マネジメント寺子屋「日新塾」

《おかげさまです思考(生命論パラダイム)に基づく「ドラッカーマネジメント」》



                ■ マネジメントとは、「組織をして生産的ならしめるもの」である。
                ■ 組織とは、「特定の目的・ミッションを共有した集合体」。       



カテゴリ : 今、世界に起こっていること(P・ドラッカー)

■われわれが経験しつつあるものは何か

 西洋では数百年に一度、際立った転換が起こる。世界は歴史の境界を越える

 社会は数
十年をかけて、次の新しい時代のために準備をする世界観を変え、価値観を変える。社会構造を変え、政治構造を変える。技術と芸術を変え、機関を変える

 やがて五十年後には、新しい世界になる

 この境界を越えた後の世代にとって、祖父母の生きた世界や父母の生まれた世界は、想
像することのできないものになる

 我々は今、再びそのような転換を経験しつつある
の転換が、ポスト資本主義社会を創造しつつある


(そのような転換は、13世紀にも見られた。当時、ヨーロッパ社会は、ほとんど一夜にして、都市中心の社会となった。

 社会勢力としてギルドが登場し、遠距離貿易が復活した。都市的な新しい建築としてゴシック様式が興った。新画派としてシエナ派が興った。

 知恵の源泉はアリストテレスに移り、文化の中心は、田舎の孤立した修道院から都市の大学に移った。宗教、学問、精神の担い手として、都市型の修道会ドミニコ会とフランシスコ会が登場した。数十年後には、ダンテが文学を生み、言語はラテン語から各地言語へと重心が移った。


 その二百年後、
1455年のグーテンベルクによる印刷革命と1517年のルターによる宗教改革の間の六十年間に、次の転換が起こった。

 1470
年から1500年にかけてフィレンツェとヴェネツィアにおいて絶頂期を迎えたルネッサンスがあり、古代の再発見があった。アメリカ大陸の発見があり、ローマ軍団以降初の常備軍となるスペイン歩兵軍団の創設があった。解剖学をはじめとする科学的探究の再発見があった。アラビア数字の普及があった。

 このときも、
1520年以降の世代にとって、父母の生まれた世界は想像もできないものになった


 次の転換では、産業革命が起こり、資本主義と共産主義が現れた。

 1809
年には、最初の近代大学、ベルリン大学が設立された。普通教育が始まった。ユダヤ人の解放があった。1815年には、ロスチャイルド家が王侯の影を薄くする存在となった。この四十年は、新しい文明を生み出した。

 再び、
1820年以降の世代にとって、父母の生まれた世界は想像することもできないものになった。)

               『プロフェッショナルの条件(P・ドラッカー)』より

 
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■転換後の社会


 今日、再び転換のときが訪れた。しかし、今度の転換は西洋のものではないそれどころか、もはや西洋の歴史も西洋の文明も存在しえないことこそ、根本的な変化である

 存在するのは、西洋化されてはいるかもしれないが、あくまでも世界の歴史世界の文明である。

 明らかに、われわれはこの転換期にある。もしこれまでの歴史どおりに動くならば、この転換は2020
年ないし30年までは続く。

 しかもこの転換はすでに、世界の社会、政治、経済、倫理の様相を大きく変えた。2000
年に生まれたものが成人に達するころには、父母の生まれた世界は、想像もできないものになっているだろう。 



(中世からルネサンスを経て近代をもたらした転換、すなわち1455年に始まった転換の存在が理解されるには、転換が始まってから50年以上を待たなければならなかった。

 コペルニクスが『コメンタリー』を書いたのは、
1510年から14年にかけてだった。マキャベリが『君主論』を書いたのは、1513年だった。
 ミケランジェロが、ルネッサンスのすべてを統合し、かつ超越する絵画をシスティナ礼拝堂の天井に描いたのは
1508年から12年にかけてだった。トレント公会議がカトリック教会を再建したのは、1540年代だった。


 今からおよそ二百年前、アメリカの独立とともに始まった次の転換を最初に理解し、分析したのは、その
60年後、アレクシス・ド・トクヴェルの『アメリカの民主政治』上下二巻だった。)



われわれは今、ポスト資本主義社会へと移行し、ようやく、これまでの資本主義と国民国家の時代における社会、経済、政治の歴史を検証し、修正できるところまで来た。

 転換後の社会がどのようなものとなるかを予見することは、否まだ危険である。

 しかし、
「どのような新しい問題が出てくるか、どこに新しい大きな問題が存在するか」については、すでにある程度の確度で知ることが出来る。

 多くの分野において、われわれは「何がうまく機能していないか」を明らかにすることも出来る。

 答えの多くは、いまだ時のかなたに隠れている。

 価値、信条、社会構造、経済構造、政
治構造、さらに言えば世界観を含む現在の再編から生まれてくる世界は、今日だれも想像できないものとなる。

 とはいえ、いくつかの分野、特に社会とその構造に関しては、すでに基本的な変化が起
こっている。

 これからの社会が資本主義社会でも社会主義社会でもないことは確かである。


その主たる資源が、知識であることも確かである

つまりそれは、組織が大きな役割を果
たす社会たらざるを得ないということでもある。 

              『プロフェッショナルの条件(P・ドラッカー)』より

 
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■何が産業革命をもたらしたか


 1750
年から1900年までの百五十年間に、資本主義と技術革新は世界を征服し、新しい世界文明をもたらした。

 資本主義と技術革新そのものは新しくなかった。いずれも、あらゆる時代を通じ、洋の東西を問わずあらゆる地域で見られた。

 しかし、この百五十年間の資本主義と技術革新は、その伝播の速度と、文明、階層、地
理を超えたその達成度において例がなかった

 まさに、この伝播の速度と達成度こそが、
資本主義をまさに資本主義に変え、一つの体制に変え、技術革新を産業革命に変えた

 この転換は、知識の適用によってもたらされた

 東西両洋において、知識とは常に存在
に関わるものだった。ところが一夜にして、それが行為に関わるものとなった。

 知識は
資源となり、実用となった。常に私的な財であった知識が、ほとんど一夜にして公的な財になった。


 第一の段階として、知識は百年にわたって、道具、工程、製品に適用された
。その結果、産業革命が生まれた。同時に、カール・マルクスのいわゆる疎外、階級闘争、共産主義がもたらされた

 第二の段階、すなわち
1880年頃に始まり、第二次大戦の末期を頂点として、知識は装いを新たにし、仕事に適用された。その結果、生産性革命がもたらされた。

 この
75年間において、プロレタリア階級は、上流階級に匹敵した所得を手にするブルジョワ階級となった。こうして生産性革命が、階級と闘争と共産主義を打ち破った

 第三の段階として、第二次大戦後、知識は知識そのものに適用されるようになった
。それがマネジメント革命だった。知識は、土地と資本と労働をさしおいて、最大の生産要素となった

 しかしまだ、我々の時代を知識社会と呼ぶのは尚早である。傲慢でさえある。われわれ
は、未だ知識経済を持つにすぎない。
 とはいえ、われわれの社会が、すでに資本主義社会でないことは間違いない

 

  (資本主義は、人類の歴史を通じて、東西両洋において、形を変えて何度も現れた。同じように、技術上の発明と革新が多く見られた時代も、幾度となくあった。たが、最近二百五十年間の発展が前例のない特異なものであったのは、ひとえにその速度と到達度においてである

 
 かつて形を変えて何度も現れた諸々の資本主義は、いずれの社会においても、その社会の一要素にすぎなかった。

 これに対し、
1750年以降の資本主義は、社会そのものとなった。かつての資本主義が、いずれもごく限定された地域でしか見られなかったのに対し、この資本主義は1750年から1850年までのわずか百年間に、西ヨーロッパと北ヨーロッパの全域に広がった。さらにその五十年後には全世界に広がった。

 
 しかもかつての資本主義は、社会のごく一部の階層に限定されていた。貴族、地主、軍人、農民、専門職、職人、そして肉体労働者さえ、資本主義とは無関係だった。
 ところが、
1750年以降の資本主義は、その伝播したあらゆる社会において、あらゆる階層に浸透し、変革をもたらした。)



これに対し、新しい道具、新しい材料、新しい穀物、新しい技能などいわゆる今日の技術は旧世界では、大昔からかなりの速さで広く普及していた。例えば、十三世紀に発明された眼鏡ほど急速に普及したものは、現代の発明でさえあまりない。


 フランシス会修道士のイギリス人、ロジャー・ベーコンが行った光学実験によって、
1270年ころに生まれた老眼鏡は、早くも1290年にはアヴィニョンの法王庁で使われ、1300年にはカイロのサルタンの宮廷で、1310年にはモンゴルの皇帝の宮廷で使われた。


 これに匹敵する速さで普及した現代の発明は、十九世紀に発明されたミシンと電話ぐらいだった。


 しかし昔の技術革新は、ほとんど例外なく、一つの技能、一つの適用にとどまっていた

 ベーコンの発明が、第二の適用、すなわち近眼用の眼鏡を生むには、
1500年代まで、二百年またなければならなかった。あるいは、陶器は、紀元前千五百年にはロクロによって作られていた。だがロクロの原理が、糸紡ぎという婦人の仕事に適用されるようになったのは、紀元後1000年のことだった。


 今度の産業革命では、あらゆる発明が、世界中において、あらゆる技能、産業でただちに利用されるようになったそれらの発明は、直ちに広く使われる新技術となった

                『プロフェッショナルの条件(P・ドラッカー)』より

 
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■知識の意味が変わった


 原因が一つであったり、その説明が一つですむ歴史上の事件は珍しい

 すでにわれわれは、ヘーゲルやマルクスなど十九世紀の理論、厚顔きわまりない単純論の誤りを知っている。歴史上の事件は、たがいに関係のない数多くの発展の合成である


  (単なる資本主義を体制としての資本主義に変え、技術革新を産業革命にしたものも、互いに関係のない独立した事象の合成だった

 
 今世紀初頭、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、資本主義を『プロテスタントの倫理の落とし子』とした。もちろんこの有名な説は、今日では信憑性を失っている。根拠がない。

 むしろ、『巨額の資本を必要とする蒸気機関が動力源となった結果、もはや職人が主たる生産手段を自ら所有できなくなり、生産手段の支配権を資本家に譲らざるを得なくなったために、資本主義が生まれた』とするカール・マルクスの説の方が、若干なりとも根拠がある。)


 しかし、資本主義と技術革新が、世界的な現象となるうえで欠かせない決定的に重要な要件が一つあった。
 
 それは、
1700年頃かその少し後、ヨーロッパで広まった知識の意味における急激な変化だった。


 われわれが知ることのできるもの、及びそれらを知るための方法についての理論は、紀元前のプラトンから、ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインやカール・ポパーに至るまで、形而上学の理論家の数と同じだけある。

 しかしプラトンの時代以降、知識そのものの意味については、長い間、理論は二つしか存在しなかった。


 プラトンの伝える賢人ソクラテスは、知識の役割は、「自己認識、すなわち自らの知的、道徳的、精神的成長にある」とした。

 一方、ソクラテスのライバル、哲人プロタゴラスは、知識の役割は、「何をいかに言うかを知ることにある」とした。プロタゴラスにとって、知識とは論理、文法、修辞、すなわちやがて中世において学習の中核に位置づけられることになった三大教養科目、今日のいわゆる一般教養を意味していた。


 東洋においても、知識の機能については、同じように二つの考えしか存在しなかった。

 儒教では、知識とは「何をいかに言うかを知ること」であり、人生の道だった。これに対し、道教と禅宗では、知識とは「自己認識であり、知恵に至る道」だった


 このように、東西両洋において知識が意味するものについて二派の対立があったものの、知識が意味しないものについては完全な一致があった。知識は、行為に関わるものではなかった。知識は、効用ではなかった。効用を与えるものは、知識ではなかった
 それは技能だった。ギリシャ語にいうテクネだった

 中国の儒家が、書物による学習以外のものをすべて徹底的に軽侮したのに対し、同時代人のソクラテスやプロダグラスはテクネを尊重していた。しかし彼らにとっても、テクネはいかに尊重すべきものであっても、知識ではなかった。


 そもそもテクネは、常に特定の範囲に適用され、一般法則を伴わなかった

 ギリシャ―シチリア航路について船長が知っていることは、他に応用できなかった。
 しかも、テクネを学ぶ唯一の方法は、徒弟となり、経験を積むことだったテクネは、言葉や文字では説明できなかった。身をもって示すものだった。


  (西暦1700年か、あるいはさらに遅くまで、イギリスにはクラフト(技能)という言葉がなく、ミステリー(秘伝)なる言葉を使っていた。
 
 技能を持つ者はその秘密の保持を義務づけられ、技能は徒弟にならなければ手に入らなかった。手本によって示されるだけだった。)

               『プロフェッショナルの条件(P・ドラッカー)』より

 
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■産業革命の本質


 ところが
1700年以後、わずか50年間に、テクノロジー(技術)が発明された。まさにテクノロジーという言葉そのものが象徴的だったそれは、秘伝の技能たるテクネに、体系を表す接尾語ロジーを付けた言葉だった


 この技能から技術への劇的な変化を示す偉大な記録、人類史上もっとも重要な書物の一つが、
1751年から72年にかけて、ドゥニ・ディドロとジャン・ダランベールが編纂した『百科全書』だった。
 この書は、技能に関するあらゆる知識を体系的にまとめ、徒弟にならなくとも技能技術者になれることを目指していた。


 しかも、紡ぎや織りなどの技能を説明するこの『百科全書』の各項目が、技能を持つ職人たち自身の手で書かれなかったのは偶然ではなかった。それを書いたのは情報の専門家、すなわち、分析、数学、論理学の能力をもつ者たちだった。ヴォルテールやルソーが執筆者だった。

 『百科全書』の思想は、道具、工程、製品など物質世界における成果は、技能とその体系的応用によって生み出されるとするものだった『百科全書』は、「一つの技能において成果を生む原理は、他の技能においても成果を生む」と説いた

 その説は、当時の知識人や職人にとっては異端の考えだった。


 しかし、十八世紀の技術学校の中に、新しい知識の創造を目的としたものは一つとしてなかった。『百科全書』もそうだった。

 科学を道具、工程、製品に適用すること、すなわち技術への適用について論じる者はいなかった。

 そのような考えが実現するには、さらに百年、
1830年まで待たなければならなかった。ドイツの化学者ユストゥス・フォン・リービヒが、科学的知識を利用して、人工肥料の製造や動物性タンパク質の保存法を発明するまで待たなければならなかった。


 だが、おそらく歴史的には、リービヒの偉業よりも、初期の技術学校や『百科全書』が行ったことのほうが重要だった。

 数千年にわたって発展してきたテクネ、すなわち秘伝としての技能が、初めて収集され、体系化され、公開された

 技術学校や『百科全書』は、経験を知識に、徒弟制を教科書に、秘伝を方法論に、作業を知識に置き換えた

 これこそ、やがてわれわれが産業革命と呼ぶことになったもの、すなわち、技術によって世界的規模で引き起こされた社会と文明の転換の本質だった


 この知識の意味の変化こそ、その後の資本主義を必然とし、支配的な存在にしたものだった

 とりわけ、こうしてもたらされた技術変化のスピードのために、職人では賄えないほどの資金需要が生じた。
 さらに技術は、生産の集中すなわち工場を必要とした。技術は数千、数万にのぼる職人の作業場には適用できない。技術は、生産が一つの屋根の下に集中されて、初めて適用できた。


 新しい技術は大規模な動力源を必要としたが、水力や蒸気力は分散できなかった。とはいえ動力源の問題は、重要であっても二義的だった。

 肝心な点は、生産活動がほとんど一夜にして、技能中心から技術中心になったことだった

 こうして一夜にして、資本家が経済と社会の中心に入り込んできた。それまで、資本家は脇役に過ぎなかった。


 
1750年に至ってなお、大規模な事業体は私有ではなく国有だった。旧世界において、最初に生まれ、かつ数世紀にもわたって最大規模を誇っていた工場は、ヴェネツィア共和国政府所有の兵器工場だった。マイセンやセーヴルの磁器工場も国有だった。


 ところが
1830年には、民間の大資本家が所有する事業が産業の中心となった。その50年後カール・マルクスが死んだ1883年には、民間の資本家が所有する事業が全世界を席巻していた。


  (産業革命と資本主義に対する抵抗は世界中で見られた。イギリスの各地、あるいはドイツのシレジアで暴動が起こった。

 しかし、それらの抵抗は特定の地域に限られ、数週間か、長くとも数カ月しか続かなかった。体制としての資本主義の拡大とその速度を緩めることはできなかった。)


 この前例のない転換の速度が、新たな秩序の誕生をめぐる社会的緊張と対立をもたらした

 しかし今日われわれは、十九世紀初頭の工場労働者が、工業化以前の労働者よりも生活水準が低く、辛い生活を送らざるを得なかったという一般化した通念が、事実に反することを知っている。

 生活は辛かった。だが彼らが工場に群がっていったのは、そのほうが田舎社会の底辺にとどまるよりも楽になるからだった。事実彼らは、以前よりも高い生活水準を手に入れた。


 工業化は最初から、マルクスの窮乏化ではなく、物質的な改善を意味した。変化のスピードは速かった。したがって、その変化のスピードゆえの傷は避けられなかった。


  (マルクスによれば、新しい階級としてのプロレタリアは、疎外され搾取され続けるはずだった。彼らプロレタリアは、資本家が所有し支配する生産手段に依存せざるを得なかった。やがて所有は、さらに少数の、より巨大な手に握られ、無力なプロレタリアはさらに窮乏化していく。
 しかしついには、それら少数の資本家も、自らの鎖以外に失うべきものがないプロレタリアによって打ち倒され、システム自体が自らの重みで崩壊する。

 
 今日では、このマルクスの予言が間違っていたことが明らかである。

 実際には、全く正反対のことが起こった。ただし、それは今だから言えることにすぎない。

 彼の時代に生きた者のほとんどが、たとえその帰趨についてまでは考えを同じにしていなかったとしても、少なくとも資本主義そのものについては同じ見方をしていた。
 
 反マルクス主義者がでさえ、資本主義に内在する矛盾を指摘するマルクスの分析を受け入れていた。)

                              『プロフェッショナルの条件(P・ドラッカー)』より

 
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