいくつか犯してはいるものの、戦場での敗北を重ねた事がその敗亡のやはり原因であった。またペルシア貴族達にも軍人として有能なものは多くいたが、即位の経緯から彼らを掌握しきれていなかったのではないか。ダレイオス3世はマケドニアに敵対的なギリシア人を含め、帝国の人材を活用できなかった。
両国の最終決戦となったガウガメラの戦いでダレイオス3世が敗れ逃亡したのち、アケメネス朝は全く求心力を失い権力の空白が各地に生まれた。
東方に逃走したダレイオス3世は従兄弟のベッソスに暗殺され、ベッソスも力量に欠け貴族たちに見放され、アレクサンドロス大王に捕らえられ処刑された。アケメネス朝は男系の後継者を失い、ここに消滅したのである。
ペルシア貴族や有力者は、安全確保のためにその多くがマケドニア軍人の支配を受け入れた。
またギリシャ人との接触の機会が増えたことで、パルティアに関する情報も散見されるようになった。
この時代にパルティアに存在した住民は勿論、後のパルティア人とは別の集団であったと思われる。
農耕民も居たであろうし、牧民も居たであろう。言語も変動し、同一の集団が100年以上も変わることなく住み続けた訳ではない。
ただし、この地を遊牧の場として居を構えたスキタイ系騎馬遊牧民達は存在したかもしれない。パルティア出身の騎兵が言及されるからである。イラン高原に移動したペルシア人やインドに移動した人々と違い、長く中央アジアに残留して(あるいは孤立し)、その遊牧民としての風俗を維持した存在であったと考えられる。
とは言え長期間隔絶された事により、その言語、文化、習俗、外見などの人種的な特徴は、特にイラン北西部の影響を受け各地に散って行った血族と随分異なったものとなっていた。
ガウガメラの戦いに参加した兵士の中にもパルティアイオイも言及され、ペルシア貴族マザイオス指揮のペルシア軍右翼部隊に編入されていた。兵種は軽装騎兵であったようである。このためダレイオス3世時代にもパルティアは帝国の支配下にあったこととなる。
しかしダレイオスが暗殺されると、パルティア総督であったブラザネスは降伏して捕らえられた。その後、アッリアノスによるとパルティアは現地人であるアンミナスペスが総督となり、それを監視する形でヘタイロイ騎兵出身のマケドニア人将軍トレポレモスが現地に赴任した。さらにトレポレモスが空位となったカルマニア総督に転任するとマケドニア人プラタペルネスが任官した。
しかし予期せぬアレクサンドロス大王の急逝によって、生まれたばかりの大帝国は瞬く間に瓦解していくことになる。