以下の文章は主に初学者教育に関して書いています。しかし、音楽教育全般に通じる一般性を持った内容でもあると思っています。なぜなら、誰でも最初に教わる時は初学者だからです。また、今後音楽教育を受け始める生徒も100パーセント初学者だからです。

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 私は以前より、「すでに世間に『固定ド』が流布しているからドレミ階名(いわゆる「移動ド」)指導や、音名はハニホ、階名ドレミと区別する指導は難しい」のような言説をどこか奇妙だと思っていた。その理由がつい最近言語化できたように思う。

 その理由とは、「世間」という言葉からも窺えるように、この言説が、音楽教育を受ける生徒があたかも「世人一般」であるかのように捉えていると思えることである。つまり、この言説の話者たちは、すでに「固定ド」が広まっているところの「世間」なるものをいわば擬人化した上で、指導者たちがあたかも「世人一般」なるものに教えているかのように捉えていると言える。また話者たちはその上で、「世人一般」はドレミの音名的用法(いわゆる「固定ド」)にすでに慣れてしまったのだから、それと相容れないドレミの階名的用法(いわゆる「移動ド」)を彼らが覚えるのは難しいだろうと考えていると言える。

 しかし、本当にそうだろうか。指導者たちが教える相手は「世人一般」のような一般的・抽象的な存在であろうか。もちろんそうではない。実際、彼らが教える相手は「個別の生徒」である。生徒たちが複数人であれ、さらには、集団授業の場で複数人の生徒を同時に教えている場合であれ、相手は「個別の生徒」たちの集合にすぎない。このような、教えている相手が第一に「個別の生徒」であるという視点が抜け、それが「世人一般」であるかのように錯覚していたからこそ、従来「すでに世間に『固定ド』が流布しているから…」式の現状追従主義が取られていたり、「固定ド」に遠慮して積極的にドレミ階名を推進しない指導が行われていたりしたのではないか。

 さて、教わっているのが個別の生徒だと分かると、「すでに世間に『固定ド』が流布しているから…」という理由付けがまったく無意味であることが分かる。というのも、個別の生徒というのは、そもそも彼ら「個人」の経験においては音楽を教わること自体が初めてだからである。したがって、彼ら個人の中では決して「固定ド」が流布してはいない。また、「固定ド」という先入観も存在しない。それどころか、彼らのそれまでの人生においてはドレミという語彙自体が日常的であったことはない。また、世間においてそれまで「固定ド」が30年流布してたとしても、100年流布してたとしても、そのことは今初めて「ドレミ」という言葉の勉強を始める生徒の個人的体験にはまったく関係ない。

 以上のようにそもそもドレミの知識がなく、その意味では中立的である個別の生徒たちにとって、最初からドレミを階名として教わることがなぜ難しいのだろうか。また、最初から音名ハニホと階名ドレミが別物だと教わることがなぜ難しいのだろうか。
 
 忘れないでほしい。生徒たちは第一に個人だ。初学者であればなおさら、それまでの世間の習慣などとは無縁に生きてきた個人だ。そもそも習慣というのは、概してその分野に慣れている人たちによって作られる傾向にあるだろうと考えると、初学者である生徒たちほど習慣に毒されていない。それだけ生徒たちは習慣から自由だ。したがって、習慣がもし良くないものであるならば、それにわざわざ生徒たちを巻き込むのは愚行にすぎないだろう。

 同僚指導者の皆さん。習慣から中立的である初学者たちや生徒たちは、すでに「固定ド」の存在を知り中立的ではなくなった我々とは違う。そのように習慣という先入観から自由な生徒たちは、習慣とは異なる新しい知識でも、皆さんが想像している以上にずっと柔軟に、かつ速く覚えられる。たとえ音楽経験者の間では「固定ド」が流布していようと、その知識を生徒にわざわざ与えさえしなければ、生徒たちは音名・階名それぞれの意味と両者の区別をいとも容易に覚えられる。ハニホが音名でドレミが階名であることもすぐに理解できる。実際、私の指導経験を振り返っても、「先入観のない」生徒に「最初から」音名と階名を区別して指導すれば驚くほど速く覚えることは明らかである。このようなある生徒はそれまで楽器の経験がほとんどなかったにも関わらず、楽典の勉強を始めてから2か月ほどで、それまで楽器を(同時に「固定ド」の言葉遣いを)長く習ってきた別の生徒よりも音名・階名に関するテストで高得点を取った。


 だから、指導者の皆さん。今までの習慣や「世間」のことはまったく気にせず、生徒たちがあくまで「個別の生徒」あるいは「個別の生徒」たちであるがゆえの彼らの受容力を信じ、今後は最初から「音名はハニホ」「階名はドレミ」と区別して指導していきましょう。生徒たちの驚異的な吸収力は、指導者自身にとっても大きな喜びとなります。