大学

2017年03月20日

Hannah Arendt: 『革命について』 -公的幸福と公的自由-

卒業する学生がアレントを読みたいと言ったのでお付き合いして読んでみた。読むのは1x年ぶりだろう。ところどころでレジュメを作りつつ、読みつづけているうちに『人間の条件』で苦しんだのを思い出した。

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(Olympus E-PL6 + M.Zuiko 1.8/45)

さて、細かな議論は本論を追ってもらうとしてエッセンスとしてはこのようなものになるだろう。革命を通じて公的活動の自由を得た先人たちは一つのことに悩む。それは次世代に革命を許す憲法をどのようにすれば作ることができるのかという問題である。

私たちは、私たちの国や社会や共同体をどのように運営し、どこに向かい、何を求めるかを議論し私たち自ら決定してゆく自由を持っており、それを公的自由と呼ぶとアレントは主張している。まさに革命を成し遂げた人々はその公的自由を享受し、それによってのみ得られる公的な幸福をも享受していた。
議論(constitute)の結果として「constitution」ができるわけだが、そこにはその時点での理想像が記述されることになる。もし革命を許可するのであれば、その理想と次世代の理想とが齟齬をきたすこともありうる。それは現時点での理想が許せることではない。国民の自由と平等を理想として掲げる一方で、公的自由を許すことは自由と平等をなくす議論をも許容しなければならないし、それを選択することも許容しなければならない。

そのため、公的自由(公的幸福)は制限させられるように自由の意味が変質してゆくことになる。私たちが持っている自由は公的自由から私的自由へと変質させられ、私たちは公的自由から疎外されてしまう。その結果私的自由をいかに確保するのかに私たちの努力が費やされ、私的幸福の追求のみを幸福の追求と勘違いさせられてしまうのである。

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(同上)

さて、ここでふと気がついたのが、現在の大学も私的自由の確保のために各人が努力させられていないか?ということである。本来なら研究は真善美の探求のため、極めて公共性が高い活動だといえる。そのための環境整備に腐心すること(議論をし、理想的な環境を求め、そのために運営してゆく)は大学人として公的幸福に与っている状態であろう。
ところが現実には、研究は私的幸福であるとみなされ(好きでやっているのでしょ?)、研究時間を確保すると主張することが後ろめたい状況になっている気がする。それゆえ、大学における事務作業をいかに回避するかばかりに苦労する環境ができあがっている。大学人は私的領域へと疎外されてしまっているのだろう。

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(同上)

アレントのおかげで、いつのまにか抱いてしまっていた偏見を見ることができた。アレントを読みたいと言ってくれた学生は、もしかしたら神さまのメッセンジャーだったのかもしれない。
そして、神さまが私に言っていることはいつも同じである。

「学べよ。さらば与えられん。」


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2010年09月24日

ミラーレス化は正しい判断だと思います

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(E-30 + Summilux 1.4/25)

ことデジタルカメラについてはミラーレス化(光学ファインダを無くすことと同義で取扱いたいと思います)は正しい方向だと思います。遅かれ早かれすべてのカメラメーカはファインダを捨てると考えています。

それはデジタルカメラが、撮影者の望む映像をその場で検証できる機能を持っていますが、現在のデジカメには余分な情報の経路があるからです。光学ファインダがあることによって「メモリに記録し、それを再表示する」というワンステップをユーザに押し付けます。

余分なステップは削除されることは明らかなので、ミラーレスに向かうことは確かでしょう。シャッターを押したら撮れる画像が目の前に表示されている(アートフィルタ込みで)というのは理想的でしょう。
もし光学ファインダという余分なステップに価値を見出したとしたらそれに対価を払えばよいのだと思います。かなり高価にはなると思いますがニッチな市場として成立するでしょう。(ファインダを見たいんだったら私はフィルム使います)

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オリンパスがミラーレスに舵を切ったことは合理的だと思います。
ですがミラーレス化が「なぜ今なのか」がわかるような説明がなされていません。市場の原理でそうするのであれば、私は決してオリンパスのデジカメは購入しないでしょう。そこに理性が感じられません。

少なくとも、EVFの見えが良くなく、EVFに表示させる情報の整理が不十分で、EVFのインターフェースが練られておらず、EVFを統合したボディも出ていない状況で、将来を語られても80年代の出来の悪いSFを読んでいるような気分になってしまいます。

EVFの問題を脇に置いておいても疑問なのが
1. デジタル処理で画像を補正するのか
2. SHG、HGクラスのレンズをミラーレス機に投入するのか
の2点です。

特に1を行なうことをオリンパスが是とするなら、4/3を開始するときから始めるべきでした。光学的な損失が少ないことがオリンパスにとって重要だったはずが「みんながぁー、小さいのがぁーいいって言うからー補正しようかとぉー思います」だったとしたら理性のなさに絶望です!

2を行なうのであれば、それに見合う大きさのレンズ・ボディーが必要になるでしょう。小さくするなら1を行なうのだと思いますが、それって本末転倒じゃないですか?

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4/3のレンズを開発しない、DSLRも代替機ができるまでと明言したことは素晴らしく勇気がいることでしょう。でも、なぜ今なのか、が明らかにされていないままでは次のステップを誰も評価しません。この不合理さこそが不信感を生み出しているということに気がついてください。新たな思想が必要です。今までの思想は素晴らしかったと思います。でも次の思想が見えてこないのです。

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(E-30 + Vario Elmarit 14-50)

自分たちの思想にこそ価値があったんだということにオリンパスが後から気がつくということにならないことを祈っています。


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2010年08月20日

DPIに反対の理由-主としてプライバシから-

私は現状でのDPI(Deep Packet Inspection)の導入には反対です。それは我々の有しているプライバシ概念が、DPIにはまだ適用できるほど洗練されていないということによります。

とりあえずプライバシについてのお勧めの本は、仲正 昌樹『「プライバシー」の哲学』,ソフトバンク新書,2007 が読みやすくて概説的で良いと思います。

歴史的にも概念的にもとてもよくまとまっていますが、「哲学」はしていませんので、プライバシーについて新たな探求をしていることを期待して読む本ではありません。

ここから私の意見。多いに偏っております。またより深い部分をはしょっています。

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(E-400 + ZD14-54)

プライバシは情報のコントロール権としてみなされています。他人の個人情報を流通させてはいけないのはなぜかといえば、それは当該の人物の個人情報を使う・使わないというのを決めるのは当人だからであって他人ではないからです。このことからも何となく、コントロール権というのが分かってもらえるのではないでしょうか。

そして、情報にアクセスさせない(それも物理的に)ことで、プライバシが守られるというのが従来の構図になります。

他人に知られたくない情報にはアクセスさせない。従来なら敷地内に入られないことで、情報へアクセスさせないことが考えられるでしょう。情報へアクセスされないから、情報が流通することが無い。よって自分の情報を使う・使わないを決められるのが自分であることが保証されます。

情報を使うとか使わないとかを他人が思うことさえ無いように、物理的に情報の経路を閉鎖するわけですね。

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ではここでこんな例を考えてみましょう。
1. 窓を開けっ放しで大きな声で罵りあっている家族がいて、あなたはその内容を聞いてしまう。
2. 窓をピタッと閉じられているが何かを話し合っている家族の家があって、あなたは窓に耳を当てていてその内容を聞いている。

どちらのケースがプライバシが侵害されていると思えるでしょうか。おそらく全員2だと答えるとおもいます。その前提として、隠そうとしていないものにプライバシは無いという考え方があります。隠そうという意図もないのにプライバシだというのはやはり奇妙です。

つまり隠そうとする意図、つまり情報をコントロールしようとする意図こそが、プライバシを構成する重要な要素です。コントロールしようとしているにもかかわらず(窓を閉めているにもかかわらず)情報にアクセスしようとしていたら、何かが侵害されている気になります。コントロールを放棄していたら当然それはプライバシにはなりません。窓を開けて情報の経路をオープンにしているわけですから、知られたくない情報だとは見なされません。知られたくない情報の経路はクローストにするはずです。

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では、こんな例を考えてみましょう。

1. すごい透視装置を使って壁を透視し、あなたの家の中を覗いている人物がいる。

このとき、あなたのプライバシは侵害されているとはいえません。その人物はこう述べるでしょう。

「だって、あなたは私の装置から逃れるような措置をしていないじゃないか。コントロールする意図が見受けられないよ。隠すつもりがないんだろ?」

窓は閉まっているかもしれませんが、彼には聞こえてしまうのです。聞こえてしまうのは彼が悪いのでしょうか、それとも彼にも聞こえないような措置をしていないあなたに責任があるのでしょうか。

技術の発展により、いたるところで窓が開けられています。現在のネットワークでは、窓がオープンにされようとしているわけです。個々人では防ぎようもない技術であるにも関わらず、それをコントロールしようとする意図が無いとみなされることで、すべての情報が筒抜けになる事態がすぐそこにあるのです。

情報技術に詳しい人ならば、proxyにSSLで経路つくって、すべてそこからアクセスするよ、となるかもしれませんが、ほぼすべての人はそうではありません。全員の知識レベルがある一定を越えていないにも関わらず、高い要求レベルを前提とするような施策は間違っています。

何をしなければならないか。単純です。コントロールする意図を前提としないようなプライバシ概念の創造、これしかありません。
しかしながら、それはまだまだです。これが行なわれない以上は、DPIなんてのは我々の日常の行為を脅かすものそのものです。

私はとにかく反対です。今はまだ行なうべきではありません。
他にも反対の理由は2つほどあるのですが、長くなるのでここで切り上げたいと思います。

リクエストいただけたらさらに書きます。(^^;


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2010年06月13日

私は現状ではDPIに反対です

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(E-30 + ZD11-22)

DPIって何?という方は、まずはこちらをご覧ください。

http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/02kiban08_02000041.html

反対といっても、現在の案のDPIには反対というだけで、根本的にDPIを反対しているわけではありません。DPIも、現在の社会での必要性があり、現在の社会に適合するかたちで導入される分には反対する理由がありません。

ですが、まだ早いのです。理由は4点ありますが、とくに理由3を見過ごすことができません。

1. オプトインで行なうべき
2. ライフログの収集(集積)は個人が行なうべき
3. プライバシ概念の変化が、まだそこまできていない
4. 通信の秘密はやはり重要

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(E-30 + APO-LANTHAR 90mm, 以下同じ)

1について。DPIを導入するならば、オプトイン方式で行い、希望者には情報の収集の対価としてネット接続を安くするなどの方法を取るべき。我々は潜在的にも犯罪者ではないし、嗜好にそぐう広告なんて要らない。情報をいかにして受け取らないかを真剣に考える時代であるはずなのに、ちょっと時代錯誤的やすぎませんか?

2について。ライフログの収集は個人の決定の元で行なうべきことであり、第三者が「やってあげますよ」とお節介をやくことではない。それにライフログという言葉の使い方が何か変。

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3について。この問題は複雑であるので別記事にまとめますが、要点だけ。「監視されている」という感覚が我々の行為を変化させることについて考慮されていないし、個々人は与えられた情報によって各々が有している価値基準に従って、価値評価を行なってしまうが、価値基準自体の幅が広く複雑であり、情報の流出が社会的に取り返しのつかない自体を招くことがある点が無視されている。より根源的には、プライバシ概念が旧来のものを適用して運営されている社会では、情報が社会的な評価をなすものとして人々が考えてしまっていること自体が問題であるというポイントを逃している。

4について。もはや国家は強権を発動する唯一の機関ではなく、むしろ中間団体のようなものの方が恐ろしい時代にあって、当の中間団体となりうる組織が通信を傍受するというのは頭が悪すぎる。レッシグたんくらい読んでほしい。

p6135148

まあ、ポルノグラフィーについての外圧があるだろうし、導入することにも一理あるかもしれないが、基本的にダメダメでしょう。
このダメダメ具合は「情報」に関する社会科学の力不足という側面も大きいので個人的にはちょっと反省しています。 

filmanddigidays at 23:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年06月06日

かすむツリー、かすむ教育

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(E-400 + ZD40-150)
 
出張で東京へ。ついでに実家へ。 転びやすい天気のせいかタワーがかすんでいました。ちょっとでも曇りになるとすぐに上の方が見られなくなるようです。

国公立大学ではインターネットへの接続に使用しているIPアドレスについて使用料を支払っていません。このこと自体はあまり知られていないことかもしれません。
理由はさまざまあるでしょうが、インターネット自体が学術機関同士を接続していたネットワークであること(そこに一般プロバイダが接続しているのです)や、インターネットを立ち上げるのに大学が尽力したこと、教育・研究業務を行なう機関であり営利目的ではないなどが代表的な理由として挙げられます。

ところが、JPNICから大学に対してアナウンスがなされました。来年度からIPアドレスに課金しますという、ビックリな内容です。

現在の案では、たとえば地方国立大学では年間100万円ほどの支出になります。理系で大量のIPアドレスを利用して教育・研究を行なっているところでは、もっと支出が増えます。

この提案はJPNICの会員である各種ネットワーク事業者から行なわれていたものです。インターネットを使っているのだから大学といえどお金を払えという趣旨です。背景には「なぜ大学のIPアドレスの分の料金を俺たちが負担してるんだ?」という考えがあります。

単純にネットワーク事業者はIPを利用することで利益を得ています。対価を支払うのは当然です。大学はIPを利用することで利益を得ていません。大学が得る利益とは、学生の教育(将来の日本への資源提供)、研究の推進(将来の日本への知識提供)、地域のシンクタンク(地域への情報提供)などでしょう。 

おそらく各種ネットワーク事業者はこのことを理解した上で上記のような提案を行なっているはずです。理解していないのであれば、どうしようもないくらい、日本の知的レベルの地盤沈下が起こっていること示しているのだと思います。

つまり、教育・研究・地域貢献などを大学が行なうことに対して投資しません、という態度をとることにしたと考えるのが妥当なのだと思います。

「たかだか100万くらいだろ?予算規模すごいんだろ?出せるんだろ?出せよ?」

という考えがあるのかもしれません。100万あれば、学生にどれだけの本を買うことができるのか、学習環境をどれだけ整えてやることができるのか一度考えてみていただきたいのです。教育の行く先がかすんで見えます。

もちろん、今までJPNICに甘えていたという側面もあります。必要な経費については支払うのは当たり前です。では妥当な経費はどの程度なのか、そういった議論を抜きにして「課金します。支払わなかったら切断します」というのは受け入れがたいでしょう。
 
さてさて、どうするか。 

filmanddigidays at 23:42|PermalinkComments(2)TrackBack(0)