F丸の箱館戦争覚書

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カテゴリ: 蟠龍艦

蟠龍艦から遠泳して弁天岬台場の「石垣斜面」に辿り着いたものの、疲労により海中に身を半分浸したまま失神した横井貫一郎さん。果たして蟠龍艦に取り残された士官を救助する手立てはあるのか?別方向に泳いでいった永倉伊佐吉さんは、おそらくすでに力尽きているはず。目を覚まして横井さん!あなたが最後の希望なのです!

「数分時にして予(←横井さん)が名を呼ぶ者あり、気附きて見れば先きに上陸せし「ボーイ」の一人與曾吉なる者なり」

横井さんの側に寄ってきた人物がおります。ありがたい。一足先に弁天岬台場に逃げ込んでいた蟠龍艦の乗員です。おそらく、一同は横井さんが蟠龍艦から海に飛び込み弁天岬台場に近付いてくるのを、ずっと固唾を呑んで見守っていたのではないでしょうか。

東京大学史料編纂所維新史料綱領データベース内の『蟠龍艦乗組人員』「與惣吉」と表記されているのが與曾吉(与曽吉)さんでしょう。「平水夫」ですが、横井さんは「ボーイ」と呼称しています。蟠龍艦からはオシャレな匂いがプンプン漂ってきます。艦長がダンディな松岡盤吉さんゆえでしょうか?

與曾吉さんは「其処に居られては砲弾飛来して甚だ危ふし 早く砲台内に来られよ」と、横井さんに力を貸して海から引っ張り出します。

「彼れの助力に依って水際より上り見れば、先きに見たる伝馬船はあらず、如何にせしやと同人に問へば、先刻多数の水兵上陸の際近傍に弾丸破裂し舟を繋留することもなさず、狼狽して乗り上げたるままに上陸したるに、満潮に因りて流れ出でたりといふ。」

ええええええええーっ!肝心の伝馬船がない!骨折り損のくたびれ儲けかよ!「茲に至りて伝馬船取戻しの策も、画餅となり、失望落胆を極む」、とガックリ肩を落とす横井さん。新政府軍は水兵たちの上陸時を狙って、容赦なく砲撃してきたようです。なんてったって味方の朝陽艦を撃沈した憎い蟠龍艦の乗員ですからね。ここぞとばかりに撃ちまくったでしょう。係留する余裕がないのもやむをえません。

「斯くて台場内に入り、先きに上陸したる砲手小川親正に艦内の現状を告げて赴援の策を謀る。幸ひ台場より大町浜に至る沿岸の敵兵引揚げたる様子なれば、此機に乗じ船を出して救助に赴かしめ、予は疲労甚しきを以て休息し衣服を乾かして待つ。暫時にして艦内に火を掛け艦長始め一同砲台内に入る。」

おぉ、意外な急展開。これにて一件落着!松岡艦長はじめ蟠龍艦の士官のみなさんも、無事に弁天岬台場に逃げ込んでいます。横井さんの努力は決して無駄ではありませんでした。グッジョブです!なお、「砲手小川親正」なる人物は『蟠龍艦乗組人員』における「軍艦役見習三等」小川彦右衛門さんと思われます。

「覚書626」でご紹介した『山内提雲翁傳』「先に命を受けて出発した水夫等が押送り船一隻を得て帰還した」という表現は、この間の事情をかなり端折っていますね。もしかして山内六三郎(提雲)さんは、横井さんが海に飛び込んだ事に気付いていなかったのか?

横井さんは弁天岬台場に後から合流した蟠龍艦の士官のみなさんから、永倉伊佐吉さんの運命を伝聞で知ったと思われ、その死を悼んでいます。

「曩(さき)に陸に向ひし永倉氏は病後泳ぎに堪へざりけん中途にして沈没すといふ、哀悼の至りなり。」

ここで再び『山内提雲翁傳』の伝える永倉さんの最期のシーンをドーゾ。

「海中に飛入り抜き手を切って進んだ」永倉さんは「小舟にまで五六間といふ処で遂に溺て姿が見えずになった。此不幸を目前にして一同彼れの為め哭かぬものはなかったものである。」

4日後の明治二年(1869)五月十五日、弁天岬台場が降伏。その中には横井さんのお姿もありました。

過酷な箱館戦争を生き抜いた横井さん。蟠龍艦上での別れ際の永倉さんの病み上がりの…おそらく少し頬のこけた…顔を生涯忘れる事なく、その冥福を祈り続けたと想像しています。横井さんが後世に残してくださった貴重な「横井貫一郎時庸の事績」「幕府の軍艦蟠龍丸の記」。松岡艦長・永倉さんら蟠龍艦の“仲間”への餞となる鎮魂の記録です。

◇ 参考文献 ◇
『有終 第21巻 第1号』 海軍有終会編 財団法人有終会 1934年 (国立国会図書館デジタルコレクション)
 「横井貫一郎時庸の事績」 今泉周逸氏 ※第3
『蟠龍艦乗組人員』 (東京大学史料編纂所 維新史料綱領データベース)
『医文学 第十二巻第三号』 医文学社 1936年 (国立国会図書館デジタルコレクション)
 「山内提雲翁傳」 鈴木要吾氏

引き続き「横井貫一郎時庸の事績」より。ここからが核心部分。

「予は港内の模様如何あらんと甲板に出てたるに、続いて永倉氏も来り、四方を見るに端艇は尽く打砕かれ、総員上陸すべき船なし、如何にせんかと不図対岸を見れば数艘の小舟連繋せるあり、又弁天台場を見れば先きに上陸したる水夫等の乗り捨てたる伝馬船あり」

蟠龍艦の水夫・火夫は、ハートフルな艦長・松岡盤吉さんの配慮によって、虎の子の伝馬船に乗って弁天岬台場にすでに逃げ込んでいます。問題は松岡さんをはじめとする残された士官クラスの退艦です。もはや使い物になる船は艦内にありません。「予」横井貫一郎さんは周囲を見渡して思案投げ首状態です。

…何かの本で初めて“思案投げ首”という表現と遭遇した時に、文字通り首から上の頭部を砲丸投げのように放擲しているイメージを抱きました。そこから仮面ライダーストロンガーの敵役で、首や手足を自由に分離させるデルザー軍団のドクロ少佐の姿を連想。未だにその映像から逃れられません。心理カウンセラーを受けた方がいいかな?

「対岸は四、五十間には過ぎざれども敵兵あるやも計られず、台場五六丁ならんと思はるれども味方の地なり、何れかの船を取りて艦員上陸の用となさんことを永倉氏に謀る」

横井さんが思い悩んでいます。一間を約1.82mとすると「四、五十間」は約73~91m、一丁(町)を約109mとすると「五六丁」は約545m~654m。泳ぎが得意ではないF丸には、距離が短い「四、五十間」ですらキツイ。それもプールではなく海ですし。「五六丁」は100%無理っす。それはさておき、横井さんに意見を求められた永倉さんの返答や如何に?

「我は病後にて長距離の水泳には堪へざれば、近く対岸到りて舟を奪ひ帰るべし、君は台場に到り水夫等が乗り捨てたる伝馬を取りて戻る方宜しからん」

ええええーっ!永倉さん、病み上がりなの?初耳だべさ!そして、体力を考慮して危険度は高いけど近くの対岸を選択。安全性の高い遠くの弁天台場へは横井さんに任すと。合理的ではあるけれど…病み上がりなんだから無理せず誰か他の人に任したら?

「仍ち之に一決す」

はぁ~…男前の艦長・松岡盤吉さんの下に、男前の船員ありですな。決めた以上、永倉さんも横井さんもガンバ!しかし、病み上がりの身体の永倉さんには、他にも困難が待ち受けています。それは水温。横井さんは弁天岬台場までの遠泳を次のように語っています。

「予(←横井さん)思ふに、頃は五月なれど北海は未だ寒くして春暖を覚へざる頃なれば、裸体にては迚も長距離は覚束なかるべしと、乃ち洋服の侭小板一枚を以て海中に入り泳げども前途遥かにしてして容易ならず」

ネット検索によれば、旧暦の明治二年(1868)五月十一日は新暦で620日です。6月の北海道函館市の海…ネット検索でフラフラした生半可な情報で海水温を大体15℃と見当をつけました。ただし、これは近年の数値。地球温暖化が急速に進行している点を考慮すると、当時は15℃よりもずっと低いはず。冷たそう。なお、水中で洋服を着ていると体温を奪われないのかどうかF丸は判断できません。どなたかよろしく。

「時々距弾の頭上に掠むるあり、漸くにして足へ海藻の纏ふを覚えたれば、最早浅瀬に到りたるものと思ひ直立すれば二三尺も沈みぬ、之ではならぬと再び浮き上り、泳ぐこと数間、海草の繁茂益々多く、前回の如く沈みては浮くこと数度に到り」

安全性の高い弁天岬台場に向かって泳いでいた横井さんの頭上ですら、弾丸が飛び交っています。永倉さんの方は尚更でしょう。しかし、距離が長いだけに横井さんには疲労の蓄積が襲い掛かります。早朝から戦闘していた後ですから当然と言えば当然。

「漸く台場の石垣斜面築出しの処に達したれば、水際より匍匐して出んとすれども身体半分出てたるのみにて、大石を荷ひたる如く重く、足掻く程に疲労愈々加はり精神朦朧として人事を弁せざるに到れり」

腑に落ちました。弁天岬台場に辿り着いたものの、健康な横井さんすら疲労のために意識を失っています。距離が短いとはいえ、病み上がりの永倉さんが力尽きて海中に没したのも不思議はありません。ものすごーく頑張りましたね。目的は達成できませんでしたが、それでもあなたは真の勇者です。

蟠龍艦士官の脱出用の船を取りに海に飛び込んだ2人。永倉さんは溺死、横井さんは失神。果たして、蟠龍艦士官の運命やいかに?その顛末は次回に。

◇ 参考文献 ◇
『有終 第21巻 第1号』 海軍有終会編 財団法人有終会 1934年 (国立国会図書館デジタルコレクション)
 「横井貫一郎時庸の事績」 今泉周逸氏 ※第3

蟠龍艦の砲手・永倉伊佐吉さんと三等士官(←多分、二等が正確)横井貫一郎さんの艦上でのやり取りが記載されているのは、横井貫一郎時庸の事績」の連載第3回です。


まずは、永倉さんが朝陽艦を撃沈した場面を見ておきましょう。日付が明治二年(1869)五月十一日ではなく「五月十六日」となっているのは誤りです。かなり後世になってからの談話のようですから、細部の誤りはご愛敬という事で大目に見てください。「幕府の軍艦蟠龍丸の記」でも「四月十六日」とガッツリ間違えておりますし。

「十時頃に及んで朝陽艦は七重浜の陸戦を援くるため、去りて砲撃を以て我が陸兵の側面を打つ、是に於て我れも亦た敵艦陸上の掩護を妨害せんとて近距離に近づくや、砲手永倉伊吉(←正しくは伊佐吉)照準を定めて発砲す」 ※以下、引用文はF丸が適宜補正。

ほほぉ、これまで蟠龍艦と朝陽艦は撃ち合っていたとばかり思っていたのですが、少々違っていますね。朝陽艦は海戦から離脱して、七重浜(北海道北斗市)で戦っていた新政府軍の陸兵の支援に向かい、この方面の榎本軍の陸兵に容赦なくドカンドカンと砲弾の雨を降らせたようです

海上からの艦砲射撃ではたまったもんじゃありません。榎本軍の陸兵は続々と斃れていったはず。松前(北海道松前郡松前町)や矢不来(北海道北斗市)のように。この惨状を見かねたのでしょう。蟠龍艦は朝陽艦に突っかかって行きます。周囲は敵艦だらけでそんな余裕はないでしょうに。思い遣りが深い。蟠龍艦艦長・松岡盤吉の人柄が偲ばれます。さて、続き。

「其の白煙中より砲弾飛行の一黒点を認むる刹那、一閃光と共に敵艦上に大音響と共に大爆発起り、夏雲の如く舞ひ揚りたる灰色の濃煙と共に、今目前にありたる三檣艦の形は消えて跡もなく、僅かに水平上に舳部を残すのみ、其の近傍は艦体の破片を以て覆はれ、乗員の海中に漂ふ者無数」

会心の一撃!…懐かしいなドラゴンクエスト3での武闘家…永倉さんの放った一弾によって朝陽艦はあっという間に海に沈んでゆきます。朝陽艦に乗り組んでいた方々の人命が失われる一方で、七重浜の榎本軍の陸兵の人命が救われています。…戦争って本当に残酷。

「我が艦に於ては甲板に居合せたる者数人、永倉氏を胴上げし勝鬨を揚げて同氏の勲功を祝せり。」

山内六三郎(提雲)さんの『山内提雲翁傳』同様に、永倉さんの胴上げが記されています。もしかして、記録に残る海上での胴上げとしては人類史上初かも?万が一、映像化されるのであれば、永倉さん役は矢部太郎氏でお願い申し上げます。…わかる人はわかる。

さて、ここからが核心部分。僚艦の朝陽艦撃沈に怒り心頭した新政府軍艦隊は、蟠龍艦へガンガン襲いかかります。『復讐するは我にあり』佐木隆三氏の小説の題名です。読んだかどうか記憶は定かでありませんが。緒方拳(←大好きな俳優)の主演で映画化されています。観たかどうか記憶は定かでありませんが。…最近、記憶力がヤベー。

「此時敵の砲撃烈しく、副長松平時之助氏を始め若干名戦死す、終日の戦ひに弾薬尽き詮方なく大町浜に乗り揚げ、軍艦旗を撤去して一同艦室に集り善後の策を議す」

蟠龍艦への攻撃がキビシー!ここまで松岡艦長を補佐してきた、副長の松平時之助さんが被弾して討死。他の乗員も続々と死傷(←「覚書628」)。蟠龍艦が乗りあげた「大町浜」は、かつての弁天岬台場付近に今も「大町」という地名が残っていますから、この辺りでしょう。

「既に函館は奪はれ、海岸の屋上より小銃射撃を受け沖合よりは砲撃を継続され進退全く茲に窮す、砲撃衰へたるにより艦長令して曰く、「水、火夫等は吾等と死を共にせんは不憫の至りなれば、弁天台場は未だ陥落せざる故之に逃れしむべし」とて、一艘の伝馬船を奪ひて台場に送る」

松岡艦長、あなたって人は…。水夫・火夫に伝馬船を与えて先に脱出させたと。自分達の脱出用の船がないのに。なんというヒューマニスト…いや、真の武士の心を持つ“男前”!

が、この話は『山内提雲翁傳』にはない。そもそも伝馬船を奪ったってどーゆー事?漂っていたとか?…まっ、細かい点は気にせずに進行します。山内さんも横井貫一郎さんも蟠龍艦の当事者ですから、知りえる事実に相違点があってもどちらも正しいって事でOKす(←強引な結論!)。…あちゃー!今回はここまでか。核心部分に到達できなかった。めんご。

◇ 参考文献 ◇
『有終 第21巻 第1号』 海軍有終会編 財団法人有終会 1934年 (国立国会図書館デジタルコレクション)
 「横井貫一郎時庸の事績」 今泉周逸氏 ※第3
『旧幕府 合本二』 戸川安宅氏編 原書房 1971
 「幕府の軍艦蟠龍丸の記」 横井時庸氏
『医文学 第十二巻第三号』 医文学社 1936年 (国立国会図書館デジタルコレクション)
 「山内提雲翁傳」 鈴木要吾氏

「覚書623-630」で採り上げた永倉伊佐吉さんの追加情報です。

明治二年(1869)五月十一日の箱館湾海戦。朝陽艦撃沈!新政府軍による箱館総攻撃の猛攻の前に、劣勢となっていた海陸の榎本軍が沸きに沸きます。ほんの束の間ですが。殊勲の(朝陽艦にとっては不幸な)一撃を放ったのは蟠龍艦の砲手・永倉伊佐吉さんです。しかし、その永倉さんもこの日のうちに落命します。

永倉さんの最期の状況については、「覚書626」でご紹介いたしました。砲弾をほぼ撃ち尽くし、機関にも不具合が発生した蟠龍艦から総員退艦を命じる艦長・松岡磐吉さん。しかし、集中砲火を浴びまくって艦内のボートは損傷して使いものにならない。脱出不能。永倉さんは海辺の小舟を取りに海に飛び込み、そして波間に消えました…。

「見習士官永倉伊佐吉氏が憤然衣を脱いて「艦長のために小舟を奪って来る」と云ひたてた、一同がその無暴を制し止めて見たが、どうしても耳を藉さず「儂は既に朝陽を打ち沈めた、今更生命を惜むに足らず」と云ひ放つて海中に飛入り抜きてを切つて進み、小舟にまで五六間といふ処で遂に溺て姿が見えずになった。」

山内六三郎(提雲)さんの手記を基にした、『山内提雲翁傳』が語る永倉さんの最期の様子です。山内さんは蟠龍艦に乗船していただけに信が置けます。が、この状況をより一層詳しく語る史料と出会いました。そこには永倉さんの最期に関する新たな情報が!

その史料とは大日本帝国海軍士官の団体が発行した雑誌『有終』に、昭和8年(1933)から昭和9年(1934)にかけて3回に分けて掲載された今泉周逸氏の横井貫一郎時庸の事績」です。今泉氏の名前をネット検索しましたところ…海軍大佐!背筋を伸ばして敬礼!

題名にある横井貫一郎(時庸)さんは榎本軍に加わった蟠龍艦の士官。ご自身の手記「幕府の軍艦蟠龍丸の記」では「三等士官」とされていますが、横井さんの談話を今泉氏がまとめたと思われる横井貫一郎時庸の事績」では「二等機関士」ですし、『蟠龍艦乗組人員』という史料では「蒸気役二等」になっていますので「二等」が正しそうです。

樋口雄彦氏の敗者の日本史17 箱館戦争と榎本武揚』によれば、横井貫一郎さんの生没年は1846-1925。横井貫一郎時庸の事績」の連載時には故人です。しばらくの間、寝かされていた記事なのかな?陽の目を見て良かった、良かった。

横井貫一郎時庸の事績」を目にする事ができたのは、ひとえに国立国会図書館の「個人向けデジタル化資料送信サービス」と、「全文検索」サービス拡充のお陰です。こんな貴重な情報を、在宅のまま簡単に見つけ出す事が出来るとは…“ヒデキ、感激!”関わったスタッフのみなさまには心より感謝、感謝、感謝、感謝!まだ足りない。感謝×20回!

国立国会図書館には1回だけリアルに足を運び、利用者登録をして館内閲覧をしましたが…正直なところ、メンドクセー!性に合わない!2度といかねー!と思っておりましたので、本当にありがたく思っています(←さり気なくディスってないかい?)。情報開示は必ずや文化を豊かにします。後生大事に史資料を死蔵していてはもったいない。“心をひらいてつなごう コーラス・ライン”の精神です。

横井さんはおそらく蟠龍艦上で永倉さんと言葉を交わした最後の人物です。次回、2人の生々しいやり取りをご紹介いたします。永倉さんが“熱い男である事は重々承知していましたが…想像を遥かに超えた“A CHI CHI A CHI”男だ!

すでにお気付きの方もあるでしょうが…人生をそこそこ生きた方は特に…上の3段落には昭和時代に“新御三家”と呼称された3人のカッコイイお兄さん方に関係するフレーズが、それぞれ黒太字で埋め込んであります。

西城秀樹氏、野口五郎氏、郷ひろみ氏の“新御三家”とくれば…なんといってもバラエティTV番組『カックラキン大放送‼』っすよ!メッチャ面白かった!特に野口氏扮する刑事ゴロンボと婦警のナンシーのやり取りはサイコー!…あっ、ナンシー役は超絶個性的な美女・研ナオコ女史でございます。

「楽しかったひとときが、今はもう過ぎてゆく」…という番組のエンディングテーマのフレーズに、ちょっと物悲しくなっていた記憶があります。…へー、メロディーはイタリアの音楽グループ、ダニエル・センタクルツ・アンサンブルの“哀しみのソレアード”♪って曲だったんだ。初めて知った。いい曲ですね。サンキュー、『カックラキン大放送‼』

◇ 参考文献 ◇
『医文学 第十二巻第三号』 医文学社 1936年 (国立国会図書館デジタルコレクション)
 「山内提雲翁傳」 鈴木要吾氏
『有終 第21巻 第1号』 海軍有終会編 財団法人有終会 1934年 (国立国会図書館デジタルコレクション)
 「横井貫一郎時庸の事績」 今泉周逸氏 ※第3
『蟠龍艦乗組人員』 (東京大学史料編纂所 維新史料綱領データベース)
敗者の日本史17 箱館戦争と榎本武揚』 樋口雄彦氏 吉川弘文館 2012年

永倉伊佐吉さんをテーマの主役とした「覚書624-626」の際に、久々に目を通した『蟠龍艦乗組人員』という史料に高龍寺の惨劇の犠牲者”がいらっしゃる事に気付きましたのでご報告させていただきます。「覚書125-129」の続編となります。なお、『蟠龍艦乗組人員』へのアクセス方法は「覚書627」でお知らせした通りです。

犠牲者は蟠龍艦の「火焚小頭格」の役職にあった大崎友吉さんです。名前の上に、「五月七日重創ヲ受テ病院ニ入後官兵ニ害セラルト云」と記載されています。伝聞の形ではありますが、内容からして、大崎さんが明治二年(1869)五月七日の箱館湾海戦で重い傷を負い、入院していた高龍寺分院で五月十一日の惨劇に巻き込まれて亡くなった、と考えて間違いなさそうです。

これにて、F丸が認定した高龍寺箱館病院分院の惨劇の犠牲者は11人となりました。少ないに越したことはありませんので、増えても全く嬉しくはありませんが。という事で「覚書128」のまとめに大崎さんを追加いたします。

一聯隊 → 奥山八十八郎さん・恩田喜之助さん
病院掛 → 木下晦蔵さん(遊撃隊)勝股百介さん
彰義隊 → 大橋大蔵さん・森正太郎さん・西村柳右衛門さん・菰田金次郎さん
所属不明 → 高橋辰三郎さん
見国隊 → 南條武蔵之助さん
蟠龍艦 → 大崎友吉さん

五月七日の箱館湾内の海戦は、新政府軍側の甲鉄艦・春日艦・朝陽艦・陽春艦・丁卯艦の5隻と、榎本軍側の回天艦・蟠龍艦&弁天岬台場による激しい砲撃戦が行われました。被弾しまくった回天艦は、この日、機関を損傷して運転不能に陥り、浅瀬に乗り上げて浮砲台と化しました。

蟠龍艦の被弾も激しかった事は、大崎さんを含めて死傷者が5名いる事からも明らかです。内訳は戦死1名、負傷者4名。次の方々です。

「軍艦役見習一等」永井久二右衛門さん → 「五月七日創ヲ受テ病院ニ入」
「稽古人」宇式勤四郎さん → 「五月七日創ヲ受テ病院ニ入」
「火焚小頭格」大崎友吉さん → 「五月七日重創ヲ受テ病院ニ入後官兵ニ害セラルト云」
「水夫」年太郎さん → 「五月七日創ヲ受テ病院ニ入 宿浅草」
「火焚」仙之丞さん → 「五月七日敵弾ノ為ニ即死ス 宿上総一ノ宮」

同じ日に負傷した永井さん、宇式さん、年太郎さんが、大崎さんと一緒に高龍寺箱館病院分院に入院した可能性は高そうです。

戦死した仙之丞さんはF丸の棲息県内の出身だけに、なにやら心が痛みます。今やサーフィンのメッカとなった現在の千葉県長生郡一宮町。最寄りのJR外房線の上総一之宮駅は、ヤボ用で何回か通りかかった際に、その魅力的な駅名に惹かれて途中下車したい衝動にかられましたが、ついに果たせないままです。いつの日かブラリとウロつき回りたい。

“高龍寺の惨劇の犠牲者”に彰義隊士が多いのは、榎本軍が多大な死傷者を出して敗退した五月九日未明(日付は異説あり)の大川への夜襲に参加した負傷者が高龍寺分院に入院したためではないか、と「覚書127」で推測いたしました。ですから、それ以前の五月七日に負傷した蟠龍艦の乗員が、箱館病院本院ではなく高龍寺箱館病院分院に入院していても不自然ではありません。

大崎さんは不運にも高龍寺の惨劇で命を落としましたが、榎本軍の降伏後に、永井久二右衛門さんが豊津(香春)藩預け、宇式勤四郎さんが岡山藩預けになっている事が『旧幕府』収録の「函舘脱走海陸軍総人名」で確認できます。水夫の年太郎さんは士分ではありませんので、早々に放免になったと考えられます。傷が癒えて無事に浅草(東京都台東区)に帰り着き、浅草寺の縁日を楽しんでいますように。

それにしても、大崎さんは「重創」だけに、高龍寺で新政府軍に抵抗できる身だったとは思えません。姓は名乗っていますが、「火焚小頭格」という役職からすると武士階級の出身ではなさそうですし戦闘要員でもありません。だとすれば、新政府軍の兵士に対して反抗的な態度をとりそうにありません。騒動が持ち上がった際に、巻き添えとなって命を落としたのではないでしょうか。

どうか、その魂の安らかならん事を。

◇ 参考文献 ◇
『蟠龍艦乗組人員』 (東京大学史料編纂所 維新史料綱要データベース)
『旧幕府 合本二』『旧幕府 合本三』『旧幕府 合本四』 戸川安宅氏編 原書房 1971
 「函舘脱走海陸軍総人名」 宮氏岩太郎氏

 

蟠龍艦の砲手・永倉伊佐吉さんから派生したテーマをもう一つ。蟠龍艦乗組員の中に、どうしても紹介したい人物がおりますので。山本新助さんです。

幸いにして、明治二年(1869)五月七日&十一日の箱館湾海戦で死傷していません。だからといって、コッソリ物陰に隠れていたわけではありません。それどころか、砲弾・弾丸が飛び交う危険の中に身を晒して自らの役割を果たした、とてつもなく勇敢な人物です。

真のブレイヴ(勇者)です。イメージソングは特撮TV番組『ウルトラマン・ティガ』のエンディングテーマで、地球防衛隊が歌う“Brave Love,TIGA”♪!…地球防衛隊のメンバーはハンパなくスゲーすよ。団長は岸谷五朗氏、メンバーには唐沢寿明氏やサンプラザ中野氏やホンジャマカetc…どんでもなくバラエティに富んだ豪華なメンバーが参加しております。

「ティガ 勇気が 今 足りない ティガ 勇気を 授けてくれ」

生涯、悩みと苦労はつきまとうようです。いい年こいたオッサンになっての実感です。一つ消えれば、新たな悩みが出て来る。いつまでもなくならない。多分、みんな同じ。しゃかりきにガンバらなくていいから、くじけずに日々を過ごしましょう。…人生相談のブログ?

さて、本題。蟠龍艦乗組員リストの決定版とも言える『蟠龍艦乗組人員』には水夫小頭肝煎」山本新助さんに次のようなコメントが付されています。

「此者ハ戦争中甚勉強 殊更五月十一日ハ弾丸盛ニ来中ヲ 一歩モ不引水先ヲ勤ム」
 ※以下、引用文はF丸が適宜補正。

この場合の「勉強」は、現代における詰め込み暗記の薄っぺらいお受験用のお勉強の事ではありません。ネット検索で改めて「勉強」の意味をご確認ください。「努力して励むこと」「努力をして困難に立ち向かうこと」が当て嵌まります。山本さんの「一歩モ不引」という姿勢を称賛しているのです。「五月十一日」「殊更」なのですから、それ以外の「戦争中」も、船にとって重要な「水先」の役割を大いに励んだのでしょう。

なお、価格を値引きする使い方の「勉強してくれる?」は、F丸が個人的に大嫌いなフレーズです。ストレートに「値引きしてくれ」の方がなんぼもマシじゃ!したるわ。もともと定価で売れるとは思ってないからな!(←何を売っているのだ?) それから、飲食後の会計での「お愛想をお願いします」も大嫌い!生涯、ゼッタイに言わん!「お会計をお願いします」でいいだろ!…あくまで個人的な見解ですのでご容赦ください。

山本さんの名は降伏人の中に見出せません。“卒”として早々に放免となったのでしょう。他の情報は一切持ち合わせていませんので、早々にネタが尽きました。てなわけで、『蟠龍艦乗組人員』に対する憶測を少々。

『蟠龍艦乗組人員』「備考」欄に沢鑑之丞さんの名があり、お父上の沢太郎左衛門さんの保有していた記録を、明治政府に提出したのではないか、と「覚書627」で推測いたしました。この推測が当たっていると仮定して、しからば、なぜに太郎左衛門さんがこの史料を保有していたのか?

東京大学史料編纂所維新史料綱領データベースに収録されているこの史料は、維新史料編纂会」の用紙に記されていますので、オリジナルではなく写しであるのは確実です。では、オリジナルはいかにして太郎左衛門さんの手に渡ったのか?

榎本軍の海軍の大幹部だったとはいえ、室蘭(北海道室蘭市)の開拓にあたっていた太郎左衛門さんが、蟠龍艦の乗組員の消息に詳しかったとは考えにくい。記録したのは蟠龍艦の乗組員…それも、全員を把握できる士官クラスと考えるのが妥当でしょう。

当然、最有力候補は艦長の松岡磐吉さんです。それを裏付けそうな記述もあります。当の松岡さんに付されているコメントは「東京行」。松岡さんが明治四年(1871)七月に東京の獄中で病死したとは記されていません。とすれば、作成の時期はそれ以前。であれば、獄中の可能性が大。また、病死が記されていない事からすれば…亡くなった当人によって作成されたと考えられます。

想像の翼をさらに広げて、改めて『蟠龍艦乗組人員』に目を通すと、山本さんに対する「此者ハ戦争中甚勉強」や、前回紹介した「火焚」秀蔵さんへの「間諜ニ出ス」といったコメントには、明らかに指揮官目線が感じ取れます。松岡艦長が最も相応しい。

松岡さんが獄中でまとめた記録を、松岡さんの死後に同じ獄中にあった太郎左衛門さんが継承した、とF丸は考えたい。そして、松岡さんが『蟠龍艦乗組人員』を記録した動機は、自分の手足となって戦ってくれた部下の事績を後世に遺したかったから、と憶測しています。いかにもスタイリッシュな松岡艦長らしくありませんか?

◇ 参考文献 ◇
『蟠龍艦乗組人員』 (東京大学史料編纂所 維新史料綱領データベース)

『蟠龍艦乗組人員』名前が記される蟠龍艦乗組員は、松岡盤吉艦長を筆頭に、士官クラス・医師等が34人、水夫・火焚が53人の計87人。個々に役職・死傷状況等の貴重な情報が記載されています。蟠龍艦乗組員リストの決定版です。

箱館戦争における明治二年(1869)五月十一日の蟠龍艦の最後の戦闘にあたっては、それ以前から病気で療養していた3人が欠けています。87384人。五月七日にも箱館湾内で激しい海戦が行われており、その際の死者が1人、入院が4人。84579人。この人数が、五月十一日に蟠龍艦に乗艦していた総員と思われます。

むむっ、見慣れた名前がズラリと並んでいる…そうだった、蟠龍艦乗組遊撃隊士も最終的に12人乗船していたんだった。「覚書026-031」「覚書041-046」で採り上げて以来、途中で放り投げたまますっかり忘れていました。いい加減、何とか続編を書き上げなきゃ…。

朝陽艦を撃沈した事により、蟠龍艦は怒りに燃えた甲鉄艦をはじめとする新政府艦隊の集中砲火の標的となります。弁天岬台場と浮き砲台と化した回天艦の援護が多少はあったにしても、ほぼ孤軍奮闘状態。今井信郎さんの「蝦夷之夢」は、格調高くこの場面を活写しています。本人は陸軍の衝鋒隊の所属ですから、実際に目の当たりにしておらず後日の伝聞をまとめたものと思われます。 ※以下、引用文はF丸が適宜補正。

「蟠龍艦は今日限りと期し、弾丸の雨集するを縦横に乗り廻し、甲鉄とともに覆滅せんと志し、屡々甲鉄艦に迫る。彼の三百斤、七十斤および諸艦の弾の為に松平五郎左衛門(副艦将)、野口健次[春二]郎、木村弥太郎(三等士官)等死する者十余人、小林録蔵(一等士官)はじめ五、六人傷し、蒸気機関損ず。」

甲鉄艦からの一撃が蟠龍艦を直撃しています。同じ内容を記す史料を、もう一つご紹介いたします。小杉雅之進さん「麦叢録」より。

「敵船甲鉄より放発せし弾の為に松平五左衛門(軍艦役)、野口健次、木村弥太郎(士官見習)等を始として兵士五名討死す。小林録蔵(見習一等)外四人疵を被る。」

松岡艦長の片腕ともいうべき副艦長の松平五左衛門さんが戦死。他にも相当数の人数が死傷しています。死傷者の氏名を知ったのは後日の伝聞にしても、小杉さんは五稜郭砲台から朝陽艦撃沈を目撃していますから(←「覚書625」)、この情景も見ていたかもしれません。

それでは、傷つき斃れた蟠龍艦乗組員のみなさんを『蟠龍艦乗組人員』より。乗艦中のみならず、退艦してからの死傷者も含んでいるかもしれません。

■戦死…7
1軍艦役並船将次官 松平五左衛門 五月十一日戦死
2稽古人 永倉伊佐吉 五月十一日朝陽狙討ス 即日為周旋溺死ス
3稽古人 野口鍵司 五月十一日戦死ス
4太鼓方 木村弥太郎 五月十一日戦死
5平水夫 槌松 五月十一日戦死ス
6水夫 五郎作 五月十一日戦死ス 宿八丈島三ツ子村
7水夫 嘉太郎 五月十一日戦死ス 宿讃州塩飽

■負傷…6
8軍艦役並見習一等 小林一郎 五月十一日創ヲ受テ病院ニ入
9軍艦役並見習二等 桜井庄太夫 五月十一日薄創ヲ受
10遊撃隊 古川房次郎 五月十一日重創ヲ受テ病院ニ入
11遊撃隊 小島栗三 五月十一日創ヲ受テ病院ニ入
12水夫 徳丸 五月十一日陸ヨリノ小銃ニテ創ヲ受ケ病院ニ入
13水夫 浅吉 五月十一日陸ヨリノ小銃ニテ創ヲ受ケ病院ニ入

「蝦夷之夢」「麦叢録」負傷者とする「小林録蔵」は、「水夫小頭」小林勘蔵さんが該当しそうですが負傷情報がありません。「軍艦役並見習一等」と役職が一致する小林一郎さんの誤認と思われます。あるいは改名?その他に、上陸後の行方不明者がいます。

14水夫 増五郎 五月十一日陸ニ逃上リ多分被殺
15火焚 秀蔵 五月十一日夜間諜ニ出ス処不帰

うまく逃げ延びてくれていればいいのですが…。死傷者・行方不明者、合わせて15人。79人中の15人。約19%。甚大な人的被害です。が、新政府軍が総攻撃をかけた明治二年(1869)五月十一日に、蟠龍艦乗組員のみなさんが勇敢に戦った誇るべき“証”でもあります。

◇ 参考文献 ◇
『蟠龍艦乗組人員』 (東京大学史料編纂所 維新史料綱領データベース)
『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』 新人物往来社 1998
 「蝦夷之夢」 今井信郎氏
 「麦叢録」 小杉雅之進氏

蟠龍艦の砲手・永倉伊佐吉さんから派生したテーマです。明治二年(1869)五月十一日の箱館湾海戦で、オシャレで優雅かつ勇敢な松岡盤吉艦長の指揮下にあって奮戦した蟠龍艦の乗組員の人的被害状況について。

榎本軍のもう一隻の軍艦・回天艦は、五月七日の海戦で航行に支障が出たため、十一日はやむなく浅瀬に乗り上げて浮砲台と化していました。ですから、蟠龍艦の華奢な船体には…元々がイギリス王室のスマートなヨットですので…榎本軍の動き回れる唯一の軍艦としての責任が、ずっしりとのしかかります。

湾内を縦横無尽に駆け巡る蟠龍艦。そして、砲手・永倉伊佐吉さんの放った一丸が、新政府軍側の朝陽艦を撃沈する大戦果を挙げます。怒りに燃える新政府軍艦隊は、蟠龍艦に殺到し集中砲火を浴びせかけます。『復古記 第14冊』収録「蝦夷戦記」「海軍参戦報」より。341コマです。 ※以下、引用文はF丸が適宜補正。

「朝陽艦忽チ破裂、空中ニ飛フ、甲鉄、春日則ち蟠龍ヲ追撃ス、戦闘数字、偶々九字、肥前軍艦延年丸、青森ヨリ来リ、丁卯モ又奥港
(←箱館湾の奥深く)ニ進入ス、蟠龍ノ賊徒、艦ヲ捨テ台場ニ逃レ入ル」

甲鉄艦・春日艦・丁卯艦。・延年艦の4隻を相手に回して、蟠龍艦は砲弾をほぼ撃ちきりました。機関にも故障が発生。戦闘継続不能。やりきりました。総員退艦と相成ります。その際に、退艦用の舟を得るために海に飛び込み、岸辺に向かって泳いでいた永倉さんの姿が波間に見えなくなった事は「覚書626」でお伝えした通りです。残念…。

「午後二字、甲鉄ヨリ端船ヲ以テ、火ヲ蟠龍ニ放ツ」

とありますから、午後1時前後には蟠龍艦の乗員は退艦を終えていたようです。明け方から半日に渡る長時間の戦闘、本当にお疲れ様でした。

この日の戦いで奮戦した蟠龍艦では、永倉さん以外にも多くの乗員が死傷しました。東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース内にある『蟠龍艦乗組人員』という史料で、その状況の確認ができます。明治二年(1869)五月時点で、蟠龍艦に乗り組んでいたスタッフの名簿と思われます。

この史料の「備考」欄には、沢鑑之丞さん(1860-1947)の名があります。榎本海軍の旗艦・開陽艦の艦長だった沢太郎左衛門さんの息子さんです。明治期に日本海軍に入り輝かしいキャリアを積んでいます。太郎左衛門さんの保有していた記録を、明治政府に提出したのかもしれません。鑑之丞さんが数え年9才の時に、父・太郎左衛門さんが榎本艦隊の一員として品川沖を脱走。箱館戦争後に再会できたのは幸いなるかな。

それでは、『蟠龍艦乗組人員』をご覧いただきましょう…といっても辿り着くのはメッチャ大変ですので、僭越ながらF丸がナビゲートいたします。まずは、イラつき対策。パソコンの前に座って電源を入れましたら、目をつぶってゆっくりと深呼吸を3回してください。はい、スー ハー スー ハー スー ハー …。

心が落ち着いたところで、ネットで東京大学史料編纂所のHPにアクセス。上部中央辺りの「データベース検索」をクリック。中央の列の「維新史料綱要データベース」をクリック。なお、レイアウト変更があった場合は知ったこっちゃありませんので、あしからず。

キーワードに「蟠龍 杜陵隊」と入力。すると「明治2年5月11日」の日付の史料が1つだけ表示されます。この場合、「杜陵隊」は他の蟠龍関係の数多い史料を吹っ飛ばす役割を果たしているだけです。いわば捨て石。すまん、杜陵隊のみなさん。

さて、「明治2年5月11日」の日付の史料をクリックすると、下部左側に青色の角丸長方形に白文字で「イメージ」のボタンがあります。そこをポチッとな(by ボヤッキー)、とクリック。すると左側に0001から1082までの画像を選択できるサイドバーが出現します。そこから探し出してください。やっておしまい!(by ドロンジョさま) アラホラサッサー!(by ボヤッキートンズラー)…って、テレビアニメ番組『ヤッターマン』ドロンボー一味かい!

探し出せというのも、ドロンボー一味ドクロベエさまから受ける“おしおきだべぇ~並にキツそうですから、今回は特別お教えいたします。今週のハイライト!高らかに鳴り響くドクロファンファーレ!いでよ1056-1060の画像!ヨイヨイサー!…ありゃ?いつの間にかシリーズ1作目の『タイムボカン』になってますがな。

…と、今回は史料に到達したところで終了~。無事にご覧になれました?辿り着いていない人はおしおきだべぇ~”…って事はありません。

◇ 参考文献 ◇
『復古記 第14冊』 太政官編 内外書籍 1931年 (国立国会図書館デジタルコレクション)
 「蝦夷戦記」
『蟠龍艦乗組人員』 (東京大学史料編纂所 維新史料綱領データベース)

復讐の怒りに燃えて、朝陽艦を撃沈させた蟠龍艦に襲いかかる新政府軍艦隊。甲鉄艦・春日艦・丁卯艦、やがてこれに延年艦も加わります。弁天岬台場が健在で掩護は多少ありますが、箱館の街は新政府軍に制圧され、浮き砲台として戦っていた回天艦の乗員は、退艦して上陸し五稜郭に向かっています。蟠龍艦にとっては厳しすぎる戦いです。

新政府軍艦隊から蟠龍艦に、砲弾・銃弾が雨霰と降り注ぎます。4対1の不利な条件で戦い続ける蟠龍艦。艦長の松岡磐吉さんの卓越した操船能力が伺い知れます。しかし、やがて限界が。砲弾をほぼ撃ち尽くし、機関にも不具合が発生しました。総員退艦!

退艦の時刻は明確ではありませんが、『復古記』収録「蝦夷戦記」での新政府軍各艦からの報告を綜合すると、午後1時前後あたりと推測されます。開戦が午前3時ですから、約10時間に渡る戦闘。蟠龍艦のみなさん、お疲れ様でした。

とはいえ、正念場が続きます。大問題が発生。いやーん。集中砲火を浴びたせいで、艦内のボートがみんな損傷して使いものにならなくなっていました。幸いにして艦尾に吊るしていた小艇が無事だったので、海辺から艀船をかっぱらってくる(←言い方)命を受けて、水夫2名がこれに乗り込んで出発しました。

…が、なかなか帰ってこない。そりゃそーですよね。海陸ともに戦闘中ですから。それも新政府軍が圧倒的優位に立っている状況です。このままではラチが明かない…状況を打開すべく、「憤然衣を脱いて」決意のほどを表明した男がいます。朝陽艦を撃沈した殊勲者・永倉伊佐吉さんです!山内六三郎(提雲)さんの手記を基にした『山内提雲翁傳』より。

「艦長のために小舟を奪って来る」

周囲の人々が「その無暴を制し止め」たものの、全く「耳を藉さ」なかったと。どんだけ松岡艦長が好きなんだよ!永倉さん、冷静になって!松岡艦長が傍にいなかったのか。いれば、普段のダンディさをかなぐり捨てて、殴りつけてでも止めていた気がします。

「儂は既に朝陽を打ち沈めた、今更生命を惜むに足らず」

永倉さんはこう言い放つと「海中に飛入り抜き手を切って進んだ」と…。この言葉にテキトーな解釈を付すのは簡単ですが…永倉さんの心の内はF丸の及ぶところではなさそうなので、やめておきます。熱い男だ。頼みました。小舟をかっぱらってこい!(←言い方)

「小舟にまで五六間といふ処で遂に溺て姿が見えずになった。此不幸を目前にして一同彼れの為め哭かぬものはなかったものである。」

くぅ~…。一間は約1.82mですから小舟の911m手前辺り…「此時先に命を受けて出発した水夫等が押送り船一隻を得て帰還した」だけに、あまりに残念。その後、蟠龍艦の乗員は無事に上陸。弁天岬台場に入って、4日後の五月十五日に降伏の時を迎えます。その中に永倉さんの姿がないのは、本当に惜しまれます。

なお、小杉雅之進さんの「麦叢録」では、「永倉伊佐吉海岸の小舟を取らんとて水中躍入岸に達し乗戻して死す」と、小舟に無事に達したよう記されていますが誤伝でしょう。

新政府軍が箱館総攻撃かけた明治二年(1869)五月十一日は、海陸で様々なドラマがありました。陸上では一本木関門で討死した土方歳三さん、箱館病院本院で命を張って入院患者を守った高松凌雲先生にスポットライトが集まりますが、箱館湾海戦においては蟠龍艦、中でも永倉伊佐吉さんが主役であった事は間違いありません。

永倉さんのお墓は不明です…というか、無いでしょう。せめてその遺体がどこぞの海岸に流れ着いて、身元が知れないながらも、地元の方によって手厚く葬られている事を、心から切に願っています。

もしも、日本における胴上げの歴史について研究されている方がいらっしゃいましたら、蟠龍艦に於ける永倉さんの事例をお忘れなく。

萩原玲二氏のマンガ「つむじ風の磐吉」を媒介として、オモシレー“漢(おとこ)”を追いかける事が出来ました。萩原氏には心から感謝申し上げると共に、益々のご活躍をお祈り申し上げます。「艦隊のシェフ」は必ず読む事をここに誓います。…完結してからの話ですが。

◇ 参考文献 ◇
『復古記 第14冊』 太政官編 内外書籍 1931年 (国立国会図書館デジタルコレクション)
 「蝦夷戦記」
『医文学 第十二巻第三号』 医文学社 1936年 (国立国会図書館デジタルコレクション ※個人送信)
 「山内提雲翁傳」 鈴木要吾氏
『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』 新人物往来社 1998
 「麦叢録」 小杉雅之進氏



明治二年(1869)五月十一日。箱館湾の海戦。蟠龍艦の砲手・永倉伊佐吉さんの発射した砲弾が、新政府軍の軍艦・朝陽艦の火薬庫を直撃。大爆発。轟音。船外に放り出される乗員。瞬時にして海に沈みゆく朝陽艦。禍々しい黒煙をあげながら。

蟠龍艦の三等士官・横井時庸(貫一郎)さんは「幕府の軍艦蟠龍丸の記」で、「四月十六日朝陽艦撃沈の如きは、砲手永倉伊佐吉の功」とはっきり述べています。…日付はガッツリ間違えていますが。後世の明治30年(1897)の記録なので許してちょんまげ。

同じく蟠龍艦に乗船していた山内六三郎(提雲)さんの手記を基にした『山内提雲翁傳』が記す情景です。

「此時艦員一様に手を揚げ声を揃へて舞踊し歓声を挙げたものであるが、射手は見習士官永倉伊佐吉氏である為め寄って同氏を胴上げしその功を賞した。」

なんと戦闘中に胴上げ!古今に類例をみないのでは?萩原玲二氏のマンガ「つむじ風の磐吉」でも、しっかり描かれておりました。日本ではスポーツ界でよく目にする光景ですが、ネット検索によれば起源があやふやで、海外ではあまり実例がないようです。蟠龍艦では一体、誰が音頭を取ったのでしょうか?自然発生的な?

朝陽艦撃沈の目撃証言があります。榎本軍で江差奉行並の役職にあった小杉雅之進さんの「麦叢録」に。当日、小杉さんは五稜郭にありました。

「予(←小杉さん)五稜郭砲台に在て之を目撃せり。煙の立ち昇りしより纔二分時間を過ずして全艦悉く沈没す。実に驚嘆すべきの形なり。」

もう一人。箱館病院にあった院長・高松凌雲先生の手記「東走始末」における証言。箱館病院からは箱館湾が眼下に広がり、「戦闘の状、弾丸の発着等頗る著明にして実に壮観なり」だったそうです。

「蟠龍丸より発せし弾丸敵の朝陽丸に火薬庫に命中し、船体振動、火煙と共に海上に飛躍する如くしてやがて沈没す、此状を見たる時は不覚快哉と叫びしが、又其惨状に歎声を発したり」

当初は朝陽艦の撃沈を喜んでカズダンスを披露した(?)高松先生ですが、おそらくは朝陽艦の乗員が海上に放り出された惨状を見て、すぐさま暗澹たる気持ちになったのでしょう。軍人ではなく人の命を助けるお医者様ですから。赤十字精神の先駆者となるヒューマニストでもありますし。

朝陽艦が沈んだ時間ははっきりしています。『復古記』収録「蝦夷戦記」の五月十二日付の「海軍参謀戦報」によれば、この日は海陸共に「暁三字ヨリ開戦」「字」は「時」です。

「賊艦蟠龍、賊ノ陸軍ヲ助ケ、朝陽、丁卯ト攻撃ス、七字頃ニ至、尤苦戦、七字三十五分、偶賊艦ノ弾丸、朝陽の火薬庫ニ入リ、朝陽艦忽チ破裂、空中ニ飛フ」

朝の7時35分。平日であればF丸はすでに朝食を食べ終わって、柔軟体操をしながらテレビのしょーもない情報番組を横目で見ている時間です。休日であればまだグースカ寝ている時間。平和な時代の国に生まれて良かったー(←今のところ)

朝陽艦の乗員の死者は「海軍参謀戦報」によれば54人。43人が救助されていますが、上陸後に3人の方が亡くなっています。船将・中牟田倉之助さんは重傷を負いながらも一命を取りとめましたが、副将・夏秋又之助さんは戦死。死者の中には士官・水夫・火焚の他に、箱館在住隊の隊士9人も含まれています。蝦夷地に移住し開拓に当たっていた旧幕臣の八王子同心を中心に構成されていた部隊です。戦争とはなんと無慈悲なのか…。

新政府軍の軍艦がこのまま蟠龍艦を見逃すはずはありません。怒りに燃え、炎と化し、僚艦の仇を討つべく襲い掛かかってきます。蟠龍艦、そして永倉伊佐吉さんの運命やいかに?お別れ曲は、サバイバーの“バーニング・ハート”♪。シルヴェスタ・スタローン氏主演の映画『ロッキー4/炎の友情』の主題歌です。

◇ 参考文献 ◇
『旧幕府 合本二』 戸川安宅氏編 原書房 1971
 「幕府の軍艦蟠龍丸の記」 横井時庸氏
『医文学 第十二巻第三号』 医文学社 1936年 (国立国会図書館デジタルコレクション ※個人送信)
 「山内提雲翁傳」 鈴木要吾氏 ※表記はないものの第八回。第七回までは表記があったのにナゼ?
『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』 新人物往来社 1998
 「麦叢録」 小杉雅之進氏
『高松凌雲と適塾―医療の原点』 春秋社 1980年
 「東走始末」 高松凌雲氏
『復古記 第14冊』 太政官編 内外書籍 1931年 (国立国会図書館デジタルコレクション)
 「蝦夷戦記」



最近のブログのテーマは、なにやら箱館戦争とかけ離れてしまっている感がありますので、春日左衛門さんを主役とする“牡丹人シリーズ”を一時中断し、前回紹介した萩原玲二氏のマンガ「つむじ風の磐吉」登場した永倉伊佐吉さんの史実の姿を追いかけます。

創作は創作。史実は史実。きっちり区別すればノープロブレム。NHK大河ドラマは、コンセプトからして100%創作である事を念頭に視聴すればいいだけの事。三谷幸喜氏が自由奔放にキャラを創作しまくった『鎌倉殿の13人』は、メッチャ面白かった。グッジョブです!

さて、本題。「つむじ風の磐吉」では永倉さんは南部家八戸藩士という設定でしたが、実際のところ出身・年令・好きな食べ物・推しの女優といった詳細なプロフィールは不明です。八戸藩士の可能性は0.1%もないでしょう。伊佐吉という名前の印象からすると、武士階級の出身ではないかもしれません。あくまで勝手な憶測です。

なお、「つむじ風の磐吉」では八戸藩が奥羽越列藩同盟から離脱している事になっていますが、史実では離脱しておりません。が、新政府軍とも交戦していません。藩主は新政府軍の主力の島津家薩摩藩出身。でも、同盟側の宗家・南部家盛岡藩の影響は無視できない。そんな微妙なポジションにあった八戸藩は、戊辰戦争の難局をうまく乗り切り、新政府からのお咎めはなし。賊軍の烙印を押された盛岡藩とはあまりに対照的です。

さてさて、本題。東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース内にある、「蟠龍艦乗組人員」という史料によれば、永倉さんの肩書は「稽古人」です。稽古人の定義を明確にする事はできませんが、現代の感覚からすれば修行中の身、あるいは見習いのような印象を受けます。 ※以下、引用文はF丸が適宜補正。

『旧幕府』には、蟠龍艦に三等士官として乗り組んでいた横井時庸(貫一郎)さんの記した「幕府の軍艦蟠龍丸の記」が収録されており、永倉さんは「砲手」となっています。横井さんが「当時の乗組将校」として紹介しているのは、「船長」松岡磐吉さんをはじめ本人も含めて7人。永倉さんもその内の一人ですから、主要メンバーであったと思われます。

榎本艦隊の品川沖脱走以来、永倉さんは松岡艦長のもと、蟠龍艦の一員としてさぞや勉励されたでしょうが、これといったエピソードは特に伝わっておりせん。しかし、俄然、スポットライトを浴びる事になります。明治二年(1869)五月十一日の箱館湾海戦で。

この日は、早暁から新政府軍が海陸共同で箱館に総攻撃をかけます。箱館湾に向かった新政府軍の軍艦は甲鉄艦・春日艦・朝陽艦・丁卯艦の4隻。対する榎本軍の軍艦は蟠龍艦と回天艦の2隻。ただし、回天艦はすでに機関を損傷して動けなくなっており、浅瀬に乗り上げて浮砲台と化していました。動き回って戦えるのは蟠龍艦だけです。

蟠龍艦はこの戦いにおいて、朝陽艦と激しい撃ち合いを演じます。朝陽艦艦長は鍋島家肥前藩士・中牟田倉之助さん。皮肉にも、蟠龍艦の松岡艦長とは長崎海軍伝習所で同期の2期生。対戦時は中牟田さん33才、松岡さん29才。

完全に知り合いです。かつて共に軍艦操練に汗と涙を流した仲。酒を酌み交わして語り合ったかもしれません。勝海舟さんの悪口で盛り上がったかもしれません。運命の悪戯です。ハァ~、溜息をつきながら“残酷な天使のテーゼ”♪(by 高橋洋子女史)を聴きますわ…。

中牟田さんについては、戊辰戦争における八戸藩領の海岸に座礁した孟春艦や、陽春艦による盛岡藩領の野辺地(青森県上北郡野辺地町)砲撃とか、寄り道したい魅力的な案件がありますが…すっごーく長くなりますので、泣く泣くスルーします。いつの日か中牟田さんをテーマにした際に。いつかは全くお約束できませんが。

さてさてさて、本題。蟠龍艦 vs 朝陽艦の決着については、蟠龍艦に乗り組んでいた山内六三郎(提雲)さんの手記を基にした『山内提雲翁傳』に語っていただきましょう。なお、山内さんは本来、五稜郭本営詰めでしたが、三月の“甲鉄艦奪取ミラクル大作戦”(by F丸)の際に、榎本釜次郎総裁に頼み込んで蟠龍艦に乗船し、以来、ずっと乗っていたようです。榎本総裁とは遠い縁戚ですが…まさか、身内に甘い特別許可じゃないでしょうね?

「時に敵艦朝暘との距離は可なり遠くはあったが、我幡龍(←蟠龍)から撃った砲弾が空中に曲線を描て飛行し、やがて見えなくなったと思ふ間もなく黒煙天に冲し、轟然として雷の如き響が聞えてきた。黒煙の四散後見渡すと朝陽は憐れ此一弾に沈没して只前檣のみが半ば海面上に突立って居るばかりであった。

朝陽艦、撃沈。その殊勲の砲手こそ誰あろう永倉伊佐吉さんなのです。続きます。

◇ 参考文献 ◇
「蟠龍艦乗組人員」 (東京大学史料編纂所 維新史料綱領データベース)
『旧幕府 合本二』 戸川安宅氏編 原書房 
1971
 「幕府の軍艦蟠龍丸の記」 横井時庸氏
『医文学 第十二巻第三号』 医文学社 1936年 (国立国会図書館デジタルコレクション ※個人送信)
 「山内提雲翁傳」 鈴木要吾氏 ※表記はないものの第八回。第七回までは表記があったのにナゼ?



『コミック乱』というマンガ雑誌をご存知でしょうか?F丸はマンガ雑誌を読まなくなって久しいので知るべくもありませんでしたが、なんと「時代劇画誌」を標榜しています。そんな専門ジャンルがあるの?おそるべし、マンガ界。

ネットで『コミック乱 2022年4月号』をゲット。なぜに過去の雑誌をわざわざ購入したかといえば、萩原玲二氏の「つむじ風の磐吉」が掲載されているからです。読切38ページ。箱館戦争フリークであれば、題名だけで登場する榎本軍の人物が予想できるはず。そう、蟠龍丸(←マンガに合わせた表記)のオシャレ艦長・松岡磐吉さんがババババーンと登場!

アンビリーバブル。商業誌でニーズがあるとはとても思えませんが、作者の題材選びと掲載誌の蛮勇…もとい勇気に拍手喝采!スタンディングオベーション!それでは早速、ストーリーをサラっとご紹介。

主人公は永倉伊佐吉さん。なにやら新選組の組長を務めた永倉新八さんを彷彿させる苗字ですが、決して架空の人物ではなく実在した蟠龍丸の乗組員です。江戸帰りの南部家八戸藩士という設定になっていますが、この部分は創作。それにしても南部家盛岡藩の支藩をチョイスするとは、渋っ!マンガの作者は只者ではありません。

永倉さんは、奥羽越列藩同盟から離脱した八戸藩の上層部に、新政府軍との一戦を進言して逼塞処分となります。八戸藩の動向は史実通りではありませんが、創作を交えたマンガですので、史実はタンスの中に折りたたんでしまいこんでおきます。今回は出てくんな。

逼塞中の永倉さんは、気晴らしに鮫浦港(青森県八戸市)に夜釣りに出かけます。と、湾内にアメリカ国旗を掲げた異国船が。近くにいた漁師に尋ねると、乗っていたのは「おっかない目をしたおさむらいばかり」だったと。もしや、品川沖から脱走した榎本艦隊の一隻か?新政府軍と一戦交えるチャンス到来!永倉さんは、小舟に乗って異国船へと漕ぎ出します。

異国船に単身で乗り込んだ永倉さんを待ち受けていたのは、斬れ!斬れ!叩っ斬れ!と白刃をかざして騒ぎ立てる、殺気立った「おさむらい」さん達。新政府軍側の間者と疑われて大ピーンチ!ぶった斬られて海に骸を投げ捨てられるのか?いえいえいえ、ここで皆を制して颯爽と登場するのが、この異国船すなわち蟠龍丸の船長・松岡盤吉さんです。ババババーン!(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン氏の“交響曲第5番「運命」”♪の冒頭のメロディで)

蟠龍丸は新政府軍艦隊の甲鉄艦を宮古湾(岩手県宮古市)で奪取すべく、回天丸、高雄丸と共に明治二年(1869)三月、箱館(北海道函館市)を出航。しかし、荒天によって離散したため、かねて集合場所に定めていた鮫浦港で待機していたのです。しかし、全く姿を見せない2艦。やむをえない。蟠龍丸は宮古湾へと向かいます。縛られて船倉に転がされている永倉さんを乗せたまま。ここからはじまる永倉さんの大活躍!それは読んでのお楽しみって事で。

永倉さんが江戸帰りの藩士という設定は、品川沖で榎本艦隊を見た記憶があるという伏線でしょう。「砲台の衛士」ゆえに、蟠龍丸では大砲を操作する事になります。語られてはいませんが、江戸で砲術を習得したと想像しておきます。師匠は武田斐三郎さんが適任?

主人公は永倉さんではありますが、「つむじ風の磐吉」と題される通り、真の主人公は松岡盤吉さんです。永倉さんの目を通して、松岡さんのすぐれた人格、船長としての卓越した能力、そして優雅なオシャレ模様が描かれています…「花の香り」がする船長。ス・テ・キ。

穏やかで、オシャレで、冷静沈着で、決断力に富むリーダー。身はスマートな洋装に包まれながらも、魂には熱い“武士”の心意気がたぎる松岡さんの魅力が、余すところなく描かれています。要所要所に引用される林董さんの『回顧録』における松岡さんの人物評が、肖像写真寄りの絵姿と相まってキャラを効果的に引き立てています。

チョイ役ですが副長の松平時之助さんが登場しているのが嬉しい。佐藤東三郎(林董)さんが1コマ、山内六三郎(提雲)さんも2コマ出演。明記はされていませんが、描写場面からして、明らかに山内さんの『山内提雲翁傳』が参照されています。胴上げとか(←判る人は判る)

ラストは松岡さんと永倉さんの別れの場面。史実に則した悲しいものではなく、未来に希望を残す結末となっています。創作だからこその特権です。面白かった。作者に感謝。萩原玲二氏をネット検索したところ、現在、『モーニング』誌で太平洋戦争中の駆逐艦を舞台とした「艦隊のシェフ」を連載なさっておられます。戦争と海軍とグルメ。あまりに意外な組み合わせ。海軍好きなのかな?

んっ?原作の池田邦彦氏って…うおおおおー!やっぱ推理&恋愛を融合した超ウルトラ感動マンガ「シャーロキアン!」の作者やん!お願いです、5巻を出してください!車路久教授と原田愛里ちゃんの行く末を、もう10年も待ち続けているのですから。シャーロック・ホームズ氏の名推理のようなスパッとした結末を、何卒、何卒!

◇ 参考文献 ◇
『コミック乱 20224月号』 リイド社 2022
 「つむじ風の磐吉」 萩原玲二氏

 

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