二日前の火曜日。この日は、数分間の極めて短い時間ながらも、今までの僕の人生で最大級の焦燥と無力感を感じることになった日でした。結果、何事も無かったものの、一歩間違えば人生を大きく変えた日になったかも知れない日でした。

プロローグ 男は一歳から馬鹿なのか?
普段、「馬鹿」という言葉を意図して使わないよう心がけている僕ですが、今回ばかりは使わさせてもらいましょう。来月2歳になるぴろ太郎と、同年齢時のぴろ子を比べると、ぴろ太郎の方が手が掛かっています。これは個性による違いもあるのでしょうが、性差に起因している節もあるように思われます。当然例外もあるでしょうが、SNS等で子供を持つ友人の書き込みを読んでも、一般的に女の子の方が大人びていて、男の子はいつまでたっても馬鹿なのです。

ぴろ太郎とぴろ子を比べても、ぴろ太郎は親が付き添わなくてもどんどん一人で先へと歩いて行ってしまう、道の真ん中を歩くのが好きで車が来ても逃げようとしない、こちらが追いかけると笑いながら走って逃げていく、湖の際まで平気で近づいて水を覗き込む、ブロック塀の上を歩きたがる…。僕の記憶をたどっても、ぴろ子は決してそのようなことはしませんでした。散歩するときは親から離れなかったし、車が来るのを見れば道端にすぐに避けていました。

ぴろ太郎が親である僕をからかって楽しんでいるようにさえ見受けられる行動に、この日はあわや大惨事が発生するところだったのです。

第1章 散歩
夕方5時半にぴろ太郎をデイケアから拾って帰宅すると、ぴろ太郎はコミュニティ内を散歩するのが日課になっている。

僕たちの住むコミュニティは湖に浮かぶ一つの島全体がコミュニティになっているため、ところどころに湖に突き出したデッキが設置されている。このデッキに行くのはぴろ太郎も大好きで、定番散歩コースになっている。

deck


デッキに立つと、遮るものの無い広々とした眺めと湖を渡る冷たい風に、気分がリフレッシュされる。ただ、落下防止用の柵などは設置されていないため、子供が落ちないように細心の注意を払わなければならない。ぴろ子に早いうちから水泳を習わせたのも、もし湖に落ちた時に対処できるようにという思いがあってのことだ。

この日もいつものコースを散歩した。ぴろ太郎が先を歩き、すぐあとを僕が追う。ぴろ太郎は、強い風に吹かれて落ちた柳の木の枝を拾うと、デッキの端から釣り糸を垂れるように枝の一方を水面に垂らそうとする。当然、極めて危険なので何度も止めるように言うが本人は全く意に介しない。仕方ないので、しっかりぴろ太郎の体を抱きかかえる。

それに飽きると今度は緑地を横切り、コミュニティのクラブハウスを通り過ぎ、その横の小道を進んでいった。


第2章 ロック・イン
クラブハウスのすぐ隣にはプールがあり、小道はプールのフェンスに沿って進む。先週末は気温がぐっと上がったため大勢がプールで楽しんでいたようだが、ここFoster Cityではプールを楽しめるほどに気温が上がる日は数えるほどしかない。プールサイドに転がる浮き輪が週末の賑わい名残を感じさせるが、この日も日差しは強くとも風は冷たくプールには誰もいない。

プールはフェンスで囲まれている。プールを囲む4辺のうち、1辺は湖に面しており、残り3辺にそれぞれ扉が設置されている。扉はオートロックで、非接触型の鍵をドアノブ付近のセンサーに近づけるとドアロックが短い間解除される仕組みだ。僕たちが歩いた小道からもプールにアクセスする扉がある。その扉の前を通り過ぎようとした際、プールに一羽の鴨がいることに気が付いた。

吹き付ける風によって水面が波立つ湖と違い、プールなら鴨にとってものんびり穏やかに過ごせるのだろう。気持ちよさげに泳ぐ鴨を眺めながら、ぴろ太郎に「ほら、鴨がいるよ」と声をかけたとき、ガチャンという金属音が聞こえた。

何が起きたのかと思って前を見ると、ぴろ太郎がいない。

次の瞬間、ぴろ太郎の姿を見つけた。が、驚いたことに、フェンスの内側にいるではないか。

どうやら、閉まっているように見えた扉は完全にロックされておらず、ぴろ太郎は扉を押して中に入ってしまった。バネの力で閉まった扉はガチャンと音を立ててロックされたのだ。

ぴろ太郎は、こちらをちらっと見ると笑顔を浮かべ、そのままプールの方へと走り出す。


第3章 焦燥

扉のノブに手をかけて開けようとしても、完全にロックされていてドアノブは全く動かない。この扉を開けるための鍵は自宅に置いてある。自宅のベランダまでは目と鼻の先だが、ベランダから家に入る扉は施錠してあるので、玄関までぐるりと回りこまなければならない。と言っても、ほんの数分あれば十分なのだが、その数分間、ぴろ太郎から目を離してしまうことに不安を覚える。

プールに誰かいればドアを内側から開けてもらうように頼めるがあいにく誰もいない。

とりあえず、ぴろ太郎がプールに落ちるような事態だけは避けなくては…と、ぴろ太郎にこっちに来るように声をかけるが、知らぬ存ぜぬな様子でどんどんとプールサイドへと向かっていく。

周りに誰か人がいれば、プールの鍵を持ってきてもらうよう頼めるが、こんな時に限って誰もいない。

フェンスを乗り越えようにも、僕の身長よりもフェンスは高い。
pool


プールサイドまで到達したぴろ太郎は、何を思ったか、そこでジャンプをしはじめたではないか。

なぜ、プールサイドでジャンプするのだ?

お前はホントウに馬鹿なのか…と思ったが、そんなことを考えている場合ではない。

大声をあげて、ぴろ太郎に「こっちにおいでー、ジャンプしちゃダメだよ」と諭すも、本人は嬉しそうにジャンプを繰り返すばかり。

もし、ぴろ太郎が誤ってプールに落ちたら… 当然、2歳前のぴろ太郎は泳げる訳もない。家まで走って帰って、鍵を取ってくるにしても、どんなに急いでも2分は掛かってしまうだろう。ここに居ても何もできないのだから、2分目を離していても問題ないかも、と思う一方、もし、何かあったら…と考えると目を離すこともできない。

アワビダイビング仲間の一人で脳外科医のNさんが、溺れて水中に沈んでも1-2分程度なら助かりますよ、だから安心して潜ってね、なんてことを言っていたのを思い出す。であれば、鍵を取りに行くべきではないのか?

今そこに、目の前に危険が迫った子供がいるのに、何もできない自分。やるせなさと焦燥の入り混じった思いを感じつつ、何も策が浮かばないで時間ばかりが過ぎていく。もし、これが、子供が悪漢に襲われているのなら体を張って助けることもできるだろうに、何もできないということの腹立たしさよ。

ぴろ太郎は相変わらず呑気にプールサイドで一人楽しんでいる。

第4章 解決

ええぃ、仕方ない、鍵を取りに行こう、と心に決めて数歩走ったところで、フェンスの前に排水か何かのための機械に屋根をつけたような小さな台状の物体があるのが目に入った。ひょっとしたら、ここに乗ればフェンスに乗り越えられるかも、と、その物体にあがり、そこからフェンスに両手をかける。なんとか、鉄棒のように体を乗せることができた。足をかけて、フェンスの向こう側に着地。

相変わらずぴろ太郎は何もなかったかのように屈託のない笑顔をしていたが、こうして何事もなくぴろ太郎の身柄確保に成功。時間にしてほんの数分の出来事だったろうけれど、僕には、物凄く長い時間に感じた。


エピローグ
その後、家に向かう途中で隣人と世間話をしていると、一人の女性が通りかかった。その人は、僕の様子を見ていたそうな。曰く、僕がプールに向かって一人大声で叫んでいるので、何をしているのだろうと思ったそう。そして、その人はフェンス内に子供がいることを見て事情を察知。プールの鍵を持って出てきたときには、既に解決していたとのこと。

このコミュニティに住みだした時から湖に落ちる可能性は常に意識していたものの、まさか、プールにロックインされるなんて状況が発生するとは全く考えたこともなかった。

HOAのボードメンバーにも、何事もなかったものの、もしかしたら新聞記事になっていたかも知れない事故が発生する可能性があったことを報告。住人に配られる月報にて、プールドアを確実に施錠するように注意を促すとの返信をもらった。


ベイエリアの集合住宅にはプール付きのところも多々あり、プールに部外者や子供が勝手に入れないようにロックしてあるところがほとんどだと思うが、まさか、子供がロックインされてしまうケースが発生するとは…。

みなさんもお気をつけください。