2018年06月25日

文化

僕は叩かれたくない。
不透明で不明瞭で不確実な世間という化物に。
書いたうえで、投稿するかも迷った。
でもどうしても書きたくなった、
どうしても言いたくなった。
普段僕が絶対に公にしない分野なのだが、
今回は書くし、投稿する。




TwitterのTLの文字に、
先ず好奇心が呼び起こされた。
『チッピング』。
あー、またバカが現れたか、その程度の感覚だ。
早速Twitterで検索してみる。
次に現れた文字を信じることができなかった。
『那由多のホールドが破壊された』。
僕は強いものが好きだ。
圧倒的に強いもの。
僕の想像を一息で吹き飛ばす、
圧倒的な強さに、一切の妬みのない憧れを抱く。
那由多は間違いなくそういう課題だ。
僕が触る、触らないは関係ない。
ずっとずっと、とてつもない壁でいてほしい。
並み居る猛者を次々と蹴散らす、
僕のような素人は離陸もお呼びでないような、
圧倒的な存在でいてほしい。
五段を超える課題というのは、
僕にとってそういう存在だ。
いつか背中に追いつけたら。
そういう妄想とも憧憬ともつかないような
凡人特有の気持ちを胸に、
ジムで登り、外で登るのだ。
それが壊された、あっけなく。
文字通り化物のようなクライマーを足蹴にする、
そんな課題がいとも簡単に壊された。
壊れたのか、壊されたのか、恣意的か否か、
それは事実の確認ができていない。
しかし、事実として認識しなければならないのは
那由多は壊れた、元の強さを失った、
そのことだけは間違いないだろう。
では、僕らにできることは何だろうか。
いくつかのアプローチで考え、
1つの仮説を立てた。
先ず、できることを考える前に
クライミングを定義する。
クライミングはスポーツの1つであり、
その上位の定義としては、『文化』だろう。
クライミングは、スポーツであり、文化である。
これが僕の仮説の大前提だ。




『文化』は、『生活』の上に立脚する。
論理的に飛躍している感はあるが、
スキームとしてはそのように考えた。
もう少し踏み込んだ定義をするのであれば、
文化は生活に許容されてこそ成立する。
さて、僕らの生活、
ここでは『日本』を前提とするけど、
生活はルールに制約される。
様々な、とんでもない数の個の集合体が
同じ枠組の中で秩序を保ち、生きるためには
『ルール』が要る。
組織が強くあるためにも『統制』がいる。
そのルール・統制の最たるものが『法』だ。
法を始めとし、
僕らはルールに従わなければならない。
文化が生活の許容のもとに成立するなら、
『文化』たるクライミングが衝突する
最も大きな障壁は『法』を始めとするルールだ。
もし法と衝突したなら、法の範囲のもとで
生活は退かねばならない、
無論文化もまた潔く退かなければならない。




次に、スキームとして『文化』は『生活』に
立脚すると定義した。
この定義が正しいなら、
文化が生活に立脚する以上、
文化は生活を侵害してはならない。
どれほど高度な文化であれ、
それを下支えする生活は保護されねばならない。
文化の大義のもと、
最低限の暮らしが毀損されるようなことは
あってはならない。
となれば、文化が法の次に衝突するのが生活だ。
クライミングの美学のもと、
大声やナイトクライミング、不法侵入、
糞尿、ゴミ、無断駐車、
そうしたものが許されていいわけがない。
住民の方々への挨拶、駐車への配慮、
ゴミや糞尿の持ち帰り、
ナイトクライミングの自粛、
こうしたものは文化が生活に立脚する以上、
文化により楽しみを享受する側が
生活を侵害しないために行うべき
最低限の責務だろう。
岩を含む景観、美観が生活を支え、
観光資源になっているようなケースであれば、
岩の掃除も我々クライマーが果たすべき
重要な責務だろう。




次に、文化が衝突するのは、他の文化だ。
御岳渓谷を例に出せば、
御岳の散策路にはクライマー以外にも、
渓谷の美観を楽しむ多くの散策者も訪れる。
澤乃井は多くの顧客で賑わい、
渓谷の美観を絵にしたためる方もいる、
言わずもがなカヌー・カヤックのメッカであり、
釣り人も多くその姿を見せる。
文化と文化との間に優劣はないだろう。
ある文化がある文化の上位にあることはない。
法に触れる、生活を侵害することのない限りで、
文化は等しく人に楽しみや生き甲斐を与え、
その楽しみや価値に優劣があってはならない。
社会の枠組の中で、生活の土台の上で、
文化と文化は理解し合い、互助し、
発展していくべきだ。
課題を登りたい一心で散策路に荷物を置くのが
散策路での散歩を楽しむ人々の楽しみを
奪ってよい論理など見当たらない。
文化と文化とは理解し合い、
配慮し合わなければならない。
前掲のチョークも、完登時の喜びの咆哮も、
景観や美観を汚し、
それらを楽しむ人々の楽しみを奪うのなら、
やはり我々クライマーは岩をきちんと掃除し、
美観を保たねばならないだろう。




文化が健全に発展し、文化の中にいる者が
文化の楽しみや素晴らしさを享受したいなら、
法を守り、生活を守り、他の文化にも敬意を払う。
これが一つでも欠ければ、
文化は退場を余儀なくされる。




クライミングという文化も、
クライマーが作った課題も、
法の保護を受けるのは難しいだろう。
クライミングに直接的に関連しそうな法律として、
刑法、自然公園法、文化財保護法などが
想像されたけれど、
どれも『土地』『所有物(私有地内の岩)』を
守るためのものであり、
少なからずクライミングという文化や課題を
保護するためのものではないだろう。




となれば、我々クライマーがクライミングという
文化から楽しみを享受するためには、
法や生活を守り、
文化に敬意を払わなければならない。
その最低限の理解をしっかりと共有し、
新たな文化の継承者に伝えていくことだろう。
クライミングの強さに関係なく、
文化の共有者に互いに敬意を払い、配慮し、
理解の溝を極力埋める作業を行うことだろう。
クライミングという文化も、課題も、
法の庇護にあることが難しいことを踏まえれば、
文化の健全な発展や楽しみの享受は、
法の枠組のなかで、生活に許容され、
他の文化に敬意を払われる素地を築いたうえで、
同じ文化の者と理解し合うことでしか
クライミングは守られない、
極めて脆い存在なのだ。




我々クライマーは、クライミングという文化の中で
どのような在り方が健全なのか議論し、共有し、
それを広め、伝える必要がある。
JFAにはその為に活動してもらいたいと
心の底から思っている。
多くのクライマーの価値観を聞き、考えを聞き、
文化を健全な文化たらしめる共通項を
懸命に敷衍してもらいたい。
クライミングに係る営利活動は、
僕が属する外岩でのクライミングと
切り離されたセグメントがあることは
百も承知ではあるけれど、
もしそのビジョンや理念に、
外岩も含むクライミング文化の健全な発展が
少しでも含まれているのであれば、
営利を支えるクライミング文化の発展に
少しでも寄与するよう、
主たるステークホルダーである顧客とも
クライミング文化に必要な視野や考えを
共有し、広めていってもらいたい。




那由多の件は、プロセスを勘案するに
同文化の中での衝突の可能性が高いと感じる。
僕の仮説が正しいと仮置きするのであれば、
こうした悲劇からクライミングを守るのは、
本当に小さな小さな積み重ねでしか
脅威や恐怖からクライミングを守れない。
小さな小さな理解や共有や配慮があって、
ようやくクライミングを楽しむことができる。
それを欠いてしまえば、
岩の破壊という最悪の結末を迎え得る。
それはクライマーを最も首尾良く苦しめる、
最高かつ最悪の手段になる。
健全なクライミングとは何か、
クライミングの楽しみは何なのかという
文化の健全な共有がなければ、
無機質な数字が至上主義に変貌し、
承認欲求からホールドを破壊し、
『愚行』という形をもって
最悪の具現化を迎えることになる。
クライミング文化を庇護するものが
余りにも弱々しい存在だからこそ、
僕らのような末端のクライマーも
真剣に文化の健全な発展に目を向けなければ、
僕らが愛してやまないクライミングというのは
簡単に崩壊できるのだろう。




取り留めのない文章になってしまったけど、
あまり推敲せずそのままを載せようと思う。
壊れてしまったのが那由多だからという
合理性・一貫性を欠き、
感覚的・感情的なものでもあるけど、
それを甘受してでも書きたいと思った。
文化や生活など、文中の語句の定義については
もっと慎重を期すべきだとも考える。
今回の那由多の件で、無力ながら僕にできることは
外岩という文化に暮らしや心を支えられ、
その素晴らしさに魅了されている
イチクライマーとして、
自身の考えを発表し、
1ナノでも建設的な方向にクライミングが
進んでいく、
その可能性を手に握って投げることだ、
そう感じた。




【追記】
文化が最後に衝突するものを忘れていた。
それは文化内の衝突だ。
同じ文化の者同士が、
文化の定義、個の価値観、主張、感情、
そういったものを引鉄にして文化内で衝突する。
たとえ法を遵守し、生活を守り、他文化に配慮し、
文化を大切に培ったとしても、
文化内で起きる衝突次第では、
その文化に属する者が文化を壊しかねない。
だから、文化の定義付けや、
その定義、伝統、価値観は、
大切なものほど丁寧に、慎重に、我慢強く、
共有し、理解し合い、綴らねばならないのだろう。
文化の中にも様々な者がいる。
文化内の者の価値観に優劣をつけるのではなく、
同じ文化を共にする者として共存の道はないか、
繊細で脆いモノの中だからこそ、
辛抱強く、我慢強く、理解と共有が必要なのだと
考えている。


fkawa125 at 20:50コメント(0)場外  

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