同タイトルの前の記事に対する補足である。

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前の記事の内容に対しては、音楽大学受験生の生徒から次のような反論があるかもしれない。

「階名唱(いわゆる「移動ド」唱)が準備運動であるということは分かった。しかし現実には、私たちは入試の場では転調を含む難しい楽曲を視唱しなければならない。そうである以上は、私たちのような音大受験生の階名唱実践者は結局、『転調する楽曲を階名を読み替えながら歌う』という大変な思いをすることは避けられないのでは?」

実は、転調時の階名の読み替えは「階名感覚」がしっかり身についてさえいれば全く大変ではない。


しかし、今はそのことはさておき、上記のように言う生徒はそもそも重大な固定観念に取り憑かれている。
それは 「視唱時にはかならずドレミを言いつつ歌わなければいけない」という固定観念である。
この固定観念は、今日の音大受験生およびその指導者の間に頑固に浸透しているように思える。
(かく言う私自身、20代の頃に東川清一氏の本に出会うまではずっとこの固定観念に囚われていた)


しかし、そもそもドレミは視唱能力を身に付けるための訓練手段、ないしは音程を正しく取って歌うための補助手段であり、視唱の目的そのものではない。
だから、ドレミは視唱の「本番」
(試験など)時には必ずしも言わなくても良いものである。
したがって、実際の試験の場では、正確に音程が取れるのであれば「ラララ」「ナナナ」などの無歌詞唱で良いのである。

普段の練習の場ではドレミ階名唱で集中的に訓練しておいて、実践(本番)の場になったらラララで歌う。
これこそが本来のドレミの使い方であり、視唱における「練習」と「本番」のあり方である。

すなわち、ドレミは最終的にラララで視唱ができるようになるための通過点であり、必ずしも本番まで持ちこむ必要はないものである。 
これは、野球のキャッチボール(二人でゆったり投げ合うキャッチボール)が確かに基礎的な準備運動ではあっても本番(試合)の最中にまで行うものではないことと同じである。


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なお、(音名であれ階名であれ)音の名前を言いながら歌うことが視唱の目的だと誤解されていることは、日本の音楽教育における諸悪の元凶の一つであるように思われる。
こちらの記事にも書いたように、これはおそらく「固定ド」が蔓延した根本的な原因の一つである。
具体的に説明すれば下記①~③の通りとなるだろう。
(下記における「音の名前」という言葉は音名と階名の両方を指す)

① 音の名前を言うことが目的だと勘違いしているから、人々は階名唱よりも、音の名前を「ひとまず手っ取り早く読み取れる」音名唱を使う方向に流れる。
② 音の名前を言うことが目的だと勘違いしているから、音名唱を行う人々は(階名を犠牲にしてまでも)CDEやハニホよりも発音しやすいドレミを使う方向に流れる。
③ 音の名前を言うことが目的だと勘違いしているから、絶対音感教育(本当にバカバカしい!)を行う人々は(やはり階名を犠牲にしてまでも)絶対音高ラベリング名すなわち音名としてドレミを使いたがる。

これについても重大な問題なので、いつか別に記事を立てたい。


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注)
* 彼らはおそらく、「子供がせっかく絶対音感を身に付けたならば、それを将来視唱(この場合は音名唱)に直結させなければ意味がない」と考えているのだろう。しかも、彼らはおそらく「視唱では必ず音の名前を言わなければいけない」と勘違いしてもいるから、発音しやすいドレミを音名に使いたがるのだろう。
 
本記事全体の主要参考図書:
移動ドのすすめ
東川 清一
音楽之友社
1998-12-10