RIMG0060先日、両親が来たときに咸臨丸の乗組員らの墓や、咸臨丸到着の記念碑を見たことは記事にした通りですが。

前々から、咸臨丸がサンフランシスコに来たときの様子はどんな風だったのだろうと気になって、ネットで調べてたりしていたんですが、ネットにある記事はいずれも熱狂的な歓迎を受けたと肯定的なものばかり。でも、1860年当時に日本から船がやってきて、そんなに熱狂的な歓迎を受けたのかなってちょっと疑問に思いません? そりゃ、歓迎はされたでしょうけれど、アジアの小国からの船が到着したくらいで熱狂されるのかなーと。スンマセン、あまのじゃくで(笑)。

で、ふと思ったわけです。咸臨丸がサンフランシスコに到着したのは1860年3月17日と分かっているので、その日の新聞を見たら何か記事が出ているんじゃないか!と。

サンフランシスコ図書館のサイトを見たら、1860年当時の新聞のマイクロスコープがあってちゃんと閲覧できるようになっているじゃないですか! ちょっと、面白そうだなーと思って、行ってきました。


RIMG0055これが新聞アーカイブ閲覧室です。PCみたいなのが何台も並んでいます。この部屋の棚に、昔の新聞のマイクロスコープがぎっしり詰まっていて、そこから自分の見たいフィルムを取り出して勝手にセットして閲覧できるようになってます。








RIMG0039説明書にしたがってやってみたら、簡単に見れました〜。このマシン、よく映画なんかで見たけど、まさか自分で実際に触る機会があるなんてちょっとびっくりです。

で、1860年3月17日の新聞を見てみました。サンフランシスコ・クロニクルは1865年創刊なのでまだこの年にはありません。代わりに、Daily Alta Californiaという新聞がありました。

しかし、この新聞がまた見難いのです。まず、マイクロフィルムが鮮明でなく、文字が抜けていたりはっきり識別できないのです。それに加えて文字も小さいし、どうやら撮影した新聞の状態も悪いようで、途中で行がすっぱり無くなっていたりしています。

当時の新聞の最初のページには、どこどこからの船が到着したよ〜っていうお知らせが沢山並んでいました。ニューヨークからの船がどこの桟橋に着いたとか、香港からの船が着いたとか…。この時期、既に香港や中国との行き来があったのですね!これもちょっとびっくり。

で、日本からの船は…と捜しても見当たらず。17日の新聞はすべて目を通したけれど、やはり何の記事もありません。

そこで、18日の新聞を見てみました。すると、おぉ〜 ありました。咸臨丸の記事です! 「日本からの船が着いたよ」って1行程度の記事かと思いきや、結構な紙面を割いて咸臨丸のこと、乗組員らの風習などが詳しく紹介されています。

と言うわけで、以下がその翻訳です。先にも書きましたが、文字判別不能な箇所も多々あり、そういうところは都合良く読み飛ばしています。人名や地名などは新聞表記をそのまま写しています。咸臨丸って「かんりんまる」と読んでいますが、英語ではCandinmarruhとなっていたりするのを見ると、昔は「かんじんまる」と読まれていたのでしょうか?


### 日本の蒸気船が到着 ###

興味深い航海の詳細 - 乗組員たちの作法や習慣 - 船の外観 - 日本海軍提督による訪問客の歓迎など

昨日午後3時に、船長・Kat-sin-tarrohによって率いられた日本国からの蒸気船軍艦 Candinmarruhがサンフランシスコに到着し、Vallejoストリート波止場に停泊した。咸臨丸はUragawaを出航し37日の航海を経てサンフランシスコに到着、この船には日本海軍の提督Co-ser-ke-ma-sa-no-ci-umが乗船している。

咸臨丸の航海の目的は、日米修好通商条約を締結するためにYeddoを2月10日に出航し、サンフランシスコへ向かっているアメリカの蒸気船ポーハタン号に随行するためである。

咸臨丸には次の士官らが乗船している。

Admiral, Co-ser-ke-ma-sa-no-ci-um;
Captain, Kat-sin-tarroh;
Captain attending, Managero;
Lieutenante, So-ko-rah-to to-sah, Okeomo, Yu ha, Use-e-ro, To-mo-i-go-ro, Eu-ah-ket-che;

Cheif Engineer, Ha-ma-go-ro;

Second Engineer, Kin-ge-ro;
four midshipmem three doctores, and seventy bofore the mast.

この蒸気船には10の砲台が装着されている。この蒸気船には、1859年8月23日にYokohamaにて難破したFennimore Cooper号の船長John M. Brooks、E.M. Kern氏らと9人の乗組員らが乗客として乗り込んでおり、彼らはこの船に乗ってアメリカに帰国した。



☆航海の終了


咸臨丸は37日をかけて日本の港から帆走してきた。咸臨丸の航海では、日本近海を離れるまでの3日間はエンジン走行したが、それ以降はエンジンを使わず帆に風を受けて帆走してきた。咸臨丸は順調に航海し、1日に200マイルを帆走した。咸臨丸は、3年前に日本国天皇陛下のためにオランダで建造され、現在も建造当時そのままの形を留めている。建造費は7万ドルであった。

私たちはこの船が到着した昨日訪れ、Brooksらと面会をした。彼らからは非常に興味深い航海中の話を聞くことができた。

咸臨丸は日本海軍が所有する7,8の蒸気船のうちの1つであり、この船が日本ではじめて外国の港に寄港する船となった。もし、横浜沖で難破したBrooks氏らがこの船に乗船しなかったなら、この航海も実現しなかったであろうと思われる。

修好条約締結の書類はポーハタン号で運ばれているため、ポーハタン号の到着を待つ必要がある。どの日本人乗組員らも航海に必要なすべての作業に精通している。甲板長は航海に必要なすべての作業を熟知しており、彼が知らないものはなく、的確な指示を出している。

乗組員らは極めて敏速に行動し、懲罰が与えられるようなことは航海中に起きていない。日本を離れてからすべてが順調であった。船上での秩序も極めて安定していた。士官らは船を操作する航海術を完璧に理解しており、彼らは長崎の訓練所でそれらの知識を学んだ。航海に使われる器具はオランダ製かイギリス製であり、イギリス製のクロノメーター(経度測定用時計)も保有している。船上での食事は、主に米、魚の干物と漬物である。魚は菜種油でフライにされ、とても美味しい。乗組員は一日につき1ガロンの米が与えられるが、与えられた米の多くは日本にいる家族に持ち帰るために残している。野菜、お茶、砂糖などは、使ったら使った分だけその人がお金を支払う必要がある。

航海のはじめのうちは、時間を計測してはいなかったが、後にその必要性が明らかになると、すぐに時間を計測するようになった。食事には、テーブルが使われ、中国人と同じように箸が使われる。航海中に船上では宗教的な行為や偶像崇拝などは見られなかった。しかし、彼らは時折各自の部屋で「?(読解不能 多分先祖とかと思われるが)」に対して祈るらしい。彼らは航海中、この地に寄航し、アメリカの人々や精度について知ることをずっと楽しみにしていた。特にアメリカ合衆国政府に彼らは興味を抱いている。彼らは清潔で、頻繁に風呂に入る。

提督には4人の従者がついており、彼らは常に提督の側で仕えている。しかし、提督はとても繊細な人で、不必要な強制労働や形式のみを尊重するような無意味なことを従者に要求することはない。船上での命令は完全にオランダ語で行われ、すべてが敏速かつ快活に実行される。

事実、航海術全般の教育はオランダ語で行われている。したがって、これはオランダの方針が日本において極めて幅を利かせていることを意味する。

引き続き、昨日この船が接岸した際に、我々が乗り込んで見聞きしたことを記しておく。我々は日本海軍の制服をいただいた。それらは、濃い色をした毛織物の仕事着とズボン、それに柔らかい木製のサンダルである (中国人らが履いている変な木製の靴ではない)。帆柱のあるデッキにあがったところ、船の上の至る所で秩序が保たれ、きちんと整理されていることに驚いた。我々が驚いたように、我々が船上に現れると、乗組員らも突然の訪問客に驚き、あっけにとられた様子であった。海兵隊員らは、大きめな正方形の当て布を肩につけており、そこに日本語で階級が書かれている。彼らの顔つきは我々が目にする中国人らよりも、極めて知的である。

我々は船上において、礼節があり節度のある歓待を受けた。索具やエンジン他のすべての備品は我々が使用するものと全く変わりが無い。船室に入っても全く同様の小奇麗さを見ることができた。床は几帳面に磨かれている。我々が入った客室はこの航海の間、アメリカ人士官にあてがわれた一室であり、彼は航海の間、多くの従者をあてがわれ、船上で考えうる最高の歓待を受けた。

隣の客室で、我々は日本国海軍提督であるCo-ser-ke-ma-sa-no-ci-umに紹介された。彼は、温和で情け深く、年齢はおよそ40歳くらいである。私たちが彼のいる客室に入ったとき、彼は、髪をセットしているところであった。それは、一人の従者がオイルを用いて極めて芸術的にセットしていた。提督は床に座り、シャンプーを楽しんでいるようであった。その後すぐに、彼はデッキに現れた。彼の装いは、控えめではあるが紳士的なものであった。足は雪のように白いサンダルとストッキングで覆われ、羽織っているこげ茶色のコートは、群青色のベストと鮮やかな対比を成している。そのベストには前面に銀の糸で刺繍が施されている。腰には2本の刀(トルコ製の弧を描いたような刀に似ている)を差している。

咸臨丸に乗っていた大尉以上の士官らは、"二刀士官"と呼ばれ、2本の刀を帯刀することが許されており、これが位を意味している。刀は非常に鋭利で、美しく磨かれている。提督の頭は、一部が剃られ、頭髪は後頭部で結わえられている。隣の船室では、チーフ・エンジニアのMah-ma ge-roが従者によって頭髪を整えている。

我々は、提督の船室に、ブキャナン大統領の写真(絵?)が目立つところに飾られていることに気付いた。日本の国旗は船首に掲げられている。この旗は、白地に赤い丸が描かれたものである。縦帆には提督のプライベート・シグナル(?意味不明)が描かれている。この模様は白地に赤い円があり、その中に菱形が描かれている。我々はとても美味だが、不思議な香りのする軽食をいただいた。我々が船上でノートを取っていると、日本人たちは我々の記述の仕方に強い興味を抱いたようだ。我々がノートを調べる許可を与えると非常に満足げな様子だった。この好奇心は、服、時計、鉛筆、ナイフなどにも向けられた。サンフランシスコの街も彼らの好奇心を掻き立てるだろうことは疑いがない。

船長のKat-Lintaroは、航海の間、ほとんど病気であり、知的な医師によってずっと看病されていた。従者が船長の部屋に入るとき、従者は高位の人に対して低くお辞儀をし、部屋を出るときも同様のことをする。士官候補生の一人の名前は Kun-u-rah-tse-no-kamという。"I thank you"を日本語では"A-rung-a-tu"という。

推測だが、咸臨丸は興味ある人たちに一般公開されると思われる。とても興味深い船なのでこのチャンスを逃すべきではない。多分、このような機会はこの先、何年も訪れないだろう。咸臨丸に敬意を評する礼砲の打ち合いは、明日行われる。

昨晩、船長Mau-ge-roo,Yo-sa ro, Oke yo-mo, U-ha-raの4名がBrooks船長とCharles氏らと共に、サンフランシスコの街に上陸し、いくつかの主要ストリートを歩いて彼らが滞在するインターナショナル・ホテルへとやってきた。夕食がもてなされ、彼らは今まで体験したことがないような様々な風味を議論し、満足した様子であった。この後、彼らはBrooksによってJob'sホテルに招待され、アイスクリームやお菓子を生まれてはじめて食べた。



なかなか面白いですよね。時間があれば、次の日の新聞なんかも見たかったのですが、今回は時間切れとなりました。

ところで、この咸臨丸が接岸したVallejoストリート波止場ってどこなんでしょ?

察するにVallejoストリートが海にぶつかったところなんでしょうけれど。

うーん、どうしたら分かるのかな?と思っていたら、サンフランシスコ図書館の最上階に、サンフランシスコの歴史に関する資料が集まっている資料館があったので、そこに行って1860年の地図を探してみました。残念ながら1860年の地図はありませんでしたが、1870年の地図がありました。それがこちら…

RIMG0056この当時は、今のように桟橋がたくさんあった訳じゃないんですねー。Vallejoストリートの突き当たりには桟橋があり、Vellejo pierと書かれていますので、きっと咸臨丸はここに接岸したのでしょう。ここ、現在でいうピア9に該当します。

彼らがステイしたインターナショナル・ホテルはどこにあったのかも興味があるところです。


ところで…

わざわざサンフランシスコまで出向いて昔の新聞を見てきたわけですが、家に帰ってからネットで調べてみたら、全く僕が見たのと同じ紙面がweb上で公開されていることが分かりました。

ガーン。わざわざ図書館まで行かなくても良かったのか… orz


※7月20日に以下追記
本文中にVallejo Streetの桟橋の場所に関する記述をしましたが、その時に見た地図の画像を不鮮明ではありますがリンクしておきます。

サンフランシスコ市内全体図

ダウンタウン周辺エリアの拡大。この地図の中で、"VALLEJO & CAL. P. R. R. STREAMERS SAN QUENTIN FERRY"と書かれた文字を見つけることができます(若干不鮮明ですが)。これがVallejo Street桟橋と思われます。