知識の生産性を向上させる原則

 集中化、分散化、多様化は、経済学の用語ではない。マネジメントの用語である

 知識投資の生産性に関する経済理論は、まだない。あるいは、そのような経済理論は、生まれえないのかもしれない。

 しかし、マネジメント上の処方はある。実は、知識の生産性を上げることこそ、マネジメントの責任である。

 知識の生産性を上げることは、政府が行なえることではない。市場の力が行なえることでもない。必要なことは、知識に対して知識を体系的に応用することである

 知識の生産性を上げるには、第一の原則として、目標を高く掲げなければならない。一歩一歩は、小さくわずかかもしれない。しかし、目標は野心的でなければならない

 知識は、意味ある変化をもたらすために使われて、はじめて生産的となる

 

  (ハンガリー系アメリカ人のノーベル賞受賞者、アルベルト・フォン・セント・ジェルジは、生理学に革命をもたらした。彼は、自らの業績について話すよう求められたとき、恩師であるハンガリーの地方大学のある無名の教授の名をあげた。

  彼は博士号を取った後、胃腸内のガスについて勉強しようとした。当時何も知られていなかったし、今日でも知られていない分野だった。

  しかし教授は「たしかに面白いだろう。しかし、誰もそれで死んだ人はいない。もし業績をあげたいのなら、意味ある変化をもたらすような研究をすべきだ」と言ったという。

  そこで彼は、人体の基礎化学に取り組み、酵素を発見した。)

 

 セント・ジョルジの研究は、一つ一つはわずかなステップにすぎなかった。しかし彼は、目標は高く設定した。人体における基礎的な化学作用を発見しようとした。

 日本の「カイゼン」も、これと同じように、ステップの一つ一つは小さい。ここを少し変え、あそこを少し手直しする。

 しかし目標は、一歩一歩の手直しによって、数年後には、まったく異なる生産工程、製品、サービスを生み出すことにある目標は、違いを生み出すことでなければならない

 さらに、知識の生産性を上げるには、知識の焦点をはっきり絞らなければならない知識を集中しなければならない

 個人であれ、チームであれ、知識の生産性を上げるには、目的と組織が必要である。それは「天才」のひらめきではない。厳しい仕事である。

 知識の生産性を上げるには、変化の機会をとらえて体系的に利用することも必要である。かつて私が拙著『イノベーションと起業家精神』において「イノベーションの機会・七つの源泉」と呼んだものがそれである。

 そして、それらの機会は知識労働者とそのチームの能力と強みに合わせて利用されなければならない

 知識の生産性を上げるためには、最後の原則として、時間的な要素を管理しなければならない

 改善、開発、イノベーションのいずれにおいてであれ、知識の生産性は、長い懐妊期間を経て達成される

 しかも同時に、知識の生産性は、短期的な成果を絶えずもたらさなければならない。したがって、最も難しい仕事として、長期的な成果と短期的な成果との均衡を図らなければならない

 

知識を応用する努力

 これまでわれわれが知識の生産性を上げるうえで経験を重ねてきた分野は、もっぱら経済と技術の分野に限られている。

 しかし、それらの分野で得られた原則は、社会問題や、政治や、知識そのものの分野において、知識の生産性を上げるうえでも適用される

 これまでのところ、それらの分野に知識を応用するための努力は、ほとんど行われていない。

 しかし今日、それらの分野においてこそ、経済や技術や医療の分野以上に、知識の生産性を上げることが必要になっている。

 

知識を道具として使う

 知識の生産性を上げるには、個人によってであれ、集団によってであれ、すでに知られている知識からの生産を増やさなければならない

 アメリカには、「今やっていることの、倍は知っている」と言いながら、生産性を上げるための新しい耕作方法を拒否した農民の話がある。

 われわれの大部分、おそらく全員が、知っている事の数分の一しか活用していない。その主たる原因は、われわれがせっかくの多様な専門知識を動員していないことにある。われわれは、多様な知識を道具箱の中にしまい込んでしまい、道具として利用していない。

 われわれはこの仕事に応用できるようなことを何か知っているか、何を学んでいるかについて自問しなければならない。ところがわれわれは、専門的な知識分野に従って仕事を分類してしまっている。

 私は、組織のトップ経営陣と仕事をしていて、組織の問題であれ技術の問題であれ、すでに彼らが持っている知識、たとえば大学の経済学で学んだ知識によって解決出来た場面に何度も出会っている。

 彼らの反応は「もちろん知っていた。しかしそれは経済の話であって、経営の話ではない」だった。

 しかし、そのような区分は、全く便宜上のものにすぎない。そのような区分は学んだり教えたりする上では必要かもしれないが、「知っていることが何であり、それを使って何が出来るか」ということとは関係ない。

 加えて、企業や政府機関や大学は、「道具の目的は、仕事をすることにあるのではなく、道具箱を立派にすることにある」と思いがちになるように組織されている。

 

結合させる能力

 たしかに、学んだり教えたりする上では、道具に焦点を合わせることが必要である。しかし、道具を使う上では、成果、任務、仕事に焦点を当てなければならない

 イギリスの偉大な小説家エドワード・モーガン・フォスターは「結合せよ」と説いた。事実、結合こそ、偉大な芸術家のみならず、ダーウィン、ボーア、アインシュタインなど偉大な科学者の特性である。

 たしかに彼らの結合能力の水準は、天賦のものであって、「天才」というあの神秘の一部かもしれない。

 しかし、結合によって知識の生産性を上げることは、個人、チーム、組織のいずれにとってであれ、かなりの程度、学ぶことができる。そしてやがては、教えることができるようになるはずである。

 だが結合には、「問題定義」のための方法論が必要である。おそらくそれは、今日流行の「問題解決」のための方法論以上に重要である。

 結合には、必要とされる知識や情報の体系的な分析とともに、問題に取り組む手順の編成にかかわる方法論、つまりわれわれが今日「システムズ・リサーチ」と呼ぶものの根底にある方法論が必要である

 すなわち、「知らざることの組織化」と呼ぶべきものが必要である知っている事よりも知らないことのほうが、つねにはるかに多いからである

 専門知識への特化が、あらゆる分野において、膨大な可能性を与えてくれた。

 しかし、まさに知識が特化したからこそ、われわれは、この潜在的な可能性を具体的な成果へと転化するための方法論、体系、手順を必要としている

 それらのものがなければ、利用しうる知識のほとんどが、生産的とはならない。単なる情報にすぎない

 

結合について学ぶ

 森を見て木を見ないことは重大な欠陥ではあるが、木を見て森を見ないことも、重大な欠陥である

 木を植えるときは、1本ずつである。切るのも1本ずつである。しかし森は、「生態系」である。森は、1本1本の木の成長に欠くことのできない「環境」である

 知識の生産性を上げるには、森と木の両方を見ることを学ばなければならない結合を学ばなければならない。

 知識の生産性は、産業、企業の競争力にとって、ますます決定的な要因となりつつある

 もはや、知識に関するかぎり、いかなる国、いかなる産業、いかなる企業にも、「特有の」優位性や劣後性はない。

 優位に立てるか否かは、「誰もが手に入れられる知識から、どれだけ多くのものを引き出せるか」による

 今後、国民経済においても、国際経済においても、ますます重要な意味を持つことになる唯一のものは、知識の生産性を上げるためのマネジメントの仕事ぶりである。

   『ポスト資本主義社会(P・ドラッカー)』より
 
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