金曜担当 D:ヤマダコウ
私は直江兼続の得意分野は
戦ではなく関ヶ原の戦い後の
困窮した米沢藩を復興させた
内政手腕ではないかと思う。
上杉家は貧しいながら
兼続には6万石を与えていた。
しかし兼続自身は5千石ほどで生活し
石高のほとんどは家臣達に
分け与えていたそうだ。
藩、家臣、民のことを思い、
自ら苦しみを皆と分かち合い
政治を行う直江兼続の姿を
現在の国会議員の方々にも
勉強して見習って欲しいものである。
西軍についた上杉景勝は
家康に謝罪し
上杉家の存続は許されたが
会津120万石から
出羽米沢30万石になり
大幅な減移封になってしまう。
そもそも米沢は
直江兼続の領土であり
主人が家臣の領土に移るという
なんとも屈辱的でいやらしく
家康らしい裁定である。
しかし、直江兼続はここで本領を発揮する。
一時は120万石にまでになり
繁栄していた上杉家は、
多くの家臣を召し抱えていたため、
30万石に激減し
全ての家臣を養って行くのは
非常に厳しい状況になってしまった。
重臣達が減員を提案する中、
「復興するのに人程大切なるものはいない」と
家臣が去る事を許さなかった。
兼続は少しでも石高を上げる為に
新たな土地の開墾を進め
それに伴い治水事業に力を入れ
『直江石堤』と言われる堤防を作った。
これにより新田開発が進み
表向きは30万石だが
実際は51万石と言われるまでになった。
また殖産興業に力を入れ
木綿が普及していなかった当時
衣服の材料として貴重だった
青苧(あおそ)や漆を栽培して利益をあげた。
そして兼続は
自ら質素な生活をし
家臣達の家には栗や柿
そして生垣にはウコギを植えさせ、
食用に出来る植物を植える事により
生活の助けになる様に心を配っていた。
後の上杉鷹山も兼続を手本にして
藩政改革を行ったそうだ。
次週は直江兼続の人物について
書こうと思う。
写真は上杉謙信所用の
色々威腹巻だ。
戦勝の神「飯綱権現」を兜の
前立にしている。
私は直江兼続の得意分野は
戦ではなく関ヶ原の戦い後の
困窮した米沢藩を復興させた
内政手腕ではないかと思う。
上杉家は貧しいながら
兼続には6万石を与えていた。
しかし兼続自身は5千石ほどで生活し
石高のほとんどは家臣達に
分け与えていたそうだ。
藩、家臣、民のことを思い、
自ら苦しみを皆と分かち合い
政治を行う直江兼続の姿を
現在の国会議員の方々にも
勉強して見習って欲しいものである。
西軍についた上杉景勝は
家康に謝罪し
上杉家の存続は許されたが
会津120万石から
出羽米沢30万石になり
大幅な減移封になってしまう。
そもそも米沢は
直江兼続の領土であり
主人が家臣の領土に移るという
なんとも屈辱的でいやらしく
家康らしい裁定である。
しかし、直江兼続はここで本領を発揮する。
一時は120万石にまでになり
繁栄していた上杉家は、
多くの家臣を召し抱えていたため、
30万石に激減し
全ての家臣を養って行くのは
非常に厳しい状況になってしまった。
重臣達が減員を提案する中、
「復興するのに人程大切なるものはいない」と
家臣が去る事を許さなかった。
兼続は少しでも石高を上げる為に
新たな土地の開墾を進め
それに伴い治水事業に力を入れ
『直江石堤』と言われる堤防を作った。
これにより新田開発が進み
表向きは30万石だが
実際は51万石と言われるまでになった。
また殖産興業に力を入れ
木綿が普及していなかった当時
衣服の材料として貴重だった
青苧(あおそ)や漆を栽培して利益をあげた。
そして兼続は
自ら質素な生活をし
家臣達の家には栗や柿
そして生垣にはウコギを植えさせ、
食用に出来る植物を植える事により
生活の助けになる様に心を配っていた。
後の上杉鷹山も兼続を手本にして
藩政改革を行ったそうだ。
次週は直江兼続の人物について
書こうと思う。
写真は上杉謙信所用の
色々威腹巻だ。
戦勝の神「飯綱権現」を兜の
前立にしている。