マネジメント寺子屋「日新塾」

《おかげさまです思考(生命論パラダイム)に基づく「ドラッカーマネジメント」》



                ■ マネジメントとは、「組織をして生産的ならしめるもの」である。
                ■ 組織とは、「特定の目的・ミッションを共有した集合体」。       



カテゴリ : 多元社会の到来Ⅱ・社会的責任

■社会的責任

 今日の多元社会が提起している問題のうち、細部はともかくとして、基本的な答えだけは明らかになっているものがある。組織の社会的責任であるそれは第一に、自らの仕事をすることである第二に、自らが人間、地域社会、社会全体に与える影響について責任を持つことである第三に、それらの影響の処理を越えることに手を出すことは容易に無責任に通じるということである。そのようなことは無責任に行動していることになる。


 社会的機関の第一の社会的責任が、自らの機能を果たすことにあることは当然に思われる。しかし今日、このことはあまりに忘れられるがゆえに、常に強調する必要がある。大学、企業、労働組合、病院などいかなる組織であれ、社会的責任について論ずる際には、「組織本来の能力を損なわないか」を問うことが不可欠であるわれわれは、「社会的な善の方が本業の成果よりも重要である」と判断してしまいがちである
 

 
 (アメリカにおいて、人種分離の廃止に学校を利用することを決定したときのように、この問いを発せず、あるいはこの問いを関係ないことと片づけることは、あまりに危険であって、あまりに無責任である。もしこの問いを発したとしても、結果としては学校における人種分離を禁止していたかもしれない。人種による分離や差別は重大な悪であって、必ず正さなければならなかった。しかし、たとえそうであったとしても、もしこの問いを発していたならば、学校の教育能力に与える害は避けられたかもしれない。最小限に食い止めることはできたかもしれない。
 たとえば、教育の水準が高く、規律のしっかりした学校をいくつか選んで実験することから始めることもできたはずである。しかし実際には、学校本来の機能について考えることなく、結局は人種分離の廃止も、教育の成果も不十分なものとしてしまった)。

                    『新しい現実(P・ドラッカー)』より

 
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■他への影響

 企業、大学、病院のいずれであれ、多元社会の組織はすべて自ら以外のものに影響を与える。まずそこに働く人間に支配力を及ぼす。この支配力なくしては、いかなる組織も仕事ができない。次に、当然のこととして、製品の購入者や病院の患者など、自らの顧客に対し影響を与える。さらには第三者に影響を与える。4時半終業の工場は、毎夕、地域の交通を渋滞させる。


 自らが与える影響について責任を取るべきことは、太古からの法的原則である。自らの過誤によるか、怠慢によるかは関係ない。この原則を最初に明らかにしたローマの法律家たちは、これを野獣の原則と名付けた。ライオンが檻から出れば、責任は飼い主にある不注意によって檻が開いたか、地震で鍵が外れたかは関係ない。ライオンが凶暴であることは避けられない。今日の多元社会の組織が他に影響を与えることも避けられないことであって、それらの影響については自らに責任がある


 今日特にアメリカでは、製造物責任訴訟、医療過失訴訟、環境訴訟とそれらに対する巨額の賠償によって、あたかも「全く危険のない世界を作ろうとしているのではないか」との声が聞かれる。確かに、それらの訴訟の多くは些細なことを訴因とし、しかも賠償額は常軌を逸している。しかし、それらの訴訟の基本にある考えは、危険のない世界を作ることではない。


 それは逆に、「今日諸々の組織によって人工の危険がもたらされつつある」との認識である。それらの危険に対しては防御が必要であるそして現在のところ、そのための唯一の方法が、それらの組織に対し野獣の飼い主としての責任を取らせることである


 ということはまた、「組織には、自らの与える影響を自らの社会的機能を遂行する上で不可避的に発生するものに限定する義務があり、しかもそれが自らの利益だ」ということである。この限定を越える一切のものは、正統性を欠き、力の濫用となる
 

 
 (たとえば今日アメリカの裁判所は、ほとんどの企業人にとって、ほとんど同じように見える雇用契約上の二つの条項の間に明確な一線を引いている。すなわち雇用契約において、マネジメントの人間や専門家の同業他社への転職を制約する条項を否定する。他方、元従業員による顧客の引き抜きや企業機密の持ち出しを禁ずる条項を支持する

  転職に対する制約は、企業が本来の仕事をする上で必要不可欠ではない。したがって、それは正当な権利の行使ではなく不当な行使である。他方において、顧客の引き抜きや企業機密の持ち出しは、信義違反であるだけでなく実害を与える。組織がそのような被害から自らを守ることは正当である。本来の仕事を行ううえで必要不可欠である。) 


 大学が学位に対して持つ独占的な支配力に対する懸念があまり提起されていないのも、必要不可欠な影響とそうでないものとの峻別の結果である。大学によって学位を拒否される学生は、今日の知識社会では、仕事、キャリア、生計の道を閉ざされたに等しい。これは他のいかなる組織をも超える権力である。大学が学位授与の権限を行使するに際して、特に正当な手続きが要求されるのはそのためであるしかし、大学がその機能を果たすには、学位授与の権限は持たなければならない


 これに対し、今日労働組合が行使している特定の職種や職場につくことを拒否する権限は、不当であって力の濫用である。実際問題として、労働組合が持つこの権限は大学の学位授与の権限よりは重大ではない。労働組合に拒否されても雇用の場は見つけられる。しかし労働組合は、その機能を果たすうえで、特定の労働者に対し特定の職種や職場へのアクセスを拒否する権限を持つことを必要不可欠としない


 組織のほとんどが、自らの機能を果たすうえで必然的に伴う影響を超える活動を善意として正当化する。労働組合は、建設関係労使による黒人排除のように、組合員を守るためと称して好まざる者を排除する。企業は「従業員を社宅に住まわせる」と称して家族主義という。あらゆる組織が、それぞれの世界の「基準や品質や資格を守っている」と考えたがる。


 しかし、自らの機能の遂行に必然のものであることが明らかでないかぎり、全て力の濫用とすべきであるしかも、たとえ自らの機能を果たすうえで不可欠であっても、環境の破壊や健康への害など他に与える影響が有害であるならば、その害はすべて、その組織の責任である

                  『新しい現実(P・ドラッカー)』より

 
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■社会的貢献

 組織は自らが原因となっていない社会の問題にも責任を負う必要がある。しかし、もし責任を負う必要があるとするならば、それはどこまでか。


 
1960年代に、ニューヨーク市長は地元の大企業に対し、社会保障の対象となっている黒人の未婚の母の面倒を見るよう要請した。当時ニューヨークは犯罪と麻薬が蔓延し、市のサービスは極度に低下していた。雇用主は次々にニューヨークから逃げ出し、社会的な崩壊の寸前の状態にあった。早急に手を打つ必要があった。そして何かを成しうるものは、ニューヨークに本社を持つ豊かな大企業しかなかった。


 当然、この市長は笑いものになった。呼びかけに応じる企業はなかった。その
20年後の今日、犯罪と麻薬は蔓延したままであり、市のサービスも低下したままである。ところが、ニューヨーク市そのものは見事に復興した。不動産開発が、物理的にも美的にもニューヨークを変え、企業を戻らせ、観光客を戻らせた。経済を回復させ、文化とくに美術館を蘇らせた。


 他にも似た例がある。麻薬に対する戦いにおいて、結局のところ主導的な役割を果たしたのは、ボーイスカウトとガールスカウトだった。アメリカでは小学生4人に1人がスカウトに入っている。両スカウトは、麻薬に接する前の段階で子供達に心理的な抵抗感を植え付けることに成功した。


 この二つの例が教えることは、今日、「社会に対する責任をめぐって行われている議論のほとんどが的外れだ」ということである。社会に関する論議のほとんどは、
20年前のニューヨーク市長と同じように、組織とくに企業たるものは社会の抱える問題に取り組むべきことを要求している。企業、労働組合、病院、大学が強大であり、専門的な力をもち、かつ有能であるならば、なぜ貧困、無知、教育の問題に取り組まないのか。


 しかし、数としてははるかに少ないが、そのような考えに対し、「組織は自らの機能でないものには一切手を出すべきでない」と説くノーベル経済学賞受賞ミルトン・フリードマンと同じ考えを持つ人たちもいる。フリードマンは次のように言う。「企業にとっては本来の事業を満足に行なうだけでも難事である。したがって、顧客が欲する財やサービスを生産し、かつ明日のリスク、投資、成長に必要な資本を形成するための利益を生むこと以外の活動にかかわりを持つことは、社会的責任に反する」


 これら二つの考えは、いずれも正しく、いずれも間違いである多元社会の組織は社会の中に存在する。中世以前のベネディクト派の修道院とは異なり、周囲の社会が崩壊しているときに他と絶縁しているわけにはいかない。しかし同時に、自らの限定された能力を超え、自らの機能を無視して行動することは可能であるし、間違いでもある
 

 
 (今世紀はじめに、シカゴの衣料商ジュリアス・ローゼンワルドは、シアーズ・ローバックという赤字の通信販売会社を買い取った。
10年を経ずして同社は、世界で最大かつ最高益の小売業に成長した。その成長の原因は、シアーズには健全な農村が必要であることをローゼンワルドが認識したところにあった。

  今世紀はじめのアメリカの農村は、絶望的な状態にあった。貧しく孤立し、技術的に遅れていた。教育もなく、まして近代的な農業技術を知らなかった。ところが、当時すでに100年以上にわたる農業分野における研究の結果、膨大な農業技術が使える状態になっていた。

  ローゼンワルドは、農業の近代化を助けるための農業技術普及所をつくり、その成功を見た政府がそれを引き取るまでの10年間、資金的な面倒まで見た。こうして農家は専門技術を手に入れ、生産性を向上させた。それに伴って、シアーズの商品を買えるだけの購買力を手にした。もしこの時フリードマンが相談を受けていたならば、専業に専念し、農家のことは政府に任せておくべきことを助言したに違いない。
 換言するならば、「健全で活力ある地域社会への関心という意味での社会的責任は、多元社会の組織にとって慈善活動ではない」ということであるそれは自己の利益に合致する活動である

                    『新しい現実(P・ドラッカー)』より

 
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■満たすべきいくつかの条件

 しかし、このような貢献を果たすには、いくつか厳格な条件がある。まず、問題の性格がその組織の能力に合致し、価値観にも合致していなければならない本来の活動から逸脱したものではなく、その延長線上にあるものでなければならない


 この意味において、フリードマンは正しい。もしニューヨークの企業のうち、リンゼイ市長の求めに応じたものがあったとしたならば、その企業はニューヨーク市という地域社会に害をなすだけに終わったに違いない。完全な無責任に終わっていたに違いない。ニューヨークを復興できたのは、企業が専門能力を持つ領域において、手のうちに入れている方法で行動したからだった不動産開発は、正に企業の価値観、ヴィジョン、専門能力に合致していた。しかし社会福祉は、それらのいずれにも合致していなかった


 アメリカの病院が市内診療所の開設に乗り出したのは善意からだった。見るべき成果はなかった。スラムの抱える問題社会問題であって、住居、雇用、能力、意欲に起因していた。病院がこれらの問題に取り組めないのは当然だった。病院が得意とする医療は、彼ら貧しい者たちにとって最大の問題ではなかった。


 学校における人種差別廃止にしても、遅ればせながらも、成果をあげるようになったのは、優秀な生徒を集めたマグネットスクールなるモデル校においてだったそれらの学校では教育に力を入れたその結果、教師の価値観と生徒の期待が一致した白人の教師は、勉強する黒人の生徒に敬意を払った。白人の生徒は黒人の教師に敬意を払った。白人と黒人の生徒は、互いにできる生徒に敬意を放った。そして、おそらく最も重視すべきこととして、出来る黒人の生徒が自信を持った


 このように社会に対する責任は、社会の問題が組織それぞれの本来の仕事に合致したとき、最も効果的に果たされる。あるいはむしろ、そのようなときにのみ果たされうる

                     『新しい現実(P・ドラッカー)』より

 
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■政治的責任

 多元社会における最も重要な問題は、「誰が全体の利益を考えるか」である。これまで数百年にわたって、この問いに対する答えとして与えられてきたものは自己欺瞞である。それは、「対立する利害の衝突と混乱から全体の利益が得られる」と期待する。しかし、利害の衝突と混乱から得られるものは手詰まりである。したがって、多元社会の組織にとって今日必要とされていることは、社会全体の利益に対する関心と責任を自らのヴィジョン、姿勢、価値観に組み込むことである。つまり、政治的責任を取ることである


 いくつか例がある。第二次大戦後、日本の大企業は、事実上の利益を追求する一方において、自らの意思決定プロセスに政治的責任を組み込んでいた。戦後の日本企業は、
1920年代、30年代とは異なり、「事業にとってよいことは何か」ではなく、日本にとってよいことは何かから考えた。その後で、「いかにその全体の利益に沿って事業を展開していくか」を考えた日本の企業は、国の復興期にあって、まさに政治的責任から出発していた。日本の成功の秘密は官僚支配ではなく、ここにあった


 この同じ時期、ドイツでもほぼ同じことが見られた。第二次大戦後の
35年間、ドイツの大銀行は、「ドイツ社会とドイツ経済にとって必要なものは何か」との観点から産業政策を検討した。


 しかし、これらはきわめて短命な例外だった。日本でもドイツでも、敗戦と破壊から立ち直るや企業の政治的責任も影をひそめた。第二次大戦後、オランダの労働組合をはじめヨーロッパの労働組合のいくつかが標榜していた政治的責任も、今では同じく影をひそめている。


 だが多元社会の組織は、「社会が何を要求しているか」を自らに問わなければ、アメリカとイギリスの労働組合が経験したように社会の支持を失う。アメリカの病院が今日危機に陥っているのも、医療費の上昇と医療サービスの質の低下の防止について政治的な責任をとらず、率先して問題を解決しようとしなかったところに原因がある。このような意味において、政治的な責任を果たすことは多元社会の組織自身の利益となることである

                       『新しい現実(P・ドラッカー)』より

 
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