激変する年齢構造

 最も重要な二十一世紀の現実は、破局的ともいうべき少子化の進行であるしかも、これは人類史上初めてのものである

 すでにヨーロッパと日本では、出生率が人口を維持できないところまで下がった。人口の維持に必要な二・一をはるかに下回っている。イタリアの豊かな地域例えばボロー二ャなどでは、1999年の出生率は〇・八まで下がる勢いである。日本でも一・三まで下がりつつある。

 つまるところ、日本とヨーロッパ、特にポルトガル、スペイン、フランス南部、イタリア、ギリシャなどの南欧諸国は、二十一世紀末には集団自殺同然の様相を呈する。現在六千万人のイタリアは二千万人から二千二百万人、一億二千五百万人の日本は五千万人から五千五百万人に減少する恐れがある。北欧諸国さえ、出生率は既に一・五となり、さらに下がり続けている。

 アメリカでも出生率は二・〇以下となり、下がり続けている。しかも二・〇近くの水準を保っていられるのは、メキシコなどからの移民一世が、母国の高い出生率を引きずっているからにすぎない。

 ヨーロッパでは、すでに人口はピークに達した。日本も間もなくそうなる。アメリカでは二十年から二十五年で達する。そのアメリカさえ、2015年以降、人口が伸びるのは五十五歳以上人口だけとなる。

 重要なのは、人口の総数より年齢構造である。人口二千万人となる2080年のイタリアでは、十五歳未満人口はごくわずかとなり、六十歳以上人口が圧倒的に多くなる。日本も同じようになる。アメリカさえ、すでに十五歳未満人口よりも定年後人口の伸びの方が大きい。アメリカの場合、2015年までは、絶対数では十五歳未満人口の方が大きい。だが、その後は急速に減少に向かう。

  (もちろん、第二次大戦直後のアメリカのように、出生率が短期間に大きく上昇する可能性はある。しかし出生率が急激に上昇しても、生まれてくる赤ん坊が労働力となるには、少なくとも二十年を要する。

  史上例のない大量移民でも起こらない限り、先進国では労働力人口の急激な減少をとめる手だてはない。アメリカでは2015年前後に労働力の減少が始まる。他の先進国ではもっと早く始まる。)

 これは類のない変化である。記録は残っていないが、ローマ帝国も250年頃、出生率の低下に見舞われたようである。しかし、「定年後人口が十五歳未満人口を上回る」などという、すでにヨーロッパの一部で見られ、二十一世紀半ばにはあらゆる先進国で見られるようになる事態には、全く前例がない

 少なくともこれまでの二百年間、先進国特に先進国の企業は、人口が増加することを前提としてきた。

  (西洋では、1400年以降、人口は増加する一方となった。とくに1700年以降第二次大戦後の一時期まで、人口は急速に増加した。日本では、戦国時代の終わった1600年頃から、人口が徐々に増加を始めた。1800年以降第二次大戦までは急速に増加した。)


 今や、先進国ではあらゆる組織が、人口とくに若年人口の減少という全く新しい現実を前提として、経営戦略を立てなければならなくなっている


高齢化の問題

 他方、今日先進国において、エコノミスト、政治家、一般国民の関心を惹いている高齢化の方は、特に目新しいことではない。先進国では、十八世紀に平均寿命の延びが始まり、十九世紀に加速した。むしろこの五十年間は、加速の度合いは弱まっている。

 そのうえわれわれは、高齢化の問題については、対処の仕方をある程度知っている。確かに高齢化は、難しく、気のめいる問題である。だが今後二十年あるいは三十年後には、先進国では定年が、実に七十九歳まで延長されることもありうる。何故ならば、たとえばアメリカが公的年金を導入した1936年当時の年金受給開始年齢六十五歳は、当時の平均寿命からして、今日では七十九歳に相当するからである。

 また、今日の途上国で見られる人口増加も、目新しい問題ではない先進国の百年前の人口増加と同じ性格のものである。途上国の方が、とくに増加率が高いわけではない。しかも途上国の人口増加率は、インドは例外として、すでに天井を打っているしたがって、途上国の人口爆発は、危機的な水準に達する前に落ち着く、すでに「食料や原料は、大問題にならずにすむ」ことが明らかになっている

 たしかに水と大気汚染は問題である。人口と環境をバランスさせなければならない。だがこの問題でさえ、通常考えられているように、全く新しい問題というわけではない。ドイツのルール地方など、すでに二十世紀初めのヨーロッパで経験され、解決されたことのある問題である。

少子化の意味

 繰り返すならば、われわれにとってまったく未経験の新しい問題が、先進国における破局的ともいうべき「少子化の進行」である。その意味するところのものは、すでに明らかである。

ⅰ)今後二十年から三十年において、先進国では、人口構造をめぐる諸々の問題が政治の中心となる。当然、それは喧々諤々たるものとなる。今日、少子化の危機に備えのできている国はない人口構造についての問題意識に従って組織された政党や政策協調は表れていない。定年延長の主張は、右翼と位置づけるべきか、左翼と位置付けるべきか。六十歳以降の就業促進を目的とする所得税の高年者減税は、進歩的というべきか、保守的というべきか。

 同じように、あるいはそれ以上に難しい問題が「移民の受け入れ」である人口が減少する豊かな先進国のすぐ隣に、人口が増加する貧しい途上国がある。アメリカの隣には中央アメリカとカリブ海諸国、南ヨーロッパの隣にはアフリカ、ドイツの隣にはロシア、日本の隣にはフィリピン、インドネシア、中国がある。

 人の流れの圧力に抗することは、引力の法則に抗するに似ているそれでいながら大量移民、とくに文化や宗教の異なる国からの大量移民ほど危険な問題はない

  (最も深刻なのが日本である。定年が早く、労働市場が硬直的であり、しかも大量移民を経験したことがない。これに対し、さほど深刻にはならないのが、おそらくアメリカである。もともと移民の国であって、労働市場が柔軟である。だがそのアメリカさえ、移民による人口構造の変化は政治的な感情を刺激し、全く予測しがたい政治的変化をもたらす。)

ⅱ)そのため、先進国では安定した政治も強力な政府も望みえなくなる政治は不安定たらざるをえなくなる

ⅲ)そして、退職の意味が変わる早期退職の傾向はこのまま続く。だが、早期退職した者が働かなくなるわけではない。フルタイムの正社員としてではなく、パートタイムとして働くこうして、あらゆる契約関係のうち最も定型化した最も硬直的だった雇用関係が、少なくとも高年者に関する限り、多様化し柔軟になっていく

 この変化は、高年者人口の重心が肉体労働者ではなくなるに伴い、さらには知識労働者となっていくに伴い、加速していく

  (アメリカでは、1948年に始まったベビーブームによる団塊の世代が定年に達する2010年ころ、この変化が本格化する。何故ならば、彼ら団塊の世代こそ、その過半が肉体労働者とならず、その多くが知識労働者になっていったという人類最初の世代だからである。三・四十年に及ぶフルタイムの労働の後であっても、肉体労働による身心の疲労が蓄積されていないために、その圧倒的に多くが、身体的にも精神的にも働き続けることを望むという初めての世代だからである。)

 このような状況の下にあって、仕事と雇用に関して、特にイノベーションが必要とされているのがヨーロッパと日本である。アメリカには、まだ若年者人口が多い。そのためアメリカは、2010年頃まで変化を引き延ばすことが出来る。

 しかしそれにもかかわらず、新しい関係はアメリカで発展する労働市場が開放的かつ柔軟であって、雇用主、被傭者のいずれもが実験の精神に富んでいるからである。

 したがって、アメリカにおいても、企業に限らずあらゆる組織が、高年者特に高年の知識労働者との雇用関係について、早急に取り組まなければならない。やがて、定年後の知識労働者を惹きつけ、とどめ、生産性を存分に発揮させることが競争力の強さを意味するようになる

 いずれにせよ、これからの経営戦略は、仕事のますます多くの部分、しかも重要な部分が、今日の定年年齢を過ぎた人たち、幹部でもなければ肩書もない人たち、従業員でもない人たち、少なくとも毎日出勤してくるフルタイムの従業員ではない人たちによって行われるようになることを、当然の前提としなければならない

ⅳ)あらゆる先進国において、働く人たちすべての生産性、特に知識労働者の生産性を急速に向上させなければならなくなる。さもなければ、いかなる国、いかなる組織といえども、その地位を失い、貧窮化への道をたどる。

少子化はチャンスだ

 それでは、個々の企業にとって、高齢化と少子化は何を意味するか。そもそも、高年者人口の増加は、新しい市場をもたらすのか。それはどのくらい続くのか。あらゆる先進国において、今日最も豊かな人たちが高齢者である。退職後の方が収入の多い人たちさえいる。その高齢者の数が増える。

 しかし、彼らはいつまで豊かでいられるのか。それとも、やがては豊かでなくなるのか。さらには、いつまでそれらの新しい市場で金を使ってくれるのか。さらに重大なこととして、いつまでずっと元気なつもりで使ってくれるのか。

 これらの問題への答えが、二十一世紀の先進国の市場と経済の姿を明らかにする

 そしてもちろん、若年者人口、特に赤ん坊、子供、十代という十八歳未満人口の減少は、何を意味するのか。この変化は、脅威以外のものを何も意味しないのか。あるいは、この変化もまた、一部の組織にとっては大きな機会となりうるのか。

 少子化は教育の充実のための機会となる。しかし今のところ、教育が国の将来にとって重要であり、特にその要としての小学校の先生方を大切にし、報いるべきことを理解しているのは日本だけのようである。

 少子化は、子供用品のメーカーにとってさえ機会となる。子供の数が少なくなるということは、逆に、「一人ひとりの子供の存在が大きくなる」ということであり、親の可処分所得のうち、子供に使う分が増える」ということである。

  (この現象は、国策として少子化を推進している唯一の国、中国ですでに起こっている。中国の一人っ子政策は、特に都市ブルジョワで徹底している。その彼らが一人っ子にかけている費用は、三・四人の子供が普通だった頃にかけていた費用の総額を上回る。同じことは、ドイツでもイタリアでも起こっている。

  アメリカでさえ、少子化の始まった中流家庭では子供にかける費用が増大している。マッテル社製の高価格のバービー人形は、このことを理解し、機会としたために成功した。)

 出生率の低下は、政治的、社会的に、今日ではまだ予測しきれない規模の影響をもたらす。国民経済と企業経営にも影響をもたらす。しかし、すでにそれを機会とすることは可能であるそれらの機会の成果を調べることさえ可能である

 したがって、今日の資源を明日のために投じるという、本来の意味での経営戦略を策定するためには、人口構造の変化、とくに先進国における出生率の低下を前提とすることが不可欠である。しかも今日のあらゆる変化のうち、この先進国における少子化こそ、最も前例がなく、最も劇的であって、かつそのもたらすものが最も予測困難である。


  『明日を支配するもの』より

 
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
白仁田の考えとは違うマネジメント・マーケティング・経営についてとても参考にしています!
コチラに参加のブログも是非参考にして下さい。