マネジメント寺子屋「日新塾」

《おかげさまです思考(生命論パラダイム)に基づく「ドラッカーマネジメント」》



                ■ マネジメントとは、「組織をして生産的ならしめるもの」である。
                ■ 組織とは、「特定の目的・ミッションを共有した集合体」。       



カテゴリ : 政治の現実(P・ドラッカー)

 平坦な大地にも、上り下りする峠がある。そのほとんどは、単なる地形の変化であって、気候や言葉や生活様式が変わることはない。しかし、そうでは無い峠がある。本当の境界がある。とくに高くなるわけでもなく、目を引くわけでもない。たとえばブレンネル峠は、アルプスで最も低く最も緩やかだが、古くより地中海文化と西欧文化を分けてきた。ニューヨーク市の西70マイルのデラウェア峡谷は峠でさえない。しかし、それは東部と中西部を分けてきた。


■峠に入った歴史

 歴史にも境界がある。目立つこともないし、その時点では気づかれることもない。だが、一度その境界を越えれば、社会的な風景と政治的な風景が変わり、気候が変わる。言葉が変わる。新しい現実が始まる。 

 
 (
1965年から73年の間のどこかで、世界はそのような峠を越え、新しい次の世紀に入った。我々はその時、過去一世紀あるいは二世紀にわたって、政治の信条、公約、権力構造としてきたものから卒業させられた。そして、道標のない未知の世界に入った

  今や18世紀の啓蒙運動の時代以降、政治の中心であり原動力だった「社会による救済」を信じる者は、一握りの極左のみである。19世紀末にアメリカの政治家マーク・ハナによって生み出され、その40年後ルーズベルトのニューディールで完成された「利害による政治勢力の結集」というアメリカ産の政治手法も終わった。

  他方、最後の植民地帝国としてのロシアが解体の最終段階に入った。その後に来るものはロシアでも帝国でもない。
 また、300年以上にわたり、政治の手段として力を発揮してきた軍事力が不経済な存在となった。今日、それは経済を害し、政治の役に立たず、しかも驚くことに軍事的にも無能となった。)

                『新しい現実(P・ドラッカー)』より

 
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
白仁田の考えとは違うマネジメント・マーケティング・経営についてとても参考にしています!
コチラに参加のブログも是非参考にして下さい。

1873年の峠

 この前に歴史の峠に入ったのは1873年のウィーン株式市場の崩壊の時だった。市場の崩壊そのものは大きな事件ではなかった。フランクフルト、ロンドン、パリ、ニューヨークの株式市場を揺るがしたが、欧米の経済は一年後には立ち直った。

 しかし政治的には、この小さな株式市場の崩壊が自由主義の時代の終わり、自由放任が政治の基本理念だった百年の終わりを印した。それは1776年にアダム・スミスの『国富論』とともに始まった。一つの世紀を終わらせた。1873年のあと10年を経ずして、それまで進歩と啓蒙の担い手だった各国の自由主義政党が混乱と後退に入った。再起することはなかった。自由主義はマルクス社会主義とファシズム全体主義に代わられた。

  (マルクス社会主義とファシズム全体主義は、市場と民主主義に敵対した。ファシズム全体主義はもともとの反資本主義者である農民と中小企業の支持を得た。それは、自由放任とブルジョア精神を否定した。マルクス社会主義と同じように、政治勢力の結集と政治権力の掌握を目指した。事実、ガス、電力、市電の接収を断行した最初の政治家は、マルクス社会主義者ではなく、1896年にウィーン市長に選ばれたファシズム全体主義者であるカール・リューガーだった。

  その50年後にスターリンが示したように、ファシズム全体主義とマルクス社会主義は容易に一体化するものだった。スターリンは晩年、精神が異常だった。しかし、ユダヤ人弾圧は偏執病のためだけではなかった。根っからの政治家としてマルクス社会主義の失敗を自覚し、瀕死の社会主義と共産党の復活をユダヤ人弾圧に求めたのだった。

  そもそもはじめから、マルクス社会主義とファシズム全体主義は、ブルジョア自由主義の継承をめぐって争った。ヴィクトル・アードラーとゲオルグ・フォン・シェーネラーは、共にオーストリア自由主義の旗手として友人同士だったが、ウィーン市場崩壊の5年後には敵対していた。アードラーはマルクス社会主義者としての影響力を高め、シェーネラーはファシズム全体主義の政党を創立した。ヒトラーがドイツにおいて実践したものこそ、第一次大戦前にウィーンに流浪をしていた頃、このシェーネラーから学んだものだった。)

1873年以前のマルクスは、一介の不遇な物書きにすぎなかった。しかし5年後にはヨーロッパ中、さらにはアメリカにさえ信奉者を持っていた。15年後にはフランス、イタリア、ドイツ、オーストリアなどヨーロッパ大陸の主要国すべてにおいて、マルクス社会主義が最大の政党になっていた。帝政ロシアにおいてさえ最大の政党になっていた。

 ウィーン市場崩壊の
10年後の1883年から88年にかけて、ドイツでは宰相ビスマルクが、国民健康保険と老齢年金保険をつくった。国民にセーフティネットを提供する福祉国家のはしりだった。同じ頃イギリスとオーストリアでは、工場の保安安全規制や婦女子労働の制限によって雇用主の行動に制約が加えられた。


 アメリカにおいてさえ、農民救済法、州際商業委員会、独占禁止法、あるいは証券業規制のための各州州法によって、自由市場に規制が加えられた。
80年代末には、反企業的な政治運動、証券市場、農産物価格、労働時間、賃金に対する政府規制を求めるポピュリズムが生まれた。1900年には、そのポピュリズムの力によって、ネブラスカ州の州都リンカーンにおいて電力、ガス、市電が公営化された。


 
1890年代半ばには、ヨーロッパ各地でファシズム全体主義が一大政治勢力になった。1894年には、フランスにおいて、ユダヤ人の陸軍大尉アルフレッド・ドレフィスがドイツのスパイ容疑で有罪判決を受けた。この事件がファシズム全体主義の引き金となった。その流れをくんだものが、第二次大戦中のフランスの親ナチ政権、ヴィシー政府だった。1895年には、ドイツ皇帝の宮廷説教師アドルフ・シュテッカーが、反資本主義勢力を糾合するために最初のファシズム全体主義政党を設立した。その一年後オーストリアにおいて、ファシズム全体主義者がウィーン市長に選出された。


 ドレフュス事件を契機として、全体主義が羽ばたいた。ドレフュスが起訴された
2年後には彼の無実は周知だった。真犯人は公然の秘密になっていた。だが名誉回復は世論が許さなかった。「ドレフュスが無実かどうかは問題ではない。問題は軍の権威である」との声でかき消された。これが全体主義の本質だった。それは、全体、党、国家、アーリヤ人種の絶対視だった。「軍こそ真理であり、究極の基準たるべきである」とする考えが、世論をドレフュスに結束させた。ドレフュスの名誉が回復されたのは、さらに10年後だった。


 ちょうどその頃、別の世界ではすでにレーニンが、「党を支持し、強化し、発展させるものが真理である」と規定した。レーニン以降の全体主義政権はすべて、この規定を基盤とした。レーニン、ムッソリーニ、ヒトラー、毛沢東の政権だった。


 こうして
1873年のウィーン株式市場の崩壊に続く百年間、政府による経済支配と社会指導が進歩的理念とされた。そこには、福祉国家そのものの是非を問う論争はなかった激しい論争が行われたのは、政府および政府による経済と社会の方向づけを民主的かつ法的な制約のもとに置こうとする福祉国家の信奉者と、政府に対し無制限かつ絶対的な支配権を与えようとするマルクス社会主義およびファシズム全体主義の信奉者の間だけであった

                『新しい現実(P・ドラッカー)』より

 
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
白仁田の考えとは違うマネジメント・マーケティング・経営についてとても参考にしています!
コチラに参加のブログも是非参考にして下さい。

1973年の峠

 1973年の石油ショックも、その2年前のニクソンによる変動相場制移行も、破局的な大事件ではない。GNP、成長率、貿易収支の数字を見る限り、目先の小さな動きがあったにすぎない。同様に、諸々の組織の動きだけをみるならば、60年代末のアメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、日本で大騒ぎとなったあの大学紛争も、破局的な大事件ではなかった。政府も大学も、そして社会そのものも、何ら影響を受けなかった。


 しかし、
1968年から73年に至る間こそ、1873年に相当する分水嶺だった。1873年は自由放任主義の時代の終わりであり、1973年は政府が進歩を意味する時代の終わりだった。1973年は、1870年代に形成された福祉国家、社会民主主義、マルクス社会主義、ファシズム全体主義の思想と政策が終わった年だった。今日これらのすべてが、1873年以降の自由主義と同じように急速に意味を失いつつある。  


 政治のスローガンは政治の現実より長生きする。それは『不思議の国のアリス』のチェシャー猫が顔に浮かべる無意味な笑いである。今日に至るも、
1850年頃の政治スローガン、すなわちヴィクトリア女王の夫君アルバート公、ジョン・スチュワート・ミル、ヨーロッパ大陸の諸々の革命家など偉大な自由主義者のスローガンが、そのまま新保守主義によって使われている。


 それと同じように、今後とも福祉国家のスローガンは長く使われ続ける。しかし、敬意を払われ続けたものの、
1900年には無意味とされた自由主義と同じように、福祉国家や社会主義のスローガンに反映される政治信条も、すでに政治的、社会的そして経済的にさえ無意味となり、非現実的となっている。それらのスローガンは、ブレーキの役を果たすことはあっても、行動指針や動機づけとはなりえない。


 アメリカの選挙では、今後もニューディールのスローガンが心を動かし続ける。だが、すでに何回かの選挙が明らかにしたように、当選に必要な票は与えてくれない。当選したとしても、いかなる道標にもなりえない。ニューディールのスローガンもまた、チェシャー猫の無意味な笑い以上のものにはなり得ない。そこには、いかなる実体もない。

               『新しい現実(P・ドラッカー)』より

 
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
白仁田の考えとは違うマネジメント・マーケティング・経営についてとても参考にしています!
コチラに参加のブログも是非参考にして下さい。

 「党の独裁を脅かさない限り社会主義である」とは、ミハイル・ゴルバチョフと鄧小平の新路線である。これは、いわゆる西側のマスコミが言う現実路線ではない。むき出しの権力主義にすぎない。共産主義と社会主義が、理念として表明してきたものすべてを放棄したにすぎない。それはあたかも、「献金をする限りキリストを信じなくともカトリックである。」とローマ教皇が宣言した等しい。


 この路線は、『社会と人間の完成を実現する恒久社会、地上の楽園たる理想社会の到来』という、マルクスが自らの理念を科学的社会主義と名付けた根拠を、あつかましくも堂々と否定する。


 マルクス社会主義を際立って魅力あるものにしていたものこそ、この「社会による救済」なる思想だった。ところが、ごく少数の時代遅れの党理論家を除き、ゴルバチョフの権力万能のイデオロギーに驚く者はいなかった。誰も、特に共産主義国では、とうの昔に「社会による救済」など信じなくなっていた。現実的になっていたのではなく、醒めてしまっていた。


 ゴルバチョフや鄧小平とその後継者が、党の独裁を維持し、かつ経済を活性化することは可能かもしれない。しかし、共産主義にせよ、他のいかなる主義にせよ、「社会による救済」への信頼を回復することは不可能である。「社会による救済」なる思想は過去のものになった。それは永遠に過ぎ去った。


 そのような思想は、自由主義国でも過去のものになった。南米の一部の浮世離れした革命家を除き、もはや誰も、集団的な力が、完全な社会あるいは完全に近い社会をつくれるとは思っていない。いわんや人間を根本的に変え、新しいアダムをつくれるとは思わない。

                 『新しい現実(P・ドラッカー)』より

 
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
白仁田の考えとは違うマネジメント・マーケティング・経営についてとても参考にしています!
コチラに参加のブログも是非参考にして下さい。

■「社会による救済」は失敗した

 だが、今から50年前にはそのような思想が一般的だった。「私有財産の廃止を初めとする諸々の社会政策が人間を変え、新しい種類の社会をつくれる」と信じたのは、社会主義者だけではなかった。圧倒的多数の政治思想家がそう考えた。社会主義者たる人類、ナチたる人類、共産主義者たる人類が生まれるはずだった。それらの主義の違いは、基本的信条そのものではなく、いかなる速さで変化をもたらすか、いかなる方策が効果的かという点にあるだけだった。


 主義の違いは手段にあった。
60年前のリベラルあるいは今日の新保守主義のように、「政府の役割とは社会の完成を妨げる障害の除去にある」と見るか、一歩進めて「制度や環境の創造にある」と見るか。だが、時代は変わった。


 政府がなくなることは無い。その兆しもない。しかし今日
20年前のリンドン・ジョンソンのように偉大な社会を唱えても笑われるだけである。すでに、我々は個々の政策によって論議するようになっている。これこれは補助すべきか、これこれは禁ずべきか。これからは個々の政策の費用対効果が論じられる成功の可能性が論じられる。薬物乱用の撲滅には全面禁止と合法化のいずれかが効果的か。あれこれの政策は票に結びつくか、政権維持に役立つか、与党に勝てるか。


  (自称社会主義者や労働党はいなくならない。きわめて長いあいだ生き続けるだろう。しかし、そのことが何を意味するかは、1981年にフランスの大統領に就任したフランソワ・ミッテランを見れば明らかである。大統領に就任したとき、彼はヨーロッパ最後の筋金入りの社会主義者として、1930年代の政策、希望、約束の継承者だった。だが半年もたたずに、資本の海外逃避という現実を目の当たりにして方向転換させた。

  彼の社会党政権は一転して、西側で最も親資本主義的な政権となった。1982年以降フランスでは、社会主義とは、与党社会党の身内や支持者を国有企業の社長、会長に据えることを意味するだけになった。今日フランスでは、社会主義とは、社会党の政権維持に役立つ一切のものである。

  ここで我々は、これより50年前の1931年、経済危機に直面したイギリスにおいて、労働党の首相ラムジー・マクドナルドが社会主義よりも目前の経済的ニーズを優先させた時に起こったことを想起しなければならない。彼は裏切り者呼ばわりされて名誉を失った。一方、ミッテランはヒーローとなった。

  ジョン・F・ケネディは、20世紀において、権力の獲得以外には如何なる目論見も持たず、持っている素振りさえ見せなかった最初のアメリカ大統領だった。3年間の在任中、ほとんど何の業績を残さなかったにもかかわらず、今もヒーローである。これに対し、「社会による救済」を信じた最後の大統領リンドン・ジョンソンは、その偉大な社会の構想のゆえに馬鹿にされた。彼の「貧困との戦い」は失敗の同意語とさえなった)。


「社会による救済」は最も多くが約束された国、すなわち共産主義国で最も失敗した。自由主義国でも失敗した。


 事実上、
1950年代以降の政府プログラムでは成功したのは一つもない。世の中を変えるという意味で成功した政府プログラムの最後のものは、46年度に立法化されたイギリスの国民健康保険制度だった。この制度は、確かに今日よく利用されている。だが、その赤字は深刻の度を増す一方である。

                 『新しい現実(P・ドラッカー)』より

 
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
白仁田の考えとは違うマネジメント・マーケティング・経営についてとても参考にしています!
コチラに参加のブログも是非参考にして下さい。

このページのトップヘ

レバレッジ