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2018年01月04日

内なるアイヒマン

横断歩道に人がいたら止まるか・止まらないかという議論が熱い。横断歩道で止まらない車が多いので、我が家では子どもたちには「車が来ないときに渡りなさい」とプラグマティックに教えている。
このような歩行者が増えることで「歩行者が止まるから行っちゃえ」的な車が増えることはわかりつつも、そういった連中に子どもが健康な身体を損なわれるのは割が合わないから「渡ってはいけない」と教えている。

年末にかけてドライバーの意見が朝日新聞に掲載されていた。急ブレーキを踏むと後続車にぶつかられる、自分が止まっても対向車が止まらないから意味が無い、待ってくれているから行った、のようなことが書いてあった。
これを読んでアイヒマン論争を思い出し、彼らの内なるアイヒマンに気づかされた。

P1020087
(Olympus E-M1 + Leica 1.7/15)


アレントによれば、アイヒマン(や当時のドイツ国民)が主張していたのは、おおまかにこのようなことになる。

「わたしがやらなくても誰か他の人がやっていた」
「わたしがすることでより小さな悪を選んだのだ」
「わたしがそうしなかったおかげでより大きな悪が起こらなかった」

このような正当化を経て、自分が行なっていることの意味を判断することなく、判を押し大量のユダヤの人々をアイヒマンは強制収容所に送っていった。
そこには自己との対話が無く(本当にこれを行なっても私は良いのだろうか、こういうことをした自分を私は許せるだろうか、etc..)、慣習にしたがうだけのことしかしていない。その結果として、自分の中のもう一人の自分と仲違いし、もう一人の自分に嘘をつき生活することで、自分が歪んでゆくことになる。「わたしはもともとこういう人間なのだ」というところまでたどり着くことになる。これは自己内対話ができなくなっていること、すなわち孤独なことに他ならない。

P1020093
(同上)


そういった人々は自分で判断しない(判断しようとすると、裏切ってしまったもう一人の自分と向き合うことになってとても辛いので、それは避ける)ので、そうすればいいよというような一般的な慣習にしたがって行為するようになる。ただし、それは慣習としてのモーレースではあっても、道徳ではないというのがアレントの指摘になる。

これが内なるアイヒマンの構造である。

横断歩道で止まらない車の運転手の中にはアイヒマンがいる。彼ら自身は気づいていないだろうが、アイヒマンを抱えている彼らは雰囲気や空気(時代精神とアレントは書いているが)に流され続けるだろう。誰かを非難する風潮があればそれに従うだろうし、みんなが善いと言えばそれを行なうだろう。そのことを悪いと考えることすらなく、よい隣人の仮面をかぶって生活しているのだろう。
横断歩道についてはもやもやとしていたが、そこにアイヒマンが存在し続けていることが垣間見え、その仕組みようやくわかった年末だった。アイヒマンは当時の法秩序には従っていたが、横断歩道で止まらない運転手は法秩序にさえ従っていないという点で、よりアイヒマンなのだろうとは思う。

P1020088
(同上)


わたしは道徳的でありたいし、それを引き続き新年の抱負とします!

filmanddigidays at 08:49│Comments(0) デジタル 

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