さて、和田幸之進さんの後半生です。改名後ですから、事実上は間宮魁さんのプロフィールとなります。

明治十七年(1884)、「静岡西草深九-五居住」とのこと。どこですか?ということで「西草深」をネット検索してみました。静岡県葵区西草深町…うわっ、駿府城のすぐ西隣だ!

明治二十六年(1893)六月、西草深の徳川慶喜家の家丁に採用され、翌年からは家従をつとめました。おっ、またまた「西草深」。「徳川慶喜」&「西草深」で早速検索。茨城県立歴史館のHPから情報をゲット。慶喜さんは静岡の紺屋町の屋敷から「明治二十一年(1888)三月六日、静岡の西深草町227番地の邸に移転」してきたとのこと。慶喜さん側からの史料チェックも必要なのでしょうが…興味がないものでゴメンなさい。

明治二十八年(1895)に結成された旧幕臣の親睦団体である同方会の会員にも名を連ねています。会長はズバリ、榎本武揚さん!会員の中には内田万次郎さん(おっ!19人組)のお名前も見られます。旧幕臣系人脈のど真ん中ですね。40代に突入してからの徳川慶喜家への就職(?)も、ここらへんの人脈絡みなのでしょうか。

時は流れて、満65才の大正六年(1917)。この年は慰霊活動で多忙だったようです。箱根戦争&蝦夷上陸の五十回忌にあたる年です。

まずは神奈川県小田原市大蓮寺にある「戦死之墓」。箱根戦争で氏名不明のまま葬られた遊撃隊士二十二名のお墓。台座正面には大正六年五月二十六日の日付とともに祠堂金の奉納者の中に間宮魁さんの名が、左側面の世話人の中に和田孝之進さんの名が刻まれているとのことです。…なぜ別々の名前で?ここまで来てまさかの別人?いやいや何か深い意図があるのでしょう。元遊撃隊としては、人見寧さん、小柳津要人さん、澤録三郎さん、石川治郎三郎さんの名前も刻まれているそうです。

次に神奈川県箱根町の興徳庵跡墓地にある「遊撃隊戦死者の墓」。こちらも箱根戦争の戦死者で、遊撃隊第四軍所属の請西藩士七名のお墓です。大正六年十月三十日の建立。裏面にやはり有志者として小柳津要人さんと間宮魁さんの名前が刻んであるとのこと。

そして大正六年十二月の鷲ノ木霊鷲院への「箱館脱走人名」寄贈となります。北海道の霊鷲院へは自ら出向いたのでしょうか?郵送ってことはないですよね。

次の消息は、大正九年(1920)十一月二十五日発行の「史談会速記録 第三〇九輯」収録の田村銀之助さんの談話。「いま、徳川慶久公にお付きしておる、間宮魁という人もともに籠城した一人です」。徳川慶久(1884-1922)さんは徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜さんの七男で、当時は36才の男盛り。徳川慶喜公爵家の第二代当主にして貴族院議員でした。慶喜さんはすでに大正二年(1913)に亡くなっていますが、お勤めは続いていたのですね。

そして大正十一年(1922)。この年は正月に徳川慶久さんが急死。その後を追ったわけではないでしょうが、間宮魁さんも九月十八日、東京小石川区第六天町五四(現東京都文京区)にて生涯を閉じました。享年71。箱館戦争終結から53年後のことです。住所の地は徳川公爵家の本邸です。徳川家に捧げた一生ですね。

「箱館脱走人名」を遺していただき、ありがとうございました。

◇ 参考文献 ◇

『慶応戊辰小田原戦役の真相』 石井啓文氏 夢工房 2008年

 および同書内引用の『駿遠へ移住した徳川家臣団第五編』 前田匡一郎氏 羽衣出版 2007年

『敗者の日本史17 箱館戦争と榎本武揚』 樋口雄彦氏 吉川弘文館 2012年

『慶喜邸を訪れた人々』 前田匡一郎氏 羽衣出版 2003年

『新選組証言録』 山村竜也氏 PHP新書 2004年